ぱたの関心空間

関心空間と徒然なるままに。

ミツバチの羽音と地球の回転@京都シネマ

2011-09-21 15:14:49 | 映画感想
6月にメトロで観た「ヒバクシャ」と同じ、鎌仲ひとみ監督の、こちらは最新作。

これからのエネルギーをどうするか、という問題のヒントになる映画だと思います。
HPはコチラん

主な舞台は山口県上関町祝島とスウェーデン。

祝島は、上関原発建設予定地の目と鼻の先にある小さな島。
島の住民の9割が原発建設に反対し、島民を中心とした反対運動によって事実上30年近くもの間、原発の建設を阻止しています。

祝島といえば、去年は「祝の島」という映画を見ました。この時にはまさか来年こんなとんでもない事態になるとは思っていなかったのだ。
震災直前、埋め立てが強行されようとしてた建設予定地の田ノ浦湾での座り込みの様子を、youtubeで願うような気持ちで見ていたけれども、福島の事故の影響でひとまず工事が中断したのはなんという皮肉。
こんな事になってしまって悔しい。
ホント悔しいね。

「祝の島」と同様、淡々と島の人々を映し出すカメラ。
やはり、この映画でも感じるのは島に暮らす人々の生活者としての力強さだと思う。受け継いできた、地域に根差した暮らしを守る人たちの素朴な誇り。そしておばちゃんたちの明るい笑い声!

しかし、「祝の島」と「ミツバチの羽音と地球の回転」では、登場する島民の姿はちょっと違う視点から撮影されているようです。

なんてゆーかなー。

んーとね。

前者が、古くからの豊かな生活を守ってきた祝島の素朴な人々、という雰囲気が全編通じて感じられるのに対して、後者では新しい祝島の目指す方向性というのが随所に見られるような気がしたのだ。
前者が、「静」なら、後者は「動」と言えばイメージしてもらいやすいかもしれない。
#実際には前者も「動」の部分はあるし、後者にも「静」の部分はあるだよ、あくまでイメージですよー。イメージ。

象徴的なのは山戸孝さんの存在である。

山戸孝さんは祝島で反原発活動の中心人物である山戸貞夫氏の息子さん。
映画では、島にUターンした彼を中心に、島の生活と原発反対活動の様子を主に綴ってゆく。
若い世代が戻って来て(と言っても特に若いのは彼だけなのかもしれませんが)、通販をしたり(祝島市場HP)、やはり、Uターンしてきた氏本さんが豚を育てる事で、島内から出るおからとか枇杷のガラといった有機廃棄物を利用した循環農業に取り組んでみたり(氏本さんのブログ)、太陽光パネルを設置したりといった、未来志向の新しい取り組みをしている姿が映し出されるのだ。

結論から言うと、映画で取り上げられているそれらの取り組みは、簡単に言えば、島の自立への取り組みなのだ。

原発に反対していると
 「じゃぁ、電気使うなよ」
 「そんな事言ったって、原発がなかったら、町は寂れる一方だよ」
なんてのはよく言われる事だと思う。
まぁ、実は短絡的で見当はずれな物言いではあるんだけど、この映画で取り上げられている彼らの取り組みは、まるで
「わかった。じゃぁ、原発の電気にも頼らないし、原発の補助金なんかなくったって、自活できる生活を試してみるよ」
そんな風に言っているように見えるのだ。

実際にこの方向性は具体的な動きになって来ている。「祝島自然エネルギー100%プロジェクト」というプロジェクトが立ち上がってると言う話はすでに映画を見る前に聞いていた。

この原発の問題に端を発した、エネルギーの自立は、当然エネルギーだけで終わるものじゃないのだ。経済も同様に自立しなくてはいけない。それはおそらく、島に暮らしてる人達は十分分かっているのだろう。

実は、儂は「吉里吉里人」を思い出していた。

なんで井上ひさしやねーん。

吉里吉里人。
懐かしいなぁ。中学生の時に買ったなぁ。小遣い(図書券?)溜めて。枕より分厚かったなぁ(笑)。

小説の内容は数千人の東北の寒村が、突然日本から独立する、というストーリー。
#ちなみに、小説の中に出てくる吉里吉里は、設定上、今回の震災津波でやはり大打撃を受けた岩手の三陸にある大槌町吉里吉里とは違う場所ですね。

そう。
自立、という言葉を使ったがこれは独立にもつながるのではないかと思ったのだ。
経済的にもエネルギー的にも自活できるというのであれば、もう日本と言う国につながっている必要さえもないのじゃないか?

