ぱたの関心空間

関心空間と徒然なるままに。

「独裁体制から民主主義へ - 権力に対抗するための教科書」(ジーンシャープ著)

2024-08-13 09:28:41 | 読後感想など
タイトルに怯む。

この本が現実的に独裁体制を崩壊させた実例やそれに抵抗する運動を研究した上で書かれた実践的な書という体裁だからだと思うのだ。そこには、儂の「いやいやいや、日本はボンクラでも一応民主主義やし、独裁体制はさすがに言いすぎやし」という甘っちょろい意識による抵抗感があると思うのだな。

1人ボケツッコミの感があるけれど、そう思い込みたい潜在的な希望的観測に対し、悲観的なもう一方の儂はそれに賛同してはくれない。定義的にまだ独裁ではないというのは認めるにしても、独裁体制を許しかねない萌芽はボコボコ産まれていると感じるし、ボンクラな日本の民主主義で大丈夫と言える呑気な人は流石に多くはいないだろう。まだ完全な独裁体制じゃない今だからこそ考えられる事もある。
そういう意味でこの本はとても意味のあるものなんじゃないのかな。

日本は独裁体制じゃないし関係ない、は残念乍ら通用しない。
と、ここでは言い切ってしまおう
「独裁体制によくあるのは、権威者や統治者に無条件に服従するよう、人々が長年調教されてきたこと」
あら、これ、日本の事じゃんね。

著者は
「原理は簡単だ」
と言う。
独裁者が独裁者たりうる為には統治する民衆の支えが必要なのだ、と。
つまり、独裁者に支配されたくなければ、民衆が独裁者を支える事をやめれば良い。

なーんだ、簡単な事じゃん。。。。

ん!?

愕然とするよね。
儂ら日本人にできるのか?そんな事が。

独裁体制に抵抗する手段について論じる中身からして簡単な内容ではないけれど、儂的に結論を簡単にいうと(こらこら)結局非暴力的闘争(政治的闘争)しか勝たん、という事かと。
もちろんそれだけで済む話じゃない。長期スパンでの周到な計画性と意識。
そして勝ち取った民主主義をさらに守るための布石。
儂らに本当に必要なのは忍耐力と知性か。

いや、それって政治体制に対して以外のことにも敷衍できる考え方なんじゃない?
問題解決のために行き当たりばったりじゃなかなかうまいかないよって話。
っつーか、もっと簡単に行っちゃえば目的意識を持って計画的に、だ。

あ、それって、夏休みの度に言われてきた事じゃんね。
ええ、もちろん儂は8月30日になってやっと慌てる人でしたけどね!

平和ボケしている儂らの中には「非暴力」って言っているのに「闘争」とついたら過激な印象を受ける人もけっこういるんじゃないかな。
でも、これをちゃんと言い換えると、(一応民主主義国家である日本では)日常的政治的に認められた民主的な権利があるんだからそれをもっと行使しようぜ、っていう話でもあると思うのだ。

世界の現実を見れば非暴力的闘争でさえ命懸けの国もある。
幸い日本ではまだ儂らのすぐ隣にある。
それを行使しない罪深さに気づくべきだと思う。



https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480094766/

「PTAでもPTAでなくてもいいんだけど、保護者と学校がこれから何をしたらいいか考えた」(大塚玲子著)

2024-08-04 13:08:17 | 読後感想など


タイトルからして儂の期待値、アガるアガる♪

儂自身、PTAの事を云々かんぬん色々言ってきて、さぞかしPTAに固執してるんじゃろね?みたいに思われているんだろうけれど、実際PTAなんてどうでもいい。
語弊があるかもしれんけれど、ほんまにPTAなんかどうでもいいと思っている。

その真意は、本当に子どもたちや、その教育環境、保護者の儂らにとってもいい形になるのなら、そこにPTAがいてもいいしいなくてもいい。まさに、本のタイトルの通りであって、それ以上でもそれ以下でもない。

今の儂は
学校・教育の現場が良いものになって欲しい、と思った時に巨大なPTAとかいうジャマっけなもんが目の前にあったから、だからせめてジャマしないものになってくださいよ、という感覚である。
その暁に、ジャマじゃないPTAが有用な形であれば乗っかるし、そうじゃなければ好きにすれば(もしくはやめたら?)という立場。

まぁ、本来のあるべきPTAの姿ってのは有用な形なのだと思うので、建前的にはPTAが適正化されることを望んでいるのだけれど、ぶっちゃけそれはハードルの高いことなんだろうな、というのが正直なところ。

で、この本。

めっちゃ付箋つけた!
儂的に今欲しいPTA改革のその先。
その先が垣間見えた感じ!

