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ぱたの関心空間

関心空間と徒然なるままに。

「水道、再び公営化!-欧州・水の闘いから日本が学ぶこと」(岸本聡子著)

2025-08-17 15:49:16 | 読後感想など
儂の住む城陽市では、ウォーターPPPといって、民間企業への包括的委託をすることになった。
岸本さんが5年前のこの本で懸念していた事が今まさに進行している。包括的民間委託だから民営化ではないと言い訳はしているが、その実は岸本さんが書いているように、市民の公共財である「命の水」を儲けの対象として水メジャーに売り飛ばしている事に他ならない。

なんという事だろう。
もっと早く本を読んでおけばよかった。
いや、後悔したところで始まらないし、儂1人がこの本を早く読んでいたところで民間委託を回避できたわけではなかろう。
それでも多少なりとも周りの人に話くらいできたはずだ。



「水は権利」
そう。儂らが生きていく上に必要不可欠な権利なのだ、水は。
水は商品ではない。水は「コモン(共有財)」。
水を守るとは儂らの生活を守ること。水から民主主義が生まれるのだ。

基本的には民主主義の話だと思う。
いや、「日本は民主主義の国です」とかそういう表面上の建前的な話ではない。
本気の民主主義を取り戻さなあかん、という話なのだ。

「民主主義」
まだ難しいのだろうか?この言葉は。

ぱたくん流に簡単に言っちゃいましょう。

自分たちの事は自分たちで決めよう、自分たちの事なんだから任せきりにしないで自分たちで考えよう。それが民主主義でしょう。ね?

当たり前?
そう当たり前なのだよ。でも、その当たり前ができていないのだよ、この国では。

宮台真司は言う。日本は「おまかせ民主主義」なのだと。
すなわち「任せて文句を言う」のが日本人の考えている民主主義。
でも本当は「引き受けて責任を持つ」べきなのだと。あぁ、耳が痛い。

日本ではどうにも未だに公営部門の民営化(民間委託)は効率的で経済的でいい事だ、みたいな思い込みが強い。
なぜだ?儂には理解できない。

そりゃ昔「お役所仕事」などと揶揄されていたように、非効率な部分は確かにあって、それを多少なりとも是正するのにカンフル剤的に民間の力を借りる事があったっていいとは思うけれど、セクションをそのまま民間にとか、まして事業丸々民間委託とか、根本的にやっちゃいけないんだ。

考えてもみて欲しい。
なんで公がやってるの?なんで公があるの?って話だ。そこには常に理由がある。
公共性がある、割に合わない、長期的継続的なニーズ、平等性。
民間企業というのは営利企業の事だ。良い悪いを別にして儲ける事が至上命題である。という事は、必要以上に利潤をあげようとする、経済合理性の為に不採算な部分を切り捨てる、見合わなければ途中で撤退する、という事はフツーにありえるわけだ。
語弊を承知で言って仕舞えば、無責任でいいのが民間だ。
根本的に相容れない部分が多いのに、なぜか民営化は歓迎される。
なぜだ?儂には理解できない。

そして何よりも公共のものは公共財。
つまりみんなの共有財産である。
民営化とはそのみんなの大切な財産を民間企業に売っぱらう事である。
なぜ、みんなの財産なのに民間に売ってしまうのだ?しかも所有者である市民不在のままに。
なぜだ?儂には理解できない。

ウォーターPPPを考えよう。
ウォーターPPPレベル4と呼ばれるものはコンセッション方式といわれるものだ。
城陽市の場合はウォーターPPPレベル3.5で包括的民間委託。ただし、国はウォーターPPP3.5はウォーターPPP 4に移行するためのステップだと明言している。
(ちなみに、城陽市は「現状では」4に移行しない、と言っている。逆に言えば、現状に変化があれば移行する事はありうるという事だ)
コンセッション方式というのは運営権ごと民間企業に渡してしまう。運営権というのは物件(財産権)なので、売り買いできるし抵当権にもなる。つまり、この企業なら大丈夫とか言って売却したは良いけれど、その後気づいたら別の企業が買い取って当初想定していなかったとんでもない運営をする事だってありうるのだ。

え、ちょっと待って、怖すぎませんか?それ。
端的に言うと、ある日気がつけば信用できない会社が水供給をしていても不思議ではないと。。。

全然大丈夫じゃないお話です。

民間委託する理由の一つは一般的には効率化。無駄を省く、なんて言われてね。
素朴に思う。なんでそんなに民間企業を信用しているのだろう?
行動理念に倫理観をどっかと据えて、良心的で市民の期待を裏切ることのない良い会社ばかりなのかしら?と。
利潤化の為に無駄じゃないものまで省くとは思わないのだろうか?