これは 「お・お・ご・と」 である。

厳密に言えば、あと国を代表する政府がなければ独立ではないが、なんだったらそんなものは作ればいい(笑)。
現実的には吉里吉里国の便所のキンカクシのように、対抗できる戦略的なモノがなければ難しいのだけど。

まぁ、現実問題としてはないとしても、経済とエネルギーで自活すると言う事が、国の中央(特に利権を持っているヤツら!!!)にとって、どんな恐ろしい事か。考えてみれば結構大変な事なんじゃないかと思いいたる。

いやぁ、なるほど。
破綻した今の原子力計画にそれでも固執する人たちがなんであんなにいるのか?。もう、時代が変わり、拡大を前提とした自由経済主義が破綻しているのにそれに固執している人たちがなんであんなにいるのか?。もしくは、なんで、それがあたかも破綻していないかのように社会の空気を作り出そうとするマスコミが跋扈しているのか?。
分かるような気がしませんか?

地方がみんな独立していったら、中央で金集めている人たちの利権がなくなっちゃうもんねー。

ヒントとして登場するスウェーデンの姿はとても羨ましいものだ。
#残念だけど今は「羨ましい」と表現せざるを得ない

でも、希望を持ちたいのは「理想的」と考える経済の仕組みと政治組織の自活が、ちゃんとそこでは実践されているのだと言う事実である。
つまりね、そんなものはただの「理想」だ、というネガティブなモノ言いに、従わなくてもいいという事なのだ。
理想はちゃんと実現できる。そして、そこに少しずつ近づこうとしている人たちが日本にもいるんだ。

登場したスウェーデンの地方議員さんは言う。
「生活と政治は繋がっている」 と。
#彼の国では議員さんはボランティアだとか!

その通り。
儂らの国も、もう政治を市井の人々の生活のものとして取り戻さなくちゃいけない(<ココ「最初から日本じゃ政治は民衆のモノじゃなかっただろ」とか突っ込まないように)という事に、気付きましょうよ。
ねっ。ねっ。ねっ。

先日の上関町での選挙。
残念ながら、反対派の山戸さんが当選されなかったのはいたしかたないのかもしれない。
けれど、落選した山戸さんの言葉は、まだ希望を失わない前向きなモノでした。

儂らも希望を失わずにいきたいものです。

原発の問題は、望むと望まざるとにかかわらず、一地方自治体で判断できる事では無くなってきてると思います。
#正確には、最初っから判断出来ない問題だったって事だろうね、きっと(^^ゞ

ミツバチの羽音と地球の回転@京都シネマの画像



レイチェル・カーソンの感性の森@京都シネマ

2011-09-18 16:26:34 | 映画感想
1962年に出版された「沈黙の春」のレイチェル・カーソン。
「沈黙の春」を書いた後の、彼女の最晩年をドキュメンタリータッチで再構成した映画。

「沈黙の春」は確か教科書に載っていたんだ。中学の教科書?かな。小学校の時じゃぁなかったとおもうけれど。

「一見いつもと変わらない森のようだけれど、生き物の気配は一切ない」
その様子を描写する静かな、しかし確実に不気味な表現でつづられるその話は、当時の儂にとってはあまりにも突飛で、きっとこれは危機感を持って環境問題にみんなが関心をむけるように、大袈裟に想像上の話をしているんだろうな、なんて思ったものだ。

若かったね、若かった。うん。

沈黙の春の話は、確かに話として分かりやすいようにしているところはあるにしても、決して大袈裟とは言い切れない状況が当時のDDTを規制なしに散布していたアメリカにはあったし、それが決して誇張しすぎたこの地球の未来像とは言い切れない事は、しだいに儂にも理解できるようになってくる。

驚くのは、映画の中の設定は今から50年前。それなのに全くそれを感じさせないところだ。

まだ、今ほど環境問題にみんなが関心を寄せていない(いや、今だって十分みんなが環境の事をきちんと考えられていると言えるかどうか。。。)当時、農薬・殺虫剤の散布が問題だと告発するような内容の本を書いたが為に、薬品企業は勿論の事、マスコミからもとてつもない誹謗中傷を受ける事となる。

そう、正しい事を言ったのに、産業界にとってそれが不利な発言であったが為に、バッシングされてしまうのだ。

おっと、そんなような図式、なんだか今、すごく身近な国でもよくみかけるようなきがするなー。
んー、なんだろ。既視感?

ただ、アメリカという国がちょっと違うのは、
この後、ケネディ大統領がすぐに調査機関を置き、公的に調査を開始。その結果、レイチェルカーソンを中傷していた化学薬品企業など関係団体を批難する結論を出し、薬品を規制したり環境を保護するための施策を打ち出したのだと言う。

どっかの国、見習ってくんないかな(泣)。

レイチェルカーソン曰く
「みんな、ちょっと難しそうな事は自分たちで考えなくても、どこかで頭のいい人が考えてくれて、自分たちは安全に暮らす事ができると思っていた。その神話が崩壊したのです。」

彼女が50年前に崩れたというその神話、残念ながら日本では50年間生き延びていました。愕然。
そして、まだその神話を信じ続けようとしている人もまだいるように見受けられるこの国。唖然。
過去から学ぶ事を拒否しているかのよう。呆然。

50年も前に既に彼女が看破してくれていたとうのに。
にも関わらず、それを生かす事が出来ずに今日を迎えてしまった事は、間違いなく儂らの怠慢だ。

原題の「The Sence of Wonder」は、彼女の最後の著作のタイトル。

儂らをとりまく自然の不思議さに対しての驚きの心を持ち続ける事の大切さを訴えかけていた。

人間も自然の一部。
もういい加減、当たり前の事を思い出してもいいじゃろ?

