Piano Music Japan

シューベルトピアノ曲がメインのブログ(のはず)。ピアニスト=佐伯周子 演奏会の紹介や、数々のシューベルト他の演奏会紹介等

「ピアニストの音」考察(No.1827)

2011-04-10 20:12:31 | ピアニスト兼指揮者・岡原慎也
 私高本が最初に興味を持ったピアニストは、「アルフレート・ブレンデル」。1978年の「シューベルト没後150周年」の時に、2つのプログラムを持って来日した。この時既に大注目のピアニストになっていて、1つの演奏会は全て「FM放送」された。確か、「最後の遺作3大ソナタ」は「FM東京」から3週連続で放送された記憶がある。「アンコール無し」だったとのこと。今考えれば、当たり前なのだが。
 使用楽器はおそらくスタインウェイ。(特にアナウンスは無かった。)ホールは日比谷公会堂だったように記憶しているが、もしかしたら違うかも知れない。「FM放送」を聴いて、その時ほど感動したことは無かったので、すぐにLP(← まだCD発売の4年前だよ!)を買いに行ったら、

  1. ¥2500/枚 のフィリップス盤1枚もの
  2. ¥2200/枚 のフィリップス盤組もの
  3. ¥1300/枚 の日本コロンビア盤1枚もの

が「ブレンデル/来日記念コーナー」にあった。まだ大学生1年で(今より遙かに)カネが無かったので、「シューベルト即興曲集」日本コロンビア盤1枚もの を購入した。
 聴いて驚愕! 「音が違う」からだ。後でわかったのだが、LPはベーゼンドルファーだった。その意味で、LP録音もFM放送録音も「良好な録音」であったことがわかる。

ブレンデルは1970年までは「シューベルトとモーツァルトはベーゼンドルファー、ベートーヴェンとリストはスタインウェイ」と使い分け


のピアニストだった。膨大な録音を既に残していたが、楽器の特徴を素晴らしく引き出している録音もあれば、何がなんだかほとんどわからない録音もあった。
 次に興味を持ったピアニストがグルダだった。

グルダはほぼ終生「シューベルトとモーツァルトとベートーヴェン合わせ物はベーゼンドルファー、ベートーヴェンソロとジャズはスタインウェイ」と使い分け


のピアニストだった。膨大な録音を残していたが、ブレンデルよりも「録音の出来不出来の差は(良い方にも悪い方にも)小さかった」ことが印象的。尚、MPSレーベルが主たる録音になってからは「超近接マイク」多様のため、音質に問題があった。ピアノの中に完全にツッ込む「ジャズ式」をクラシックにも採用したからである。1983年以降の録音は決定的に音が冴えなくなるが、私高本が聴き始めたことは(クラシックでは)悪影響は小さかった。
 その次に興味を持ったピアニストがグールドだった。死ぬ直前。モーツァルトとハイドンを聴いたのが好きになったきっかけだったが、バッハ「ゴルトベルク変奏曲」の新盤が出たら即購入して聴いた。「音が変わったな?」と思ったら、「ヤマハ」になっていた。デビュー以来、一貫して「ニューヨークスタインウェイ」にこだわったピアニストだったので意外だった。


 ブレンデルは「来日する度」に聴くことが10年くらい続いただろうか? グルダは「伝説的な3回目の来日」をソロと協奏曲を両方聴いた。グールドはとっくの昔に「演奏会ドロップアウト」していた(← 私高本が5才の時!)ので、ナマを聴く機会は無かった。
 聴くホール、聴く座席、その時のピアニストの考え方、などなどで「音」が大きく違うことが徐々にわかってきた。同じ来日の時でも、ソロと協奏曲では「違う音作り」する方が普通なことも徐々に理解した。