ちゃんとチェックすればいい?
ちゃんとチェックすることがどれだけ大変なことか。
ちゃんとチェックする手間を厭わないのならば、そもそも自治体が自分でやった方がよっぽど効率的ではないのか?
企業はあの手この手で、自分たちの利潤を最適化するための障壁を取り払うことに労苦を厭わないものだ。
城陽市を見てもわかる。サウンディングとか体のいい言い方をして提案を取り入れるなどとしているけれど、そんなもん内容をすり合わせて企業に便宜を図っていると想像するに難くない。
そうじゃないというのならば、なぜサウンディングの内容を公開しないのか?

パリでも、チェック機能は有名無実化していたという。
再公営化したら逆に大幅に収益が改善されたというのだから、全然シャレにならん。

効率化効率化って言うけれどさ、本当に民間になったら効率化されるの?ってことを一体どれだけの人が検証したのだろう?
岸本さんは言う
「民営化でかなえられる『効率化』とは、水道事業で働く人々の賃金カット、雇用者数の削減、必要な設備投資の先送りなどの『成果』でしかない。見せかけの『効率化』」である、と。

利潤を追求する企業のもう一つの特徴は、短期的な視野で経営判断をするということだ。
基本的に一年ごとに決算があり、株主は経営陣に対し、その短いスパンでの利潤を追求することを求める。
もちろん長い目で見て、先々利潤が見込める場合は長期的視野に立っての判断もありうるだろう。
でも逆はどうか?今良くても将来性がなければいつでも切り捨てる。そういうものではないのか。
長期的視点で持続可能でなくてはいけない水道経営に、短期的な利益を求め続ける企業の姿勢は根本的に相容れないものである。
自治体の務めは長期的に持続できる能力を次世代に継承することであり、利潤とは関係ない責務だ。それは企業の論理ではできないものであろう。

ちなみに、
フランスでは2001年以降、水道事業を民間から再公営化した自治体が109件。
逆に公営から民間に移った自治体はゼロだという。

そもそも、今日本の政府が必死こいて進めようとしている官民連携(PPP/PFI)だけれど、たとえばイギリスではすでに公会計委員会によってPFIのデメリットが報告され、2018年には財務省も新規のPFIを凍結すると発表している。曰く
「PFIは金銭的メリットに乏しく、柔軟性がなく、徒に煩雑である」
とのこと。
かつてPFIを推進したイギリスの経済誌「フィナンシャルタイムズ」も2017にはこう言い放つ
「水道民営化は組織的な詐欺に近い」
イタリアなどは一度は水道を民営化する法律が提案されたものの国民投票で否決。さらには憲法を改正して、水道事業で利益を出すことを禁じてしまった。

今からPFIをしようとか言っている日本。
一体、何周遅れなんでしょうか?

他の自治体は間違っても城陽市に続かないで欲しい。
今必要なのはミュニシパリズムとフィアレスシティ運動。
政府や府といった上の組織から地方を守る、市民のニーズを優先する。
民主主義とか難しいと思わないで。自分たちの事は自分たちで決めよう、そういう当たり前の話なのだよ。

「ポピュリズムとは何かー民主主義の敵か、改革の希望か」(水島治郎著)

2025-08-11 21:48:51 | 読後感想など
ポピュリズム、ってなんやねーん!?
と思ってた。

だって、ポピュリズムってポピュラー(人気がある、民衆的)って意味でしょう?
民主主義的に考えれば民衆に人気がある、民意が反映されることは悪いことでは無いわけで、なぜそれが批判的に取り上げられがちになるのか?と疑問に思っていたのだ。

