ぱたの関心空間

関心空間と徒然なるままに。

3.11後を生きる@京都みなみ会館

2013-06-24 15:48:56 | 映画感想
チラシの冒頭に書いてある
「震災から半年後、メディアのほとんどは原発問題にシフトし、津波に流された街の現状は断片的にしかもれきこえなくなっていた。」
と。

そうなのだ。
自分自身も含め、多くはその耳目を原発の問題に奪われることとなった。悔しいかな。
勿論、原発の問題はとてつもない大問題である。が、あの震災は同時に主に津波による大きな痛手を東日本に与えたことを忘れてはならないし、そこに傷ついた多くの人がいることもまた忘れてはならない大事な事なのだ。

この映画に出ている人の多くは肉親知人を津波で亡くした人たちだ。
特に孫や子を亡くした人の理不尽な哀しみを強く映し出す。

「復興」について考えたことがある。
多くの人にとって、「復興」のイメージは未だに、たくさんの建物ができたり、人の働く口が十分にできたり、震災以前と同じような暮らしが戻ったりすることなのかもしれない。けれども儂にはそんなイメージには強い違和感がある。
その時にであったのは、福田徳三が関東大震災の際に言った「復興事業の第一は、 人間の復興でなければならない」という言葉である。

確かに、ハードが整うことは大事だ。変化が目にみえてわかるし、それによって活性化する事も多い。
けれど。。。と思う。
もっと大事なのは人の心の復興だろう、と。そこにいる人に寄り添いそこにいる人の心を前に向かせなければ、血の通う復興にはなり得ない。
でなければ、いわゆるハコモノ行政と同じで無駄な金だけ費やして、後には地域文化が衰退し、人が抜けて行くだけのどうしようもない過疎地が残るだけだ。

大袈裟に言うと(っていうか、儂的には大袈裟なつもりはないけど、多分大袈裟に聞こえるだろうと思ってね)
この人の心の復興を蔑ろにして、皆が期待するような形でこの国が復興することはないんじゃないのかな。
いや、もっとポジティブな感じに言い換えよう。
人の心の復興を、この国に住むすべての人が意識したなら、この国はもっと素晴らしい国になるんとちがうかな。

安直に言い過ぎますかね、ワタクシ。

心の復興と一括りで言ってしまったけれども、勿論その痛みは人によって違っていて、そもそも痛みの原因も死には限らない。
それでも、その痛みの中でも人の死は、何よりも辛く重い方に属するというのは間違いないと思います。
そして、なにより問題なのは、その近しい人の死という痛みを簡単に癒す方法なんてないということ。
答えなんてない、が答え。

いやいや、どないせぇ、っちゅーねん!

そう言われても困る。儂にだってわからない。きっと分かる人はいない。
49日から始まって一周忌、三回忌。。。五十回忌まで。人の死を受け入れ気持ちが癒えるのにはそもそもそれだけ時間がかかるということなのだと僧侶は言う。
でも、勿論「時間が解決する」も確実な答えではあり得ない。

恐山の菩提寺でのお坊さんの言葉は一つの魂の救済なのだと思う。
曰く
亡くなった人について、なぜ死んだのかという問いに、運命だとか因果応報だとか、簡単な答えを出してくれる人はいる。問う方も何か答えがあることでホッと安心できるのを期待している、という事もあるだろうし。しかし、それは違うと思う、それでは生きていた意味に対して、亡くなった人に失礼。
亡くなった人というが、いなくなったわけではないのではないですか?私たち生きている人間とは別の形で存在しているのです。時には生きていた時以上の存在感を持って。
と。

涙が出そうになった。
#ここではまだ出なかった:-p

あぁ、そういうことなんだ。
この映画の中でも、他のテレビ番組で見聞きする遺族の方々の話を聞いても、亡くしてしまったその人の存在感が、生きていたその時よりもある意味大きくなっているというのはきっと事実なんだ。それを「死んだ人の事なんか早く忘れなさい」とか「違うことに目を向けたら」なんていうのは、確かに気遣ってのことかもしれないけれど間違っているのかもしれない。
もう存在しないと考えるから辛い。でも、死んでいなくなったのではなく、別の形で存在すると考えたなら救われる。

