2012年が終わりました。
あ、明けましておめでとうございます。2013年になっちゃいましたね。
#何今頃言ってるんだ?>儂
さて、
儂的にはいろいろと残念だった年、2012。まぁ、何事も思い通りに行くわけなんかないと、どうやら納得できる分別のつく歳にはなったようです。
自分自身のことでさえそれは当たり前の事。ましてや、社会全体や世界全体が自分が期待したとおりに行くことなんてあるわけないと。
でも、だからといって諦めるというのは逆にオトナ気ないのだ、と悟る歳でもあるようです。
去年、
二、三ヶ月くらい前から、自覚し始めたのは「民主主義について考える」ということでした。
というか、今考えるべきは「民主主義についてだ」という事ですね。
もっと正確に言うと、「日本を民主主義の国にするにはどうしたらいいんだろう」というテーマです。
お、ノッケからエラそうです。すいません。
っつーか、タイトルが既にそうだっつーの。
そもそも、日本が民主的だと、本気で信じている人はどれだけいるのでしょう?
一応日本は民主主義だって事になっているけれど、それは制度の話であって、民主主義的な制度を導入しているからといって民主的だとは言えないわけです。よくあげられる例として、ヒトラーが台頭した当時のドイツワイマール憲法は先進的な民主主義的憲法であって、その憲法下で独裁者が生まれたのは何故かって事はきちんと認識しておかなくちゃいけない。
言うだけだったら北朝鮮だって「朝鮮『民主主義』人民共和国」だ。
「なんや、また難しい事言おうとしてるやろ?」
いやいや、そんなことないですよ。比較的簡単なお話です。
民主主義ってものについて確認したいだけ、ただそれだけのお話。
民主主義、ってなんやねん?
一番簡単な答えは、主権が民にあるって事です。
でもそこで終わっちゃうと、上で書いた民主的に国民に選ばれたヒトラーと同じ事になっちゃう事もあるわけです。
細かい条件とか説明とか抜かして、出来るだけ簡単に書きますよ。
民主主義制度を使って民主的な国になるためには、いくつかの必要な条件があるわけです。
なかでも大事なのは、その主権を持つ民が「自立した個人」でなくてはいけないという事。もう少し噛み砕いて言いましょう。
自分の頭できちんと考え、行動ができ、自分の考えと行動に責任を持てるということ。
きちんとしたモラルを持ち、自らに与えられた権利の意味を理解した上で行使できて、自分自身に責任が持てる個人でなくてはいけない。
噛み砕けてますか?どうでしょう?
「何言ってるん?そんなんできてるって。」
そう?
そうですか。
あなたはそうかもしれないです。
では世の中全体を見回して、みんながそんな「自立した個人」だと思いますか?本当に。
モラルが低下していると多くの人が嘆きます。モラルとは何か、までは踏み込みませんが(踏み込むと来年までかかりますが)、モラルのないところできちんと考えて判断を下すことは不可能。
そして、マスコミが機能せず、マスメディアだけでは正しい情報にアクセスすることが難しいことが震災以降判明した日本。自由で公正な情報にアクセスする権利が保証されず、多くの人が積極的に正しい情報を求めようとしていない状況下では、これまたきちんとした判断を下すことは不可能。
社会的なモラルがきちんと共有されていないのではないか、という疑念。
そして、正しい情報が担保されていない、という疑念。(というか、確信)
特にここでは後者について確認します。
形の上では(民主的な)投票とか(民主的な)議会といった議会制民主主義の制度を採用していても、国民に判断の前提となる自由で公正な情報が提供されなければ、それは民衆が自ら考え判断する事を阻んでいるわけだから、実質的には民主主義を機能させる事はできないわけです。
儂が一番懸念するのは、その自由で公正な情報へのアクセスが保障されていない事よりも、その重要性が儂ら市民自身に十分に認識されていないように感じられるところです。
IWJというインターネットメディアがあります。