それは儂がれいわ新選組を支持していて、そのれいわがポピュリズム政党と言われることもあったりして、さらにここで(名前を言いたくも無い(^○^))参政党とかが出てきたらそれもポピュリズム政党とか言われてて。でも儂的にはあの政党とれいわ新選組を一緒にはしてくれるなという強い意識があって、その違いって何やねん?と思っていたわけだ。

結論から言えば、両者はポピュリズム政党であっても全く別のタイプである、というのがわかる。簡単に言えば、ラテンアメリカに多くみられる左派的ポピュリズムと、ヨーロッパで台頭している右派的ポピュリズムということになるだろう。
(左派、右派というレッテル張りには抵抗のある儂だけど、ここでは便宜的に使います)
まぁ、それは日本の政党の中でもれいわ新選組は左、一方は右にマッピングされがちなところだから分からなくもない。

ただ、おもしろい、、、というか、最初理解できなかったのは、
維新かられいわ新選組とか、れいわ新選組から参政とかに投票先を変える人が結構いることだ。イデオロギー的には相容れない右派と左派の間を容易に行き来するというのはちょっと政治的な考えを持っている人ならばあり得ない。確かに共通する主張もないわけでは無いのだけれど。
いや答えは簡単で、逆にいえば政治的に無関心だからこそ平気で違うイデオロギー感を行き来できるという事でもある。
ツヴェタントドロフの、右や左というのは上であり、ポピュリズムは下だという指摘とも通じるところだけれど、右だ左だと言えるのは既存政党が持つ理念であり上の方の政治に関心がある人たちの話。下から見ればどっちだろうが関係なく、上にある既存政党ってのはすべからくダメって話なのかもしれない。
でも、それってどうなのだろう。
バカの壁を読んだ時の感覚がまた蘇る。

本書は2016年刊行だから、参政についての論考には間に合ってないけれど、あの政党の台頭については単純に西洋的右派ポピュリズムと同じだとは言い難いところもあるな、と読みながら思った。

ヨーロッパの場合は実際に多くの移民が流入してきており、多くの国民は異文化との軋轢を直接肌で感じているわけだけれど、日本は果たしてどうか?
日本なんてのは政治家からして移民と難民の区別もつかない(というか意図的に混同して話している?)、そもそも移民の人数も桁違いに少ない。なんやったら外国人観光客の問題とも混同している人もいるような状況である。感覚が全然違う。まして、排外主義政党が主張する外国人問題が悉くデマであると否定されちゃうような状況でもある。
加えて問題だと思うのは、それでもそのデマに流されてその政党を支持してしまう多くの日本人の心象である。

何故だろう?
一つには日本人の外国人アレルギーか。はたまた差別意識か。もしくは辺境人(by内田樹)故のコンプレックスの裏返しか。
もう一つ感じるのは、上で書いたようにポピュリズムは下だという指摘に通じるもの。古谷経衡さんは、無党派層というよりは無関心層があの政党を支持しているのではないか、と言った。
それはヨーロッパと同じか違うのか、専門家じゃないからよくわからないけれど、政治的無関心、政治的に無知であるという意味合いが、どうにも日本の場合には質が違う気がしてならないのだ。
無自覚に空気に流されているというか、無責任に流行にのっているだけというか、そこに本人の意思はきちんとあるのだろうか?と思ってしまう。
まぁ、それはあくまで儂のなんとなくの不安感。

上でも書いたように、儂はれいわ新選組を推しているから左派的ポピュリズムには贔屓目になる。
少なくともれいわ新選組があっちの政党と絶対的に違っていると思うのは基本的人権を重視しているってところじゃないかな。

著者は「『リベラル』な価値『デモクラシー』原理を突きつめればポピュリズムを正当化することになる」と懸念を示しているけれど、ここに『ヒューマニティー』を入れた場合には右派的ポピュリズムを正当化することにはならないのではないだろうか?
事はそんなに単純ではないのだろうけれど。

「1984」(ジョージ・オーウェル著)

2025-07-06 19:42:20 | 読後感想など
「なんだコレ?気持ち悪い、読まなきゃ良かった。」
本当に正直な感想はそれだ。



途轍もない嫌悪感。
それは、この作品自体に対してなのか?それともこの作品に描かれている世界に対してのものなのか?
実はそれさえもよくわからなかったのだ。

と、
ちょうどさっきニュースの中で、ダガー賞というミステリー文学賞を受賞した王谷晶さんがこんなふうに言っているのを聞いた。
「リアルの暴力が溢れている世界では、フィクションの暴力を楽しむことはできない」

あぁ、それかもしれない。

「1984」、有名なディストピア小説である。フィクションであるディストピア小説は、現実の世界がディストピアじゃないから楽しめるのだ。
現実の世界がこのディストピアに近づいてしまったら、儂らはもうディストピア小説を娯楽として楽しむことはできない、ということなのではないだろうか?