 時代は思い切り下り、1997年に私高本にとって「人生の最大の転機」が訪れる。

岡原慎也 + ヘンシェル の「冬の旅」に出会った


である。新国立劇場が「日程調整大チョンボ」をしてくれたおかげで「空白の1日」が出来たおかげである。岡原慎也とヘンシェルと「間抜けな新国立劇場の担当者」に乾杯!
 場所は、最近はあまり使われる頻度が多くは無くなった神楽坂の「音楽の友ホール」。ピアノはベーゼンドルファーインペリアル。実は、このホールは大好きでオープン以来随分聴いていた。地下鉄東西線の通過音が気になる人もいるようだが、「ピアノの中音域以上には悪影響はほぼ皆無」なので、ソロにアンサンブルに随分と楽しませてもらったものだ。モーツァルトもシューベルトも随分と聴かせてもらったものだった。

この日初めて「ベーゼンドルファーインペリアルの底力」をナマで聴いた!


だった。全身の力が抜けて演奏会直後は放心状態だった。岡原慎也に拠ると、涙垂れ流して呆然としていた兄ちゃん(← 当時は37才)が居た、とのこと。シューベルト「冬の旅」は(当時の私高本としては)最も知っているシューベルト歌曲、のつもりだったが、目の前の演奏はそれを遙かに超えていた。


 その後「岡原慎也の主要演奏会」は、少なくとも大阪までは全て聴きに行った。(同一プログラムの時は、東京だけ、とか、大阪だけ、を聴いたことも多いが)基本的には「ベーゼンドルファーピアニスト」だが、会場に無ければ無理矢理トラックで運び込んでまでは無理をしない。会場にスタインウェイしか無ければ、スタインウェイでも名演を聴かせるピアニストであった。「彩の国さいたま芸術劇場音楽ホール」や「津田ホール」では、スタインウェイで「ピアノの可能性を最大限に引き出していた」ことが印象強い。あぁ、川上敦子演奏会プロデュースは(1回を除き)全て「彩の国さいたま芸術劇場音楽ホール」だったからなあ。あのホールは(スタッフは音楽に全く関心が無い人もいたが)音響は素晴らしかった。岡原慎也が演奏した当時は「ピアノ/ピアニスト100」と言う企画を実行中で、随分聴かせてもらったものだ。岡原慎也 ほど「ピアノの底力」を聴かせてくれたピアニストは少ない。全くいないわけではない(音は小さいがアシュケナージとか)が、極めて少なかったことだけは明言する。


 後には「病高じて」岡原慎也の演奏会を3回プロデュースしてしまった。同時併行していた川上敦子からも愚痴は言われるは、でボロボロだったのだが

「岡原慎也のベーゼンドルファーインペリアルのシューベルトのベスト」を聴きたい一心


だった。
 個人的には「実現した」と思いたいのだが、実際は(大阪から東京への移動なども含め)実現したのだろうか? 岡原慎也が録音したCDと聴き比べると、D959 と D899 では録音の方が良い、D960 では演奏会の方が良い、と言う感触で、この辺りはよくわからない。「東京の岡原慎也ファン」には良い機会を提供できた、と思う。


 ・・・で、「岡原慎也の音」については、相当に親しく聴かせて頂いた。「まろやかで、シューベルトやベートーヴェンの音を、そのままに出す」感触。リハーサルの時に、座席位置を変えながらも聴かせて頂いたので「座席で音が全く違う」ことも教えて頂いた。「指先の見える位置」は私高本の好みで無いことははっきりわかったので、ホール右側で聴く位置を固定した。思わぬ時に視線が合うか? と思ったが、終演後に合った以外には無いので、悪影響は与えていません ><


 「ピアニストの音」は聴き手1人1人がイメージしている。私高本のようにいろいろな位置で聴ける人は少ない。佐伯周子の演奏会回数を見ても、多くても「2回/年」だ。これではなかなかイメージを掴めない。
 私高本が「ピアニストの音」を掌握できたのは、岡原慎也のおかげである。本当に感謝するばかりである。

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