ぱたの関心空間

関心空間と徒然なるままに。

「学校で育むアナキズム」(池田賢一著)

2024-05-04 00:52:11 | 読後感想など
儂はもう、アナキズムという言葉に抵抗なくなっちゃったけれど、多分世間一般的にはちょっとヤバいヤツ、みたいな感じよね、きっと。

でもなんかやっぱり儂の考えていることに馴染む、アナキズム。
やっぱり儂、アナキストで大丈夫(笑)。

確かに、他の人とちょっと違うかもしれない儂の考え方は、側から見たらちょっとヤバいヤツの時もあるかもしれんけど、それは儂がヤバいのではなくて、ヤバいというレッテルを貼ってしまう社会の方がヤバいのだと思うな。

そのヤバいアナキズムで学校教育を考えようというのだからヤバい事この上ない(^○^)。

などと、ちょっとフザケ気味で話しても構わないのだけれど、やっぱりここは真面目に行こうかね。


基本的にアナキズムというのは「無政府主義」というよりは「反権威主義」と言った方がいいと理解している。

どストレートに言うと、公教育でいうところの学校という場所は権威的なものの下に従順な人間になるよう子どもたちを教育する場所であるわけだから(あぁ、もうここで引いちゃう人いるだろうなー(^_^;))、アナキズムというのはその今の教育を真っ向否定するものであると言ってもいい。

著者も言っている
「支配関係を否定する点がアナキズムのポイント」である。学校はそれと正反対で「支配関係の構築に躍起になり、そのためにかなり無理を重ねている」と。
「実は、アナーキーであることによって、子どもも教員も安心して過ごせる学びの環境が作れるのではないか」ということを確認するのが「本書のねらいである」と。
(「はじめに」より)

目から鱗ボロボロ落ちる。
いったい儂の目にはどんだけ鱗あんねん!?

小手先の話ではない。
もう教育の根本理念の話なのだ。

理想的な教育のあり方、のようなものが儂なりにあったりする。
でも一方で、実現させるのは難しいんだろうな、と思ってしまったりもする。
いやさ、実はそこがちゃうねんなー。
今の学校の枠組みの中で考えようとするから難しいと考えてしまうだけの話やねん。
根本的に、その今の学校の有り様そのものが間違っていると。話はそこからなのだ、と。アナキズムを通して考えてみれば、それがとてもよくわかるのだ。

例えば、儂が常々考えている事の一つは、学校の中でどうしたら先生も子どもたちも親も楽になれるのか、という事だったりする。
先生なんか顕著だけれど、過労死ラインを超えて疲弊しているし、子ども達もギスギスした環境に置かれているし、親も視界の効かない学校という現場に対してのフラストレーションを抱えている。
どうしたらいい?と考えた時に仕事量を減らすだの人を増やすだの。儂もPTA役員をやっている時にはPTAとして学校に関わる事でそういった労力やストレスを減らす事に繋げられないか、と考えていた。
でも、それって一方で学校そのものの今の在り方を肯定しているわけで、今の枠内で考えているから、現状で学校が抱えている大変さ(無理している部分)を温存しがちなのだ。つまりそこには限界があるし、根本的な解決にはならない。

大阪の大空小学校の話を初めて聴いた時に一番驚いたのは、先生はみんな定時で帰りますよ、というところだった。
そんなバカな!ただでさえ大変な教育現場。通常の学校よりも多くの困難を抱えた子どもたちがいるという学校なのに、他にも手の掛かりそうな話を色々しているのに、残業しないなんて!
何故?
映画を観て本を読んで、そこにアナキズムという言葉は出てこないけれど、子ども達に任せるという姿勢とかね、教員の側もまた子どもと一緒に間違うしちゃんとその時は謝るしで支配非支配の関係ではないとかね。感じるわけさ、アナキズム的感覚を。
あぁこれは、何故?じゃない。故に、と言うべきであると。

勿論、社会全体に対して問題提起をしようとすれば、お金がないとか、人手が足りないとか、そもそもその理念が理解されにくいとか。
実現の難しさを云々するのはしたい人はすればいい。だけど、それ以前の話として教育の理念についてもっと議論されるべきだと思うね。
社会的にどう実現させるのかは政治家や官僚のお仕事であって、儂等市井が責任持つ必要なんてこれっぽっちもないのだから。