この小説の中での(おそらく)1984年の世界は、(おそらく)3つの大国に別れている。その世界では全体主義的な政治が支配しており、日常は監視され、情報は統制され(というか政府に都合よく捏造され)、言葉まで改変され人々は考える事も奪われる。

単純に理解すれば、米ソの冷戦が始まった時期に書かれたこの小説が指弾するのはソビエトに代表される全体主義であり、その政治体制への警鐘なのだろうな、と思う。
ところが、だ。
今や、人々を監視し、情報を統制し、言葉を弄して骨抜きにしようとしている事ににおいては日本も含めた西側も同じであり、いやむしろ自由主義陣営の方が(その名前とは裏腹に?いや、「自由は屈従である」という言葉からすれば必然なのか?)国民が無自覚であるところをついて全体主義化が進んでいるように感じるのは儂だけではないんじゃないだろうか?

時を同じくして、今は参議院選挙真っ最中。

こんな記事を読んだ。

「参政党「新日本憲法(構想案)」の下の世界〜あなたのスマホも検閲され、没収可能。SNSも禁止。国籍剥奪されて自宅没収も。」

読んで思った。

あぁ、そうか。
参政党は「1984」の世界を目指しているのか。

なんだか腑に落ちた。

参政党についてはこれまでも色々と言われていて、まぁ言っていることはメチャクチャだし陰謀論入ってるし、ストレートに差別的だし、トンデモ政党ど真ん中だと思っていたのにちょっと前の世論調査では立憲民主に次ぐ支持率を出したものもあったりして、目眩する気分だった。

支持している人たちが、、、本気で支持している人たちがいるとしたらそれはどういう事なのだろう?

1984年の世界のスローガンの一つは
「無知は力」
である。

無知を権力の力にしているのだとしたらどうだ。

古谷経衡さんがラジオで言っていて、これまた合点がいったのは、参政党を支持している人たちは無党派だった人たちではなく、無関心だった人たちだ、という話。

「参政党支持層の研究」


元々政治に関心がない、参議院と衆議院の違いもわからない、政治的に無知な人たち。言ってみれば政治的にはまっさらなところに危機感を煽る言説を撒いて洗脳しているイメージ。

なるほど、人々から考える気力を奪い、2分間ヘイトやテレスクリーンやヘイトウィークで洗脳している「1984年」と同じではないか。

多くの人は、考えすぎ、と呆れるだろうが敢えて言う。
参政党的なものを受け入れるという事は、1984年的なディストピアを招き入れるという事だ。この社会が今すでにそれを許容しかねない空気を纏ってしまっているのだ。

この危機感が、儂が感じていた強い嫌悪感の正体なのではないだろうか?

参政党だけ悪者にしてはいけないな。

同じ事は、維新の会や国民民主、もちろん自民党の中にも見られる。
全てひっくるめてのことだ。

選挙期間は短い。
半分ほどいる投票に行かない人々は、無党派層なんかではなく、無関心層であるという現実も受け入れなくてはいけない。
結果はとてもイヤなものになるかもしれない。

でもそれでも、儂らは儂らの未熟の代償として受け入れ、そこからまた始めなくてはいけないのだろう。
本当の1984の世界がやってくる前に、儂らはもっと賢くなれるのだろうか?
それともウィンストンのように最後は消されることになるのだろうか?ビッグブラザーを愛して。

ヘイトを煽り、性愛を否定し、事実を捻じ曲げ、
「戦争は平和」
「自由は屈従」
「無知は力」
とか、平気で言うリーダーはもうそこまできている。

「ママは駄菓子のじゅうえんやー子育てはおとなと子どもの民主主義の学校」(西郷南海子著)

2025-06-15 11:00:18 | 読後感想など
やっぱり西郷さんを推す理由はここにある。
教育の研究者にして子育ての実践者。
学者でありながらいち保護者でもあり、子どもたちの目線から物事を見られる稀有な存在。話している内容が地に足が着いている感。儂ら庶民にに地続きの生活感と半端ない行動力と実行力。

なーんて書くとかたっくるしいけれどね。

そして、
れいわ新選組推しだー、西郷みなこさんを応援するぞー、とかふだん言うてるくせに今頃になってやっと本を読む儂。

いや、逆にタイムリーと言うべきか?