以前、NHKの「日本人は何を考えてきたか」という番組の柳田国男の回で見た、被災地の寺社に奉納されていたという亡くなった人たちの錦絵の話、被災地で多く聞かれるという幽霊の話。それは別の世界にちゃんと存在するという意味なのだ。それは妄想ではなく、心の中にあるその存在を確認する行為なのじゃないのかな。

近しい人の理不尽な死を受け入れる事は簡単ではない。時間がかかるし、もしかしたら最後まで受け入れることはできない人もいるかもしれない。しかし、人はその気持ちに寄り添って生きるしかないのかもしれない、その人がまた前を向く事を信じて。

#まぁ、この「寄り添う」ってことがまた難しいんだけれども。。。:-o

最後の祭のシーンで涙があふれた。
前もそんな事あったな。楽しく、嬉しい筈のシーンなのにね。

3.11後を生きる。
間違えちゃいけないのは、3.11後を生きているのは被災者だけじゃない。
日本人全員が3.11後を生きていることを忘れちゃいけない。

3.11後を生きる@京都みなみ会館の画像

3.11後を生きる@京都みなみ会館の画像



ひまわり~沖縄は忘れない あの日の空を~@龍谷大学深草キャンパス22号館201教室

2013-06-23 15:38:03 | 映画感想
沖縄。いや、オキナワの話である。

1959年にあった、米軍のジェット機墜落事件(宮森事件)を題材に、日本に返還されて40年も経つというのに現在も変わらずに基地を押し付けられるオキナワの現実をあぶり出し繋げるという映画。

沖縄戦で本土の犠牲となった沖縄。戦争が終結と思いきやアメリカの占領統治となり、戦争を終える事の出来なかった沖縄。本土復帰と言いながら、基地を押し付けられ平和を享受できなかった沖縄。人々の底流にあるその哀しみと怒りを忘れてはいけない。
過去の哀しみを忘れたいと口を閉ざす、この宮森事件で仲の良かった友人3人を失った主人公(長塚京三)は、その孫と友人の働きかけで最後に「絶対に忘れませんよ、忘れてはいけないのです」というメッセージをみんなに伝える。
胸に迫る想い。

しかし、何故なんだろう。
オキナワの問題、宮森事件こそ知らなかったけれども、沖縄国際大学への墜落事件も度重なる米兵による不祥事の問題も、なにより基地の存在についての問題も、折に触れ考えたりはしていたけれど、今までこんなふうに問題を痛みとして実感する事は果たしてあっただろうか、と思う。

もやもやしたものが残っていたのがちょっとすっきりしたのは、意外にもその晩に読んだ新聞の書評。佐野眞一著の「僕の島は戦場だった」についての新城和博氏の評だった。
この本の舞台も沖縄なんだけど、その中で「戦争をイデオロギーとして論じるのではなく、個々の痛みとして語る事によって、沖縄戦は」未だに生々しく身体性を伴う、と。

あぁ、そうなんだ。そこなんだ。

確かに沖縄戦の話を見聞きした時にはそれはとてつもない痛みとして強烈な印象を儂は受けてきた。沖縄戦に限らず、戦争経験や事件事故による痛ましい記憶の証言というのはそういうものだ。
イデオロギー的に戦争や基地の事を語るのは、表面的には理解できるし強い主張にもつながるけれども、心に痛みとして刻み込まれる事は少ない。
映画という手法ではあるが(映画だからこそ、とも言えるけど)、「石川・宮森ジェット機墜落事故証言集」という原案によっている本作品でもある。メッセージと共感は強く心を揺さぶる。

話は飛ぶかもしれないけれど、今年のはじめころから、東日本大震災についても被災した人たち、避難している人たちの話を聞くという事の重要性を強く感じるようになった。これもきっと同じ事なんじゃないのかな。
マスコミで報道される、復興の話題や原発についての話、現地でのリポートだけでは大事なものがごっそり抜け落ちてしまっているような気がする。そこに住んでいる、住んでいた当事者の話を直接聞いて、その痛みを感じなければ、空虚な観念論になりかねない。