インディペンデント・ウェブ・ジャーナル(略称:IWJ)は政府の会見や国会での集会、デモや講演会といった市民活動、政治家による街頭演説、責任者である岩上さんによる要人へのインタビュー、果てはコンサートまで、日本全国、場合によっては海外と、市民によるボランティアスタッフを含めたネットワークにより、ひたすら生中継配信をするメディアです。
大事なのはココ。
基本的に生中継配信だ、いうところ。つまり、編集されない。編集しようがない。
わかりやすく言えば、生のリアルな一次情報垂れ流し。
つまり、手の加えられない公正な情報を提供しているという事です。
#メディアリテラシー的に厳密に言うと、中継対象を選択したりカメラで切り取った時点で手が加えられている、って事になるので、公正じゃないって話になりますが、ここはちょっと厳密なところには目をつぶって頂きたい、他のメディアと比べればって話でよろしくです
テレビや新聞といった一般的なマスメディアはそうは行きません。
時間や紙面の制約がある以上、報道される情報は取捨選択され、記者によるレポートや解説といった第三者の主観が入らざるを得ないのです。
儂の知る限り、民主主義に必要不可欠な「自由で公正な情報」を提供、というところに一番近い(だから、完璧とは言いませんよ)事を組織的に行っているのがIWJなわけです。
#他にもっといいメディアあれば教えてください
ところが、このIWJを支えている会員が3500人くらいしかいない(去年の10月ごろ)、その為今の配信規模を維持できない、というツイートが流れてきました。
つまり、民主主義に必要不可欠な「自由で公正な情報」が十分に提供できない、というのです。
(因みに、年明けにはようやく目標としていた5000人になったそうです。ぱちぱちぱち。)
これは民主主義の一大事です。
いや、大袈裟に聞こえるかもしれませんが、ちっとも大袈裟じゃありません。「自由で公正な情報」の提供こそ民主主義のライフライン。それが絶たれれば民主主義は死ぬのです。
これに対して「IWJが単にみんなに支持されなかっただけのこと、縮小するなり淘汰されるのは仕方がない」というようなツイートをいくつかもらいました。
成る程、もっともな意見のように思えます。
でも良く考えていただきたい。
単に多く支持されればいいのか?
って事です。
数は力?多数決が全ての決定原理? その考えこそ民主的じゃないわけですよ、そもそも。
ちょっとブレイク。
もう一つ、民主主義についての確認。
民主主義で重視されている事の一つに少数派の意見の尊重がある、というのが儂の理解です。多数決は、たまたま今いる人間のエゴで決めてしまう非民主的な方法である、というのが一般的な認識であると。後でも触れますが、最終的な決定の為の手段として数の論理は認めざるを得ないわけですが、その前提として少数の考えは絶対的に配慮されるのが民主主義、ですよね?
話を戻します。
民主主義を徹底させる為に必要なメディアを否定するのに民主的じゃない理論を持ち出して来る。
日本がまだ民主的でないわけだから至極当然のことです。が、そこで怯むわけにはいかないわけですね、民主主義を根付かせたい儂としては。
どうも、否定的な事をいう人には、自分の考えに反するようなコンテンツを提供しているからIWJに否定的な事をいう、という傾向があるように感じられます(推測です)。
確かに、「自由で公正な」と言いながら、岩上さんは結構自身の主張を結構強く打ち出します(IWJも100%「自由で公正」じゃないってのは認めます)。そこに反発することもあるかもしれません。
でも、その反発がなんだか好き嫌いみたいな感情的な反応に見えるんですね。感情的な好き嫌いで有用なものを否定してしまう、なんとも幼稚な感じがします。
そして結局、正しい情報が得られないという、自分たちに不利な状況を再度ひきよせてしまう。勿体無い。。。
「存在理由を国民が認めていないのだ」というのもありました。
ちょっと言葉の使い回しが微妙ですが、「日本人には存在理由を認める能力がないのだ」と読み取れます。なかなかに辛辣です。
