6月にメトロで観た「ヒバクシャ」と同じ、鎌仲ひとみ監督の、こちらは最新作。
これからのエネルギーをどうするか、という問題のヒントになる映画だと思います。
HPはコチラん
主な舞台は山口県上関町祝島とスウェーデン。
祝島は、上関原発建設予定地の目と鼻の先にある小さな島。
島の住民の9割が原発建設に反対し、島民を中心とした反対運動によって事実上30年近くもの間、原発の建設を阻止しています。
祝島といえば、去年は「祝の島」という映画を見ました。この時にはまさか来年こんなとんでもない事態になるとは思っていなかったのだ。
震災直前、埋め立てが強行されようとしてた建設予定地の田ノ浦湾での座り込みの様子を、youtubeで願うような気持ちで見ていたけれども、福島の事故の影響でひとまず工事が中断したのはなんという皮肉。
こんな事になってしまって悔しい。
ホント悔しいね。
「祝の島」と同様、淡々と島の人々を映し出すカメラ。
やはり、この映画でも感じるのは島に暮らす人々の生活者としての力強さだと思う。受け継いできた、地域に根差した暮らしを守る人たちの素朴な誇り。そしておばちゃんたちの明るい笑い声!
しかし、「祝の島」と「ミツバチの羽音と地球の回転」では、登場する島民の姿はちょっと違う視点から撮影されているようです。
なんてゆーかなー。
んーとね。
前者が、古くからの豊かな生活を守ってきた祝島の素朴な人々、という雰囲気が全編通じて感じられるのに対して、後者では新しい祝島の目指す方向性というのが随所に見られるような気がしたのだ。
前者が、「静」なら、後者は「動」と言えばイメージしてもらいやすいかもしれない。
#実際には前者も「動」の部分はあるし、後者にも「静」の部分はあるだよ、あくまでイメージですよー。イメージ。
象徴的なのは山戸孝さんの存在である。
山戸孝さんは祝島で反原発活動の中心人物である山戸貞夫氏の息子さん。
映画では、島にUターンした彼を中心に、島の生活と原発反対活動の様子を主に綴ってゆく。
若い世代が戻って来て(と言っても特に若いのは彼だけなのかもしれませんが)、通販をしたり(祝島市場HP)、やはり、Uターンしてきた氏本さんが豚を育てる事で、島内から出るおからとか枇杷のガラといった有機廃棄物を利用した循環農業に取り組んでみたり(氏本さんのブログ)、太陽光パネルを設置したりといった、未来志向の新しい取り組みをしている姿が映し出されるのだ。
結論から言うと、映画で取り上げられているそれらの取り組みは、簡単に言えば、島の自立への取り組みなのだ。
原発に反対していると
「じゃぁ、電気使うなよ」
「そんな事言ったって、原発がなかったら、町は寂れる一方だよ」
なんてのはよく言われる事だと思う。
まぁ、実は短絡的で見当はずれな物言いではあるんだけど、この映画で取り上げられている彼らの取り組みは、まるで
「わかった。じゃぁ、原発の電気にも頼らないし、原発の補助金なんかなくったって、自活できる生活を試してみるよ」
そんな風に言っているように見えるのだ。
実際にこの方向性は具体的な動きになって来ている。「祝島自然エネルギー100%プロジェクト」というプロジェクトが立ち上がってると言う話はすでに映画を見る前に聞いていた。
この原発の問題に端を発した、エネルギーの自立は、当然エネルギーだけで終わるものじゃないのだ。経済も同様に自立しなくてはいけない。それはおそらく、島に暮らしてる人達は十分分かっているのだろう。
実は、儂は「吉里吉里人」を思い出していた。
なんで井上ひさしやねーん。
吉里吉里人。
懐かしいなぁ。中学生の時に買ったなぁ。小遣い(図書券?)溜めて。枕より分厚かったなぁ(笑)。
小説の内容は数千人の東北の寒村が、突然日本から独立する、というストーリー。
#ちなみに、小説の中に出てくる吉里吉里は、設定上、今回の震災津波でやはり大打撃を受けた岩手の三陸にある大槌町吉里吉里とは違う場所ですね。
そう。
自立、という言葉を使ったがこれは独立にもつながるのではないかと思ったのだ。
経済的にもエネルギー的にも自活できるというのであれば、もう日本と言う国につながっている必要さえもないのじゃないか?