そうそう。
しつこいけれどさらに補足すると、
儂が欲しているのは、PTA改革のその先なのだ。うん。

儂の中でずーっと気になって考えていた、
PTAと民主主義とか、
学校と保護者の関係とか、
そもそも保護者の役割って何や?とか、
CSとか、
地域学校協働活動どう考えたらええ?とか、
諸々のモヤモヤに少しずつ説明をしてもらえた感じ。
その一々に納得しちゃう、みたいな。

誤解を恐れずに言えば、PTAに反対する人も擁護する人も「PTA」とか「学校」とかいう言葉のイメージにやっぱりまだまだとらわれてる感じがするのだ。その足枷、ホンマに邪魔やと思う。

そういう意味でもこのタイトルはわかりやすくて良い。本当の問題はPTAじゃないねん。
もちろん、現状、多くの学校ではPTAという困りモノが跋扈していて、苦しめられてる人も多いのでその障壁を取り除く事は急務なんだけど、儂ら保護者が考えたい事はその先にあるし、もっと根源的な所でもある。

以下、対談相手ごとに思った事いくつか。

大空小学校初代校長の木村泰子さん。

大空小学校の映画、「みんなの学校」は、直接ではないにしろ儂がPTA役員をやってみてもいいかなと思うきっかけになった映画でもある。
そこで描かれるのは、学校(子どもたち)のことを学校の先生だけでうまくやるなんて無理という開き直り、、、、というか考えてみれば当たり前の姿だった。話せば長くなるので詳しくは割愛。

大空小学校にはPTAがない。開校してしばらくしたらある保護者が来て、木村さんに「こういう事したいんやけどいいですか?」と聞く。木村さんは答える「なんでそんな事聞くの?保護者が子どものために何かしたい、っていうのに校長の許可なんて必要ない。自分たちの責任でしたらええ」
もう、これだけで、PTAの理念を丸々言い当てていると思うのだ。
単純明快。保護者(や関係者)が、学校の子どもたちのために何かしたいからと自発的に始める。それだけがPTAの唯一の根拠となる。
「PTAは必要か不要か」なんて議論がもうナンセンスなのだ。順番が違う。

大空小学校の話を聞いていて思うのは、すでに保護者、、、というか地域の人たちも含めた多くのサポーターの意識がもう変化しているんだろうな、ということ。地域の大人たちがサポーターとして地域の子どもたちを自分たちの責任でみる、という意識がちゃんと浸透しているということ。
でも、既存のPTAがないところから立ち上げたこともあって、これは自分たちでやるんや、という意識が生まれたんだろうな、とは思う。レディメイドなPTAという存在自体が足を引っ張っちゃうというのも容易に頷ける。

すごく、プリンシプルな話なのだ。
保護者も地域の人もここは自分たちの学校なのだ、という意識を持てるなら、あっという間に変革は生まれるのじゃなかろうか。「みんなの学校」というのは名前からして本質的なものなのだ。

次は校長の立場から住田昌治さん。

大事なのは主体性だという話だと思う。校長という立場で押し付ける事なく、保護者から出てくる自発性をサポートできる。そんな校長、儂はまだお目にかかったことがないが。。。(苦笑)

「真面目な話を気軽に話せる場所」
それそれそれそれ!
喉から手が出るほど欲しいわ!

