ぱたの関心空間

関心空間と徒然なるままに。

ヴァイオレット・エヴァーガーデン @ T・ジョイ京都

2020-10-16 03:21:19 | 映画感想
本当に大事なことは、ちゃんと伝わらなくちゃ意味ない。

京都アニメーションの新作「ヴァイオレットエヴァーガーデン」である。



あらためて。。。

本当に大事なことは、ちゃんと伝わらなくちゃ意味ない。

別に手段は手紙でも電話でも、もちろん直接だって構わない。

だまっていても伝わるなんて、そんな希望的観測で結局伝わっていなかったら死んだって死にきれない。

と、まぁそういう事なのだと思う。
そこは明快なんだけれど、映画自体はちょっと特異な設定と映像の美しさで魅せていて、京都アニメーションの新作という話題性と相まってミッドナイト上映だというのに儂の他にもお客さんおります(いや、普通はそうだろうよ)。

っていうか、今日って実は鬼滅の刃の公開日だったのねー。
前回来た時も人多いな、と思ったけれど比じゃなかったよ。
12時前にT・ジョイが入っている京都イオンの5階駐車場がほぼ満車。ミッドナイト来てこんなに人がいるの初めてですよ。(って、前回のブログにも書いた気がする。。。)
#その時間はちょっと早めのレイトショー見ている人たちの車のまだ残っているからねー

鬼滅の刃ってそんなに人気あるんや。。。(←多分時代に取り残されているオジサン)

さて、再度
京都アニメーションの新作「ヴァイオレットエヴァーガーデン」である。

映像の美しさは申し分ない。
というか、その点についてはしろ〜との儂はひたすら「ほへ〜」と思うだけなので置いといて。
面白いと思うのはその設定。

舞台設定がそもそも架空の(でもおそらく西洋的な)場所。時代背景的には電話が普及する以前、という事で1900年前後か。
服とか街の造形とかのヨーロピアンなんだけれど伝統的なものを印象付けながら現代的な感じとか。(あーいうのなんていうんだろう、ムジカピッコリーノとか思い出す)
先の戦争では兵士(戦いの道具)として多くの敵兵を殺し、感情を持つことがかなわなかった主人公とか。
ドールという仕事そのものとか。
%えと、基本的な事だと思うのだけれど、この「ドール」っていう仕事自体架空のものですよね?まぁ、代筆業はあったにしろ

正直に言いましょう。
あたしゃね、映画見るまで。いや、見始めてもしばらくは主人公のヴァイオレットちゃんはロボット(サイボーグ?)なのだと思っていましたよ。
かすかにポスターかなんかでみた義手の印象と、戦争には「武器」として参加していたとか感情がないとかいう記述、「ドール」=「自動手記人形」という表現。生身の人間性を否定する幾つかの言葉でね。
あぁ、予備知識なしというのはやっぱり良し悪しよね。

まぁ、だからこそ人の気持ちを察する事には長けているのに、自分の感情の有り様や人間らしい反応に対して頓着できないでいる様子、そして少佐へのとてつもない感情の表現が逆にリアルに感じる事もできた、とも言えるのかもしれない。

でもやっぱり観ていてちょっと物足りなかったのは、彼女がこんな風に感情を露わにできるようになるまでの、依頼者のうまく表現できないでいる気持ちを汲み取り手紙に表現できる堪能な売れっ子のドールとなるまでの過程が描かれていないことだ。

でも、違ったのよね。

はいはいはいはい。
映画の後にテレビ版のHPチェックしました。(<普通は順序、逆じゃね?)
あぁ、そうか。その部分はちゃんとテレビ版で描かれていたのか。それを踏まえた上での完結版としての映画だったのね。こらまた失礼いたしました(クレイジー風)。

それならばわかる。
彼女がここまで感情を取り戻せるまでに重ねたストーリーまで二時間ばかりの映画の中にがんばって取り入れたところで十二分に語り尽くすことなどできまい。テレビ版を見ていない人間がそれを不満に思うのは致し方がないが、それでも十分についていけるだけの材料は散りばめられていたと思う。あとは見る人間の想像力だな。
%っつーか、そもそもテレビ版も見てください、って話だな

で、テーマについて(やっとか)。

と書いてみたものの、よくよく考えれば至極当たり前なこのテーマについてくどくど意見するのも、まんま野暮というものか。

「そんな事はわかっている」
わかっているけれど、何かどこかで臆病な儂らは、ついついその努力を怠ってしまいがちだ。
とかく儂等は、自分の能力のせいにして時には運のなさのタイミングのせいにして諦めを正当化してみたりする。
別にかまわない。それでも自分が納得できるのなら構いはしない。

問題は。。。

それで本当に納得できるのか?という事。

刹那に生きる儂らは、とかく今の事だけを考えて結論を出しがちだ。それを意識しなければ。
ならば意識すればどうか?この限りある命というやつを。

離れてしまった今だからこそ伝えたい想い
伝えられなかったことを悔やむ想い
生きているうちはうまく伝えられないでいる想い

伝わらない想いを抱えたままで儂らは穏やかでいられるだろうか?