そろそろ、50年前から鳴らされていた警鐘に向き合わないと本当に手遅れになる。
いや、もうなってるかもしれんけど、そこは希望を繋ぐためにちょっと横に置いておこう。

そうそう、京都シネマでは現在「ミツバチの羽音と地球の回転」もやってるよー(宣伝)

時間的には「感性の森」に続いて見られたのだけど、楽しみは後に取っておくことにしたのだ(<ウソ、時間の都合)

今月いっぱいだよー(備忘>自分)

レイチェル・カーソンの感性の森@京都シネマの画像

レイチェル・カーソンの感性の森@京都シネマの画像



ナージャの村@ギャラリーヒルゲート

2011-09-03 15:43:03 | 映画感想
OTODAMAもMETAMORPHOSEもEL LATINO20周年記念イベント『秋一番!』も中止にしやがった台風。それを尻目に向かうヒルゲート@寺町三条。
ギャラリーさんですよー。

一階では「貝原 浩『風しもの村』原画展-ぼくの見たチェルノブイリ-」
二階では「本橋 成一・スズキ コージNOMORE ATOMIC ENERGY!ゲンパツイラナイ展」
そして、二階の奥では「ナージャの村」の上映。

時間ギリギリに到着。
二階に上がると狭いスペースはもういっぱいに。後ろの方におとなしく座るとすぐ上映時間でした。

「ナージャの村」はベラルーシ共和国にあるドゥヂチ村の一年を追ったドキュメンタリー。
ちなみに、ドゥヂチ村は地図から消されているのだという。

!?

チェルノブイリ原発の事故で汚染された村は、政府から立ち退きを求められているが、それでも6家族が残り生活を続けている。村に入るには「STOP」と表示された車止めの柵を超えていかなくてはいけない。

ドゥヂチ村の暮らしは、春になれば畑を耕し種を植え、夏から秋に収穫し冬に備える。自家製のウォッカを作り、家畜を育て、ポルカを踊り、墓を守る。何の変哲もない、素朴なロシアの農村の暮らしだ。

映画でも、それを淡々と映し出すばかり。
「原発反対だ」とか「放射能怖い」とか、そんな言葉は全然出てこない。
最後の方にちょろっとだけ映る村の中の「汚染地帯危険」という標識と、村に入る検問の柵。それにちょっと皮肉を込めた老人のセリフがなければ、単にベラルーシにある寒村のドキュメンタリーにすぎない。
儂らは、この村がチェルノブイリ原発事故で汚染されていると知ってそういう目で見ているから、映画全体に放射能汚染の影を感じているが、そうじゃなかったら本当に何とも思わないだろう。

淡々と繰り返される(物質的には)質素なしかし(人間的には)豊かなくらし。

しかし、なんの事もないように、収穫する野菜にも。庭で遊んだり川に行ったりするナージャたちにも放射能の影を思わずにはいられない。辛い思いで見ている儂らの事なんか関係なしに、村人たちは昔ながらの暮らしを繰り返すだけだ。精々、2つ3つの恨み言を言うくらいなものだ。

「第二次世界大戦の時に、ナチスがこの村に来て戦場になった時でも、村の人たちは生き延びてきた。でも、今度のはダメかもしれない。」
きっと決定的に違うのだ。放射能という「敵」は。

「サマショーロ」というのだそうだ。
政府が、村を廃村にし移住するように言っているのに、それに従わずにいる「自分勝手な人」という意味らしい。
ただでさえ、(何の罪もないのに)苦しみを負う覚悟をしている人たちを、さらに蔑み傷つける言葉がトツクニにもある事に虚しさを覚える。人間と言うのは本当に残酷な生き物なんだ。

原発事故や報道を見聞きしている時にぬぐえないなんとも言えない違和感をずーっと感じていた。

そうだ。

放射能をみんな問題にしているんだよね。これくらいの放射能レベルなら安全だとか、危険だとか。
でも本当に問題なのは「放射能」ではなく「命」なのにな。

原発の是非をみんなが言い立てる。経済のためには電力供給が大切だ、国際競争力のためには原発の技術が大切だ、とか。
でも本当に大切なのは「経済」ではなく「人々のくらし」を守る事なのにな。

ドゥヂチ村には当たり前のように命をいつくしみ、当たり前のようにくらしを守る人が、「サマショーロ」と呼ばれながら暮らしていた。

翻ってこの国で、今本当に大事なものはなんだ?

答は明白、と思っている人は一体どれくらいいるのだろう?

ナージャの村@ギャラリーヒルゲートの画像