ぱたの関心空間

関心空間と徒然なるままに。

僕たちの哲学教室 @ 京都シネマ

2023-08-30 18:57:35 | 映画感想

小学校で哲学?
という驚きはもうない。

フランスの幼稚園での哲学の授業のドキュメンタリー映画が公開されたのは何年前だったろう?
確か福島のどこぞの小学校で哲学的対話実践をしているドキュメンタリーを観た記憶もある。
大阪の大空小学校の全校道徳の取り組みもあった。
(教科としてではなく、自ら考える事を目的にする意味で、儂の中では「哲学」も「道徳」も「倫理」も同義で使う事にお許しを)

もちろん、だからと言って日本で(いや、世界でも?)小学生に哲学、が既に一般的かと言えば決してそういうわけではないので、そこらへんはこれから先に考えなくちゃいけないところだなと思う。
っつーか、道徳のあり方の方向性としてあらまほしいのは儂的には、こうするべきこうあるべきという答えがある(と思われている)教科書的道徳ではなく、多様な考えや価値観がある事を認めて授業としてはオープンエンドで良いから自分自身の思索を深める事を目的とした教育活動になれば良いと思っているので、そういう意味では哲学(的対話)に近い考え方だと思っている。

ただし、この映画の中での哲学的対話が儂の期待する理想的なものかといえば、映画を見た限りで言うと微妙だったかな。
簡単に言うと、ケビン校長の目線は子どもたちのところに降りてきて、ちゃんと対話を大事にはしているのだけれど、やっぱり結論があって誘導する感じになっているところが多い気がしたのだな。それは、この映画が哲学の授業の時間だけでなく、学校生活全般にわたって先生と子どもたちを追いかけるドキュメンタリーで、授業の時間以外でのシーンは例えば子どもたち同士の喧嘩のような、今目の前にあるトラブルに対処するものだから、どうしてもそうなっちゃうのはわからないではないところなのだ。
でも、、、と言いたい感じはある。
教育活動全体を通して実践されるべき(と言うのは道徳の話ですね)というのを現実的に実践する困難さ。哲学的対話の難しさではあると思っている。
後述したいのだけれど、やっぱりそれは加えてこの学校がある北アイルランドの置かれている過酷な状況の事も大きいと思う。
誤解のないようにさらに重ねて言うと、そう言いながらも、だからダメ、と言いたいわけじゃないのよ。儂は。
答えはそこにあるものではなく、見つからない答えを模索し続けることこそが答えなのだから。

舞台は北アイルランド、ベルファスト。
北アイルランド紛争、勿論そういった紛争があることは知っているけれど、やはり詳しくは知らない。
この映画でも自分の浅学を突きつけられる。

街を(多分ドローンで)空撮した映像が出るのだけれど、びっくりするぐらい家々が整然と並んでいるの。
そして、驚くのは街の中にある長い壁。ベルリンの壁は崩壊したけれど、ここにはまだ壁がある。そして度々挿入されるのは十数年前のホーリークロス女子小学校での脅迫事件の様子?街の壁画には対立を煽るようなきな臭いメッセージ。リアルな現実。

儂は常々思うのだ。
学校は子どもたちにとって一番安全で安心できる場所であって欲しい、と。
日本でもそう思う。
映画HPのイントロダクションによれば、ホーリークロス男子小学校がある地域は、特に荒んだ地域らしい。ならば、ケビン校長の想いも同じなのであろう。

子どもたちは学校で(映画の中で)子どもらしい屈託のなさを見せる。
が、学校を出れば家庭と繋がり、その家庭は社会と繋がっており、社会の情勢不安は多くの家庭の情勢不安にも繋がる。そして、その子にも歪みは伝わってしまう。ケビン先生が哲学的対話でその子の気持ちを取り持っても、簡単に反故にされる虚しさに教師は立ち向かい続けなくてはいけないのだ。
「殴られたら殴り返せ」
学校の中でいくらそれで良いのか?という問い掛けをし思索したところで、家に帰れば再びそこで押し付けられる教義は「殴られたら殴り返せ」なのだ。
当たり前だけど(でもなかなか日本では意識されにくい事だけど)教育は学校の中だけでは完結しない。