「IWJには存在理由がないと国民は判断してるのだ」とも読み取れます。即ち、民主主義の否定です。つまり、日本人は民主主義を否定しているのだ、と。制度的に民主主義なのに、その恩恵を享受する日本人自体は(無意識のうちに)民主主義を拒否していると。
うーん、実は本気でそうなのかもしれません。
IWJの問題があぶりだしたのは、儂ら日本人の民主主義に対する考え方の浅薄さだったのではないか、と思っています。
上で、民主主義は少数を尊重する、という事にふれましたが、それとあわせて確認したいのが、
「民主主義はコストがかかる」
という事です。
コストとは、時間とお金。
ここらへんはバランスの問題になってくるのが現実的なところなんだろうけど、儂としては少数を尊重するという原則に即して考えたいと思います。「そんな悠長な事してられるかー」とか「そんな金、勿体無いやないかー」という言葉には、今は耳を貸しませんのでご了承くださいませませ。
多数決は民主主義ではない、と言うと、「ほなどうやって決めんねん?」って結論を急がれる方もいらっしゃるでしょうが、この結論を急ぐ事がもう民主的じゃないわけですよね(笑)。
結論を急いですぐ多数決で決める、そこには少数の意見を聞いて考える、違う意見の間で議論を重ねるという態度が欠如しているわけです。
多くの人がいれば意見が違うのが当たり前。んじゃ、どうするか。互いに意見を交換し納得のいく結論を導き出す議論をするしかないわけです(お、優等生な答えですね♪)
いや、でもホントにそれが基本。当然時間がかかる。つまり、時間がかかるのが前提だってことですよ。この大前提の意識が多くの人に既に欠如しているような気がします。違いますか?
大阪府知事から大阪市長になって今度は国政に行っちゃいそうな勢いの橋下某さんとかいう人が、住民からの原発の住民投票条例案が議会にあがったときに、「5億円かける価値がない」と言っちゃいました。大阪市で住民投票するのに、5億円かかるんだ、へー、って思いました。(そういう人多いでしょ?きっと)
これ、「民意を確認してくれ!」っていう市民の希望に対して「金かかるしダメ」って言っているわけです。つまり、民主主義をお金で切り捨てた。うっひゃー、っていうお話。
5億円、って聞くとそんなに!?って思うから、その金額に目が行ってしまって、この民主主義の重みへの意識がちょっと遠のきそうです。現にこの発言を聞いたとき儂自身が「うへ、そんなに掛かるの?」と一瞬ひるみました。橋下さん、こうやって考慮すべきテーマの論点をずらすの得意なんだよなー。
ちなみに、東京都知事選挙の費用は50億だったそうです。大阪市長選挙の費用がどれくらいだったか、簡単に検索して出てこなかったので都知事選を引き合いに出しましたが、規模から考えて大阪市長選挙の数字がだいたい5億円、って事だったのではないかと推察します。つまり、選挙の度にそれだけの費用は常に費やされている、という事です。一つの地方自治体で,原発の賛否を確認するだけ、一度の選挙で民意を問うだけで5億円です。これは全て民主主義の費用。民主主義を実効性のあるものにする為の必要経費です。
そうそう。
そういえば、橋下さんは大阪府民からの信託を任期途中で放り投げて大阪市長に立候補したわけで、そのせいでしなくてもいい大阪府知事選挙をしなくてはいけない事になったわけです。人口規模から考えて、40億円くらいかかってるかもしれません。
自分勝手な理屈で府知事を辞め、使う必要のなかった40億円を無駄にした橋下さんが、住民が直接訴えてお願いしているものを5億円かかるからと一蹴する。民主主義のコストを取り違えている好例だと思いませんか?
さて、
ほんじゃぁ、ほんまもんの民主主義にするにゃぁどうしたらええもんかのぉ?
というお話です。
いや、単純な事。
まず、儂ら全ての日本人が政治を自分の事として考えられるようになろう、という事です。
言葉で言うと簡単ですね。
最近、衆議院の選挙がありました。
ええ、ありましたね。ありました。一ヶ月前の事です。
あの結果。皆さんにはどう映りましたか?
