ぱたの関心空間

関心空間と徒然なるままに。

キャタピラー@京都シネマ

2010-08-24 17:18:00 | 映画感想
タイトルの付け方と言い映画の作りと言い、なんだか直球でなんだか嫌な感じのところに剛速球を投げ込まれた感じがする。

寺島しのぶさんが「いもむしゴ~ロゴロ~・・・」と歌うシーンは流石にちょっと背筋の寒くなる怖さを感じた。

さて、話題の「キャタピラー」を見てきた。
公開初日にも京都シネマに行ったのだけど、その時は満席シールがガンガン貼られておりましたがなぁ。
この日も初回は満席だったようで。 さすがです。
こんだけ話題になっている映画なので感想はさらりといきますよぉ。

どんな宣伝がなされているのかよくは知りませんが、反戦映画という色合いが強いのかな、と思っていたのです。
ところが全然違った。

まぁ確かにその状況から反戦を読み取ることは勿論できるわけですが、そんなことよりももっと前面に押し出されているのは人間の心理。
どちらかといえばもっともっと泥臭いヒューマンドラマという体。

軍神と言う名誉を纏い、しかし四肢を無くし、言葉と充分な聴覚を失い、生きる糧は過去の栄光と性欲だけだが、しだいに戦場での悪夢に苛まれる男。
その夫の世話をしながらしだいに強かさを身につけて行く女。
その状況を作り出し、そしてそれぞれの生き方を決定づけてしまう、戦争というやるせない時代。

と、主に3つの登場人物(?)によって進行していくお話。
とはいっても、映画の中では、日中戦争の戦闘により四肢を無くして生ける軍神となり、久蔵が帰って来てから終戦の日までの日々が淡々と続くわけだ、何か途中で状況に大きな変化があるわけではない。大きな変化があるのは二人の内面においてである。
その内面の変化を見事に描き出した映画と評価されているわけかな。寺島しのぶさんがベルリン国際映画祭で賞をもらったみたいだけれど、それは十分にうなずける。

最初にも書いたけれどもこの映画がスゴイと思うのは、そのストレートさである。
四肢を無くした久蔵の姿と、焼けただれた顔のグロテスクさ。そして、言葉も出ない(声は出る)ので、声と体で要求を伝えるその様子の異様さ。あからさまなセックスのシーン、それも性欲の処理と言わんばかりの無味乾燥な、そして女から男に対しての性の強要とか。村人たちの軍神に対しての態度とかも、今の時代に生きる我々からしたら、なんと嫌な感じか。そして久蔵が体だけでもぞもぞ動く姿と「芋虫ごろごろ~」と歌われた瞬間に、「キャタピラー」というタイトルが脳裏に浮かぶおぞましさ。
人間のもっているいやらしさ、いやしさ、きたならしさをストレートに出され、それを見て嫌な感じをうけるのは、自分の中にあるイヤらしさ卑しさ汚らしさを認めてしまうからだ。
きっと他の監督だったらオブラートにつつんだり、もっと柔らかな方法を選んだりして大衆受けする優等生な感じの映画にするもんなんじゃないかな。じゃないと、見終わってからの後味が悪いものね。

クマさんは徴兵を回避するためにわざとそんなフリをしていた、という役どころか?
体の弱い義弟が、終戦直前に徴兵されてしまうのとの対のフリか?

キャタピラー@京都シネマの画像



ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~@祇園会館

2010-08-21 19:07:18 | 映画感想
男と女はすれ違う。それも限りなくねー。

太宰治は「人間失格」しか読んでいないので、浅野忠信演じる大谷と人間失格の葉蔵を重ねてみてしまうわけです。
基本的に両者については共通の見方をしてもかまわないと思うのだけど、どうでしょ?よっぽどの太宰ファンからしたらとんでもない誤解なのかも知れないけれど。

どうなんだろうね。。
人間失格を読んでいて感じた太宰の筆致は、その内容とは裏腹に軽妙な感じがしてそれはそれで凄い作家だなと思うけれども、作品がどれもこんな感じだとちょっと苦手だな。
#いやいや、どれもこんな感じというわけではないと知っちゃぁいますけどね