そうだ、能年玲奈(天野アキ%あまちゃん)の役どころは主人公の孫の恋人で親は米軍基地で働いているという設定。基地には反対したいのだけど、その基地がある事で生活していることにもなるという複雑な心情が語られる。これ、原発は怖いけれど、その原発があるおかげで潤っていたという原発立地自治体のジレンマとダブるところ。
フクイチの原発事故が起きて以降、フクシマとオキナワは同じ構造だという言説をよく見たけれど、この(あまり関心のない人には)わかりにくい仕組みを、少し理解しやすく提示してくれたシーンだったかと。
フクシマとオキナワ。この二つに共通する問題についてはもっと多くの人に認知されるべきだと思う。

ところで、映画としてちょっとしんどかったのは、特に前半の方ではウチナーグチの独特のイントネーションでの会話が多く、キチンと聞き取れない台詞があったりして若干のフラストレーションが。。。
あと、そのイントネーションに慣れていないせいか、フツーのウチナンチュの会話でも演技っぽく見えてしまうんよね。いや、それは間違いなく儂の個人的な感覚なんだが。

ちょっと驚いたのは長塚京三さん。オープニングで三線持って立っている姿のさまになっている事。どうやら、吹き替え無しで三線弾いてはるし、んで唄も歌うし。え、沖縄出身でしたっけ?
そして、終盤でのステージ上での唄には、引き込まれる。

沖縄はいつでも音楽がともにある、みたいな台詞があったように記憶しているけれど、残念ながら本作ではそんなに強く音楽や踊りを前面に打ち出してはいない。いや、打ち出す必要もないし、それはそれで別の映画でやればいいのだけれど。

沖縄音楽、儂も好きだが、最近ちょっと気づいたのは、「いつでも音楽があった」という言い回しはもちろん好意的に使われているのだけれども、その言葉から受ける明るい印象が沖縄戦やその後の沖縄の辛い現実というものを見えにくくしているんじゃないのかな?という事。
というのは、最近たまたまNHKスペシャルの(NHKばかり見てるな儂)「ラストメッセージ井上ひさし"最期の作品」っていうのを見たのだが、取り上げられている未完の作品(構想から20年ついに書き切ることができなかった)について、その理由についてかつてのパートナーはこんなふうに推測していたと思う。「調べれば調べるほど考えれば考えるほど沖縄の経験は過酷で悲惨で、ユーモアに転換する事ができなかったのではないか」

あの井上ひさしでさえ冗談にすることも出来ない程の過酷な歴史を沖縄は経験してきたのだ。
それを無理やり笑顔にさせる道具として、いっときでも忘れるための道具として、音楽があったのではないだろうか?そんな事を考えてしまった。
とするなら、能天気に「いいね、沖縄音楽!」といって喜んでいるだけでは、見なくてはいけない光景を見損なうことになるのではないだろうか。
勿論、儂の推測でしかないけれど。

も一つ残念だったところ。
「ぎこちなく」抱き合うシーン。
もっと自然な感じだったら良かったのにね f^^;

ちなみに最後のスタッフロールの賛同者(?)の中に、儂の住んでいる自治体のK市長様のお名前があったのだが。。。果たして映画、観たのかな?

ひまわり~沖縄は忘れない あの日の空を~@龍谷大学深草キャンパス22号館201教室の画像

ひまわり~沖縄は忘れない あの日の空を~@龍谷大学深草キャンパス22号館201教室の画像



ソウル・フラワー・ユニオン@梅田AKASO

2013-06-16 12:44:43 | ライブレポ
「核よりおっぱい」
なのである。

世界広しといえども、そんな素敵なシュプレヒコールが出来る場所はここくらいしかないでしょ?

そうそう、まだツアー中ですよー、
22日(土)は下北沢 GARDEN。24日(月)は仙台LIVE HOUSE enn 2nd。
行ける人は是非!!!