次の校長は新保元康さん。

学校ガイド!
超絶わかりやすい!欲しい!
まぁ、PTAの事も同じで、まず何してて何ができて何しなくちゃいけないのか全くわからない得体の知れない存在のくせに強制してくるからみんな嫌なんよ。
わかりやすさ大事。

あと、関係性だよね。
なんでも言える関係性、話し合いができる関係性、風通しの良い関係性。
まぁ、すでに嫌われ者になってしまったPTAにそれをいきなり求めるのはちと難しい話なわけですが。

儂の考えと重なるのが学校が中心となってつなぎ役になるという話。

儂は学校が地域のハブになるのがいいと思っている。
でもそのためには全ての人の意識変革が必要なんだよなぁ。

次は地域学校協働活動の話。井出隆安さん。

ぶっちゃけ、儂も結構最近まで地域学校協働活動とコミュニティスクールを混同していた。というか、区別されないものだと思っていた。

井出さんの話でよくわかるのは(というか、元々わかりきっていた事なのだけれど)PTAにしろ学校にしろ自分たちで考えて決めたらエエ、って話。
井出さんの「私は別に歓迎されにきたわけじゃない」って言葉は笑えるけれど笑えない。儂も以前校長(喧嘩しなかった方(^○^))と入学式の来賓要らないですよね、などと言っていたけれど、結局実現しないんだ。ウチの教育委員長が井出さんだったら良かったのに(笑)。

PTAも学校も(本当はありもしない)空気を読んで既成事実化し、勝手に忖度し「実は誰も望んでいない」ものになっている。
言葉を選ばないで言っちゃうと、、、バカだよね。

続いて四柳千夏子さん。
CS(コミュニティースクール)について。
CSですよ、CS。
儂はね、結局PTAがしたいというよりはCSがしたいって事なんじゃね?
とまで思っちゃうわけですよ。

まぁ、PTA改革の話をする中でも(すぐにわかってくれる人はあまりいないので)前面に出すことはそんなにないのだけれど、適正化されたPTAの1番の存在意義は学校という教育現場に保護者という教育のもう一つの当事者が入ることだと考えている。
コレ、言葉を変えれば儂が求めていたのは保護者が学校運営に参加する、って事だったんだと気付かされる。

CSの役割の中でも1番画期的だと思うのは教職員の任用について意見が言えるところ。
これはすごいよ。
次の岸裕司さんが指摘しているけれど。

保護者は学校の先生について意見など言えない、そんなの畏れおおいと思い込んでる。PTAも何故だか言えないという事になっていると思い込んでいる。
担任ガチャだ校長ガチャだと言って諦めているけれど、CSという制度ではちゃんと意見が言えるのだ。
儂が会長を辞めたのは、校長&教頭の理不尽ないいがかりのせいだけれど(意見には個人差があります)、それ以前から、この人たちは教育者として信用に足らないとは思っていた(そう思っていたから喧嘩したんじゃねーの?、って思ったアナタ!思うだけにしておいてください、プリーズ)。いや、でも客観的に考えても、児童に対して平気で暴言を吐く教務主任を放置してるとか有り得ない対応してたし、普通に(そこにいない)保護者をディスるし、儂以外のの保護者でも「あの校長(教頭)きらいや」と言う人もいたし、実は以前いた学校で問題があったのだと教えてくれた教育関係者もいたし。そういう教員が自分の子どもの学校に来ること(いること)について、ちゃんと意見を言えないってのはなかなかに不健全なことなわけで、CSってのはそこに風穴を空ける制度なわけですよ。

ところが四柳さんも指摘するように、CSのメンバーってのはだいたいにして校長が任命するわけで、当然校長に食ってかかるような儂のような危険人物は任命されない(爆)。まぁ、最初から敵対するような人間は困るわけで、「校長の辛口の友人」ってな感じが妥当であるにせよ、そこはちゃんと意見の言える環境が必要だし、意見を言いたい人が意見を言える民主的な仕組みが絶対に必要なところだと思うわけですわ。
日本中で半分以上がCS導入済みなんていうけれど、どうせイエスマンばかりで固めて形骸化なんていうのがオチでしょう?わかるよ、日本だもの。
でも、それで終わらせるには勿体なさすぎる。一般公募にすべきだよね。
儂をCSに入れろー!(笑)

冗談はさておき(いや、本気だけど:-p)、PTAを考える時の儂のテーマ一つは民主主義だ。
岸さんが言う「学校教育制度が始まって以来132年目にして初めて、一般市民である保護者や地域住民が、法的に権限と責任を与えられた」。
うぉー、コレを画期的と言わずしてなんと言うべきか!