でも手を変え品を変え、映画で見せられるとこれはこれで面白いなと思う。
いや、実際には映画を作る側の力量なんだろうと感じる部分も多かったんだけど。

というわけで、印象的なシーンも多かったこの映画。
中でも一番印象的なのは、松たか子の恐ろしさ。

う~ん、他の人が言えば、強かさと表現するところなんだろうか。
でも、どうも儂的にはこの表現がぴったりくるのだな。。。

弱っちぃ男からしたら、あの強さは恐ろしさ以外の何物でもないと思うのだけど、どうだろう?
「俺はこんなにダメダメなのに、なんで。なんでお前はそんなに立派なんだよ・・・」 それは男には考えられない恐怖ですよ。そして、それから逃れることさえできない自分の弱さまで相手に転嫁して男は恐怖を募らせると。

しかし、ホントに、男と女というのはこうも方向性が違うものなのかとまざまざと見せつけるのだ。客観的に見ると男が身勝手で甘ったれなだけのようにも見えるけれど(実際その見かたは間違いではないと思うのだけど)だからこそバランスが取れるという理不尽な愛の形だってありうる。周りのまっとうな人間としては歯痒いだけだけど。

ちなみに、
相変わらず儂の中ではたよんない役がよく似合う俳優ナンバーワンは妻夫木くんです♪

ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~@祇園会館の画像



祝の島@京都シネマ

2010-08-20 22:38:06 | 映画感想
簡単なせつめー。

「祝島」
映画のタイトルは「ほうりのしま」だけど、島の名前は「いわいしま」という。
行政的には山口県熊毛郡上関町になる。地勢的に言うと、瀬戸内海、大分と愛媛と山口に囲まれた海域に位置する、人口500人、周囲7キロ強の島だ。
島の対岸、田ノ浦というところに上関原子力発電所の計画が立ち上がったのは1982年。それから30年近くの間、島の人々が中心となり原発反対の運動を続けてる。
「ほうりのしま」と言われるのは、かつてこの島には、航海安全を祈願し、豊穣の海への感謝を捧げる神官(ほうり)がいた事に由来する。今でも4年に一度、大分の国東にある伊美別宮八幡から御神体と神職を迎え三十三の神楽を奉納する祭りがおこなわれる。

そんな島のドキュメンタリー

靖国やらコーヴやらでドキュメンタリーがどうちゃらこうちゃらっつー話をしていたけれども、この映画は完全に原発反対派の立場から撮影されております。
と、言っても映画のほとんどは祝島に住む人たちの日常を丹念に追いかけるという構成。原発反対運動の話はおまけみたいな感じ(。。。というと言いすぎか?)

放射性廃棄物の最終的な処分が出来ずにいる上に、事故の危険性から逃れられないでいる(まぁ、電力会社は「安全」と主張するけれども、信用できないわけですよ、こう不祥事が続いちゃぁね)今、原発建設に賛成する理由なんて利権以外にありえない。
#地域の活性化とか雇用の創出とか、利権を対外的に聞こえ良く偽装した言葉ですよね?

アピールしたいのは、それに対し反対活動を続ける島の人たちの誇り高さだ。

うんにゃ、誇り高さっつったって、映画に映っているのは過疎の島に住む、ただのじっちゃんばっちゃんなんだけどもね。
映し出されるのは島ゆえに豊饒の海の恩恵を受け、島ゆえに狭い耕作地を大事に作物を育てる普通の生活。1千年余りに渡って守り伝えてきた何の変哲もないくらしを楽しげに明るく過ごす普通の人たち。
でも、だからこそその環境を破壊する原発建設に猛烈に反対する。
「誇り高い」なんて雰囲気、島の人たちには微塵もないんだけど、自然の恵みを受け、千数百年のあいだ、命をつないで平凡な暮らしを守ってきた普通の人々の、強烈な自負を感じるのだ。
カッコつけている誇りの高さじゃなく、生活者の持っている地に足のついた誇りの高さが格好いいのだ。

映画の中ではじっちゃんばっちゃん達が、よりそいながら濃厚なコミュニティを持っているように映るけれども、「原発が一番いけないのは人々を引き裂いた事だ」という言葉が出てくる。
「島の9割が反対」と紹介されていたと思うけど、裏を返せば1割の賛成(若しくは非表明)の人がいるわけだ。決して一枚岩ではないのだ。実際、町全体(上関町は祝島だけじゃないので)だと、賛成派が多いようで、議会では原発建設の議決が賛成多数で可決される様子が映し出される。

この分裂で島の祭りも十数年中止されていたのだという。
問題なく、おだやかに仲良く生活していた人々を分裂させ、いがみ合いさえさせてしまう、そんな権利が誰にあろうものか。