というわけで以下、セットリスト。取り扱いにご注意くださいませませ。

・ブルーマンデーパレード
・陽炎のくに、鉛のうた
・焼かれた詩集(?新曲)
・月光ファンファーレ
・たこあげてまんねん
・サーティデイズ(チャックベリー?カバー)
・荒地にて
・キセキの渚
・ホライズンマーチ
・島育ち
・満月の夕
・ひぐらし
・踊れ!踊らされる前に
・ダンスは機会均等
・偉大なる社会
・リベラリストに踏絵を
・不屈の民
・平和に生きる権利
・極東戦線異常なし!?
・秋田音頭
・うたは自由をめざす!
>encore1
・海行かば山行かば踊るかばね
>encore2
・風の市

曲順サッパリわからんです。
自信があるのは一曲目とアンコールだけです。
もう、楽しくて楽しくて。それでもかろうじておもい出せたかな。

いくつか。

今日一番盛り上がりを見せたのは「リベラリストに踏み絵を」か?いやーんモッシュ状態だー!あの曲ってあんなに盛り上がる曲だったのか、ライブで聞くの始めてだったかも。

新曲「踊れ!踊らされる前に」良いです、オーイエーイ。期待通りな感じ。
ハチロクの流れでダンスは機会均等。やっぱり踊らなあかんやろ、踊らされる前に。
おっと、それが今回のテーマだ。目くらましの情報に踊らされるだけなんてね、主体的に踊ってなんぼじゃー。そのせいかなんか知らんが、激しく踊る人も多かった感じ。うん、よいことだよいことだ。

サビとかで音を下げて歌う番長。高い音が厳しくなっているのか?
でも、70までこんなんしてたいって。オクノセンセは「勘弁してください、極東戦線異常なしはさすがに無理」と
ミホコちゃんのひぐらしはだいぶ味わいが違うよね。

なんか始まって2、3曲目くらいで涙がでそうになったんだな。どの曲だったから覚えてないけど(苦笑)。ぐっとこらえたけれど、「荒れ地にて」で決壊。

そしてなぜか丁寧語で会話する中川&オクノ。なんか妙です。

今回のステージ上のフラッグはエレクトロアジールバップのジャケットを彷彿とさせるもの。Stand Against Racismのフラッグ付き。
儂がソウルフラワーを聞き始めたのがこのアルバムだからちょっと嬉しい。思い入れがあるからねー。

次回9月のツアーはなんとソウルフラワー20周年記念ツアー。中川さん「沖縄の女に土下座してきました」と。ジャーン、ヒデ坊参加!いやー!それは行きたい行きたい行きたい!
洋子ちゃんとか河村さんは出ぇへんのかなぁ?

ソウル・フラワー・ユニオン@梅田AKASOの画像

ソウル・フラワー・ユニオン@梅田AKASOの画像

ソウル・フラワー・ユニオン@梅田AKASOの画像



県庁おもてなし課@ T・ジョイ京都

2013-06-04 12:43:58 | 映画感想
とりあえず、一番感動的なシーンが、エンドロール(高知のいくつかの観光地で、地元の方と思しき人たちが沢山手を振っている様子が流れる)、というのは如何なものか。

と、思うわけです。


にしても、これは。。。



          ちょっと生ぬるい恋愛&高知の宣伝映画ですよねぇ?(f^^;)


あ、申し遅れましたが、今回の感想はあまりに映画の内容が私の一方的な思い込みと、強い期待と、勝手な予想に反していたために、好意的なものにはなっておりませんの。
ちなみにアテクシ、原作も読んでなきゃストーリーも知りゃぁしません。つまり、ホントに儂の自分勝手な思い込みをもとに書いているのでその点ご了承の上、目くじらたてずにお願いしたい。
ごめんね♪

なにしろ「県庁おもてなし課」である。
当然、県庁の中でのドタバタ。特に「おもてなし課」という名前からすると、折角柔らかい発想で出来た課のアイディアなのに、お堅い従来型の官僚機構の中でそのアイディアや構想が活かされず、しかし、それにめげずにそれを乗り越えようと奮闘する、若い役人さんのコメディー、みたいなのを想像していたのである。