っつーか、実践だってできるところでは実践すれば良い。
実際にやっている現場はいくつもあるんだし、法律的、制度的には実現可能なのだから。
1番のネックは。。。思い込みかな。

競争的価値観に儂らは囚われていて、それをほとんどの人は疑いはしない。
けどもう、ちょっと考えれば気付くはずだ。
一部の勝者しか獲得を許されない栄光を求める競争的価値観というパラダイムに従い続ける以上、多くの敗者に安息はないし、勝者でさえ追い落とされる不安から逃れることはできない。そんな余裕のない社会が寛容になれる筈もない。
受験という手段を目的にしてしまった日本の学校社会は、成績表だの評価だの競争的価値観で埋め尽くされているわけで、そこから突き崩さなければ意味がない。

極論を言ってしまえば成績などつけるな、という事になる。

いや、でも待て、それは本当に極論なのか?
成績を上げる事など本来は教育の目的でもなんでもない。
学力をつけることは手段ではあっても、それで日常的に評価される事など手段でもなければ必要でもない。
実際に通知表をなくした学校だってある。

でも儂らの多くは現状の支配的価値観から降りる事はできない。
できないと(これもまた)思い込んでいる。

曰く、
「学歴社会なのだから仕方がない」
だと?
だから、それがおかしいのだ。
いい学歴を持たなければ将来の生活保障が得られない?
ほう?日本国憲法の生存権は何処に行った?
エラそうに言うけど、儂は大学院卒だけど今の仕事はパートの主夫だ。

学歴を否定するわけではないしパート仕事を卑下しているわけでもない。
言いたいのは学歴は将来いい生活をする為のパスポートではないし、どんな境遇であろうと生活する事についてこの国は不安があってはいけない、と憲法が宣言しているという事だ。

そもそも学歴のための勉強だと?
想像するだけでクソつまらんそんなものを学びだと呼ぶこと自体違和感しかない。
「個別最適化」の話(個別化することで逆に画一的になるというパラドックス!)でも思ったけれど、そもそも勉強(というか学習というか)の定義からして狭い定義の中に押し込められたパッケージから抜け出せないでいるのだ。
あぁ、くだらんくだらん。

支配的な思考から自由にならない理由の合理性は思い込みに支えられている。

そして、ひょっとすると最大の思い込みは
「学校は社会に出るための訓練をする場所」
ということかもしれない。

子どもたちは皆学校に行くことになっている。いや、正確に言えば、親には子どもたちに教育を受けさせる義務があるから、当然のように子どもたちは学校に行かなくちゃいけないと思っている、ということだ。
だから、子どもたちにとっての日中の居場所は学校しかない、と思われている、というのが正しい言い方だろう。

でも、著者は看破する
「学校は、むしろ一般社会から隔絶された時空間である」
と。

こうも言う
「教員の『社会に出てから困るぞ』という決まり文句」で教員自体が「学校は『社会』ではないと認めている」
と。
確かに(笑)。

子どもたちは学校に行く以前に家族という社会、場合によっては地域という社会や、塾やクラブチーム、趣味サークルのような社会とも繋がっていたりする。もちろん、個人差があることについてこの社会はめくじらを立てるのだろうけれど、その規範が問題であることは本書全体で書かれているとおり。
学校以前にすでに社会的に生きている子どもたちを社会から隔絶して、社会はこうだと社会とは違うルールを教え込む場所学校(苦笑)。
そんな学校からはみ出てしまった子は学校に行かない代わりにまた別の社会と繋がるチャンスがあるわけだから、逆に社会を学ぶ機会を増やす事になってしまうという逆説(冷笑)。
もう学校いらないよね(爆笑)。