例えば、戦場で死にゆく戦士たちの中に、全ての想いを伝え残す事なく逝ける者ははたしてどれだけいるのか。

ごめん。とんでもない愚問でした。

死の前に抱えた想いを伝えられるという事の心の安堵の絶大な幸福感を儂らは想う。

「アホやなぁ、そんな事にならんように普段からちゃんと想いは伝えておけば良いんだ」
全くその通り。でも、それができないアホな生き物が人間ってヤツなんだろう?
そのどうしようもなくだらしない人間ってヤツの為に「ドール(自動手記人形)」がいてくれるのだ。

100年後の「ドール」を失った現代に生きる儂らは、果たしてそんな後悔を抱える事なく死ねる程賢くなりましたか?



映画ドラえもん のび太の新恐竜 @ イオンシネマ久御山

2020-10-07 23:00:10 | 映画感想
ドラえもん映画で恐竜といえば。。。ピー助である。

そうですか。
そうきましたか。
ふむ。

「所詮子供向けアニメだろ?多少矛盾があったって仕方ないだろ」

うむ。
大人というのはそう言って飲み込むことの出来る人達なのだろう。

ええねん。儂、コドモやし精神年齢一桁やし。
ほっとけ!


んー、映画の感想書こうっと。



いや、とは言いながら、やっぱり「のび太の恐竜」の事は頭にあるわけですよ、こちとらね。
そうすると、冒頭部分の展開のいくつかはやっぱり「のび太の恐竜」の事を思い起こさずにはいられない。
っつーか、のび太だってピー助の事思い出すだろ?「生きたままの恐竜を発見してやる」「じゃぁできなかったら目でピーナッツ食べてみせる」ってそれ、ピー助の時もゆーてたやん!忘れたんか?のび太!?と。

ぬぬぬぬ、この「のび太の新恐竜」ののび太は「のび太の恐竜」の後日ののび太とは別人なのか?(←『の』多いな)
成る程、旧作の設定の新解釈か?
なら、なぜドラえもんの温かい目とかぐぅとかはなぜ削ったのだ?(そこ?)

ならば仕方ない。
別ののび太ストーリーとしてみるだけの事である。ふむ。

と、

思って、

いたのにさ。

がーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!

ピー助ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!

さて、気を取り直して感想である。

平日昼間のドラえもん。(&コロナ禍下)

じゃーん!貸切であります♪


でも、ちゃんとチケット取った席に座る真面目さ。
あぁ、褒めて褒めて褒めて〜(いや、当たり前だから。。。)。

ストレートに、今回のメッセージはなんでしょう。

儂が一番感じたのは
「がんばればできる」
でした。

超短絡的に言っちゃうよ。
そのメッセージはわかりやすいが画一的で、道徳的ではあるけれど教科書的で、普遍的に見えるかもしれんが多様である事を良しとするイマドキの価値観からすれば時代遅れな感じではないか。

そうそうそう。
儂は逆上がりができなかったのだ。

「がんばればできる」
そう言われていた。
だからがんばった。

でもできなかった。

儂は走るのが遅かった。

「がんばれば早くなるよ」
そう言われていた。
だからがんばった。

でも小学校から高校まで、すべてのマラソン大会で学年ビリという輝かしい記録を打ち立てた。

「がんばればできる」
この言葉の残酷さに、ここ数年でようやく世間は気付いたと思っていたのにな。
この時代にまだ「ドラえもん」という子ども向けの映画を使ってその呪いの言葉で洗脳するのか?と。

がんばってできた人は救われる。
がんばって飛べたキューは生き延びる事ができた。

しかし、
がんばってもできない人はいるのだ。

がんばってできなかった人は救われない。
その烙印のコンプレックスをかかえて生きていかなくてはいけない。
がんばっても飛べなかったらキューはどうなる?
弱肉強食の世界では当然生きていけない。のび太も救えない。

