ぱたの関心空間

関心空間と徒然なるままに。

コペンハーゲンに山を @ エージェンシーアシスト(SOCIAL GIFT THEATER)

2023-10-18 15:26:22 | 映画感想
新しく作り直すゴミ焼却場の建築デザインコンペで選ばれたのは、、、
建物を山に見立たスキー場併設案!!!

もうそれだけでワクワクするわ。



多分、儂がスキー好き(というか、唯一人並みにできるスポーツ)だから、というのもあるのだろうけれど、加えて複合施設というのが基本的に好きってのはまぁあるかもね。駅ビルとかの複合的な感じが好きなのに近い感じがした。

まぁ、でもそんな儂の個人的な好みとはちょっと違う話なのね。
もっとコンセプチュアルなものなのだというのがわかる。
平坦なコペンハーゲンの街に山がある事の意味、嫌われ施設であるゴミ焼却場を人々が集える場所にする意味、建物にガラスを多用して中が見える工夫をする意味。
儂みたいな凡人は下手をすれば面白いか面白くないかだけで判断しがちだったり、機能的にどうだとか一つの判断基準だけで考えたりしがちだけど、複合的に考えてより良い形にするという感じがそこにはある。
なんかね、そういうの賢そうでいいな、憧れちゃう(無いものねだり)

ただ、映画は51分とコンパクト。
その中で、コンペから作られ完成するまでの過程を追うのだけれど、比較的早足で話は進んでいくのだ。コンセプトやら議論になったことやら実現の難しい部分やら、一応さらりと話は出てくるし、その一つ一つは熱いトピックスなのだけれど、いやもっと色々あったんでしょう?侃侃諤諤の議論とか、紆余曲折の変更とか、技術開発のプロジェクトX的な物語とか。そういうの出さないの?
後で誰かが指摘していたけれど、BGMとかも抑えたトーンのオーケストラ曲。周囲の雑多なものを廃して、ひたすら出来上がるスキー場、、、じゃなかった、ゴミ処理場を中心に据えた感じで映像的にも構成的にもスタイリッシュにまとめた感じなのかしらん。

その中でこれも何度かサクッと触れただけだったんだけれど、このゴミ焼却施設、エコなのよ!
あ、なんだ?その全部ひっくるめて中身の全然見えない言い方は!>儂。
ん、まー、映画の中では特に説明的なものが無かったからねぇ。。。

ちょっと補足すれば
「ゴミで再生可能エネルギーを作る最新鋭のゴミ焼却発電所で、年間3万世帯分の電力と7万2000世帯分の暖房用温水を供給する」(映画のHPより)
あと、煙突から出る煤煙(?)は99.9%も有害物質を除去したものらしい。
ふぁ〜、今のゴミ焼却場事情ってそうなの?と驚くのだけれど、日本はどうなのよ?
これってコジェネレーションってやつだと思うのだけれど、日本ってそれ進んでいるんだっけ?
ゴミを燃やしてのコジェネレーションとか、全然まだ一般的じゃないよね?考えるべきはそこなんじゃないの?

ゴミの処理とそのエネルギーの効果的な活用。
そもそもここへの関心が日本では全然だと思うのだ。これだけエコエコ言われているのにみんな考えるのはエゴばかり。
専門家に言わせれば色々と問題はあるのかもしれないが、日本でもゴミ焼却でコジェネしている例はあったはずだし、この映画のように大きな規模で進めている国だってある。どう考えてもいい事づくめのように思えるのに日本で取り組みが進まない理由の一つは無関心かもしれない、とは思うのだ。

日本で焼却場と言えば、どうしても迷惑施設であり、(自治体によるだろうけれど)山の中とかできるだけ住宅地から離れたところにあるイメージ。一方でコペンヒル(この焼却場)はコペンハーゲンの港のそばにある。流石に住宅地のど真ん中、というわけでは無いみたいだけれど街にほど近い場所ではあるように見えた。コペンヒルの場合、そこがスキー以外にもハイキングができたりクライミングができたり。カフェがあって虫や鳥もいて、逆に多くの市民が集まる場所を目指しているわけで、まるで正反対の場所だ。
なるほど、遠ざければ関心は低くなるに違いない。街中にあって人々が集まる場所となれば、関心は向かざるを得ない。そうやって関心を高めて自分ごとにしていくことがまた社会の施策を進めていくことにもなる、って事もまた今の日本に必要なことなのだと思う。
(そういえば、灰谷健次郎の「兎の眼」にはゴミ焼却場そばに住んでいる子が出てきたな。あ、脱線しました🙇)

