実はヴァイオレットエヴァーガーデンを観に行った。
話題作とはいえレイトショー。コロナの折、あまり人もいねーべ?と思って行ったが甘かった。
こんなに人がウロウロしているレイトショーは初めてだな。うむ。ちょっと萎える儂の気持ち。(って言っても密になるほどいる、ってわけでもないんだけどね)
さて、代わりに何観る?
おお、人間椅子ドキュメンタリーかぁ、イイなぁ。
ミッドナイトスワン?知らんなぁ。あ、草彅クンやん。へー、トランスジェンダー草彅くんが育児放棄の子を養育費欲しさに引き取って。。。んー、社会問題系か?
混み具合は。。。貸し切り?
というわけで急遽ミッドナイトスワンを観ることに。
これは、、、なかなか辛い。
哀しい、、、では終わらない
イタい、、、だと一面だけだし
虚しい、、、わけでは決してない
切ない、、、というよりは
ツラい。
でも、美しい。
宣伝文句でも言っている
「世界で一番美しいラブストーリー」と。
観る前にこのコピーに気づかなかったんだよね。
だから、ずーっと違和感を抱えながら観てたんだよね。
いや、仮にこのコピーに気付いていても違和感はあったかもしれない。
だって、少なくとも前半部分では積極的に「美しさ」を感じられる部分なんてほとんど無いんだもの(個人の感想です)。
だって、草彅君演じる凪沙はどうにも男性的で仕草や声色セリフでカバーしている感じが逆に痛々しいし(個人の感想です)、新宿の町はどうにもごちゃごちゃだし(個人の感想です)、その延長線上にある凪沙の部屋も片付いてはいないし(儂の部屋よりはマシです)、売春宿や撮影会という社会の影は現実だし(まぁね)、一果は愛想ないし(いや、最初からあったら話にならんでしょうが)、その母親は荒れてるし(だからそういう役だっつーの)。
どうにもツラい。
でも一果が踊りはじめる。
光がさし始める。
しかし、なんとも儚い。
威張っていうような事じゃないけれど、儂はバレーなんてこれっぽっちも興味がないし見ても別になんとも思わない人間だ。でも思った、あぁなんて美しい動きなんだろう、と。
一果の動きに惹かれる。
砂浜で踊るシーン。
なんと耽美的な!(爺むさい言葉で恐縮です)
雲の流れがとても早かった。
あぁ、そうだ。本来一生懸命生きている全ては美しいのだね。
それを醜いと思う主観はその一生懸命さに向き合えない冷笑的な自分の投影なのかもしれない。
もしくは、酷い状況でさえ光が差す場所では美しく感じられるということなのか。
生き辛さを抱えながらそれでも白鳥になろうともがいている儂らは、そりゃぁみにくいアヒルの子なのかもしれない。みんな白鳥になりたいんだな。けどね、残酷な事に全ての人が白鳥になれる保証はもちろんないよ。でも実は、みにくいアヒルの子はみにくいアヒルの子のままでも十分に愛おしく、それをみにくいと思うのは白鳥の見た目だけを基準にする狭い美醜の価値判断の帰結でしかない。
映画の儂的な肝。
何が驚いたって、卒業後の一果が再会する凪沙の表情の柔らかさだ。顔は男臭い草彅君のままなのになんと柔和な事か。
これは俳優のなせる技なのか?
監督の演出力か?
それとも単に儂の思い込みか?
性転換手術したせいか?(?)
所詮美醜など主観的なものでしかない。
最後に「美しい」と思わせる映画の力量に儂がやられた、それだけの事なのじゃろ。
いやいや、別に小難しい考えは無用じゃ。
生きづらさを抱える2人が邂逅しお互いに求め合う(一般的な男女の恋愛とは違う愛情の)ラブストーリー。
既存の分類で言えば家族愛にカテゴライズされるのかもしれないけれど、厳密に言うと違うよね。ここにしかない愛の形だってあり得るのだ、それで良いじゃんか。
「美しくも儚いラブストーリー」でも良いんだろうけど「世界で一番美しいラブストーリー」。
それはナンバーワンというよりはオンリーワンなラブストーリーと言っても良いんじゃないの?