辛いのは建設予定地の埋め立てが始まるってーんで、実力での阻止に向かうシーン。
島の人たちは作業員に対して言葉を尽くして抗議する。それに対して淡々と「作業しますのでどいてください、妨害は違法行為です」みたいに無表情に対処する作業員。
この情景のなんと空虚な事か。

無駄とは言わない。実際にこの抗議活動により、日1日分は建設がのびている事は間違いないんだから。
しかし、島の人たちの悲痛な叫びはしかるべき場所に届いているのか?彼らの叫びを聞いているのは無表情な雇われ作業員だけだ。彼らはやれと言われた任務をする事しか許されていないのであり、島のおじぃおばぁが何と訴えても、それによって任務を放棄する自由は与えられちゃぁいない。
悲痛な訴えを届けるべき、聞かせるべき相手は、この抗議活動をしている海上にはいないのである。

いつだってそうなんだよね。
抗議の座り込みでコンクリートの上に寝っ転がっていても、最後には任務に忠実な機動隊(?)に排除されるにちまいない。それまでに中国電力のお偉方が来て対話を持ちかける事なんて、万に一つもありえない。
沖縄の基地撤退を訴える人々の前にいるのはアメリカ大統領でも日本国首相でもなく、そんな決定に何の権限もないただの海兵隊員だし、東ティモールの人々が必死に抵抗しても聞く耳持たずに惨殺するのはスハルトではなく、変な薬を飲まされたインドネシア兵士だったりする。
あたりまえの生活、安全な環境、普通の平和。そんな当然の事を訴える時に、その声に真摯に応えるべき人は、だいたいそこにはいないのだ。そんな抗議活動の間もその輩は、豪華な邸宅で次の金儲けの計画を立てているのだから。最前線で裸になって血を流すのはいつだって何の力も持っていない庶民なのだよ。
いやんなっちゃうねー。

儂らが本当に守らなくてはいけないものはなんなのか。
それを守るために、いらん欲望が人類から消え失せる事があるならば、世の中に蔓延る問題の多くは解決しそうなんだがな。

まぁ、要らん欲望をもつのが人間でしょ?なんて、そんな事言ってくれるなよ(>_<)

祝の島@京都シネマの画像

祝の島@京都シネマの画像

祝の島@京都シネマの画像



パンダコパンダ@京都シネマ

2010-08-13 21:42:05 | 映画感想

高畑勲と宮崎駿が、1972年に作成したジブリ映画の源流とも言える映画。
京都シネマで今日まで上映。話には聞いたことがあるけれどもどんなものか知らないので見てきました。

会場前、お子様連れが何組か上映ルームに吸い込まれて行きました。
おぉ、これって子供向け映画やん! 忘れていた(をい)

まぁ、なんというか。。。
完全に子供向け映画なのでなんともかんとも、映画のお話自体にどうこう言うのはナンセンスですね。。。。(^^ゞ

それ以外で気づいた事など。。。。

声の出演に山田康雄さんとか、う、う、懐かしい。
熊倉一雄さんのパンダのお父さんがいいねー、いいよねー。
特に竹やぶがイイ!
おおお、テーマソングに水森亜土さんだー。

ミミちゃんが住んでいる場所は「北秋津」
これって、武蔵野線の新秋津がモデルだろうか?
そーいえばあそこの駅って駅舎の位置が谷状になっていたような。 違ったかな?

「雨ふりサーカス」では、大雨が降り、ミミちゃんとパンダ親子が住む竹藪の家付近は大洪水。そして、そこにベッドの船を浮かべて、サーカスの動物たちを助けに行く、んだけど、この展開って。。。。ふわぁ~、崖の上のポニョやんか~!
洪水なのに悲壮感のない非現実さとか、クリアな水中を通しての情景とかまんまな感じ。
ポニョではその無理やりな展開とありえへん設定にむむむむ、となったものだけど、そうだ。 宮崎駿さんも、ポニョは子供たちの為の映画みたいな事を言っていたなぁ。ということは完全にパンダコパンダの延長線上にあるわけだからナンセンスさも当然か。

そうそう、パパパンダがぴょんぴょん跳ねる感じとか、「おぉ、トトロだトトロだ♪」

あと、ミミちゃんはパンツ見せすぎです。

川の底からこんにちは@京都シネマ

2010-08-13 14:23:46 | 映画感想
満島ひかり

である。

ぬー、なんだかしらんけど、微妙に気になるのである。
愛のむきだしで初めて見た彼女。整った顔立ちで確かにかわいいけど、それだけじゃない何かを感じさせる。
なにしろ、映画中前半の彼女「佐和子」はなんだか、何に対してもこだわりがなく無気力で、魅力のかけらさえ無い。上京5年、5度目の仕事、5人目の男。 やるねー。