子どもたちが「安定」している方がいい、などともいう。
荒れる学校、的な物言いの対局として言われる言い方と了解されていると思うのだけれど、はたしてどうか?
「波風を立ててくれるな」というメッセージは儂がPTA役員をやっている時に校長教頭から受け取った強いメッセージでもある。高校の時に授業中の態度を咎められて反論した時の教師のとにかくそれをするな、という理屈に合わない物言いへの不信感は、この「安定」を求める学校の態度と思えば合点がいく。子どもというのはそもそもはみ出す存在であり、また学ぶとか考えるという動きは動的なものだ。「波風を立てる」は確かに問題を起こすというニュアンスがあるので適当ではないかもしれないけれど、それぞれの子が自分で学ぶ考えるという時に想定を外れた動きが出るのは当然であり、それはむしろ「安定」からは程遠いことだろう。

例えば、インクルーシブなんて言うけれど、本当のインクルーシブ教育を実現したいのならアナキズム的思考は必然だと思う。いや、控え目に言ったとしてもアナキズム的に考える事は少なくとも実現への近道である、とは言えるんじゃないだろうか。
障害を持っているなど多様な子どもたちを単に同じ教室に入れればそれがインクルーシブ教育になるなどと呑気に思っている人は流石にもういないとは思うけれど、ならば、何が必要か?
制度やら設備やらハード面についてはみんなよく考えるのだろうけれど、実は必要なのは人々の中にある「無意識の良心」というべきか。少なくとも上から権威的に押し付けられる通達や方針などでない事は確かだろう。儂ら一人一人のアナキズム的な相互扶助や寛容が教育現場にもたらされたときに実現されるものなのではないだろうか。

ぶっちゃけ、儂は焦っている。
何故なら、今子どもたちが学校に殺されているからだ。
わざとラジカルな物言いをしているけれど、決して大袈裟な話ではない。
著者も最後の最後にこう書く。
「(学校で構築される権力)関係の中で子どもたちが『死んでいる』」「体罰によって、あるいは指導と称して、これまでいったい何人の子どもたちが死に追い込まれてきたのか」
他にもイジメを苦に、学校からはみ出してしまった果てに自死した子もいる。学校内での性被害など悍ましすぎて正視に堪えない。

学校は子どもにとって他のどんな場所よりも安心安全な場所であって欲しい、というのが儂の1番の願いだ。そう、家庭よりも安心安全な場所でなくてはならないと思っている。なのにその場所が子どもを殺している、など到底許せないのだ。

著者は上記の記述がある最後のチャプターに「アナキズムの魅力」という優しい見出しをつけている。魅力。。。うん、かなり強力に魅力的だ。

でも、儂はこう言いたい気分なのだ。
「子どもたちの命を守るために、今すぐにでも学校にアナキズムを」
と。

あらためて言うと、
アナキズムは決してアブナイ思想なんかではない。
むしろ、人間の気持ちに根差した相互扶助に信頼する優しい社会の思想だ。

儂は修羅の価値観より温かい規範の世の中で生きていきたいのだ。


「日本が滅びる前に-明石モデルがひらく国家の未来」(泉房穂著)

2024-04-24 15:31:05 | 読後感想など
言わずと知れた(?)元明石市長、泉房穂さんの著書。

あぁ、なんてわかりやすいんでしょう。
そして、なんでこのわかりやすい事が国レベルでできないのでしょう?
さらに、全国に広がりつつあるとは言いながら、我が市ではそれに程遠い市政が罷り通っっているのはなぜなのでしょう?

耳触りのいいスローガンは、本質を見えにくくしがちだけれど、泉さんの言う
「冷たい社会をやさしい社会に変えたい」
という言葉は、おそろしく素直に儂の中に入ってくるのだ。

んー、多少クサい言い方を許して貰えば、泉さんに本気を感じるからなのじゃないかな。
国政で見られる多くの政治家には感じられないものを泉さんには感じている。

で、その信用が何よりもちゃんと結果を出しているところに裏打ちされているわけさ。
人口増と税収増。そして、住民の満足度。

泉さんのやった政策はいくつもあるわけだけど、とりわけわかりやすく言うと子どもたち、子育ての政策を重点化したことと言っていいのだと思う。

儂がいつでも嫌気が差すのはゼロサムで話をすることだ。
子供のためにお金を使うのなら、老人福祉は削るのだろう?とか経済政策はおざなりになるのだろう?とか。
違う。
もうそんな批判、ほんまにいらん。後ろ向きにならざるを得ない、そんな楔を打ち込むことに一生懸命になることにどれだけ意味があるのか?
政策は短期的な効果で見るものではない。