それを考えれば、哲学的対話は本当は大人たちにこそ必要なのではないか、と儂は思っている。ケビン先生が保護者に向けて話をするシーンもあったな。ちょっと話は飛躍してしまうけれど、小学校のような教育機関というのは地域全体のコミュニティーセンター、カルチャーセンターである事が求められる事もあるのじゃないだろうか。勿論、その時にはその担い手を教師だけに求めるわけにはいかないと思うのだけれど。
大空小学校の全校道徳がいいと思うのは、そこに大人が参加して同じテーマについて子どもと同じように対話するところだ。
もっと言ってしまえば、大人にこそ哲学対話が必要だったりするのだ。

もう一つショックだったのがネットでのトラブル。
あれは、コロナでの閉校明けだったのかな。ネットで嫌な思いをした人と聞いて、イジメや性的嫌がらせが出てきたところ。
そうだよねー、今の子供たちはそういう危険性に晒されている。加害者の多くは大人だ。

実は荒んでいるのは大人なのだ。
負の連鎖、再生産に抗う教師をリスペクトする。
そこに哲学的対話が大きな役割を持つ事を儂は期待してしまうな。

君たちはどう生きるか @ イオンシネマ久御山

2023-08-23 23:29:51 | 映画感想
インコは人を食うのか。こえぇぇぇ。

聞くところによると、観た人の感想は真っ二つに分かれるらしい。
「とても面白かった、ぜひ観て」派

「意味がわからない、見る必要無し」派

曰く、宮崎駿の脳内にある事をそのまま映画にしたのだとか?

それを聞いて儂はめちゃめちゃシュールな脈絡のない観客置き去りの映画を想像していたのだけれど。。。
実際に観たら別にフツーに話は展開するし、しっかりジブリ映画だし、丸く収まるし。
いつも通りの宮崎駿やん!というのが儂の感想。

意味がわからない、といえば意味がわからない。
いや、でもさ、そんな事言ったら今までのジブリ映画なんて半分以上奇想天外の奇譚だらけだったじゃんね。
トトロ然り、千尋然り、もののけ然り、ぽんぽこ然り、ポニョもハウルもポルコもだ。
ファンタジーでしょう?違う?

まぁ、何かの意味を見出すことはできる。宮崎駿アニメになんらかの重いメッセージ性を求めたがるのもわからないではない。だって、ナウシカとかで始まったわけやん(えパンダコパンダは?カリオストロは?)。前の風立ちぬとかもあったし、今回だってなんと言っても「君たちはどう生きるか」だし。
いや、何かの意味を求めることは別に悪いことじゃない。
でも、その意味は(例えば監督や原作者やプロデューサーみたいな人らが特に言わない限りは)見た人の主観で後付けしたものに過ぎないのであって、いかにもな感想を言ったところで、製作者の意図と違うなんて事は当然にあるのだから、そんなもんにこだわるのはナンセンスだよね。

とかなんとか言い乍ら、儂もナンセンスなこだわりの感想文を書くわけですよ(爆)



んと、結論から言っちゃうと、わかりやすい「少年の成長譚」、もう少し具体的に言えば、継母を受け入れ実母の喪失を受け入れるための一連のお話、だと思ったのだけど。。。
「意味がわからない」という人がいる、というのを聞くと、えっそうじゃないの?儂表面だけしか観てない?とちょっと不安になるな。

もしも、一番意味がわからないのは何?と聞かれたら、儂にとっては主人公の真人だ。
アオサギが喋って、中から顔が出て、カエルに全身包まれても、、、動じないの。
塔の中で不思議な出来事に色々遭遇したのに、、、動じないの。
多分小学生くらいの設定だと思うのだけれど、腹が座っている。いや、座りすぎなんですけれど?
母親を病院の火災で亡くした時の狼狽以降、取り乱すことがない、という設定なのかしらん?