が、諦めて開き直ると、突如格好悪いのんに(微妙ではあるけれど)格好良くなっちゃうという逆説。それを演じ切った彼女。
なんともまぁ、ダメダメな、それでいていそうで(でも絶対にいないキャラ)でなおかつ開き直れる最強キャラ。これはムズカシイ。

#なんか、誰かに似てるような気がするとずーっと思っていたけど、南Q太の漫画に出てくる感じの女の子ににているのかも。。。(違う?)

一つだけしっくりこなかったのはですねぇ、
しょっちゅう発泡酒(淡麗?)を飲む佐和子だけど、これがなんともまずそうに飲むんだ。ビールを不味そうに飲ませたら、日本で5本の指に入ると自認している儂がいうのだから間違いないと思うけど(いや、その思い込みが間違いでしょう)。演出?

主人公の佐和子は、口癖のようになんでもかんでも
「でも、それってしょうがないでしょ。」
で済ませてしまう。仕事へのグチも環境問題も自分の境遇や男でさえも。

アンタねー!と言いたくなるような状況でも、なんでやねん!っと突っ込みたくなる展開でも淡々とアホっぽく「まぁ、でも、仕方ないですよね」ですましてしまう。
だからこそ逆にリアルなのかも。

唯一例外は彼氏が仕事辞めて「別れるとかっていう話になっちゃう?」と聞いたときくらいか? 「なるよ、当然!なるなる!」と言っておきながら次のシーンでは一緒に田舎に連れてきているし(なんでやねん!)

そしてもう一つ、繰り返されるセリフ。
「所詮、中の下なんだから。」
中の下どころか、ダメダメな人物ばかり出てくる本作。
お父さんのしじみ工場社長、工場の従業員、同僚OLと上司、伯父さん、しじみ取りのおっちゃん、極めつけは佐和子の彼氏。ダメダメに入らないのは彼氏の連れ子の加代子くらいなものか。
しかし、そのダメダメな人物がみんなどうにも憎めないから困ってしまうのだ。最終的には人間なんて所詮「みんな中の下」さ、と肯定せざるを得ない(理屈ではおかしいけど)

んー、なんだろうな。
ネガティブなところから生まれるポジティブさ。
宮台真司的に言うと、
終わりなき日常を生きる知恵。
んー、難しく言うと、
閉塞感漂う世の中において、状況をあるがまま受け入れる事で疲弊する事を回避し、その中で出来うる事を探そうとする前進的な態度。

つまり、
いまある状況は、とりあえずそーなっちゃったもんは仕方ないので、それはそれとして認めっから、ほんでこの状況からほんじゃ頑張りますわ。
と。
「ええ、そうですよ!駆け落ちしましたよ。で、捨てられましたよ。で5年ぶりに帰って来て連れてきたのはあんなダメ男ですよ。でも仕方ないでしょ、そうなっちゃったんだから。で、何?なんか問題でも?」
で、おばちゃんたちも結局男で失敗した人ばかりというオチ。ちょっとほっとする(笑)

結局ね。
どっちかっていうとガンバリ屋さんなんだよ。きっと。
基本的な線で、世間一般と同じルール上で「がんばる」という必要性は感じないけれども、自分が置かれたポジションでがんばろうかねー、というモチベーションはきちんと持てるのだ。そこに開き直りが入るからとても人間くさくて共感できちゃうんじゃないのかねぇ。
最終的に男に失敗してるかもしれないし、もっと世間一般的な意味で「がんばれ」ば世間一般的に言うもっといい状況が作れるであろう才覚もあるのかもしれないけれども、そんな事は求めなくてよいのだ。

その開き直りが強烈に現れる身も蓋もない社歌<映画のHPでどんぞ。
すんばらしい!爆笑。

世間一般に広く受け入れられる映画ではないだろうけれど、ここにあるのは新しい時代のリアルになるかもしれないポジティブさだと思うな。

え、そんな事で良いのかって?
ええ、かまいやしません。だって儂もやっぱり中の下の人間ですから☆

牧野エミさん、久しぶりに見た。
んー、なんとも。

川の底からこんにちは@京都シネマの画像