でも、大塚さんの懸念もわかる。
PTAだって元々は民主主義を日本に根付かせるのが目的だったのに実現しなかった。それをさておいてCSなら実現できるという根拠はどこにあるのか?

国が制度として用意したという意味でCSにアドバンテージはありそうだけれど、結局そこにたずさわる儂らの意識次第、というのが厳しい現実の結論なのかもしれない。

リヒテルズ直子さんのオランダの話もまたそこに通ずる。

オランダの法律で義務付けられている「学校経営参加協議会(保護者が半数、高校では生徒も参加)」には学校の情報公開の義務と「同意権」と「勧告権」があると。同意権って言ってるけれど、当然同意できないければ拒否する権利でもあるわけだし、職員の採用罷免について意見する勧告権が法的に守られていると。
あーん、日本のCSもがんばらねば。
(頑張ることなのか?)

そして大塚さん同様、儂も目からウロコだったのが
「保護者が保護するのは子どもたちの権利」
うぎゃー、パワーワード、キター!!!

これこれこれこれ!
いくつかのモヤモヤが晴れていく。
どうかすると儂ら保護者は自分の子どもを保護しているつもりなのだ。違う?
だから一方では子どもに過干渉になったりもするし、各家庭毎にクローズドな空気を作り出すし、何故かPTA会員の親と会員じゃない子どもを混同するし。
特に「子どもたちの権利」という言い方。つまり、自分の子どもだけじゃないってところがミソですよ。権利を守る、と考えた時に、自分の子どもだけの権利を守るという事のナンセンスさ。ウチの子は守るけれど他の子の権利は守らなくていい、なんて言えるだろうか?(いや、言えない←反語)
PTAを考える時にいつも何か足りないものを感じていたのだけれど、その一つは多分この感覚。

そして儂がいま1番授業を受けてみたい人、苫野一徳さん

苫野さんといえば哲学対話なのだけれど、やっぱりここでも対話をする事の重要性。
とにかく話す、で本質は何かって考えるって事になるのだと思う。
「民主主義の根幹は対話を通した合意形成」
いや、ごもっとも。
つーか、ひょっとすると「そんな事わかってらい!」って言いそうなんだけれど、儂らは本当にわかっているのか?わかっていたとしても、それが出来ているのか?って事だと思う。
わかった上で、本当にそれをするという覚悟だよね、必要なのは。大袈裟だけど、それぐらいの意気込みが必要なのが現実じゃない?

儂が強制PTAがアカンと思う理由の一つは、対話する事に遠慮が生まれるって事があるところだ。

役員になった。
なったは良いが、他の役員はくじ引きで、はたまた投票でイヤイヤなった人たちだったりすればもうそこに対話する事に遠慮が生まれる。いや、もっとわかりやすく言えば、対話するステージに乗る事を最初から拒否していたりする。
「みんなで考える」なんて事は端っから難しい。

会議の簡略化、総会の書面化。
コロナ禍があった事もあるし、無駄を省いた意義もあるけれど、同時に対話の機会はますます減った。それによって対話の重要性に気づく機会も減ったし対話の煩わしさを回避できた事をむしろ良しとする空気も感じる。
対話をしなければ「自分のたちの学校」には出来ないのに、どうも最初から「いっしょに自分たちの学校を作る」などという感覚にさえ想像が及ばないでいるような気がするのだ。

