ぱたの関心空間

関心空間と徒然なるままに。

アナログフィッシュ&ヒント @ 磔磔

2013-09-28 22:53:31 | ライブレポ
また一ヶ月も前のレビューを書こうとしている。
正直、ほとんど覚えてない(苦笑)

前々日に事故って(<ばか)行くのを断念したOTODAMA'13。そこに出ていた二つのバンドが磔磔に来るというので行く。

アナログフィッシュ目的で、対バンのHINTOというバンドの事は全然知らなかったけれど、MCの感じからすると結構仲のいいお友達バンドらしい。

先攻はHINTO。
アー写しか見た事が無かったが、それだけの情報で想像してたイメージドンピシャのサウンドとボーカルの感じ。自分が一番ビックリ。
途中で佐々木健太郎さんを呼び込んで「グラフィティ」という曲を演奏。
これ、後で分かったけどお互いに共演し合っているのね。

そして、アナログフィッシュ。
いつものように分かる分だけセットリスト。

・PHASE
・STAR
・HYBRID
・GRAFFITI
・グッバイガールフレンド
・ウェンズデイ
・抱きしめて
アンコール
・心配性

あと3、4曲くらい知らない曲やったかな。
#すんません、音源カバーしきれておりませぬ。

アナログフィッシュの好きなところはお得感、というのが偽らざる気持ち。佐々木さんと下岡さんという二人の全くタイプの違うボーカリストがいる事で、多彩な曲を楽しむ事が出来る、と言えば分かりやすいか。
ま、勿論それだけで好きになるわけじゃないんだけど。

今回は「フェイズ」ではじまり「抱きしめて」で本編〆。
気分的にはその二曲が聞けただけで十分に満足。

「時代」=「phase」
「失う勇気はある?それとも放っておく勇気はあるのかい?」
というフレーズに感じる昂揚感にはどこか影が差す、そんなような曲。もう、まんま今の儂らを煽動するテーマソングでいいんじゃないだろうか?

そして、「抱きしめて」でやっぱり泣きそうになる。
絶望的な感じさえするこの曲の中に、でもなんと表現したら良いかわからない、「抱きしめて」という原始的な安心感。
あきらめの中にある一つの安らぎ。と言うとちょいとチープに過ぎるかな?
きっと絶望の中でも儂らはそんなところに希望を見出して行くのだろう。生きるためにね。

そうだ、思い出した。
そういえばアジカン後藤さんのThe Future Timesの中で、この曲は3.11の前に書いたと下岡さんが言っていた。
驚く。その時代を感じ取る力とその表現力に。

ちなみに、新しいアルバムタイトルは「NEW CLEAR」。「NUCLEAR」ではないので、念のため。(^^)

アナログフィッシュはOTODAMAに出た。。。
わけだけど、実は「ライブハウステント」という企画ステージでの出演だったんだよね。アナログフィッシュは今の時代にもっと注目されても良いバンドだと思うんだけどな。

アナログフィッシュ&ヒント @ 磔磔の画像

アナログフィッシュ&ヒント @ 磔磔の画像

アナログフィッシュ&ヒント @ 磔磔の画像



世界が食べられなくなる日@京都みなみ会館

2013-09-10 15:48:58 | 映画感想
以前観た「モンサントの不自然な食べ物」の続編的なものかと思ったらちょっと違った。

内容の前半はモンサントに代表される遺伝子組み換え作物の問題について。
そして、後半は放射能汚染による問題について。

つまり、この映画ではモンサントの遺伝子組み換え作物の問題と、放射能汚染による作物への影響の問題を同列に語っているのである。

最初に書いたみたいに、思い込みでこれは遺伝子組み換え作物の問題について映画、と思い込んで(内容くらいチェックせーよ!)いた儂は、日本の放射能汚染が同列に語られている事にも軽くショックを覚えた。
遺伝子組み換え作物によって広がる危険性ってのはかなりヤバイ、モンサント危険、という認識だったのだけど、おなじように放射能汚染をぶりまいている日本も同様に危険、という事じゃないか!(知っていたけど)