経済政策の話をするときに、よく経済効果とか波及効果とかいうじゃない?
実際にそういうものはあるのだろうし、それは経済(お金)の話だからお金をかけることによってさらに経済効果が高まるという話で理解されやすいのかもしれない。
けれども、それはさ、経済だけに通用する理屈ではないわけさ。
子育て政策にだってその話は通用する。というか、それ以上に波及効果は大きいんじゃないかな、と思うわけだ。

多分、それがなかなか受け入れられにくいのは効果が出るまでのタイムスパンが長い、と思われていることもあると思う。
いくら子どもたちにお金をかければ大人になった時にベネフィットがあると言ったところで、何年後の話やねーんとなる。それよりも、企業誘致した方が早いんじゃね?みたいな。

でも、実際には明石市は子育てを重点化することで、その効果を数年で出している。
まぁ、社会増が多いというわけだけど、それだって子育て支援策に惹かれて転入してくる人たちの存在があるわけだから無視できないわけで。

そして何より大事なのはおそらく市民の納得感なのだと思う。
つまり、子育て政策を重点化するというのは、決して他をおざなりにすることではない。長いスパンで見た時にこの社会全体にとって最も恩恵をもたらす可能性の高い政策が子育て支援なのだ、という説得ができるかどうか。
そういえば、子育て支援政策で有名な岡山の奈義町なんかでも、最初にしたのは町民に向けてのそういった説得だった、みたいな話を聞いたことがある。奈義町の場合は過疎という切実な問題も大きかっただろうから単純に並べられないのかもしれないけれど、でもそれって住民に近いところにある地方自治の基本の部分なんじゃないのかな。
いや、国レベルだってそうか。政治の説明責任と国民の納得、まぁそれが今の日本の政治にできているとは思えないけれど。

本当は難しいことはいらんねん。
泉さんに倣おう。曰く
「1、すべての子どもたちを、
 2、まちのみんなで、
 3、本気で応援すれば、
 4、まちのみんなが幸せになる」
って。

あーもう超絶わかりやすいやないか!
もうこれ読むだけで涙が出てくる。
声に出して読みたい日本語や。齋藤孝さんに推薦するわ。
そんなんでほんまにみんなが幸せになるんか?
いや、なるよ、なるってば、なるやろ?
儂、おかしいか?(笑)

泉さんは繰り返し言う。
子ども政策の実現に増税は必要ない、と。
予算の適正化をすれば十分財源の捻出はできる、と。
全くもって同感だ。
この国の金の使い方はどう考えたっておかしい。
同様に、地方の金の使い方も然り。
もっとも地方の金の使い方には、地方交付税とか国庫支出金とかあったりとかの難しさもあるってのはわかる。
わかるよー、市役所の人たちが市民の方じゃなくて府とか国の方向いて仕事してるの、めっちゃわかるもの。
そういう財政の適正性とか言い出したら話が終わらないのでやめておくけれどさ
(っつーか、ややこしすぎて儂には追いつけん)

でも、これだけは言っておきたいな。
防衛費の増額はいらん、その分全部子育てや教育に回せ!ほんまに。

いや、もう一つ言うとさ、当然単に金をかければいい、って話でもないのだよ。
岸田さんが言い出した異次元の子育て支援。そしてその後に政府が打ち出す、異次元の的外れな政策の数々。
これから結婚しよう、子どもを作って豊かな将来を築いていこうと思えるようなメッセージなどほとんどない。
うちら、子育て世代が安心して子育てを続けられると思う社会を実現するために必要な施策などほとんどない。
そう。大事なのはわしらのモチベーションを上げる政策なのだ。金の多寡の問題じゃねーよ。
泉さんにできて、国にできないわけがない。
為政者が本当にこの国の将来のことを考えているのならね。

もちろん、お金はもっとかけるべきですよ。子は宝、国の宝に金かけるのは当然やんか。
せやろがい!