唯一、封切り前の宣伝ビジュアルで出てきたアオサギは先導役だよね。
鼻がさ。。。あぁ、これは猿田彦なのだな、と思った。
「あばよ友達」ってセリフはなんか、いかにもだけれどちょっとカワイイと思ったな。

まっくろくろすけ、コダマ、そしてワラワラ。
今までで一番媚びた感じの可愛さ全開。
でも、あれが人の魂という設定か。

ほんで儂にとっての1番の謎。
キリコさんはキリコさんと同一人物?
もしもそうだとしたら、ばぁやのキリコさんは本当は全てを知っているの?
わからぬ。

ガザ-素顔の日常 @ エージェンシーアシスト(SOCIAL GIFT THEATER)

2023-08-23 19:43:05 | 映画感想
ガザって馬が結構闊歩してるのね。🐴

基本的にはイスラエルと絶えず紛争状態にあるガザの、儂らとさほど変わらない日常のあれこれの様子を映し出す映画、という事なのだと思う。
けど、やっぱりどうしても紛争の影を見ずにはいられない。
いや、影という言い方はおかしいかな。それは隠されているわけでもなく、日常の一部でもあるのだから。

映画の後の感想共有の場で言ってたのだけれど、この映画が切り取る日常を見るだけでもやっぱり多少の知識が欲しくなる。
例えば、イスラエルとパレスチナがなんで敵対しているのか?その過程の中で何故ガザがこういう状態にあるのか?イスラム教はどういう宗教か。第二次大戦以降の中東情勢どころか、本当は数千年前からの話を知らなければ、ちゃんと理解することはできないのだろう。残念ながら映画の中で何か丁寧な説明があるわけじゃぁない(っつーか、それやっていたらそれだけで一大大河映画の出来上がりだ)。
もちろん予備知識なしで観ても構わないし、その上で色々疑問が湧いて興味関心に繋がるという事だってあるだろうからそれはそれで意味のあることだ。
だけど、先に知識があるのとないのでは理解に大きく差ができてしまいそう。それはちょっと勿体無いと思うのだな。(←勿体無い人)



さて、本題。
ガザの日常は厳しい。多分それは正しい。
でも、この映画が伝えたいのはそれでもそこに暮らす人たちの(儂らとさして変わらない)日常があり、そこでは(儂らとさして変わらない)笑顔にあふれる瞬間があり、普通に(儂らとさして変わらない)娯楽があり、そこの子どもたちは(儂らの子どもたちとさして変わらない、、、)遊び回っている(ように見える)。

儂らは戦時下(もちろん、厳密に言えばパレスチナは戦争をしているわけではないけれど。いや、むしろ戦争よりも酷い状況と言えなくもないけれど)にそんな日常があるというイメージをあまり持っていないのではないか?
そういえば、アニメ映画の「この世界の片隅で」は大戦中の庶民の日常を描いて見せていた。
ウクライナへのロシア侵攻では少なからず戦時下での人々のリアルタイムな普通の日常のレポートも見ることができた。
おかげで、たとえ紛争地や戦争下であっても束の間の平穏な時間はあり、そこには鬱屈した暗いイメージとは対極の明るく元気な日常もある事を儂らは認識するようになった。それでもまだ、ガザにもその明るい空の下の日常があると知ればまた驚きを感じるのだ。

でも、それを見せることは一方で戦争(紛争)下の過酷な現実をより際立たせる事にもなるのだな、というのが映画を見た1番の感想かな。
子どもたちが屈託なく飛び込む海の少し沖で漁師がイスラエル海軍に捕まり、歌う客を乗せたタクシーは空爆の廃墟の隣を走り、仕事に勤しむ人々は日に4時間の電力供給の為の突然の停電に納期の遅れを心配する、街角の日常は突然の爆裂音で瞬時に怯えた景色に変わる。笑顔で走り回る少女が次の瞬間には血にまみれて倒れている。5分後に何が起こるかわからない屋根のない監獄で人々は神経をすり減らしながら生きている事を知る。

普通の日常を見せられれば見せられるほど、そことかけ離れた現実に気づいてしまうのだ。

確か赤い月のマークは赤新月社(赤十字と同じ)だったかな?救急隊員の彼のやるせなさが胸に突き刺さる。

若者たちは抑圧された憤懣を壁の向こう側への投石で多少なりとも晴らそうとする。でも、投石に対してイスラエル兵が投げ返すのは容赦ない実弾だ。イスラエル兵を1人殺せば報復として何百というパレスチナの普通の市民が殺される現実。
それでも若者は石を投げる。なげざるを得ないのだ。石を投げる行為の後に弾に倒れる若者たちを救急車で迎えにいく彼の虚しさをどれだけ想像できようか?