あと、映画の後の意見交換で出てたのがコスト問題。
いいプランでもコストの壁が立ち塞がる問題(笑)。

なんだか知らないけれど日本でも公共事業の多くは当初予算からバカスカ上振れしていく。
今なら大阪万博がホットで連日コストアップの話が流れてくるし、東京オリンピックもそうだった。予算より安くできました、なんて公共事業を聞いた記憶がない。
でも、日本とは全然違うのだ。何が違う?
おそらく。。。
そこについてきちんとした議論があるかどうか?
先に書いた通り、時間的にコンパクトな映画なので少しのシーンから推測するのだけれど、コストを犠牲にして機能とは別にそこに込められたメッセージや意匠への思い入れを優先するのか、大切だと提示したコンセプトを犠牲にしてあくまで予算内で収めることを優先するのか?繰り返しの議論があったことが見てとれる。
果たして日本は?
後から「色々あって予算膨らみました、って言ってましたがさらに上振れしました、って言ってる間にそれでも不足なんでまた予算積み足します」「今まで一番経済的な、って言ってましたが結果として一番金の掛かる大会になっちゃいました、てへぺろ」ってなるの。
中ではあるのかもしれないけれど、その過程で上記のような議論があった気配は感じられない。少なくとも儂等庶民の了解なんて取らずにいつだって事後報告みたいな感じだし、そもそもなんの説明もない。おそらく予算が上振れすることについて、庶民に了解を得るために説得しなくちゃいけないとも思っていないのだろう。

議論と納得。
無いよね、日本。
本当に必要だと納得できれば、多くの人はコストアップも仕方ないと思うだろうし、納得できなければ予算内でやれと言う話になる。
そんな当たり前がある国とない日本。

ゴミ処理工場を山に。スキーとハイキングとクライミングができる憩いの場所に。
そんな突飛なアイディアは議論と納得なしに前に進むこともないのじゃない?
日本が30年停滞している理由の一つかもしれない、と思う。

福田村事件 @ 京都シネマ

2023-10-18 09:44:45 | 映画感想
辛い。
なかなか、容赦がない。
遠慮なく突きつけてくる。
森達也さん、詰め込んだな。



福田村での虐殺事件を追う過程で、必要なメッセージを丁寧に盛り込んでるなと。忘れちゃいけない事や大事な事を。
ハンパなく中身の濃いこと。

この事件の肝は、関東大震災という地震の後で何の咎もない朝鮮出身の人たちの多くが流言飛語により虐殺された事であり、併せて朝鮮人と疑われた中国人や日本人も何人も犠牲になっているということだ。
そして、福田村で殺されたのは実際日本人だった、というのが物語のアウトラインであり、それ自体が儂らが陥りやすい落とし穴でもある。
「日本人だったのに朝鮮人と間違われて殺されてしまった←可哀想に」ってやつだ。
そのロジックで言えば、朝鮮人なら殺されて仕方ない、という事になる。
行商の一行の親方が言う。朝鮮人だったら殺しても良いのか?と。

朝鮮飴を買う場面での伏線から、彼がそう問う必然性にはっとする儂らだけれど、それが無かったら、現代に生きる儂らだってその過ちに気づかないかもしれない、その怖さ。「鮮人の作るもんやし何が入っているかわからない」「穢多の売る薬なんて何が入っているかわからない」そう言った時にどちらが上も下もない事に気付かされる。じゃぁ?朝鮮人でも穢多でもない儂はどうなのだ?当然等価である。いやいや、論を俟たないよね。
(いや、それ以前に自分が朝鮮人でも穢多でもないと何故言い切れるのだ?>儂。その思い込みだって相当ヤバい)