%SMAPネタで失礼します、おあとがよろしいようで♪
話題作とはいえレイトショー。コロナの折、あまり人もいねーべ?と思って行ったが甘かった。
こんなに人がウロウロしているレイトショーは初めてだな。うむ。ちょっと萎える儂の気持ち。(って言っても密になるほどいる、ってわけでもないんだけどね)
さて、代わりに何観る?
おお、人間椅子ドキュメンタリーかぁ、イイなぁ。
ミッドナイトスワン?知らんなぁ。あ、草彅クンやん。へー、トランスジェンダー草彅くんが育児放棄の子を養育費欲しさに引き取って。。。んー、社会問題系か?
混み具合は。。。貸し切り?
というわけで急遽ミッドナイトスワンを観ることに。
これは、、、なかなか辛い。
哀しい、、、では終わらない
イタい、、、だと一面だけだし
虚しい、、、わけでは決してない
切ない、、、というよりは
ツラい。
でも、美しい。
宣伝文句でも言っている
「世界で一番美しいラブストーリー」と。
観る前にこのコピーに気づかなかったんだよね。
だから、ずーっと違和感を抱えながら観てたんだよね。
いや、仮にこのコピーに気付いていても違和感はあったかもしれない。
だって、少なくとも前半部分では積極的に「美しさ」を感じられる部分なんてほとんど無いんだもの(個人の感想です)。
だって、草彅君演じる凪沙はどうにも男性的で仕草や声色セリフでカバーしている感じが逆に痛々しいし(個人の感想です)、新宿の町はどうにもごちゃごちゃだし(個人の感想です)、その延長線上にある凪沙の部屋も片付いてはいないし(儂の部屋よりはマシです)、売春宿や撮影会という社会の影は現実だし(まぁね)、一果は愛想ないし(いや、最初からあったら話にならんでしょうが)、その母親は荒れてるし(だからそういう役だっつーの)。
どうにもツラい。
でも一果が踊りはじめる。
光がさし始める。
しかし、なんとも儚い。
威張っていうような事じゃないけれど、儂はバレーなんてこれっぽっちも興味がないし見ても別になんとも思わない人間だ。でも思った、あぁなんて美しい動きなんだろう、と。
一果の動きに惹かれる。
砂浜で踊るシーン。
なんと耽美的な!(爺むさい言葉で恐縮です)
雲の流れがとても早かった。
あぁ、そうだ。本来一生懸命生きている全ては美しいのだね。
それを醜いと思う主観はその一生懸命さに向き合えない冷笑的な自分の投影なのかもしれない。
もしくは、酷い状況でさえ光が差す場所では美しく感じられるということなのか。
生き辛さを抱えながらそれでも白鳥になろうともがいている儂らは、そりゃぁみにくいアヒルの子なのかもしれない。みんな白鳥になりたいんだな。けどね、残酷な事に全ての人が白鳥になれる保証はもちろんないよ。でも実は、みにくいアヒルの子はみにくいアヒルの子のままでも十分に愛おしく、それをみにくいと思うのは白鳥の見た目だけを基準にする狭い美醜の価値判断の帰結でしかない。
映画の儂的な肝。
何が驚いたって、卒業後の一果が再会する凪沙の表情の柔らかさだ。顔は男臭い草彅君のままなのになんと柔和な事か。
これは俳優のなせる技なのか?
監督の演出力か?
それとも単に儂の思い込みか?
性転換手術したせいか?(?)
所詮美醜など主観的なものでしかない。
最後に「美しい」と思わせる映画の力量に儂がやられた、それだけの事なのじゃろ。
いやいや、別に小難しい考えは無用じゃ。
生きづらさを抱える2人が邂逅しお互いに求め合う(一般的な男女の恋愛とは違う愛情の)ラブストーリー。
既存の分類で言えば家族愛にカテゴライズされるのかもしれないけれど、厳密に言うと違うよね。ここにしかない愛の形だってあり得るのだ、それで良いじゃんか。
「美しくも儚いラブストーリー」でも良いんだろうけど「世界で一番美しいラブストーリー」。
それはナンバーワンというよりはオンリーワンなラブストーリーと言っても良いんじゃないの?
%SMAPネタで失礼します、おあとがよろしいようで♪