ぱたの関心空間

関心空間と徒然なるままに。

THE GO AND MO’S「黒川の笑 その10」@伏見いきいき活動センター

2018-02-25 11:45:50 | 演劇レビュー
久しぶりのTHE GO AND MO’S。
黒川さんの(ほぼ)一人芝居(コント)。

相変わらずスゴい。
もう、このスゴさをうまく表現できる言葉が見つからなくて辛い。

敢えて言うなら徒手空拳の無謀さ。nakedの潔さ。見切り発車の冒険心。

それら全てをごちゃ混ぜにしたところに生身の黒川さんを放り込んでさらに昨日の残り物と明日の憂鬱を投げ込んでそのまま生煮えにしました的な。。。

すいません、途中から何を言ってるのかよくわからなくなりました。

当日のネタ(コント)は以下。

創作落語「二月」
コント「大道芸」
あの映像をもう一度「高橋」
コント「今コントやってるから!」
漫談「移植」
宿題コーナー

実はギリギリになって行けることになったので開演時間にちょっと遅刻。
既に最初のコント(と言うか一応落語)をやっているところ。

創作落語、と言いながらその落語が作れない苦悩を延々と垂れ流し、いくつもの現れては消えるお題たち。先の見えない辛さを客にも共有させるスタイル。結局落ちたのか落ちなかったのか、終わった後ももやもやした空気の残る客席。
南京玉すだれを忘れた南京玉すだれ氏の悲喜こもごもを見ると言うレアな経験。
おお、懐かしの「高橋」当に幻の「高橋」。これ前観た時も感動したけどなかなかに秀逸である。ありそうで絶対にない、でもいかにもな感じのウソんこの世界、意味ありげで実は関係ない映像、繰り返しで強調されるナンセンス。
コントの設定にメタコント。ゲストの徳永勝則さんの迫真の演技。超リアルに思えるなぜその話?
そして全世界の淑女を敵に回す事も辞さないお下劣漫談。最高である。

でもね、ごめんなさい、黒川さん。
一番笑ったのは一番最後の宿題コーナー。
まる子の最終回についての投稿でした。

でもね、儂は本気で思うよ。
THE GO AND MO’Sがメジャーになる世の中が来たらおしまいだと思うけれど、
THE GO AND MO’Sが評価される世の中じゃなかったらつまらない、と。

THE GO AND MO’Sを知っている人は、知らない人に絶対に羨しく思われる事のない優越感という幸福を手にできるよね。
(意見には個人差があります)

「ツレがウヨになりまして。」第18次笑の内閣@アートコミュニティースペースKAIKA

2014-03-02 00:31:44 | 演劇レビュー
既に二ヶ月前の観劇。もう、芝居の細かい所なんかちーっとも覚えていませんよー。

さて、
上皇、高間響が率いる「笑いの内閣」を初見。

「笑いの内閣」は以前から(名前が気になって)見に行きたかった劇団。
最近は社会問題にストレートに突っ込んだ芝居を続けざまに繰り出し、注目株でもある。

そして、今回の芝居は今話題(?)のネトウヨがテーマ。

所謂「ネット右翼、ネトウヨ」とか、中国韓国への嫌悪を露にする「ヘイトスピーチ」とか。そういうやつですね。

なによりも、そういった社会的に問題視されている(けれどもなかなか取り上げにくい)こういった題材を正面切ってエンターテーメント作品として取り上げているところに快哉デス。
タブー?ナニソレ?的なスタンスが心地よいワケです。

さて、フツーの感想を書くと、このちょっと危ない系の社会派テーマを笑い基調のエンターテイメントお芝居にんまいこと仕上げる技量に感服します。ネトウヨの性質をわかりやすく見せてくれたなぁ、と。のるてちゃん見た時はもっとイケイケな感じがしたけど、ちょっと余裕シャクシャクな感じになってきているのか?(違うか?)