とはいえ、本の内容的には直接に政治的な感じはしません。今までの西郷さんの実践的なもの。あと、お子さんを通じて考えた色々、的なもの。
けどまぁ、何がどう転んでも生活の全ては政治に直結するのですよ、それを地でいっているのがすごいよね。

というか、そもそも日常生活こそが政治なのだ、普段の暮らしの延長線上に政治があるんだ、って話なんだけどね。本当はね。

その基本的なところが全部政治と繋がっていく感覚がよくわかる。
それもとても明快に単純に。



前書きからしてこうだ
「子どもとは、人間の最も根源的な姿を表すシンボルとも言えますね。子どもは、戦争も核も必要としていません」
世界の子どもを私たちの子どもだとみてとらえれば、混乱して見える政治の世界に一本の筋が通る、戦争も原発もやっている場合ではない、と。

もう、これだけで全部を言い切っちゃっている気もしちゃうよね。このプリンシパルだけ徹底することができたら、本当はこの世界は何の問題も起きないんちゃう?って思っちゃう。
政治的にあーだこーだ言っているのがもう全部茶番に見える。

なんでしょう?
儂らに今足りないもののはなんでしょう?
子どもの立場から考えるっていう感覚なんじゃない?
儂らもさ、かつて子どもだったから、さもわかったような気でいるかもしれないけれど、どうにも子どもの感覚を忘れてしまっているのだよ。だから、再度子どもたちにちゃんと教わらなくちゃいけないんだ、きっと。

そして西郷さんが始めたのが「駄菓子のじゅうえんや」なわけだ。
駄菓子屋さんは子どもたちの社交場だからね。
あぁ、なんと泥臭い。
でもそんな事ができる大人ってそうそういないぜ!

そして、子どもの話をきちんと聞ける大人も実はそうそういないんだな、これが。
これ本当はすごいことなんだけどな。

もちろん、話を聞くだけで終わりじゃない。
ちょっとかしこまった言い方をすれば、話をするというのは自分の意見を主張するということだ。そして、その次には主張を実現するというところにつながる。

ヤギの除草を公約に掲げて実現する話なんて、最高にカッコいいと思わん?
いや、カッコいいとか、面白いね、で済まされないんだよ。
それって、自分の話を聞いてもらって、その意見を実現するために頑張ることが許されてて、その実現に協力してもらえて、最終的にそれを成し遂げることができる、というとても大事な成功体験なのだ。
意見を表明してもいいし、
そのために行動してもいいし、
それを実現してもいいんだ。
そう思えることが子どもたちにとってどれだけ大切なことか。

とにかく、学校というのは子どもたちを押さえつける方にばかり行きがちである。
でも子どもたちのベクトルは常に伸びる方向に開いている。
根本的に違うのだ。

どうにも大人も、そういった抑えつけることを当然とする空気に慣らされてしまっている。

そもそも話を聞く、と言うか、儂らは話をしなくなっていると思うんだ。大人も。

5年間PTA会長をやっていた、というところにもシンパシーを感じる儂だけど、そもそも最初儂はPTAなんか無い方がいい、くらいの感じだったんよね。でも今はPTA的なもの(多くの学校が未だにそうでみんながイメージするブラックなPTAじゃなくて、コンプライアンスを遵守した自由参加のコミュニティ)は絶対にあった方がいいという意見になった。
その理由の一つはPTAがとても大事な「場」になりうる、と感じているからだ。