小選挙区制は少数を排除するから非民主的な選挙制度である、と。それがあからさまになった選挙だったというのは言えるとは思いますが,小選挙区制がどんな選挙制度かなんて本当はわかっていたわけです。少なくとも高校の現代社会では勉強していた筈。覚えていますか?
例えば儂の選挙区を例にとります。
うちの選挙区、候補は自民×民主×共産×維新。当選したのは自民の候補。僅差で民主の候補を上回りました。
原発に強く反対している儂は共産の候補に投票したのだけど、当然死に票。
この場合、原発に反対の人にとっては、気が進まなくても(当時はまだ)原発についての判断は10年後にする,と言っていた自民党よりも,原発ゼロを目指すと明言していた民主党の方がまだマシだった筈です。
そういう事を考えて投票をしなくてはいけないのが小選挙区制だと言う事です。
ちなみに、
自民党は前回の衆議院選挙より得票数を400万票も減らしているのに、これまでにない程の大躍進。逆に共産党は前回の衆議院選挙よりも50万票も伸ばしたのに一議席増のみ。
極端な計算をすれば、投票率が約6割で12政党が候補者を出していた訳ですから、小選挙区では国民のたった5%だけが支持すれば,全ての議席を占有する事も可能になってしまいます。(いや,もちろんありえませんけどf^^:)
それ以前に、儂の選挙区では儂が推したい政党の候補者自身がおらんかったわけで。。。小選挙区では当然候補者も少ない傾向にあるわけだから、少数の意見を反映する候補者がそもそもいないということにもなるわけです。
どう?理不尽でしょ?
いやいや、ちがいますよー、違うの。制度がアカンとか言いたいのんとは違うの。制度の問題は本質的な議論じゃないんだ。
言いたいのはですね。
この二年間を通して明らかになったのは、儂ら日本人はもう知らんぷりしてなんかいられないような状況に置かれたんだって事なんです。
震災前までは、知らんぷりして生きていく事が許されていた(現実問題どうなのか、って事ではなくて、空気がそれを許していたってこと)。けどもう、そんなモラトリアムは終了ですよ。
それなのに。。。
「民主党に灸をすえるために自民党に入れました」とか。
なんなんスか?「あの子ちょっと先生にほめられたからって調子こいて、ちょっとみんなでシカトしようやー」ってイケズしてる小学生と同じなんじゃないんですか?それ。
「なんかやってくれそうだから維新に入れました」とか。
なんなんスか?「なんか」って?無責任か!?
いやー、そりゃー「なんか」やってくれるかもしれませんよ。徴兵制とか憲法改悪とか。それ、アナタが望んでいる事?
いや、それでも投票にいった人はまだマシと言うべきか?
そもそも、投票率6割ってなんなんスか?残りの4割、なんなんスか!?って話です。
と、ぶーぶー文句を言うだけじゃ始まらないわけです(が、言いたくもなるわけですが)。
何が、今の日本の社会をそうさせているんでしょうね?
問題は文化的・歴史的・教育的なところにもかかわっていて、相当根深いので簡単にどうこうできるわけではないのですが、とりあえず今の私たちをとりまく空気を変えることは出来るんじゃないか、と思っています。
かつて
選挙に行こうという記事を書きました。そこで主張した事と同じ事です。
とにかく、選挙に行くのが当たり前、政治の話をするのは世間話の範疇みたいな空気を、なんとかして儂ら、持つ事はできないかな、個々の努力で少しずつできるんじゃないかな、と思うわけです。
たとえば選挙のとき不思議だったの。
まず、自分自身が、どこに投票するか(したか)、を話すことが憚られる空気。ありません?ありますよね?