とりあえず、覚えている所で圧巻だったのは上皇高間さんの説得シーン。なんともしみじみ。そして、輿那覇先生の「申し訳ない」っていう言葉に深く同意。
でも、この「申し訳ない」という感覚を持っている人ってどれくらいいるのだろうか?儂も右翼だが(^^)、所謂ネトウヨの人たちにそういう感覚があるようには思えない(いや、儂が思えないだけでちゃんと持っているのかもしれないが)

しかし、儂的に一番の笑いのピークはロリータ18号。ピンク地底人二号さんカワユス。あと、生で見る輿那覇潤先生に萌え。

次回はなんと「福島第一原発観光地化計画舞台化計画」!?人を食っているのかマジメなのか?いや、これも見たい。

「ツレがウヨになりまして。」第18次笑の内閣@アートコミュニティースペースKAIKAの画像

「ツレがウヨになりまして。」第18次笑の内閣@アートコミュニティースペースKAIKAの画像



THE GO AND MO'S第九回公演「西原の恋」@元・立誠小学校 音楽室

2013-07-28 15:08:18 | 演劇レビュー
さて、この感想をどうしたものか。。。

いや、書きゃぁいいのだが(誰も書くなとは言っていない)果たしてどう書いたらいいものかと。。。

#しかし、iPadで画像をあげるとなんで横向きになるのだろう。。。?今パソがネット繋がらないのでツライ。。。

THE GO AND MO'Sというのは黒川猛氏(ベトナムからの笑い声、という劇団の脚本家)による企画ユニットである。ということになっている。
ベト笑が終わってからすぐ企画が立ち上がっていたのだけど、なかなか見る機会がなくて、ようやく今回観にくることができた。

そんなわけで、儂の感想のベースにはベトナムからの笑い声という劇団の印象があるわけで、だからこそ冒頭のようにどんな感想を書いたらいいもんかと悩むという事になるわけで。と、言ってもこの両者の芝居を見ていない人には儂が何を困っているか、ナンノコッチャ、全くわからないであろうことも容易に想像できるわけで、そんなわけで、わけのわからないレポになることをお許しいただきたい。

そもそも、ベトナムからの笑い声自体がヒドイ劇団だった(褒めてます)。
笑いだけを追求するその手法は、よく言えば実験的、悪く言えば観客置き去り、しかし演者の言葉のセンスは冴え奇抜な演出のナンセンスにはいつもドキドキしたものだった。

今回が初見ステージなのではっきりはわからないが、THE GO AND MO'Sになって劇団ではなく黒川さんの一人ユニット的な感じになったみたい。いや、クレジットみたら以前からの制作の人たちが携わっているし、映像作品に出演しているのはかつての団員だし。
でも、出演者一人。フットワークは軽くなったのかもしれないが、公演頻度もあがり、実験的な要素が強くなったのと、演出よりも脚本(言葉)に頼るところが多くなったように感じられる。

特に創作落語の「サーカス」と「お誕生日会」はシチュエーションが秀逸で、なかなかよくできた感じ。オチはイマイチだったけれど、そこはあまり期待していないところだからよしとしよう。多少しつこくはあるわけだが、よくもまぁそれだけのネタを発することができるもんだと感心する。あんまりいい感じなのでコレを芝居で見たい!と思ってしまったが、(噺の内容的に)無理なのはわかっているので諦めよう。

ようわからんのは「活動弁士『齊藤月曜美』」
それはしゃべり方と目線でなんとかしようとしていないか?という感じ。
面白いものとしてみる心構えができてたら面白いのかもしれないが、その気持ちに乗り損なうとちょっと辛いかも。

言葉の遊びでは、オープニングには有名人の写真にふきだしをつけたものをスライド上映。危なげなネタを危なげない感じでやっていて、あそこだけは安心して観ていられた。

中入の「格闘」は特殊美術家宮崎宏康氏の独壇場。もう、それ自体が反則技的なんだけど、この動きとか技とか解釈とかはは宮崎君本人が考えてやっているんだろうか?解説の曖昧さ加減が秀逸すぎて堪らん。

大喜利は。。。。オマケ的な。

結論としては、ネタ&アイディア的に面白いものはあるけれど、こなれていないまま、生でダラダラと出しちゃっている感じ。芝居という形にする作業がないせいかなぁ。折角宝石の原石が出てきているのに、磨かずにホレ、って出しているイメージ。面白そうなアイディアがゴロゴロしているのに勿体無いな、というのは部外者の野暮な感想。

