ぴか の観劇(芸術鑑賞)日記

宝塚から始まった観劇人生。ミュージカル、ストレートプレイ、歌舞伎、映画やTVドラマ等も書きます。

05/06/15 『近代能楽集』「卒塔婆小町」

2005-06-16 23:36:48 | 観劇
雨だったが、彩の国さいたま芸術劇場に『近代能楽集』を当日券で観に行った。家から自転車で約10分。引っ越す前よりはずいぶん行きやすくなった。雨も行き帰りの時は小ぶりだったのでレインコートだけですんでラッキーだった。当日券は補助席で1万円ということで一瞬ためらったが、せっかく行ったので観てきた。

まず、今日は前半の『卒塔婆小町』について書く。
ストーリーは、以下の通り。
場所は夜の公園。赤い花をつけた椿の木が並ぶ前に5つのベンチ。椿の花が音をたてて降るように落ちる中で、ベンチには5組のアベックがいちゃついている。それを酔っ払った若い詩人(高橋 洋)がうっとりと眺めている。そこにボロボロの服を着た浮浪者のような老婆(壤 晴彦)が現れ、真ん中のベンチのアベックの横に座る。嫌がってアベック達は席を立って行く。毎晩老婆が同じことをすることを知っている詩人は今日はそれをとがめる。
「僕は尊敬するんだ、愛し合っている若い人たち、彼らの目に映っているもの、彼らが見ている百倍も美しい世界」。老婆は切り返す「あいつらは死んでるんだ。...99歳になる自分のほうがよほど生きているのだ」と。
老婆は自分のことを「むかし小町といわれた女」と言い、80年前の話を語りだす。舞台奥が一変し鹿鳴館の庭にあるベンチになる。老婆の曲がっていた腰は伸び、声もしゃがれた声から魅力的な声に変わり、小町になっている。小町に恋焦がれて「百夜通い」をする陸軍の深草少将の話になると、詩人が少将に変わってしまっている。老婆の話に引き込まれた詩人は、目の前の老婆が、若くて美しい女性に見えてきて、恋しさが募ってくる。「ああ、言わないで。私を美しいと云えば、あなたは死ぬ」と老婆は制するのだが、その禁じられた言葉を口にしてしまう詩人。恋しさの最高潮の中で詩人は息絶える。再び、現実の公園。行き倒れている詩人は浮浪者たちにかつがれて警察に運ばれていって、THE END!

椿は花びらを散らさずに首がもげるように散る花だが、その散らせ方がすごい。一輪一輪に油粘土(あの緑色のやつ)をつけておいて落としているのだと思う。床に着地する時にベタッとくっついて、ボトッボトッとかなり大きな音がする。ここは台詞を際立たせたいという時以外はずっと降らせている。赤い椿の散り方はソメイヨシノ桜とも違って、もっと凄絶な感じがする。
壤 晴彦は、やはり蜷川幸雄演出の『オイディプス王』の預言者テイレシアスで観ているが、もともと大蔵流の狂言で鍛えた人だけに語る力がすごい。老婆の時の声はひしゃげた声なのに小町になると艶やかな声になる。この舞台は女優を使わずアベックも全員男性だ。女の声がない中でこれだけの艶めいた声をきくと、これは詩人も惚れるよと納得する。男性キャストだけでの上演は成功だ。
高橋 洋は、これまでに蜷川演出の舞台で何度も観たが、いつもひとくせある脇役をやっていた。『お気に召すまま』では皮肉屋を、『ハムレット』のマキューシオは異常なハイテンション、『幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門』の五郎では将門への屈折した野心、『KITCHEN』のポールでは葛藤。この舞台で主役級の役をつとめるのを初めて観た。この若い詩人の役は、壤 晴彦というベテランに伍して演じなくてはならず、相当の力量がなくてはつとまらない。それが、だんだんと小町の話に入っていってとりこになり、恋しい気持ちが高揚して行く様を活き活きと演じてくれる。その演技があるからこそ、老婆の小町が光り輝くように魅力的に私たちにも見えてくるのだ。そして高揚した恋情の恍惚の中で息絶えるという幸福感が身体全体で表現されていて見事だった。
公園のアベックたちが一転した鹿鳴館ではその舞踏会に集う紳士淑女に変わるというのも面白い。私のお気に入りの月川勇気は、今回も美しかった(『お気に召すまま』では成宮寛貴をくってたしなあ)。

それにしても、すごい物語だ。三島由紀夫の『黒蜥蜴』は美輪明宏主演で観ているが、共通するものを感じた。恋の恍惚が極まった気持ちの時に死ぬということが一番美しいという美学だ。三島由紀夫は人間は何かで気持ちが高まった時にそのまま死んでいくことが美しいと思っていたのだろう。そして、自らもその美学にのっとって死んでいったのだと思った。客観的には支持できない死に方ではあるが...。