あれ、なんで?なんか言っちゃいけない理由ってあるの?言ったらよくないことっておこるの?すっごく疑問なのです。
というわけで、実験してみましょう。
儂の場合、小選挙区は(上に書いたとおり)共産党の候補に投票しました。他の候補は自民・民主・維新で、原発の事を考えれば当然の選択です。が、結果として民主の候補に投票すべきだった、と後悔です。
比例区は未来の党に投票しました。通常は社民党に投票する事が多いですが、今回はあの直前の脱原発政党の結集という形、それにびわこ宣言にも大きく期待しての事です。
と、こんなみんなが読むところにおおっぴらに書いちゃいました。
書いたところで、なんか問題があるのか?ん?ん?ん?
#大丈夫だよ。そもそも、ほとんど誰もちゃんと読んでないからさ。。。シュン
別にね、話してみたらいいんですよ、
友達の間でも
「儂、○○党に入れたけどお前は?」
「あ、俺、××党」
「えー、なんで?」
「いや、あそこの党はさ〜」
みたいな会話になればいいわけですよ。
そんな会話できる友達って、そんなにいないでしょ?いや、人によるとは思いますけれどね。
そういう会話をするから、考えざるをえなくなくなる。
そういうことを考えるのは、別に普通のことだと思えるようになる。
それによって、自分の凝り固まった考えをあらためる事もできるようになる。
議論せい、と言っているのではないわけです。議論始めるとね、日本人は議論下手っていう問題もでてくるからちょいとむじゅかしい。。。
#議論できる人は大いにしていただいて結構。っつーか、できる人は最初からしてると思う。
話題にすりゃぁいいだけの話ですよ、話題に。
簡単でしょ?
はいはいはいはい。わかってますがな、簡単じゃないって事くらい。
エラそうに言っている儂自身が、ほんじゃこないだの衆議院選の時、そういう事出来たか?と聞かれれば ((((((((((((((f^^;
結構トライしたけどねー、人間関係がきちんと出来てないとナカナカ。
毎年、クリスマスカードを出すのですが、今年は試しに原発の事や選挙の事を書いて送ってみました、そして、あなたの意見はどう?と。クリスマスカードなのに全然「クリスマスおめでとう!」って内容と違うし(苦笑)。
その内容に対して年賀状やメールなどで、なんらかのリアクションや意見を寄せてくれた友人はざっと2割ってところでしょうか?うーん、やっぱりやり方が不適切だったか。。。?
だいたいにして、前提が「民主主義」がいいんだ、って感じで話をしていますが(いや儂はそう思っていますが)、勿論民主主義以外の選択肢というのもあるわけですね。
#って、ここまできてちゃぶ台全部ひっくり返すような事をいうヤツ。
イギリスのチャーチルが言うように、民主主義は決して理想の制度、というわけじゃないです。でもやっぱり儂も、今考えられる中ではベターな方向性が民主主義だ、と思うわけです。
#「民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。」(チャーチル)つまり、今まで考えられた政治形態の中ではマシだよね、って事ですよね
そもそも、日本人に民主主義なんて本当にできるのでしょうか?という疑問さえ浮かんできます。
あまりに儂ら日本人の多くが、民主主義というもの自身に対しての意識が希薄だからです。意識して積極的に守り行動していかなくちゃ意味がないのが民主主義なのに、そこへの道のりがあまりに遠いように感じられます。
問題だらけの儂らの国日本。
もういい加減、一つ一つの問題に対処しても、それは根本的な解決にはならないんだ、って事に気づいた方がいい。
儂が、一生懸命原発に反対するのは、原発を無くしたい、というのは勿論あるのだけど、この原発の問題を通して儂ら日本人が、自分たちで考えて、自分達の政治がきちんと出来るようになる、そのきっかけになるんじゃないか、と思っているからです。っていうか、これで出来なかったら永久に出来ないんじゃないかという恐怖感があります。
根本的な解決、それは儂ら全ての日本人が「考えない」という責任放棄をやめ、自分で「考える」という至極当たり前の態度を取り戻さない限りありえないと思っています。
宮台真司の言葉を借りれば、〈任せて文句を言う社会〉から〈引き受けて考える社会〉にしていこう、という事になるでしょうか。
みなさんはどう思いますか?
年頭に長々と失礼しました。本年もよろしくお願いいたしますです。はい。