常々感じている。儂らには今、圧倒的に「場」が足りない。
ゆっくりできる「場」安心して話ができる「場」信頼できる関係性で思考できる「場」。

そういうコミュニティの、最近は非効率だとか不合理だと言われがちなみんなで集まっての作業や準備でのおしゃべりという非目的的効果を重視するところとかもめっちゃ共感する。
でも、これもまだまだ理解されにくいんだな。ムダだとか勿体無いとか意味ないとか言われちゃうんだ。ムダに見えて無駄じゃない、勿体無いように思えるけれど違う価値がある、意味がないという意味とは別の意味がある、それに気づける余裕を儂らは失っている。「場」はそれを再生させるためにも必要なのだ。

誤解されたくないので重ねて言うけれど、そんな「場」は今多くの人がイメージする嫌われ者のブラックPTAで実現させるのは無理だからね。だからわざとPTA「的」なもの、と言っている。

儂は儂らとかけ離れた政治家なんて選びたくない。一緒になって行動してくれる政治家が欲しい。

子どもを通じて教育のあり方とかね、子どもたちの権利とかね、丁寧に何かを実現する経験の大切さとかね、場がある事の大切さとかね。

共感することだらけですわいな。

https://www.kamogawa.co.jp/kensaku/syoseki/ma/1316.html

「原発を止めた裁判官による 保守のための 原発入門」(樋口英明著)

2025-05-31 18:37:01 | 読後感想など
まぁ、儂は保守ではないのだけれど。。。(自称)
まぁ、儂は右翼だとは思っているわけで。。。(自称)
まぁ、それは半分ネタみたいなモノだけど。。。(自笑)

儂が嘲笑したいのはそういった言葉でレッテルを貼って、揶揄し、議論をする気のない人たちだ。
樋口さんのように本気でそういう事を言える人はリスペクトするよね。

さて、
かつて裁判長として、大飯原発運転差し止めを命じた元福井地裁裁判官、樋口英明さんによる原発についての本。

勿論裁判を通じて明らかになった問題点も多々あるのだけれど、樋口さんは原発の本質として2点を挙げ、根本的に原発は運転を認められるような代物ではないと明確に看破する。
それは、
・原発は管理し続けなければ事故になる(スイッチ切った後も人間が管理し続けないとすぐにヤバい事になる)
・万が一事故った時の被害がデカすぎ
の2点。

現に、東日本大震災の時にはこれが現実のものになりそうだったわけだ。
確かに原子炉は緊急停止した(スイッチは切られた)が電源を失い管理できない状態となり、東日本壊滅(東京を含む日本の半分はダメになる)を覚悟する事態となった。いくつもの偶然が重なったからたまたま回避できただけの話である。

簡単に「スイッチ切った後も管理し続ける」なんていうけれど、それがどんなに過酷な事だったかは、東電の事故直後の吉田所長以下、フクイチにいた作業員さんたちがどんな過酷な現場にいたのかドキュメンタリーやレポートで明らかになっている。
光も失い計器もあてにならず瓦礫に行手を阻まれ、それでも人力でなんとかしようとするも高い放射線量は容赦なく襲いかかる。。。。

そういうの無理ゲーって言うんじゃないですか?(>_<)

東電の事故を受けてその後、基準の引き上げや、審査の厳格化などは一応あったにせよ、それで日本の原発が格段に安全になったとは到底思えない。教訓を活かすのが苦手な儂らは案の定小手先の事だけで世界一安全な基準だとか嘯くのだ。
また同じような事態にならないと、誰が言い切れると思っているのか?

そして、この本の中で何よりもショックなのはその引き上げられたはずの安全基準。
基準地震動の話だ。

各地の原発は、これだけの地震の揺れに耐えられるという耐震基準を持っている。
数値にして620ガルから1200ガル。
電力会社は、それだけの耐震性を満たしているから地震が来ても原発は大丈夫と言いたいのだ。果たしてこの数値が妥当か?って事だ。
つまり、大地震が来てもこの地震動よりも数値が小さければ問題がないって事になるのだろう。果たして。。。

 2000年の鳥取西部地震・・・1142ガル
 2003年の宮城県沖地震・・・1571ガル
 2004年の新潟県中越地震・・・2515ガル
 2008年の岩手宮城内陸地震・・・4022ガル
 2011年の東日本大震災・・・2933ガル
 2016年の熊本地震・・・1740ガル
 2018年の北海道胆振東部地震・・・1796ガル
 2024年の能登半島地震・・・2828ガル

って、
ことごとく1000超えてるし!
全然ダメじゃんね。

もちろん原発直下でなければこの数値ではないわけだけれど、じゃぁ原発のそばが震源にならない保証は?
そう問えば関電はこんなふうに答えるわけですよ。
「原発の敷地に限っては強い地震はきませんから安心してください」
なんですか?アホですか?根拠は?希望的観測?科学的とは?