うん、
なにげにイタイ。というかおめでたい。
でも、そう思っちゃったのだから仕方が無い。

後で連れに聞いたら原作の方ではそういう要素がもうちょっと強く出ているのだそうだ。

でしょ?そうでしょ?このタイトルなら、そっちでしょ?やっぱり。

遺体の時にも書いたけれど(いや、あれは結構頑張っていた?と思うけれど)、映画というエンターテインメント作品になる時に、売れるための要素が注入される(強調される)というのは、どうにも仕方が無いのだろう。
恋愛の要素はそりゃぁ大好きさ、みんな(多分)。だけれども、この作品の本当の面白さはそっちだったのか?あんな、起伏のほとんどないつまり、恋愛物としても面白みにかける(個人的な見解です)、ストーリーを見て喜んでもらうがために、「お硬いお役所が、おもてなし課なんていうおもろそうなもんを作った」という題材としてはオイシイ設定を単にきっかけとして使っちゃったのか?勿体無い。

換骨奪胎と言えば聞こえはいいのかもしれないけれど、それで安っぽいものに堕してしまうのなら、それは勿体無い。いや、それが世間から求められているものならば儂がどうこう言っても仕方がないのだけれども。

メインになる男性俳優二人。知らん人やけど、なんだろう、あれ演技なんだろうか。本当に頼りなさげなダメっぽい感じが、演技なんだとしたらちょいとすごいが、どうも素でやっているようにしか見えなかったのだ。特に作家さん役の方は俺様キャラなのに自分の色恋には疎いという超ありがちだけど演じるには難しそうな役で、ちょいと力不足感は否めない。複雑な家庭状況とか最後のテレビ出演とか、微妙な所を押し切る力量が欲しかったのだけれど、結局不自然なままで終わってしまった感じで勿体無い。
#連発しているけどマータイさんじゃないよ

それにおもてなし課には元々職員として女性がいるのに、どうして彼女の活躍の場がないのだろう?と。
確かに、ヒロインは「公務員じゃない外部の女性」という条件で出てきているから分かるんだけど、影が薄すぎる。彼女の影の薄さはヒロインを前面に出すために必要なことだったのかもしれないけれど、さすがにちょっと極端なんじゃなかろうか?折角、女性の感覚を取り入れ、お役所の堅さを払拭できるプロジェクトなのに、こんなところで女性はただの事務員扱いではちょっとお寒い感じがする。

それよりも何よりも、儂が気になるのは、
高知レジャーランド化構想である。

手前味噌だが、学生時代に「京都独立論」をぶっていた儂(勿論誰にも相手にされなかったけれど)にしてみれば、地域挙げてのテーマパーク化構想というのは、至極真っ当なアイディアでさほど驚くには値しないんだけど、折角ここで出てきたこのアイディア、じゃぁ、実際に高知はこれに取り組んでいるの?というところである。
世間一般では荒唐無稽に思われるアイディアなのかもしれないけれど、儂としてはちーっともそうは思わない。すっごく現実的で実現可能なアイディアだと思う訳で、高知で実際にこのテーマパーク化構想が進んでいるとなれば、儂のアイディアだって強ち悪くないだろ、って話になる(と思うんだけど。。。)。

せっかくなので、高知県庁おもてなし課のHPも見てみた。

が、

どこにもない。「レジャーランド高知」の文字。

うーん、何故だ?
この映画のおもしろさは、ただのフィクションではなくて実在の高知県庁おもてなし課とリンクしている所にもある筈だから、当然映画で提唱されているアイディアが現実でもテーマとして取り上げられていてなんぼじゃろ?
映画で「いいですね!すごいですね!」って言っているアイディアが、本当に高知県で実現されているのなら、これはホントにわくわくする話になる。
勿体ない。

#おもてなしトイレはあったけれど

いや、もしかしたら、取り組んでいるのかもしれないけれど、簡単に表に出てみつけられないようなものでは意味が無いのよねー。

そうそう、映画見てちょっと思い出していたのは、3、4年くらい前に高知でやっていた高知であい博。新聞記事でしか読んでないので内容は全然知らないんだけど、大成功したというニュースがあったなー、と思って、このおもてなし課の取り組みがここに結実したのかと想像していたけれど。。。

そもそもこっちの主体は高知市でしたね。あは。
市と県は連携していないのかな?


県庁おもてなし課@ T・ジョイ京都の画像