映画の中ではこう言う。
「『遺伝子組み換え』と『原子力』という二つの技術には、共通点がある。ひとつ目は、取り返しがつかないということ。一度汚染されたら元に戻らない。もうひとつは、世界中にすでに存在しているということ。」
そして、多くの人がその危険性にまだ気づいていないというところも共通しているのだろう。成る程。

映画の中でも中心の題材であり、もっとセンセーショナルなラットの実験
遺伝子組み換えトウモロコシを食べたり、ラウンドアップの混ざった水を飲んだりしたラットたちの、一目でわかる腫瘍の異常さと不気味さ。さすがにこれを見せつけられて不安に思わない人はいないだろう。

これだけの証拠(?)があるのに注目されない事の異常さ。
これだけ危険が指摘されるのに報道されない事の異常さ。

テクノロジー(経済)の前にヒューマニティーは沈黙させられるのか?
まったく、人間はいつまでこんな事をつづけるのだろう?いつになったら気づくのだろう?

某有名ファーストフードショップのハンバーガーは何ヶ月経ってもカビさえ生えないらしい。蟻も食べないようなものを儂らは食べている、という話もある。

人間の食べ物がどんどん人間の食べ物で無くなっていく。
この恐怖をどれだけの人が感じているだろう?

でも、食べなくちゃ生きていけないのだ。人間は。

それが毒と分かってい乍ら食べなくてはいけないという狂気に、儂らはこれから耐えていかなくちゃいけないと、諦められるような潔さを、残念ながら儂は持っていない。。。

世界が食べられなくなる日@京都みなみ会館の画像

世界が食べられなくなる日@京都みなみ会館の画像



標的の村@京都シネマ

2013-09-09 22:35:56 | 映画感想
前に、「ひまわり」を見た時にも感じたことだけれど、いかに儂等は沖縄のことを知らないか、ということだ。

例えば、チラシの表にはこうある。
『2012年9月29日。アメリカ軍・普天間基地は完全に封鎖された。この前代未聞の出来事を「日本人」は知らない。』

知らなかった。
オスプレイ配備への抗議で普天間基地に人が集まっていたのはネットの中継で見たから知っていたけれど、その後の沖縄の人たちの本気の怒りを儂は知らないままだった。

この映画に描かれるのは本土の人間がほとんど知らない沖縄の本当の怒りなのだと思う。
第二次世界大戦での沖縄戦から続く、アメリカ統治、返還後の米軍との共存という無茶な押し付け、土地(即ち生活と文化)の搾取、日米地位協定の不平等。
日本国憲法で保証されているはずの基本的人権が、公然と踏み躙られる場所なのだ、沖縄というのは。

それは本土の人間には知らされていない事実かもしれないが、知ろうとしていない事実でもある。
ベトナム村の話だって知らなかった。
高江のスラップ裁判での、現場に行った事の無い7歳の女の子まで訴えられるという信じられないような国の横暴だって知らなかった。

この日記では、まどろっこしいクッションの言葉はつけない。回りくどい表現もしない、語弊もあるかも知らんがこの際それでもいい。
本土の人間は、遠く離れ、視野にあまり入らない、この沖縄という場所をスケープゴートに、後は知らんぷりして、自分たちは平和だと、なんの問題もないと、のうのうと欺瞞の上の生活を謳歌しているにすぎないのだ。

「安里屋ユンタ」は元々権力に抵抗する歌だったのだそうな。これも知らなかった。
高江のゲート前でも歌われていた。普天間を封鎖する車の中から、警察の強制排除が行われる中でも浪々と歌われていた。
涙が出るほど美しいその歌声は、その美しさとは到底相入れない権力の暴力的な行為の中に飲まれてゆく。このやるせなさ、この空虚さをどう表現したら良いのだろう?こんなに美しく強い歌声なのに届かない、これだけの苦しみを負わされながら報われることはない民衆の怒り。