これは 「お・お・ご・と」 である。
厳密に言えば、あと国を代表する政府がなければ独立ではないが、なんだったらそんなものは作ればいい(笑)。
現実的には吉里吉里国の便所のキンカクシのように、対抗できる戦略的なモノがなければ難しいのだけど。
まぁ、現実問題としてはないとしても、経済とエネルギーで自活すると言う事が、国の中央(特に利権を持っているヤツら!!!)にとって、どんな恐ろしい事か。考えてみれば結構大変な事なんじゃないかと思いいたる。
いやぁ、なるほど。
破綻した今の原子力計画にそれでも固執する人たちがなんであんなにいるのか?。もう、時代が変わり、拡大を前提とした自由経済主義が破綻しているのにそれに固執している人たちがなんであんなにいるのか?。もしくは、なんで、それがあたかも破綻していないかのように社会の空気を作り出そうとするマスコミが跋扈しているのか?。
分かるような気がしませんか?
地方がみんな独立していったら、中央で金集めている人たちの利権がなくなっちゃうもんねー。
ヒントとして登場するスウェーデンの姿はとても羨ましいものだ。
#残念だけど今は「羨ましい」と表現せざるを得ない
でも、希望を持ちたいのは「理想的」と考える経済の仕組みと政治組織の自活が、ちゃんとそこでは実践されているのだと言う事実である。
つまりね、そんなものはただの「理想」だ、というネガティブなモノ言いに、従わなくてもいいという事なのだ。
理想はちゃんと実現できる。そして、そこに少しずつ近づこうとしている人たちが日本にもいるんだ。
登場したスウェーデンの地方議員さんは言う。
「生活と政治は繋がっている」 と。
#彼の国では議員さんはボランティアだとか!
その通り。
儂らの国も、もう政治を市井の人々の生活のものとして取り戻さなくちゃいけない(<ココ「最初から日本じゃ政治は民衆のモノじゃなかっただろ」とか突っ込まないように)という事に、気付きましょうよ。
ねっ。ねっ。ねっ。
先日の上関町での選挙。
残念ながら、反対派の山戸さんが当選されなかったのはいたしかたないのかもしれない。
けれど、落選した山戸さんの言葉は、まだ希望を失わない前向きなモノでした。
儂らも希望を失わずにいきたいものです。
原発の問題は、望むと望まざるとにかかわらず、一地方自治体で判断できる事では無くなってきてると思います。
#正確には、最初っから判断出来ない問題だったって事だろうね、きっと(^^ゞ
これからのエネルギーをどうするか、という問題のヒントになる映画だと思います。
HPはコチラん
主な舞台は山口県上関町祝島とスウェーデン。
祝島は、上関原発建設予定地の目と鼻の先にある小さな島。
島の住民の9割が原発建設に反対し、島民を中心とした反対運動によって事実上30年近くもの間、原発の建設を阻止しています。
祝島といえば、去年は「祝の島」という映画を見ました。この時にはまさか来年こんなとんでもない事態になるとは思っていなかったのだ。
震災直前、埋め立てが強行されようとしてた建設予定地の田ノ浦湾での座り込みの様子を、youtubeで願うような気持ちで見ていたけれども、福島の事故の影響でひとまず工事が中断したのはなんという皮肉。
こんな事になってしまって悔しい。
ホント悔しいね。
「祝の島」と同様、淡々と島の人々を映し出すカメラ。
やはり、この映画でも感じるのは島に暮らす人々の生活者としての力強さだと思う。受け継いできた、地域に根差した暮らしを守る人たちの素朴な誇り。そしておばちゃんたちの明るい笑い声!
