チラシの冒頭に書いてある
「震災から半年後、メディアのほとんどは原発問題にシフトし、津波に流された街の現状は断片的にしかもれきこえなくなっていた。」
と。
そうなのだ。
自分自身も含め、多くはその耳目を原発の問題に奪われることとなった。悔しいかな。
勿論、原発の問題はとてつもない大問題である。が、あの震災は同時に主に津波による大きな痛手を東日本に与えたことを忘れてはならないし、そこに傷ついた多くの人がいることもまた忘れてはならない大事な事なのだ。
この映画に出ている人の多くは肉親知人を津波で亡くした人たちだ。
特に孫や子を亡くした人の理不尽な哀しみを強く映し出す。
「復興」について考えたことがある。
多くの人にとって、「復興」のイメージは未だに、たくさんの建物ができたり、人の働く口が十分にできたり、震災以前と同じような暮らしが戻ったりすることなのかもしれない。けれども儂にはそんなイメージには強い違和感がある。
その時にであったのは、福田徳三が関東大震災の際に言った「復興事業の第一は、 人間の復興でなければならない」という言葉である。
確かに、ハードが整うことは大事だ。変化が目にみえてわかるし、それによって活性化する事も多い。
けれど。。。と思う。
もっと大事なのは人の心の復興だろう、と。そこにいる人に寄り添いそこにいる人の心を前に向かせなければ、血の通う復興にはなり得ない。
でなければ、いわゆるハコモノ行政と同じで無駄な金だけ費やして、後には地域文化が衰退し、人が抜けて行くだけのどうしようもない過疎地が残るだけだ。
大袈裟に言うと(っていうか、儂的には大袈裟なつもりはないけど、多分大袈裟に聞こえるだろうと思ってね)
この人の心の復興を蔑ろにして、皆が期待するような形でこの国が復興することはないんじゃないのかな。
いや、もっとポジティブな感じに言い換えよう。
人の心の復興を、この国に住むすべての人が意識したなら、この国はもっと素晴らしい国になるんとちがうかな。
安直に言い過ぎますかね、ワタクシ。
心の復興と一括りで言ってしまったけれども、勿論その痛みは人によって違っていて、そもそも痛みの原因も死には限らない。
それでも、その痛みの中でも人の死は、何よりも辛く重い方に属するというのは間違いないと思います。
そして、なにより問題なのは、その近しい人の死という痛みを簡単に癒す方法なんてないということ。
答えなんてない、が答え。
いやいや、どないせぇ、っちゅーねん!
そう言われても困る。儂にだってわからない。きっと分かる人はいない。
49日から始まって一周忌、三回忌。。。五十回忌まで。人の死を受け入れ気持ちが癒えるのにはそもそもそれだけ時間がかかるということなのだと僧侶は言う。
でも、勿論「時間が解決する」も確実な答えではあり得ない。
恐山の菩提寺でのお坊さんの言葉は一つの魂の救済なのだと思う。
曰く
亡くなった人について、なぜ死んだのかという問いに、運命だとか因果応報だとか、簡単な答えを出してくれる人はいる。問う方も何か答えがあることでホッと安心できるのを期待している、という事もあるだろうし。しかし、それは違うと思う、それでは生きていた意味に対して、亡くなった人に失礼。
亡くなった人というが、いなくなったわけではないのではないですか?私たち生きている人間とは別の形で存在しているのです。時には生きていた時以上の存在感を持って。
と。
涙が出そうになった。
#ここではまだ出なかった:-p
あぁ、そういうことなんだ。
この映画の中でも、他のテレビ番組で見聞きする遺族の方々の話を聞いても、亡くしてしまったその人の存在感が、生きていたその時よりもある意味大きくなっているというのはきっと事実なんだ。それを「死んだ人の事なんか早く忘れなさい」とか「違うことに目を向けたら」なんていうのは、確かに気遣ってのことかもしれないけれど間違っているのかもしれない。
もう存在しないと考えるから辛い。でも、死んでいなくなったのではなく、別の形で存在すると考えたなら救われる。
以前、NHKの「日本人は何を考えてきたか」という番組の柳田国男の回で見た、被災地の寺社に奉納されていたという亡くなった人たちの錦絵の話、被災地で多く聞かれるという幽霊の話。それは別の世界にちゃんと存在するという意味なのだ。それは妄想ではなく、心の中にあるその存在を確認する行為なのじゃないのかな。
近しい人の理不尽な死を受け入れる事は簡単ではない。時間がかかるし、もしかしたら最後まで受け入れることはできない人もいるかもしれない。しかし、人はその気持ちに寄り添って生きるしかないのかもしれない、その人がまた前を向く事を信じて。
#まぁ、この「寄り添う」ってことがまた難しいんだけれども。。。:-o
最後の祭のシーンで涙があふれた。
前もそんな事あったな。楽しく、嬉しい筈のシーンなのにね。
3.11後を生きる。
間違えちゃいけないのは、3.11後を生きているのは被災者だけじゃない。
日本人全員が3.11後を生きていることを忘れちゃいけない。
