ぴか の観劇(芸術鑑賞)日記

宝塚から始まった観劇人生。ミュージカル、ストレートプレイ、歌舞伎、映画やTVドラマ等も書きます。

05/05/18 『メディア』大竹しのぶのメディアの凄さ!

2005-06-18 23:50:01 | 観劇
蜷川幸雄が以前『メディア』を演出した舞台を私は観ていない。私がちょうど芝居を観ていなかった空白の期間に上演されていたのだ。過去の舞台は全て男優だけで上演しており、海外公演をした折の現地での記者会見などでは「なぜ女優を使わないのか」という質問が女性記者から相次いだらしい。蜷川は「日本にはこれだけの強い感情を表現できる女優がいないからだ」と答えたという。
私も男優での上演のイメージが強かったので、蜷川の舞台を観た時のアンケートの要望欄に「市村正親でメディアを観たい」などと書いて出してきたものだ。そうしたら、大竹しのぶで『メディア』を上演するという速報を見て、「うーん、そうきたか」と唸った。2003年にやはり蜷川演出『エレクトラ』のタイトルロールで大竹しのぶは初めてギリシャ悲劇に挑んだのを観たが、彼女ならできると確信をもち、ずっと楽しみにしていた。
Bunkamuraのホームページの企画のページは以下の通り。
http://www.bunkamura.co.jp/cocoon/event/media/
舞台が始まる前のあらすじは上記より転載。
イオルコスの王子イアソン(生瀬勝久)は、叔父ペリアスに王位返還を求めていた。ペリアスは王位返還の条件としてコルキスから黄金の羊毛を持ち帰ることをイアソンに命令する。彼はコルキスの王女メディア(大竹しのぶ)に助けれられ、それを成し遂げるがペリアスは王位返還を拒否。メディアは魔術を使って彼を殺し、その罪でイアソンとメディアはコリントスに亡命することに。
ふたりの子供にも恵まれ質素ながらも幸せな生活をしていたが、ある日、コリントスの王クレオン(吉田鋼太郎)がイアソンを娘婿にと望む。地位と名誉、そして花嫁の若さと美しさに目がくらんだイアソンはその縁談を承諾。ここから舞台の物語は始まる。

メディアについて補筆すると太陽の神と人間の間に生まれた父を持ち、父の姉妹=おばから毒を使う魔術を教わっている。彼女がイアソンに恋をしたのは彼の魅力に彼女自身が惚れたからではなく、女神の力によるもの。その前提がわかっていると観客としてはイアソンは最初からメディアが惚れるような男ではなかったという目で観劇することができる。
場所はメディアの石造りの館の前。階段の下には蓮が咲き乱れる池。本水がはってある。メディアのふたりの子どもたちが舟に乗り楽しそうな声を上げている。メディアの乳母(松下砂稚子)は、メディアがイアソンの心変わりを嘆いていること、気性の激しい彼女が恐ろしいことをしでかしそうな予感がすることを独白する。メディアは館の中から外に聞こえるような声でイアソンを呪っている。乳母は子どもたちにお母様に会わない様に姿を隠すように言い、守役(菅野 菜保之)とともに館の中に入れる。16人の女性コロスは、全員赤ん坊を抱いた老婆の姿で呼応。
姿を現したメディアは、クレオンがメディアと子供たちに追放の命令を出すらしいという噂について対策を考えている。そこへクレオンが登場。その命令に1日だけの猶予をとりつける。さらにイアソンも現れて子どもたちに兄弟をつくり地位を引き立てるために王女と結婚したのだと弁明するが、メディアは呪いの言葉をはきかけるのみ。その後、隣国の王子アイゲウス(笠原 浩夫)が挨拶に現れ、彼をたらしこみ跡継ぎを設けてあげると囁き、亡命後の身の置き所を確保する。猶予の1日を活用して復讐計画を練り上げる。子どもに執着するイアソンへの究極の復讐は“ふたりの子供を殺すこと”だと思いつくが、母としての情にも引き裂かれ、迷い苦しむ。復讐を果たしてもその後の嘆きからは逃げられないと悟っているメディア。だが、その苦しみからも逃げずに復讐をとげる道を選ぶのだった。王の娘を毒殺する謀も成功し、その王も死ぬ。
メディアを哀れんだ祖父の太陽神が亡命のために竜車をよこし、それに乗った彼女は刺し殺したわが子ふたりを抱きかかえ、その姿をイアソンに見せつける。呆然とするイアソンを残して、勝ち誇ってメディアは去っていく。

キャストについてのコメント
大竹しのぶはエレクトラを経て、メディアを演じる期が熟していた。エレクトラでは激しい台詞を息つく間もなく喋り続ける役で、弟とともに父の仇である母親を愛人とともに殺すのだが、殺害後に精神のバランスを崩すのは弟なのだ。一本調子で勢いで演じていた印象がある。今回のメディアは、神の血を引く激しい気性の女の嫉妬の感情と母としての情との間で葛藤する感情のこれほどまでに激しい揺れを演じなければならない。台詞がとまって逡巡する時の表情の凄さ。目が見開き瞳の焦点が合わなくなっている。昨日書いた藤原竜也の俊徳と同じような表情だ。実際にふたりの子を持っているということもあるだろうが、母としての情をにじませながら、それを乗り越えるメディアをここまで的確に演じられる女優は今の日本では彼女しかいないだろうと私も思う。
イアソンの生瀬勝久はTVドラマ『ごくせん』などでしか観たことがないが、舞台での演技もなかなか良かった。かっこよすぎないところがいい。しょせんメディアは自分から惚れた女ではないが、自分の血を引く子どもへの執着が強く、自分と子どものこれからの繁栄のことしか考えていないという人物をよく造形していた。
アイゲウスの笠原浩夫は、美男ぞろいの「スタジオライフ」の看板俳優だけにさすがにカッコよかった。しかしながらこちらも自分の血を引く子どもが一番欲しいというイアソンとの共通項をもっているというあたりが皮肉だ。
他にもクレオンの吉田鋼太郎をはじめ、コロスのひとりひとりに至るまでこの舞台の緊張感を途切れさせることなく演じ切っている。
何千年も前のギリシャ劇で神の血を引く主人公という話ではあるが、男と女の愛、裏切り、子どもへの情愛、復讐というあたりは現在の家族の人間関係にもありそうな話である。主人公を演じられる女優を得たことで、日本でも現代劇のように上演できた記念すべき舞台だったと思う。
蜷川は、この緊張感を引き出す負荷をかけるために、本水の池での演技を役者たちにさせたようだ。確かにその効果はあげていたと思う。また館の前が一面の池でというのもメディアの涙の象徴にも思えた。しかしながら、私は1階の9列目だったので水面も見えてよかったが、前過ぎるとそのあたりが見えないという問題もある。せっかく前の席がとれたのにという不満も出てくるのではないだろうか。
写真は、今回公演のチラシ。