勿論、それでは話は成立しない。

問題にしたいのは2点。

1つはやはり個々の多様性であるとか、全ての人に生きる価値というのは儂ら人間の文明の話であって、それを恐竜に敷衍するのにはやはり無理があるということ。
そこは弱肉強食の世界であり、生存競争に敗れたものには非情な末路があるという現実に目を背けるなら、それはファンタジーでしかないと。
飛んだキューを見てTPのジルが云っていたのは、その時は「ん?」ってなったけど、多分キューは他の個体に対して劣っていたというよりは進化の過程にある個体だった、みたいなことだったのかな?と解釈。ひょっとするとそれで製作側はエクスキューズしているつもりかもしれないけれど、仮にそうだったとしてもじゃぁ本当に能力的に劣った個体だったとしたら救われないであろう現実については都合よくスルーしたことになる。

2つ目にはそもそも「のび太」という存在は「がんばってもできない」から準主役としての意味があるのに。。。ということ。
のび太はがんばる子だ。でもがんばってもできない子だ。それでもがんばる子だ。だからのび太が何か成し遂げる時にはのび太に甘いドラえもんの力を借りたり、がんばりを見かねて友達(ジャイアン、スネ夫、しずかちゃん)が助けてくれることで達成したり、意図せずに搦め手で偶然成功したり。まぁ、たまーには正攻法で頑張ってできることもあったり。
一方で他の子にはできない特技(あやとりとか、射撃とか、瞬時に寝る能力とか)を持っている子でもある。
ドラえもんのお話というのは基本的に「がんばってもできない」のび太が「(世間一般的な価値尺度では)できない」まんまで、それでも時に(正義感とか諦めない態度とか友情とか真面目さとかいった)道徳的な性格と(ある意味)強運とあまり役に立たない(偶にたつ)個性的な特技で、失敗したり成功したりする様子に一喜一憂するお話なのだ。
つまり、のび太それ自身が多様性を認めたり弱者を包摂する社会の体現者であり、そののび太がちゃんと受け入れられている(全体的に馬鹿にされているシーンが多い事は否めないけれど)というドラえもんというコミックのメッセージ性はある程度評価されてもいいものだと思う(さすがにちょっと大袈裟ですね、えへ♪)。
そののび太が「がんばればできる」教の教祖になってはいけない。
ましてや「みんなできるんだから」がんばればできる、と「みんな一緒があたりまえ」教義を上乗せしてはいけない。

儂はドラえもん映画には金子みすずばりに、みんなちがってみんないい、というメッセージを送り続けていただきたいのだ。

きっと制作側に悪意はない。
だから逆に悪質なのだ。
良かれと思うメッセージ性は強ければ強いほどそれにコミットメントできない誰かを排除してしまう事がある。

もう1つ、よくわからなかったところ。
最後の最後でのび太とキューを自由にする事で、恐竜たちをノビサウルスランドに集め、結果としてたくさんの恐竜をディープインパクトから救うわけだけど、そんな風に一部の恐竜は生き残ったというような説があるのだろうか?隕石の衝突で恐竜は絶滅した、と儂は普通にそう思っていた。
もしも、この設定が単にキューとミュー、そして関わりになった恐竜たちが絶滅するのを指をくわえて見ているなんて感情的にとても許せない、だから実は(知られてはいないけれど)一部の恐竜はノビサウルスランドによって生き延びたのが史実だったんですよー、って現在の学説で認められていないような事にしたとしたのならあまりにご都合主義的ではないか。
もっとも、6600万年前のことの真実なんて検証しようがないし、そもそも隕石が絶滅の理由だった、というのも説の1つに過ぎないとも言える。だからなんとでも言えるといえば言える。だいたいにして、ドラえもん自体がフィクションなんだから設定ではなんでもありだと言ってしまえばまぁ元も子もない。第一、ドラえもん自体が歴史を改変するために未来からやってきているわけだし(あぁ、身も蓋もない)。

(追記:おっと、こんな記事もあるのか、鳥に進化するキュー&ミューたちが生き延びるというのはここに繋がってる?)

TPが言うまでもなく、歴史の改変は大変な犯罪である。未来を完全に変えてしまう可能性があるからだ。
当然、過去の世界で自然の摂理に逆らうことも大罪である。恐竜は絶滅する運命だし、適応できない個体は淘汰されるだけだ。その残酷さを子供向けだからと避けるくらいなら、最初からテーマとして扱うべきではないし違うやり方を考えてもいいのではないかと思う。

え、そんなこと言いながら今回も泣いたんだろ、って?

な、泣くわけないじゃん!(ふふふ、目撃者は誰1人いないぜ)

あと特筆すべきは、恐竜映像のリアルさかな。
最近恐竜に興味があるうちの6歳男子に見せようかな、と思ったけれど。
逆に怖がって泣いちゃうかも。。。

まぁ、
なんにしろ、
ドラえもん、蝗、備蓄しすぎっス。



そういえば今回の全員プレゼントはおもちゃではなくて小冊子。
こういうのもいいよねー。