THE GO AND MO'S第九回公演「西原の恋」@元・立誠小学校 音楽室の画像

THE GO AND MO'S第九回公演「西原の恋」@元・立誠小学校 音楽室の画像



「『耳をすませば』~震災後に京都で何ができるかを考える」(福島県立相馬高校放送局演劇「今 伝えたいこと(仮)」)@呉竹文化センター

2012-08-19 10:39:54 | 演劇レビュー
福島県立相馬高校放送局の公演、「今 伝えたいこと(仮)」 を見てきた。

イベント自体は京都教育大学の学生プロジェクトが中心となっての企画。
相馬高校放送局の公演と、阪神淡路大震災で被災した経験をもつ神戸松蔭女子学院大学の勝村弘也教授の講演と、学生の調査報告会の三部構成の内容。

勝村教授と教育大の学生には大変申し訳ないが、やはりメインは相馬高校放送局の公演である。

この相馬高校の生徒さんによる演劇の話を聞いたのは結構前(春頃)だったと思う。
まさか、こんなに近い場所での上演の機会があるとは思わなかった、有り難く思いながら、歩いて10分ほどの呉文に出向く。

で、ざっとお芝居の内容。
#超簡単に書いてますが、念のため今後見る機会をお持ちの方、待っている方で気にする方は飛ばしてください。
#自分自身の備忘録的な意味合いでも書いているので、我儘、御了承願います<m(__)m>


高校の放課後の教室で帰宅部の3人が他愛もない話をしている、がそんな話にも震災による津波被害と原発の話が影を落とす。下校時刻が来て、各々下校するが、最後に残ったとりわけおどけていた生徒が、心の苦しみを吐露する。
日が改まり、先の生徒が自殺した後の放課後の教室。仲の良い3人であったが、実際には震災でどんな被害を受けたかどんな精神的なダメージを受けているかに触れることは、お互いに自ずと避けて付き合っていた事がわかる。明らかになる個々の事情と、ぶちまける現実への不安、そして大人に対しての不満。
最後に、自殺した生徒のモノローグ。


演技の上手下手、演出の巧拙は置いておきます。
#失礼な言い方をしちゃいますが、高校生のお芝居としてはこんなものかと

聞きたいのは、伝えたいのは高校生のリアルな気持ちとメッセージだ。
この芝居は、演技でやっているのではない、リアルな高校女子としてのストレートな思いの発露なのだ、と言ったら言い過ぎか?失礼か?語弊があるか?

芝居という形を借りて、自分たちの置かれている状況を伝えている、そういうものとして芝居を見る儂らも受け取ってかまわないのだと思う。

なによりも辛いのは、個々がお互いに、震災で自分がどんな被害をうけたのか、どんな状況にあるのかという事を話題として避けていた、という設定だ。設定というよりも、実際そう言う感じなのだろう、当日彼女らが販売していたミニコミ誌にもそれをうかがわせるような話が書いてあった。想像できる。
自殺した生徒は、原発の事故で帰還困難となった警戒区域で被災し、津波で家族を亡くした為、親戚の酪農家の家に世話になる事になったが、肩身の狭い思いをしている、しかし、日常的にはそれをおくびにも出さずにひょうきん(死語か?)に振舞っている、という設定。他の二人についても、どんな被災をしたか、どんな精神的ダメージを受けたかを互いに話すことはなかった。
日本人特有の自らの哀しみは秘める、という美徳、と言えなくもないが、そういう事を包み隠さずに出す、自分をさらけ出してしまう事で自分が傷つく事を恐れている、という事はあるのだと思う。

それに加えて、空気の問題。

まるでなんの問題もないかのように振舞われる日常の中で、自分の違和感を表明することは、上手い事問題なくやっている(ように見える)日常を破壊する事だ。それを許さない空気というのがあるのではないだろうか。ちょっと大袈裟に言っているように聞こえるかもしれないけれど、既にこの三人の他愛もない日常会話の中で「津波」という言葉が出てくること自体を嫌うシーンがある、そのこと自体がその例でもある。
儂らの日常だってそうだ。友人間で、ちょっと真面目な事を言おうとすると、敬遠される、そんな風潮と地続きだ。昨今の「絆」キャンペーンだって「風評」というレッテルを張って現実を見る事を止めてしまう流れだって、全て同じ事だ。
けっして、福島だけの問題じゃない、この「空気感という圧力」は日本人が抱えている、大問題である。