またその彼が言う
「パレスチナ人以外のすべての人をうらむ」
と。
刺さる。。。

「ユダヤ人」だけじゃない。
「イギリス人」というわけでもない。
「パレスチナ人以外」と言うのなら、当然儂ら日本人だってその対象だろう。例外はあり得ない。
その時までどこか遠いところの話という意識で見ていた儂らは唐突に当事者である事を突き付けられる。
そうなのだ。この現実を傍観している以上、儂らはパレスチナの人々に恨まれても仕方がない当事者なのだ。

当事者と呼ばれるに足りる程にパレスチナの事を知らない儂らは、その違和感に戸惑うけれど、その事に無関心であるという事を含めて当事者であると思えば、「平和ボケ」という謗りを受け入れざるを得ない。

知らない、では済まないのが世界だと、繰り返し繰り返し言っていこう。


こちらは久御山町にあるエージェンシーアシストさんのキレイな社屋♪

特別編 響け!ユーフォニアム~アンサンブルコンテスト~ @ MOVIX京都

2023-08-20 20:39:34 | 映画感想
おお、その曲で始めますか!
まぁね、あの曲を大階段でやったんだもんね。
そっちもやっとかないとね♪

家人は小説も全部読んでるからストーリーをちゃんと知っているけど、儂は映画でフォローしているだけなので劇場版作品の間の展開は全然わかっちょらんのです。
今回もそんな言い訳から入るのです。にゃん。





今回の映画は特別編。
アンコンの代表が決まるまでの成り行きだけで話が終わるので1時間ちょいのお話。
まぁ、中身的には物足りない。かな?

さて、3年生が抜けて久美子たちの代が中心となる、ましてや久美子が部長でって事になっての話なので、以前にもまして人間関係と個々のメンバーの性格的なものの中で色々なストーリー展開がありそう?でなさそう?でどうなの?みたいなのはやっぱりこの尺だからなのか?
原作どうなん?<自分で読め!

そんなわけで、いくつか感想を。

まぁ、ぶっちゃけ儂的に以前からようわからんのは麗奈である。
いや、麗奈のキャラ設定はわからんでもない。わからんのは久美子との関係である。
もっと正確に言えば麗奈からのアプローチに対する久美子の気持ちの変化である。
だってさ、少なくとも中学の時には久美子は麗奈と距離があったわけでしょ?麗奈のキャラからしたって音楽に対しての主体性に乏しい(と思われる)久美子が彼女にとって魅力的とは思えない。「久美子は意地が悪い」みたいに言っていたと思うけれど、言葉の通りに受け取るものではないでしょう?何がどうこの二人をラブラブにさせるのか?その説得力を儂は求めてしまうのだ。
それとも、アンサンブル組む時に言っていたように上手さだけが麗奈の動機か?
(そうすると、最後のシーンはだいぶ意味深。。。)
まーなんつーか、この時点では既に相思相愛である二人の関係にあんまり色々言うんは野暮なんだけれどさ。
個人的には日出処の天子の太子と蝦夷をイメージしてしまうのだ。いや、全然違う?うん全然違う、ごもっとも。ま、個人的な印象の話でさぁね。お許しを。

あと、キャラ的に好きなのはね。葉月だな。
純粋に健気に真面目で元気だけど気遣いもできて。ちゃんと楽器にも向き合っていて、エラい!エラすぎる!夏紀先輩一押しやったけれど、葉月は二番手で(←何の話ですか?)。

あと、奏の動き(文字通り)が結構ツボ。ちゃんとした話をしながらあーいう落ち着きのない動きをなんやかんやしてるってのはね、なんかね、あるんだよね、なんかねー。

もう1人、やっぱりよくわからないのが、オーボエの先輩。
えっと、、、鎧塚みぞれ先輩?(今ググった)
なんか意味ありげな登場の仕方だけれど、そのキャラの特異さだけが印象に残ってそれがどういう意味があったのか。。。記憶にない。
あ、みぞれ先輩ってなんかスピンオフ作品の?
あぁ、そうだ「リズと青い鳥」(今ググった)。
んー、この話が何か関係あるのかしらん?