意図されているかどうかは知らんけれど、この映画の中で一番醜悪に見えるのはむしろ日本人だ。
いやー、待て待て。
そうやって「◯◯人は」みたいに一括りにして言ってしまう作法自体が偏見や差別を生み出すんだったな。いかんいかん。
しかし、あえて言おう。これは儂ら日本人自身にに突きつけられた問題である。

映画は震災やまして事件からは始まらない。事件に至るまでの舞台装置が整う日々を描き出す。小さな村内でのちょっとした事件や行事ごとや人間関係の色々や。そこにあるのは言ってみれば日常だ。その日常の延長線上に狂気はやってくる。地震というのはただの引き金なのかもしれない。

「これは単なる過去の事件では終われない、今を生きる私たちの物語。」
(HPの序説より)
そう。きっとそう。
100年前の儂ら日本人と、今の儂らと何が違うというのか?
未だに災害の度に流言飛語が飛び交う。SNSに踊らされる現代の儂らは尚更だ。

ショックだったのは、理不尽に人が殺される場面にで茫然とする登場人物。
え、何で見てるだけなん?目の前で虐殺されているんやで!と、その違和感。
でも冷静にイメージしてみる。儂がその登場人物で、同じシチュエーションで。。。多分同じだ。何もできない。ただ茫然と見ているだけか、その場から逃げ出すか。儂も元教師と同じで黙って見てるだけしかできない人間なんじゃないか?その恐怖感。

井浦新扮する元教師が、朝鮮にいた時に虐殺現場に誘導してしまったというハングルに訳がつかなったけれど、あそこで何を言っていたのだろう?というのはちょっと気になった。
でも、考えてみればちゃんとした訳を聞いたところで、その事実に違いないもの。わからないからといって何も変わりはしないな。
勘繰るのは恥ずかしい興味本位か。

誰が正しいとか正しくないとか、そういう事はあまり考えたって仕方がない。
品行方正で後ろめたさの一つも無いような人間なんて果たしてどれだけいるのか?被害者である行商人だって売る為に多少の演出をする。英雄譚の老人は実はただの軍の雑役だったりする。デモクラシーを語る村長も(それはそれで仕方ないとはいえ)事件の隠蔽を願うし。威張っている在郷軍人はどうにも薄っぺらい。夫を戦争で亡くした未亡人は船頭と関係を持っている。

ああ、そうだ。これはどうなのかな?この映画、密かに愛(憎)のひきこもごもが結構大事な役割を果たしている感じがした。
コムアイもそうだけれど、やっぱり船頭と関係を持ってしまう田中麗奈だって、満たされない愛欲とか、一方のそれに応えられない鬱屈した井浦新の抱え込んだ気持ちとか。父親と密通していたのではと疑うダメ亭主もそうだ。東京で働いている亭主を心配する女性もそう。ほとんどはストーリーとは直接関係してこないようにも思えるけれど、それがこの話をぐっと卑近なものにしているのかもしれない。

千葉日日新聞の女性記者は差別意識を助長するような記事に反対し、真実を報道するよう編集長に訴える。
果たして当時のマスコミでそんな風に現代的にも真っ当な感覚でいた記者がどれだけいたのだろう?いたにしてもさぞかし、生きづらかっただろうな。
彼女のこの映画での役割は、やはり震災のどさくさに紛れて弾圧された社会主義者の存在に触れること、朝鮮人とわかり虐殺された人の存在もきちんと見せること、最後の村長の言葉を引き出すこと。
そして、現代的な倫理観でこの問題を見る儂らを彼女の視線でアシストしてもらう事だったのかなと。彼女への違和感をそんなふうに理解したのだけどどうだろう?

歴史の中に埋もれてしまった、事実というのはおそらくもっともっとある。
本当に忘れ去られてしまった事件や事故や問題の数々が歴史の彼方にある。
それを無かったことにするわけにはいかない。
福田村事件についても、森達也さんが映画にして儂らの前に提示してくれる前に、その事実を追いかけて調べてくれていた人たちがいて、それがあったから今儂らが知ることができ、自分達につながる問題であると認識することができる。
ありがたい。