単に社会の閉塞感だけではない。
社会によって高校生(に限らず若い子たち)が自ら感情を押しこめてしまうことによる閉塞感の問題の大きさというのは、これはもう計り知れないものがある。
自殺なんていうのはその病理が社会に出現する端緒でしかないと思うのだ。人一倍敏感であったり、逃げ場がなかったり、他の人よりも少し厳しい状況の人が追い詰められてまず自殺という形で表れてくる。自殺に至らなくても多くの人にはこの閉塞感というストレスがのしかかるわけで、それが今後社会にどんな影響を及ぼすのか、想像することもできない。

そもそも、この若い世代にそんなストレスを強要してしまう社会というモノ自体が問題なのだが、、、
そこに来てこの原発事故だ。

芝居の中でも訴えているが、原発を選択したのは彼女たちではない。大人たちだ。
それなのに、何故に高校生である私たちが苦しまなくてはいけないのか?責められなくてはいけないのか?と。

儂ら大人が本気で応えなくてはいけないところはここなのだ。

原発の事故も、今の日本のエネルギー施策も。ひいては今の日本の社会システムをつくったのも、今後の日本社会の方向性を決めてしまったのも全て儂ら大人である。
それなのに彼女達は今、その原発やエネルギー施策で苦しめられている。そして、残念ながら、選挙権もない若い彼らは今まさに原発のツケを払わされるのだ。

子どもを守ろう、だとか、子どもたちが未来をつくる、だとか体のいい言葉を並べながら、儂ら大人は子どもたちの未来を搾取してなんら憚らないでいる。こんな偽善があるだろうか?
本気で子どもたちが生きる、これから先のこの国の事を考える気があるのなら、考えるべきは「今」のパラダイムで考える日本ではなく「未来」の日本のあるべき姿であると。いや、本気で考える気があるならそう言えると思うんだけどな。

ちょっと話がそれたかもしれない。

タイトルに戻れば、福島の人々が「今伝えたい」と考えている事に(いや、そもそも伝えたいと言える人は稀なんだよね、声を出せないでいる多くの人がいる事を忘れちゃいけないし、その声を出せない人達の想いに対しても想像力を働かせたりして)、儂らは「耳をすま」さなくてはいけない、という事になるだろうか。

話を聞くというのは単純で簡単な事、だけれど、はっきり言ってそんな簡単な事さえも出来ていないのだ、儂らは。

そこから考えなくては何も始まらない。
そこをなおざりにしては、何も意味をなさない。
そこを軽んじる、全ての復興策は全て虚しい。

原発を容認すべきだと主張する全ての人に訴えたいのは勿論だけど、原発に反対する多くの人も「フクシマ」を忘れてはいけない。
「いや、大丈夫、俺はわかってるって。」
そう言う人も多いだろうけど、たとえ理解していたつもりだったとしても相馬高校放送局に限らず福島の人の話を聞く機会があれば、必ず耳を傾けて欲しい。想像しているのと実際に見聞きするのでは、感じ取るものに雲泥の差がある。それにだいたいにして、100人いれば100の違う訴えがあるのだから、出来るだけ多くの人の話を聞かなければ意味がない。当たり前だけどさ。

あ、別にIWJさんの百人百話の宣伝をしようっていうんじゃないですよ、念の為(なら、なんでリンク貼る?)^^;
#でも福島の人の話を聞くという意味ではそのものズバリですので、多くの人にみききしてほしいです

好むと好まざるとにかかわらず、ヒロシマ・ナガサキに続いて今、「フクシマ」も特別な言葉になってしまった。
その意味を考えてみませんか?

「『耳をすませば』~震災後に京都で何ができるかを考える」(福島県立相馬高校放送局演劇「今 伝えたいこと(仮)」)@呉竹文化センターの画像

「『耳をすませば』~震災後に京都で何ができるかを考える」(福島県立相馬高校放送局演劇「今 伝えたいこと(仮)」)@呉竹文化センターの画像



ベトナムからの笑い声「パックマンズショー」@スペース・イサン

2011-06-19 15:41:26 | 演劇レビュー
な、な、な、なんと今回のベトナムは長編!オムニバスじゃない!
#いや、一般的な劇団はそれがフツーな気がするんだけどね。。。