遠藤洋路さんは校則の見直しに保護者を巻き込んでいく話をしてくれている。

遠藤さんは熊本市の教育長。
つまり、教育委員会として「保護者も学校の一員」と言っているのだ。
悔しいけれどやっぱり上の組織の意識が違うと話は早い。

校則見直し、というのはだいぶ前から色々問題視されているけれど、いまだに旧態依然とした学校だって多い。もういい加減、学校側が勝手に押し付けるなどという人権侵害を脱しても良さそうなものを。
そんな中、熊本では「保護者も学校の一員だから一緒に考える」と至極当たり前な(でも、他所から見たらそうとう先に進んだ)意識でいるというのがなんとも羨ましい。
校則見直しの過程(問題提起の部分から含めて)が民主主義であり、政治であり、リーダーシップ、と。そういう事が授業の中ではなく、学校生活の中で学べるというのが、それこそ学校のレゾンデートルだと思うよね。

齋藤いづみさんと福嶋尚子さんの話に出てきたのは「場」だ。
「保護者同士のおしゃべりの場をもつ ー 本当はそれだけでもいい気がする」
そうそう。
別にPTAが色々やりたきゃやっても良いんだけど、何か一つだけってなったらもうそれだけでいい。気兼ねなく無目的にだらだら喋るだけの場で構わない。

えっ、そんなんでいいの?
と思うだろうけれど、そんな事でさえ出来ていないのが、今のPTAじゃないですか!

話すだけ。
それだけで助かる人は多いし、色々な可能性も広がる。
苫野さんのように「対話」などと言うとかしこまってしまうけれど、人と人が話すことの本質に対して違いはないと思う。

必要はそこから生まれる。最初から用意されてる必要なんてマヌケ以外のなにものでもない。

そして、最後に岡田憲治さん。

「元からある既存の組織に自分は包まれているという日本人の所属意識からはじまるからなんのための組織か考えるのが苦手」
あー、わかるー。
自発的にそれを考える事もなく、自明と一体化しその組織を問い直すどころか護る側に立つことを疑わないよね。

「民主主義や自治という言葉は神棚にある」
笑うわ。民主主義や自治を言った瞬間に心の扉が閉まる、とか(爆)。
政治的なものへの距離感よね。
本当は超絶身近なのに。
公民の授業みんな嫌いだもんね。
社会科教育の敗北か?

「PTAっていうのは、民主主義を考えるスイッチがいっぱい隠れている」
にも大きく頷く。
儂にとっても「民主主義」は大きなテーマで、たまたまPTAにクビ突っ込んだら、うわこれって民主主義の話じゃん!と気がついた感じだ。

「学校的なるもの」が自治の足を引っ張るものという指摘も重要。
「学校」というものを儂らは何故特別視してしまうのか?
いや、儂らが特別視してしまうのは、、、実は学校以外にもいくつもあると思うのだな。そこにあるのはなんだろう?共通するもの。

儂らの市民としての無責任さ、か?

最後にもう一つ、ここだけは引用しておきたいな。
後書きに書かれていた、大塚さんが不登校について聞いた時の木村泰子さんの言葉。
「学校が嫌がるから(親が学校に行くのを)やめるなんて、親の主体性として間違ってる。(略)こどもは主体的に『行かない選択』をしているのに、親が学校に気に入られたいために何も言わないなんて、親の方が失格や」
辛辣。
だけど、その通り。
PTAの問題に向き合わずにウダウダ唯々諾々と学校やPTAに従うような儂らは親として失格なのだ。
リヒテルズ直子さんが言っていたように「保護者が保護するのは子どもたちの権利」だと考えたら、「だって学校が、先生が、PTAが」なんていう言い訳する保護者は全員失格やと思う。

「子どもたちのため」という言葉はいつでも偽善じみていて、どうしても穿った目で見てしまうけれど、
「子どもたちの権利を守るため」と意識することができるのなら、まだ素直になれる気がする。

前に読んだ、猫紫紺 @nekoshikon さんの「いまどきPTA 嫌われ組織からの脱却」を読んで頷いた人には続けてぜひ読んでいただきたい。
根源的な部分での共通認識広めたい。
熊本市教委の遠藤さんが言うように殆どの人が無関心という逆境の中だけど少しでも関心を広めるためにも。

教育開発研究所 / PTAでもPTAでなくてもいいんだけど、保護者と学校がこれから何をしたらいいか考えた