ただ、作品とはちょっと離れるんだけど思ったことがある。
久美子は部長。今回はアンコンということで、部長としての重責、みたいなのを感じて動く部分もあったりして、その中で責任を果たしていくというストーリーでもある。あと、久美子が入ったアンサンブル内の不協和音をうまく収めたりとかね。(っつーか、そうやって部内のゴタゴタが久美子の動きの結果丸く収まった、ってな事は部長になる前からあったわけで、でも身もふたもない言い方をすれば彼女が主人公なんだもん、当たり前だわな)

学年が上がって、責任のある立場になる。中高大を通じて、そういう事ってのはよくあることだ。
そんなかで成長する、リーダーの資質や人間関係についての理解を身につけていくという機会にも恵まれる。
もちろん、全員が全員そういう立場になるわけじゃないし、そもそもそういうのが得意な人苦手な人だっているので一概には言えないけれど、全国に何千何万と学校、そしてクラブがあって毎年毎年入れ替わりがあって、ってな事を考えれば部長副部長をはじめとした役員を経験する人は日本中に無茶苦茶たくさんいるわけで、でもその経験で得られる素養を大人になる過程でしっかりと身につけてきた人っていうのは一体どれくらいいるのだろう?とふと思ったのね。

いや、そりゃぁさ、リーダーになったからって言って自然とみんな成長するわけじゃないよ。なっても何にも学ばないまんまの人だってたくさんいるのは分かる。
でも、うまくいけば、人間的に社会的に成長できるチャンスでもある、というのはやっぱりあるよなー、とは思うんだな。うまくいけばね。
繰り返しになるけれど、リーダーになったらからっつって勝手に成長できるわけじゃないのよ。久美子は元々の資質があったとは言えるんだろうけれど。
ただ、そういう成長のチャンスを教育現場は活かせているのかな?と思って。
個人的な感想を言えば、滝先生は放任過ぎだと思う(そっちか!?笑)。
まぁ教員自体が忙しすぎてそれどころじゃないし、働き方改革から考えれば。。。(以下話が別だし長くなるので割愛)

お話の結末部分の曲に合わせた演出はじっくり見たい感じだったけれど、あの中ではそうもいかない。
ジレンマだね。

次のお話はいよいよ三年生編か?
ついに最後のコンクールか?
(それともまだ間に何かあるのか!?)



入場特典は麗奈

「学校で教えてくれない音楽」(大友良英著)

2023-08-15 12:22:57 | 読後感想など
今年の目標の一つは「毎月一冊は本を読む」。
今年三冊目の本を読み終えました♪
(えっと、今何月でしたっけ?(^^))

大丈夫。
まだ4ヶ月ある(違)。

大友良英さんはギタリスト、ターンテーブル奏者、ノイズの人。
でも儂にとっては2011年の東電の事故以降、いろんな気づきを与えてくれた人でもある。

とは言い乍ら、この本は軽い気持ちで手に取った。
「学校で教えてくれない音楽なんて楽しい音楽に決まっているじゃん」みたいな浅いノリである。
学校の堅苦しい音楽じゃなく、もっと雑多でラフな軽い音楽論?みたいなね。
まぁ、それで間違い無いんだけど。。。とんでもなく深かった!