「情報公開が社会を変える─調査報道記者の公文書道」(日野行介著)

2024-02-09 00:08:45 | 読後感想など
いや、みんな情報公開請求しよう!
マジこれみんなした方がいい、っつーかせなあかん気がする。
実は、儂も読む直前だったんだけど生まれて初めて公開請求したところ。
実際のところ、するだけなら本当に簡単なのだ。
だからやろう。

実は、情報公開請求の話はおしどりのマコ&ケンさんの講演を聞いた時に、その中で言っていたのを覚えている。あぁ情報公開請求っていうのをやると、いろんな事実を突き止められたりできるのだな、と思ったのだけどなかなか自分で実際にするというきっかけを見つけられずにここまできてしまったのだ。

日野行介さんのこの本は、大竹まことのゴールデンラジオで紹介されていてそれで知った。
ラジオを聴きながら、「あそうだ、情報公開請求してみよう」と突然思い立ったのだ。

儂も自分なりに、色んな事で署名したり、デモ行ったり、パブコメ書いたり、講演会行ったり、PTA会長したり、教育委員会行ったり、議員さんと話したりetc.cte….できる部分でできる事やっているつもりだった。だけど、なかなか次のところに進めない感に苛まれたりしていた。
民主主義というのはすぐに答えの出るものではない、なんて嘯いてみたりするのだけれど、でもそうは言いながら手応えはやっぱりあるに越した事はない。
情報公開請求は(その実効性はともかく)うまくすればほしい情報が手に入る。もどかしさの一端が開ける。
これは一つの突破口になる気がする。

(まぁ、情報公開請求しても更なるモヤモヤが待ち構えている可能性が大である事は読めばわかるわけだが(苦笑))
でも、間違いなく前には進めると思うのだな。

政府をはじめ、行政は基本的に本当の目的を隠す。
ここはもう断言してもいいのだろう。
今儂は市の水道施策(計画)についてちょっと勉強しているところだけれど、市の側から出てくる説明がなんともおかしい。あぁ、これは何か隠しているなと感じざるを得ない。
昨日、たまたまある市議さんと話す機会があったのだが、数年前にあった市の文化施設を民間に売却してしまった件について、市は最後まで本当の理由を誤魔化し続けた、という話をしていた。でも本音は透けてみえる。透けてみえていても言葉上は上手に誤魔化してくる。情報公開請求は言質を取るための一つの武器にはなるだろう。

アベちゃんが「この道しかない」と言っていたのが今だに印象に残っているが、政治家や行政は一つの道しか儂等に示さない。選択肢を並べて、さぁどれにしますか?などとは聞いてくれない。複数のことを検討して、一つの道筋を示すことが政治家の務めだ、などと考えている向きもあるのかもしれないし、それが政治のレゾンデートルなのかもしれないが、数の力で常に多数政党の意見だけが通ってしまう今のダメダメ民主主義の世界では、本来の「議論をする」という民主主義的過程が活かされない。表面的に民主主義だと思わされ、出てきたたった一つの道筋を民主主義の結果だと思い込む。民主主義とは多様の上にあるのではないか?一つしか選択肢を示せないことのどこが民主主義か。

複数の選択肢がある、というところから始めないと民主主義は機能しない。
情報公開をすれば、実は複数あったその選択肢を可視化できる。
なるほど。

別に政治家を責めるわけじゃない。
その部分に自覚的で実践すべきは儂ら市民であって、その市民があっての政治家なのだ。
情報公開請求というのはその儂等市民が民主主義の力を発揮するための強力な武器ではないか!