いやー、いつ振りだろう、長編。劇団としては2年ぶりみたいだけど、儂が最後に見たのは「サウナスターズ」だっけか?エライ前のやつ。

今回のお話は学生時代の人形劇サークル仲間が、12年ぶりに集まり、ひょんなことから演劇祭に出る事になる。その悲喜こもごも。

先に言っちゃうと、この劇団の芝居については演技どうこうについての感想は書かない。ん、書けないか?
いやいや、もう、演技どうこういえるレベルじゃないのだ。 えと、上手いとかいうんじゃなくってね。うーん、何?もうキャラクターが立ち過ぎて演技どうこういう事自体がナンセンスなレベルなのではないかと。

4部構成。
各部は、主人公(?)荒木さん扮する「神田」のテンポのいいモノローグ(説明)で始まり、12年前の公演の様子がスクリーンに投影され、そして12年ぶりに集まったメンバーの演技が始まる。そのパターンの繰り返し。

半分はスクリーンだったから、今回役者さん演技する時間は少なくて楽だった?
いや、その代わりに濃かったよなぁ、むしろ大変だったのかも。むむむ。
徳永さん、山方さんが12年前の人形劇出演のみなのがちょっと残念。

そういえばベトナム、以前、人形劇やってなかったっけか?
あの時はソビエトだかパラグアイだかからの笑い声、とかいって<名前全然覚えていない。

さてさて。
大事なのはなんだろう。
思いつくままに挙げると、一つ、神田のモノローグ。
二つ、思わせぶりだけど、さして重要な使われ方をしない仕掛け。
三つ、相変わらずむりくりに突飛な展開。
四つ、シェイクスピアというモチーフ。

ベトナムの一番好きな部分でもあるのだけど、言葉遊びだよなー。ホントにいつもいつも良くできている。
重ねる言葉の芸術的センスが何とも言えん。小気味いい神田のテンションで突っ走りながらも落としながらクスクス笑わせるその言葉尻ったら! まぁ、それ芝居本編にも散見されるけど。
ここらへんは素直にセンスが良い、と思うのだ。そして、出演者のキャラにマッチして非常に効果的なのだ。

今回の一番の仕掛けは部室(?)の中では常に人形を手にはめていなくてはいけない、という設定。
それを逆手にとって人形を嵌めないで喋ってしまうという状況の中で、ベトナムが良く使う笑えない身上の吐露とか。うぬぬぬぬ。もっとこねくり回したネタで使われる設定かとちょっと期待してしまった(汗)
あ、後その場にいない人物が人形を通じて勝手にしゃべりだすという場面も。心霊現象? 人形が勝手にしゃべるという事を隠れ蓑にしての発言とも見えるけど、あえて触れない。みんな一度引っ掛かって「ん!?」って事になるけれども、必要以上にこだわらずにスルー。人形を使うという事でフィルターを通して語られる真実、ツッコミ、問題発言。いや、それは案外良い塩梅のアクセントなのかもだな。

むりくり設定については。。。。ノーコメント
#意味深に聞こえるかもしれないけど、コメントのしようがないだけ

そして、儂的に残念なのは儂にシェークスピアの知識が皆無という事。
各部はシェークスピアの四大悲劇になぞらえて展開していくの。ちょー簡単な(ほんでちょー分かりやすい)両生類さんによる解説はあるが、それだけじゃ足りない何かがありそうな気がしたのだ。もっとシェークスピアの話をモチーフにした何かとかありそうな気配。ぬぬぬぬ。
#でも実は特に何にもないのかもしれない。。。。:-P

最後の4部。スクリーンの後はそれまでとうって変わって役者が人形をはめ、着座したままで無表情なまま会話を続けて物語をなぞる。そして最後の最後には歌で〆。あぁ、この演出は悪くないね。

#かつてベトナムが長編をやっていた時、儂は芝居の最後の収まりが悪いと文句をぶーたれるのが常でやんした

ゆっくり反芻してみると、脚本が(ある意味)洗練されているなぁ、としみじみ思うわけですよ。
ベタで下品だけど、言葉の使い方が巧みでそれを活かす事もできるセンスの良さ。

万人受けしそうにないところだけが残念です。(をい)

ベトナムからの笑い声「パックマンズショー」@スペース・イサンの画像

ベトナムからの笑い声「パックマンズショー」@スペース・イサンの画像