なんだろうな、儂がなんで音楽が好きなのかなぁ?なんて考えた事もなかったけれど(別に考える必要も無いんだけれど(笑))、あぁそういう事かと色々腑に落ちる感じ。

タイトルが暗示する(大友さんにその意図はない気がするけれど)のは、アンチ学校的な教育のあり方だな、とも思う。
例えば、自由って何か?
子どもたちに「自由」である事を求めるのはいい事、みたいなのが自明であるかのように思われるけれど、そもそも大人がそんなこと言わんでも自由なのが子どもでしょう?子どもたちに自由にさせないのは大人であるのに、その大人が子どもに自由にして良いよと言う事で子どもの自由に理解があるつもりでいる傲慢さの中にある無自覚な強制性。ここまでは容易に想像がついたのだけど、むしろ子どもたちは「社会の中で自分がどう位置づけられているか」を求めているのじゃないか?という指摘に驚く。社会というのはある意味自由と対極にあるわけで、学校がまさに社会化の機能であるのと同時に子どもたちも社会の中で社会に認めてもらう事を求めている(つまり社会化される事を求めてる?)という視点は、至極当然なのだけど、あまり考えたことのないところでもある。またそれは、誤解を恐れずに言えば自由な存在であるからこそ、逆に「押し付けられること」を求めるという事でもあると言えるかもしれん。エーリッヒフロムか!?
これ、考えたら怖いよね。
従順な子供を求めてみたり、管理教育と言ってみたり、ブラック校則でがんじがらめにしてみたり。まぁ色々あってそれは大人が責めを受ける問題なのは間違いないにしても、子どもたちも進んでそれに従うような資質を持っているという事を理解しないと、とんでもなく見当違いな話になりそうだ。
学校の中にいる以上、そんな疑問を持つことはない。
いや、学校の外に居たって学校化社会の中にいるのだ儂らは。そっから脱することは難しい。イワンイリイチか!?

西成の子どもオーケストラや音遊びの会が「居場所」になるというのも今の儂にはよくわかる。
儂が久しぶりに市民バンドに参加して楽器を吹く事にしたのは、はっきり言って居場所を求めての事だし、今年中学生になったウチの子が吹奏楽部に入ってそれが楽しみで学校に行っている様子を見ると音楽を楽しむ場が「居場所」になるというのは普通の事だな、と思う。
でもさ、多くの人にとって学校の音楽の授業は。。。居場所にならないじゃない(笑)。

PTAの事とか考えていても儂が行き着いたのは儂らには「居場所」が必要だという結論だった。儂らの多くは「居場所」欠乏症に苦しんでいて、それが社会の息苦しさにもつながっている。
いや、別にさ、その居場所は音楽を媒介にしなくったって全く構わないんだけれど、音楽という装置が居場所に理由を与える事もあるという話だ。

大友さんは、音楽に「意義」とか「目的」とかなくて良い、と言う。
そうなんだよ。居場所に本当は意義も目的も必要ないねん。そう思う。
だけど、なんだか意義も目的もない場所というのはなかなか許容されない、というか、「意義も目的もない」のだから必要じゃないと思われがちなのだろうな。
そうするとさ、音楽というのを言い訳にして居場所を作るというのはありだよね。
もちろんその言い訳はなんだって構わない。集まりやすければ本当になんだっていい。
「無目的」という「目的」を許容できるほどに儂らの社会はまだ成熟しているとは言えないと思っている。

厳密に言えばさ、顕在的な(強要され正しいとされる)「意義」とか「目的」は必要ではないんだけれど、潜在的な(表立って意図を明言はしないけれど醸成される)「意義」とか「目的」がそこにはあって、それは本当に本当に必要なのだと思うんだな。その為の居場所が圧倒的に少ないのだ。

驚いたのは大友さんが最後に、田中克彦さんの「ことばと国家」という本について「自分の考え方、音楽を考えるときの思想のようなものの基礎になった」と言っている事。
「ことばと国家」は儂もちょっと前に読んだばかり。あれ?もしかして大友さんの話を聞いて「ことばと国家」も買ったんだったかな?記憶にないけど。
難しかったんだけど、もう一回読み返してみる?

「音痴はない」と簡単に言い切ってしまうさやさん、すごいな。
完全に儂の根底から揺さぶられた感。
その感覚が共有されるだけで、儂らはもっと楽に生きられるんじゃないのかな。