しかもそこはただの怒りでは終わらない。
現場で対峙するのは同じ沖縄県民同士であるという残酷さでもある。警官も土木業者も、職務に忠実な彼らはまず、基地に反対する人々と基地の間に無表情で立ちはだかる。一番苦しんでいるのは実は彼らかもしれない。
アメリカの軍事基地に対して反対しているというのに、そこでいがみ合うのは同じ日本人・沖縄人どうしという理不尽さをどう考えたら良いのだろう?

その問いかけは本土の人間に向けられていると気づかなくちゃいけないと思うのだ。

そもそも、権力者は決して民衆の味方なんかではない。まず、そこから確認しなくちゃいけない。

311以降の儂のジレンマは、あの震災のお陰(?)で沖縄に疎い儂等ヤマトンチュにもその権力の本来の性格が見えるようになったにもかかわらず、未だに「いやいや、何も言わなくったって、お上は国民のためにやってくれるんだべ?」と盲信している(もしくは現実から目を背けているだけ?というのは好意的に過ぎるか?)ように見える人があんまりにも多いということだ。

その思考自体がそもそも民主主義を放棄しているんだけど、そんな事にも無自覚なように思える。

沖縄をみればわかるだろう?何か不都合があれば権力は民衆に向かって容赦なく牙を剥くのだ。残酷にも民衆同士を対立させる形で。
福島でも同じことが起きているのに、自分で考えたくない人たちにはちゃーんとそれが見えないように、見なくても済むようにコントロールされるこの国の絶大なるシステムにほとほと感心するこの2年間である。

映画を観終わった後にツイッターで、簡単に感想を呟いたら
「バカだな、この映画の本当のタイトルは『タカリの村」だ」というリプライをどこぞの誰かからもらった。なるほど、そういう構造はあるのかもしれない。アメリカの国防省の人でそう言って話題になった人もいたなぁ。
でも、当たり前だけど問題の本質はそんなところじゃないわけで。悪いが、その発言は単にその人がねたんでいるだけにしか聞こえないし、そういうふうにとらえて問題から目を背けてしまう感覚というのが、日本人が本気で物事を考える事を阻害しているようにも思えて残念でならない。

しかし、儂等の大好きな「絆」という言葉を、ここで使わないのは一体何故なんだろう?

「放射能汚染」という「風評被害」に対して「絆」で応援、と言う優しい日本人が、同じ日本人がこれだけの苦しみを繰り返し強いられているのに、「絆」を感じて問題の解決を本気で考えようとしないのは何故だろう?と。
本気で「日本人の絆」を信じているのなら、この問題に対して絆で連携しようとしないのは理に叶わないのじゃないか?

・・・・・ まさか、あの「絆」って掛け声は本気じゃなかったとでも?
それとも「偽善でした」と開き直るのかな?

別に耳触りのいい言葉に流される人がいるのも、偽善者がいるのもそれはそれで否定しないし、構わない。でも、本気でこの国のことを考えるのなら、そんな楽チンなポジションで無責任な言葉を吐き捨てわかったような顔をする前に、この映画を観てみろっていうんだ。

いや、見てから言っているならもう諦めるしかないけれど。。。:-p

ちなみに、二枚目の画像は映画上映期間中に京都シネマに置かれたスワローカフェさんのブース。
三枚目は上映と同じ期間、中京の堺町画廊さんで開催されていた森住卓さんのやんばる写真展でいただいたポストカード。

京都での上映は残念ながら終了です。が、関西では、大阪の第七藝術劇場で9月27日(金)まで上映。10月には神戸アートビレッジセンターでのアンコール上映もあるようです。

ぜひ見てちゃぶだい!


標的の村@京都シネマの画像

標的の村@京都シネマの画像

標的の村@京都シネマの画像