しかし、「祝の島」と「ミツバチの羽音と地球の回転」では、登場する島民の姿はちょっと違う視点から撮影されているようです。
なんてゆーかなー。
んーとね。
前者が、古くからの豊かな生活を守ってきた祝島の素朴な人々、という雰囲気が全編通じて感じられるのに対して、後者では新しい祝島の目指す方向性というのが随所に見られるような気がしたのだ。
前者が、「静」なら、後者は「動」と言えばイメージしてもらいやすいかもしれない。
#実際には前者も「動」の部分はあるし、後者にも「静」の部分はあるだよ、あくまでイメージですよー。イメージ。
象徴的なのは山戸孝さんの存在である。
山戸孝さんは祝島で反原発活動の中心人物である山戸貞夫氏の息子さん。
映画では、島にUターンした彼を中心に、島の生活と原発反対活動の様子を主に綴ってゆく。
若い世代が戻って来て(と言っても特に若いのは彼だけなのかもしれませんが)、通販をしたり(祝島市場HP)、やはり、Uターンしてきた氏本さんが豚を育てる事で、島内から出るおからとか枇杷のガラといった有機廃棄物を利用した循環農業に取り組んでみたり(氏本さんのブログ)、太陽光パネルを設置したりといった、未来志向の新しい取り組みをしている姿が映し出されるのだ。
結論から言うと、映画で取り上げられているそれらの取り組みは、簡単に言えば、島の自立への取り組みなのだ。
原発に反対していると
「じゃぁ、電気使うなよ」
「そんな事言ったって、原発がなかったら、町は寂れる一方だよ」
なんてのはよく言われる事だと思う。
まぁ、実は短絡的で見当はずれな物言いではあるんだけど、この映画で取り上げられている彼らの取り組みは、まるで
「わかった。じゃぁ、原発の電気にも頼らないし、原発の補助金なんかなくったって、自活できる生活を試してみるよ」
そんな風に言っているように見えるのだ。
実際にこの方向性は具体的な動きになって来ている。「祝島自然エネルギー100%プロジェクト」というプロジェクトが立ち上がってると言う話はすでに映画を見る前に聞いていた。
この原発の問題に端を発した、エネルギーの自立は、当然エネルギーだけで終わるものじゃないのだ。経済も同様に自立しなくてはいけない。それはおそらく、島に暮らしてる人達は十分分かっているのだろう。
実は、儂は「吉里吉里人」を思い出していた。
なんで井上ひさしやねーん。
吉里吉里人。
懐かしいなぁ。中学生の時に買ったなぁ。小遣い(図書券?)溜めて。枕より分厚かったなぁ(笑)。
小説の内容は数千人の東北の寒村が、突然日本から独立する、というストーリー。
#ちなみに、小説の中に出てくる吉里吉里は、設定上、今回の震災津波でやはり大打撃を受けた岩手の三陸にある大槌町吉里吉里とは違う場所ですね。
そう。
自立、という言葉を使ったがこれは独立にもつながるのではないかと思ったのだ。
経済的にもエネルギー的にも自活できるというのであれば、もう日本と言う国につながっている必要さえもないのじゃないか?
これは 「お・お・ご・と」 である。
厳密に言えば、あと国を代表する政府がなければ独立ではないが、なんだったらそんなものは作ればいい(笑)。
現実的には吉里吉里国の便所のキンカクシのように、対抗できる戦略的なモノがなければ難しいのだけど。
まぁ、現実問題としてはないとしても、経済とエネルギーで自活すると言う事が、国の中央(特に利権を持っているヤツら!!!)にとって、どんな恐ろしい事か。考えてみれば結構大変な事なんじゃないかと思いいたる。
いやぁ、なるほど。
破綻した今の原子力計画にそれでも固執する人たちがなんであんなにいるのか?。もう、時代が変わり、拡大を前提とした自由経済主義が破綻しているのにそれに固執している人たちがなんであんなにいるのか?。もしくは、なんで、それがあたかも破綻していないかのように社会の空気を作り出そうとするマスコミが跋扈しているのか?。
分かるような気がしませんか?
地方がみんな独立していったら、中央で金集めている人たちの利権がなくなっちゃうもんねー。
ヒントとして登場するスウェーデンの姿はとても羨ましいものだ。
#残念だけど今は「羨ましい」と表現せざるを得ない
でも、希望を持ちたいのは「理想的」と考える経済の仕組みと政治組織の自活が、ちゃんとそこでは実践されているのだと言う事実である。
つまりね、そんなものはただの「理想」だ、というネガティブなモノ言いに、従わなくてもいいという事なのだ。
理想はちゃんと実現できる。そして、そこに少しずつ近づこうとしている人たちが日本にもいるんだ。
登場したスウェーデンの地方議員さんは言う。
「生活と政治は繋がっている」 と。
#彼の国では議員さんはボランティアだとか!
その通り。
儂らの国も、もう政治を市井の人々の生活のものとして取り戻さなくちゃいけない(<ココ「最初から日本じゃ政治は民衆のモノじゃなかっただろ」とか突っ込まないように)という事に、気付きましょうよ。
ねっ。ねっ。ねっ。
先日の上関町での選挙。
残念ながら、反対派の山戸さんが当選されなかったのはいたしかたないのかもしれない。
けれど、落選した山戸さんの言葉は、まだ希望を失わない前向きなモノでした。
儂らも希望を失わずにいきたいものです。
原発の問題は、望むと望まざるとにかかわらず、一地方自治体で判断できる事では無くなってきてると思います。
#正確には、最初っから判断出来ない問題だったって事だろうね、きっと(^^ゞ