そんなんで安心できるか!?

しかも聞いて!!!

ハウスメーカーである三井ホームの作る家の耐震基準はなんと5115ガル!

つまり、原発は普通に私たちが住む家よりも地震に弱いってことですよ!
ありえへん。

三井ホーム以外でも

 住友林業・・・3406ガル
 セキスイハイム・・・2152ガル
 積水ハウス・・・2112ガル
 大和ハウス・・・1782ガル
 ミサワホーム・・・1873ガル

メーカーによりばらつきがあって、もちろん低いところもあるのだけれど、少なくとも上記の大手メーカーの家は原発よりも頑丈です。びっくり!

大丈夫。。。ですか?
原発さん。。。

ちなみに、620ガルは震度6弱相当。1200ガルは震度6強相当。
わかりやすく言えば原発の耐震性は

 震度6弱・・・危うい状況に
 震度6強・・・極めて危険な状態
 震度7・・・絶望的

南海トラフ地震の想定震度は伊方も浜岡も最大で震度7。

大丈夫。。。じゃないですよね?
原発さん。。

原発の立地条件に「断層の上にあったら建てちゃダメ」ってのがあるせいか、そこに断層があるかどうかばかりが話題になるけれど、断層があるところは次も地震で動く可能性が高いってだけで、今は断層じゃないって事になっているところが動く可能性だってあるわけだ。しかも敷地に断層がなくても、近くの震源で大きな揺れがあれば、当然地震動だって大きくなる。色々電力会社は理屈をこねくりまして影響を低く見せようとしているけれど、これは真理であって否定はできない。。。と思うのだが。はて?

もうイヤんなっちゃうよ。
本当に原発をなんとか続けようとしている側の話はウソや誇張、隠蔽に誤魔化し。不誠実さをこれでもかこれでもかと叩きつけられる。
汚染水の海洋放出然り、避難計画然り、被曝線量限度然り、原子力規制委員会のあり方然り、原発がエコだという主張然り。

常々思っている。
原発問題といえばエネルギーの問題か環境の問題であるかのように言われがちだけれど、本質的には安全保障問題なんだよね。
樋口さんも言い切る。
「原発問題はエネルギー問題以前にその本質は国防問題である」
と。

至言である。
国を守るために原発はなんの役にも立っていないどころか、逆に脅威を拡大する存在でもあるのだ。

「海岸沿いに50数基の原発を並べている状態では、開戦と同時に負けが確定する」
確かに。
「原発は自国に向けられた核兵器」
という河合弘之さんの言葉にもうなづける。

原子力非常事態宣言は未だに撤回されていない。
つまり、日本は未だに安全保障上問題がある状態。
安全が脅かされつづけている、という事じゃないか。

樋口さんは自分が保守だからと自負することもあって「保守のため」と銘打っていると思うのだけれど、保守でなくてもよくわかる話だ。

あと、このテーマは「真の保守とは何か?」って問題提起にもなるよね。

保守って何?
「旧来の風習・伝統・考え方などを重んじて守っていこうとすること」by デジタル大辞泉
ふむ。

原発の事故直後儂が思っていたのは、原発をすすめようとする考えは科学を信奉する進歩主義であって、保守とは言えないのではないのか?という事だ。もしそうだとするのならば、保守だという人こそ原発に反対するべきではないのか?と。

確か中島岳志さんが言っていたと思うんだけれど、
人間は不完全で間違うものだという認識を持っている。自らを過信せずに慎重に理想を実現させようと永遠の微調整をするのが保守なのだ。
みたいな話。
間違いない。本当の保守だったら過信せずに慎重であるわけだから、間違いが明らかになった原発をすすめようなんていうわけないじゃんね。

樋口さんはマジメな人だ。
マジメに裁判官をしていた人だから、最後には司法を疑うことはしない。
でも、儂らはどうなのだろう。
儂らはすでに司法を信じられなくなっているのではないだろうか。