「震災から半年後、メディアのほとんどは原発問題にシフトし、津波に流された街の現状は断片的にしかもれきこえなくなっていた。」
と。
そうなのだ。
自分自身も含め、多くはその耳目を原発の問題に奪われることとなった。悔しいかな。
勿論、原発の問題はとてつもない大問題である。が、あの震災は同時に主に津波による大きな痛手を東日本に与えたことを忘れてはならないし、そこに傷ついた多くの人がいることもまた忘れてはならない大事な事なのだ。
この映画に出ている人の多くは肉親知人を津波で亡くした人たちだ。
特に孫や子を亡くした人の理不尽な哀しみを強く映し出す。
「復興」について考えたことがある。
多くの人にとって、「復興」のイメージは未だに、たくさんの建物ができたり、人の働く口が十分にできたり、震災以前と同じような暮らしが戻ったりすることなのかもしれない。けれども儂にはそんなイメージには強い違和感がある。
その時にであったのは、福田徳三が関東大震災の際に言った「復興事業の第一は、 人間の復興でなければならない」という言葉である。
確かに、ハードが整うことは大事だ。変化が目にみえてわかるし、それによって活性化する事も多い。
けれど。。。と思う。
もっと大事なのは人の心の復興だろう、と。そこにいる人に寄り添いそこにいる人の心を前に向かせなければ、血の通う復興にはなり得ない。
でなければ、いわゆるハコモノ行政と同じで無駄な金だけ費やして、後には地域文化が衰退し、人が抜けて行くだけのどうしようもない過疎地が残るだけだ。
大袈裟に言うと(っていうか、儂的には大袈裟なつもりはないけど、多分大袈裟に聞こえるだろうと思ってね)
この人の心の復興を蔑ろにして、皆が期待するような形でこの国が復興することはないんじゃないのかな。
いや、もっとポジティブな感じに言い換えよう。
人の心の復興を、この国に住むすべての人が意識したなら、この国はもっと素晴らしい国になるんとちがうかな。
安直に言い過ぎますかね、ワタクシ。
心の復興と一括りで言ってしまったけれども、勿論その痛みは人によって違っていて、そもそも痛みの原因も死には限らない。
それでも、その痛みの中でも人の死は、何よりも辛く重い方に属するというのは間違いないと思います。
そして、なにより問題なのは、その近しい人の死という痛みを簡単に癒す方法なんてないということ。
答えなんてない、が答え。
いやいや、どないせぇ、っちゅーねん!
そう言われても困る。儂にだってわからない。きっと分かる人はいない。
49日から始まって一周忌、三回忌。。。五十回忌まで。人の死を受け入れ気持ちが癒えるのにはそもそもそれだけ時間がかかるということなのだと僧侶は言う。
でも、勿論「時間が解決する」も確実な答えではあり得ない。
恐山の菩提寺でのお坊さんの言葉は一つの魂の救済なのだと思う。
曰く
亡くなった人について、なぜ死んだのかという問いに、運命だとか因果応報だとか、簡単な答えを出してくれる人はいる。問う方も何か答えがあることでホッと安心できるのを期待している、という事もあるだろうし。しかし、それは違うと思う、それでは生きていた意味に対して、亡くなった人に失礼。
亡くなった人というが、いなくなったわけではないのではないですか?私たち生きている人間とは別の形で存在しているのです。時には生きていた時以上の存在感を持って。
と。
涙が出そうになった。
#ここではまだ出なかった:-p
あぁ、そういうことなんだ。
この映画の中でも、他のテレビ番組で見聞きする遺族の方々の話を聞いても、亡くしてしまったその人の存在感が、生きていたその時よりもある意味大きくなっているというのはきっと事実なんだ。それを「死んだ人の事なんか早く忘れなさい」とか「違うことに目を向けたら」なんていうのは、確かに気遣ってのことかもしれないけれど間違っているのかもしれない。
もう存在しないと考えるから辛い。でも、死んでいなくなったのではなく、別の形で存在すると考えたなら救われる。
以前、NHKの「日本人は何を考えてきたか」という番組の柳田国男の回で見た、被災地の寺社に奉納されていたという亡くなった人たちの錦絵の話、被災地で多く聞かれるという幽霊の話。それは別の世界にちゃんと存在するという意味なのだ。それは妄想ではなく、心の中にあるその存在を確認する行為なのじゃないのかな。
近しい人の理不尽な死を受け入れる事は簡単ではない。時間がかかるし、もしかしたら最後まで受け入れることはできない人もいるかもしれない。しかし、人はその気持ちに寄り添って生きるしかないのかもしれない、その人がまた前を向く事を信じて。
#まぁ、この「寄り添う」ってことがまた難しいんだけれども。。。:-o
最後の祭のシーンで涙があふれた。
前もそんな事あったな。楽しく、嬉しい筈のシーンなのにね。
3.11後を生きる。
間違えちゃいけないのは、3.11後を生きているのは被災者だけじゃない。
日本人全員が3.11後を生きていることを忘れちゃいけない。