ぱたの関心空間

関心空間と徒然なるままに。

荒木田岳氏講演会「ふつうに暮らしたい〜3.11は過去の話?いいえ、未来の私たち」

2016-12-04 17:12:01 | 日記
福島大学准教授の荒木田岳さんの講演会に行って来た。

これはその時の自分用メモ。
箇条書きやトピックスや感じたところを走り書きしたものを文字起こししただけなので他の人が見たら意味不明なところだらけかもしれませんが、ご容赦を。

結論から言えば、氏の講演内容は今まで見聞きした講演会の中でももっとも納得のいく、というか、そうそうですよね、と儂の心の底からモヤモヤを振り払ってくれるような、そんな講演会やった。
考え方の壁を突き抜けるために背中を押してもらったような、そんな気分。



<以下>

荒木田岳さん講演会。

福島は普通に暮らしている。
普通じゃないところで普通に生活している事の問題。
普通の生活をしたいと思って福島から出た人が普通の生活をできるのか?

「普通にくらしたい」というテーマではたと止まってしまった。

世界中で普通の生活はもうできない。あの事故で時代が変わってしまったという認識が持てるのか。

福島大学は今新しい学部を作ろうとしている。
「食農学類」
少なくとも福島は汚染があるので研究しましょう、という学部ではない。

学長室便りの言葉
「教職員一丸となって」と必ずある。多様性を重んじる大学で?

一番の問題
「汚染地で人々が暮らしている」
新潟の十日町でも福島と同じ汚染量。広範に汚染されているのだという事実。

単に福島から離れれば放射能の被害から逃れられるわけではない。
例えば、産地偽装の罰金は30万円。30万円払えば産地偽装できるわけで、儲かるためにしてる企業は多い。汚染された水も世界中を巡ってるし、世界中に放射能から逃げ出せる外部など存在しない。

浜通りでは進んで被曝を選んでいる。
6国清掃に子供達が駆り出されている!?
記事にでてくる主催者のリアクションからわかるのは。
・安全というのは国や県が決めるものらしい
・気持ちの問題か?

結局、5年たっても、自分でちゃんと足で調べないとちゃんとした事なんかわかりはしない。それが現実。

線量計と社会で流布してモニタリングポストの数字は全然違う。
福島人はモニタリングポストを除染ポストと呼ぶ。
2011年の4月に個人が線量計を手にした頃からわかり始めた事。
自分の足で調べる。

モニタリングポストの周りだけ除染している事を最初は否定していた行政も2014年頃からおおっぴらに掃除してポストをつくるのは当たり前、と言う。

「福島の事は福島人にしかわからんだろ?」「現地の人にしかわからないでしょ?」
福島が特別なのか?福島の語りの特権化
福島の人は一枚岩じゃなくちゃいけないプレッシャー。
福島の言論求められているのは、「復興に前向きで汚染に寛大、外部の人間は首をつっこむな」的な。

311ビッグバン説
いま、終わりの後を生きているという感覚。
ロスタイム。終わったのに残り時間を消費していつホイッスルが鳴っておかしくない状況。
ある時代は終わった。

風化しているわけではない。
最初から忘却する事が目的とされている。行政の対応を見ればわかる。

匿名の調査をすると今でも三分の一くらいは今からでも避難したいと思ってると答える。
現地の人たちの気持ちを考えて欲しい。

安全神話も想定外も未曾有の災害でもなかった。
原発事故は想定されていた。原子力災害対策特別措置法では、予防原則。こうなりそうだったら、そうなるものとして、対処するという形で書かれている。細かく規定されているにもかかわらず、守られていない。

避難を巡る人間模様。
避難したりしなかったり、色んな人がいる。危険度の認識はピンキリ。
が「オール福島で復興」というスローガンのように言論を抑圧する空気。
同じ空間を生きているのに同じ世界を生きていない。

声を出せない。
そのためじゃぁ京都から何ができるのか?

自分の足で調べて、自分の頭で判断して、自分の言葉で発する事でしか、世の中は変わらない。
当事者として発言すべし。同調圧力とか、客観的とか、科学的とかの物言いに負けちゃいけない。

善意の人の沈黙と無関心に訴えていく必要性。輪をおおきくすること。

不幸を分け合える社会。
現地の人たちの気持ちを想像するという事で自分のものにするという事が必要。

自分たちの誤りを自分たちで正していけるか?という瀬戸際。

自分ごとにする、か。


トークセッション

藤本真木子さん
子供たち言論も抑圧されている。言いたくても言えないこどもたち。