そもそも、、、

「行政が間違うわけがない」「国の言っている事に従っていれば大丈夫」「お上のおっしゃる通り」だなどと、
いまだにそんな意識でいる人も結構いるように思うけれど、いったいどんなおとぎの国の話なのだろう。
実際には行政も政治家も間違いまくるし、びっくりするくらい適当な事言ってくるし、平気で嘘をつくのだ。そんなもの日々のニュースを見ていれば常識だし、歴史を見たって何度も繰り返されていることでもある。

行政を信じたいというメンタリティ(ひとまず行政に従うという話とは別)は、結局、自分で責任を負う事を回避するための言い訳なんじゃないのかな。
日本人は戦争中から何も変わっとらん。

結局民主主義の話なのだ。

おまかせ民主主義から脱皮して民主主義をきちんと自分達のものにする。
宮台真司的に言うと、任せてブーたれるのではなく、引き受けて考える。
具体的には自分達一人一人が主体的にできることをちゃんとやれるようにしましょう、という話になるのだと思う。

だからね、
みんなも情報公開請求しよう。
マジみんなしよう。
っつーか、せなアカン。(と思いはじめてる)


「いまどきPTA 嫌われ組織からの脱却」(石原慎子著)

2024-02-04 18:19:20 | 読後感想など
儂もPTAの事いろいろ考えて、会長までやって(で、校長と喧嘩して辞めて(^^))。。。
PTAの本も何冊か読んだけど、この本で一つの答えに到達した感がある。

著者の石原慎子さん(猫紫紺さん@nekoshikon )は、PTA問題の先達。
2021年に他界されていて、残念乍ら接する機会はなかったけれど、儂がPTAの事考え始める前からこの問題に取り組んでいてくれたのだ。石原さんをはじめ、この本に寄稿されている方や他のPTA問題にかかわったたくさんの人の尽力があってここまできたのだと実感する。

寄稿者のみなさんの猫さんとの関わりを思えば、その人たちの猫さんへの敬意に比べると安っぽくかんじられちゃうかもしれないけれど、やっぱり儂も猫さんに(そして、この本を届ける為に尽力された皆さんに)ありがとうを何百回も言いたい気分。



最後の大塚玲子さんの言葉を借りるなら、儂もPTAに希望を持っている。
正確に言うと、現在みんながイメージするブラックPTAではなく、戦後民主主義の実践場としての理念を持ったPTAにだ。
その理念は、決して古い時代遅れのものではなく、今こそ必要なものだと思うからこそ、儂もPTAの事を未だにあれこれ考えているのだ。その為にどうするべきか、ちゃんとここには書かれていて、ある意味PTAについて一つの答えに到達したと言える気がする、というのはそういうこと。

PTAの問題、と一括りに言ってしまうけれど、何が問題なのか?そして、どうすれば問題でなくなるのか?という論点。PTAはどうあるべきなのか?という論点。さらにPTA自体が必要なのか必要でないのか?という議論。
それぞれは別の話なのに、どうも一緒くたにして語られがちなのは、多くの人の中でまだそう言った事が整理されていないからなのだと思うのだ。
もちろん、儂も。
それがわかりやすく整理された形で書かれているのはとてもありがたい。ようやく建設的な議論ができる。

とくに吹上小の下方丈司さんのまとめ。
・社会の3つの変化
・これから必要な3つのアップデート
・アップデートのための3つの課題
・課題のための3つのポイント
わかりやすい。うん、めっちゃわかる。

まぁ、それも含めてそもそもの考え方のパラダイム転換が実は必要で、実はその壁を越える事が大前提なのだ。
多分、この本がすんなり入ってくるのは、執筆されているみなさんが、すでにPTA問題に長く取り組んでいる中でそれをすでに共通認識として持っているから、とは言えるのかもしれない。逆に、まださしてPTAの何が問題かわからないというような人(古いパラダイムのままの人)にはこの本でもやっぱりわかってもらえないのかもしれない。

例えば、社会にはいろんな状況の人がいて何か活動をするにしても同じスタンスではできないし、そもそもできる人とできない人がいるし、もっと元から言えば興味がある人もいれば全くない人もいる。前提が多様であるという当たり前すぎるくらい当たり前である事が、強制PTAを容認する人たちにはその部分を共通認識として話をする事ができない。
PTAは入退会自由の任意団体、という大前提も、その揺るがし難い位置付け以前に意識の部分で話が食い違うのだ。

あと、理念に伴う具体的な形だよね。
松戸の竹内幸枝さんが実現した「チーム栗っ子」の概要みたいなものを根っこにきちんと置くと引き継いでいく方もわかりやすいし、ベースにそういうのがあるとそれが原則になって活動できるから、単なる前年踏襲にはならない。めっちゃ共感する。

次はそれをちゃんと現実のPTAに反映していけるのかどうか。
まぁ、それがまた大変なんだけど、そんな事言っていたら猫紫紺さんにきっと怒られてしまう。

今さらですが、あらためて石原慎子さんのご冥福を。
そして感謝と猫さんの想いを(勝手に)継いでいく決意を。

「ぼくらの戦争なんだぜ」(高橋源一郎著)

2023-12-24 18:38:26 | 読後感想など
多分、源一郎さん、タイトル考えるの面倒になってるんじゃないかな(苦笑)
ま、それは置いといて。

やっぱり今読んどいた方がいいのかもしれない、と思って積読の山から抜き出したわけだけど、あらためて気付かされること色々。

たとえば、
そもそも戦争がどんなものなのか?
という問いに対して。大きく答えることはそりゃできる。けれど、個々の物語にそれを求めようとすれば、戦争の話というのはこういうものだ、などと杓子定規に一括りでは語れるものではない事はわかる。人それぞれ見ている景色も違うし立場によって大きく異なるし語る時に思惑も入り込む。ほぼ同じ場所の同じ立場でも文字通りたった一歩違っただけで全く違う景色になる。いや、本当は当たり前すぎるほど当たり前なのだが。

でも戦争の語りとはこういうもの、というような思い込みはやっぱりあるのであって、それに合致しないものをどうしても儂らは排除しがちとかね。
そういえば、向田邦子さんの「父の詫び状」の話があったが、やはり東京大空襲を経験した儂の母親もその時のことを笑い話のように語っていたのを思い出した。

結局、多くの物語に触れ続けることでしか本当のところには近づけないということになるのだろう。
となれば、読む経験を重ねることでつく読み解く力を磨かなくてはいけないということか。凡庸に言ってしまうと。

もう一つ。
戦時下にはおそらく正しい判断(そもそも正しさとは何なのか、とか言い始めたらまた長いのでそれも置いといて)などできないのだろうな、という事。戦時下ではいろんなものがカオスだ。思想も言論も感情も。その中で発せられるものは沈思黙考して得られるようなものであるはずはない。
(っていうか、そもそも平時だって言っても儂らに正しい判断ができているのか?と聞かれれば答えは否でしょうが、ねぇ)
。。。ならば、なおのこと、、、
そんな中でも自分の言葉を見失わずに、残した先人には敬意を持ってしまう。
もちろん、時局や空気に流されてあるいは権力におもねりあるいは本心を隠して国威発揚やプロパガンダにのっかた作家たちもたくさんいたわけで、でもその人たちを果たして責められるのかな?とも思う。正直言って、儂だってそんなにしっかりした意志を持っている人間だと言い切る自信はない。だからと言って、その人たちを不問にするのもまた違う気はする。せめて教訓にはできるか。

教訓といえば、歴史教科書の問題だ。
わかっていたとはいえ、日本の歴史教科書のあり方よ。
だからと言って、今のおかしな政権下で教科書を見直せと言った時に果たして期待するようなものを作ってもらえるのか?(反語)
改定の度に問題になる教科書検定制度っていう、いまだに嫌な感じの臭気を吐き続けているヤツもいるし。

この本で源一郎さんは作家である自分の立場を明確にして書く。
だから、言葉とか表現とかにすごく注視していて、そこは儂のような素人では気付きにくいところだなと思う。
言葉にこだわる。母語の話も出てきたけれど、それはまた文化でもあるし、ルーツでもあると思うのだ。儂は作家ではないし、賢くもないけれど、気になった言葉についてはこだわっていきたいし、それがまた戦争に争うことに多少なりとも繋がっていくんじゃないのかな。

そんな馬鹿な、って思う人もいるだろうけれど、儂ら庶民の多くがそんな小さな営みを大切にするのなら、それは戦争への道などという冷静に考えればアホな選択を回避できる方法の一つなのかもしれない。

決して大袈裟な話ではないと思うんだけどな。



https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=23702