ぱたの関心空間

関心空間と徒然なるままに。

原発をとめた裁判長ーそして原発をとめる農家たち @ 龍谷大学深草キャンパス(原発を考える伏見フォーラム)

2024-05-19 18:24:32 | 映画感想
驚くよね。
原発の耐震設計基準が、住宅メーカーが作る一般の家に比べて段違いに低いとか。
ありえへん。

驚くよね。
裁判官は文系だから、科学的判断はできない(っつーか苦手?)とか。
びっくりだ。

驚くよね。
福島原発は偶然がいくつも重なったおかげで東日本壊滅を免れたとか。
こわすぎる。

驚くよね。
活断層があるとかないとか言っても意味がないとか。
ほんまに。


でも、驚く必要なんてない。
実は全部ちょっと調べたり考えたりすればわかることでもある。

儂等はそういう事に気づかないようにさせられて、原発を容認するように仕向けられてきたのだ。

原発をとめた裁判長とは樋口英明さん、福井地裁元裁判長のこと。
2014年に関西電力大飯原発の運転停止命令を下した。

儂がこのニュースを聞いた時に感動したのは、その判決文の中に、
原発を稼働しないと経済的な国の損失になる、とかいう被告側の言い分に対して、
この国の豊かな自然と国民がそこで生活していることこそが国富であり、それを失うことが国富の喪失なのだ、みたいに言っていたところ。
裁判の判決文に血が通ってることを感じた。

そうだね。
他に裁判の話でそんなことを思ったのは、吉田巌窟王の無罪判決での「吉田翁」の呼びかけくらいかな。

そうなのだ。
これは裁判官の物語でもあるのだ。
わかりやすく言えば、裁判は人(裁判官)による、という話。

法治という建前がありながら、人だというのは矛盾しているわけだけれど、現実的にそうなのだから仕方がない。それを人間の未熟と取るのか法治の限界と見るのかはたまた。。。みたいな小難しい事はわからないので、スルーしておくけれど、少なくとも理解という面でも情という面でも裁判官は人であるという至極当たり前の話は、実は儂らはもっと認識しておいていいんじゃないかな、と思った。

河合弘之さんが言う
「高校生でもわかる理屈でないと勝てない」
ん?どゆこと?

裁判官は頭のいい人たちだ。
だって難しい司法試験に通っているんだもの。
その人たちを捕まえて、高校生でもわかる理屈でないとダメとは?
頭のいい裁判官を馬鹿にしているの?
と、ちょっと思っちゃったけど。。。

いやいやいや、
もちろん馬鹿にしているわけではない。
「裁判官は賢い人たちだから、難しい話でもちゃんと判断してくれる筈」と言う思い込みを正しているだけなのだ。
樋口さんは言う
裁判官はほとんど文系ですよ、と。つまり難しい科学的な話とかされても馴染みがない。
いっくら賢くたって、年間何百という案件を抱えている裁判官が、超絶分厚い科学的な証拠資料出されて、全部理解した上で裁判に臨めるのかっつー話だ。

そりゃそうだ。
裁判官だってフツーに人の子。電力会社が用意する分厚い資料を見て、ついついこんだけの資料があるんだから、科学的にも原発は間違ってないんじゃね?みたいに流されても仕方ないだろう?と思うのだ。

だから、裁判官が惑わされないようにするためにも、高校生でもわかる理屈、が必要になってくるのだ。

映画のテイストが明るい。
んー、今にして思えば、意識してそういう作りをしていたのかもしれない。

確かに樋口さんは原発をとめた。
でも、その後はどうだ?
裁判所の判断は原発をとめ続けているのか?
否である。
政治は原発を縮小しようとしているか?
否である。
世論は原発に反対し続けているのか?
否である。

農家のソーラーシェアリングにしてもどうだ?
日本全国にその動きは広まっているのか?
否である。

でも、
その暗澹たる現状を覆すための芽はちゃんとここにある。
絶望的に見える世の中だけど、ちゃんと希望があるのだと気づかせてくれた。
それを明快に伝える映画だったよね。

テーマ音楽担当も東北6県ろーるショーの白崎映美さん。
いいよね。心が躍る。

まだ高い放射線量の場所だってある福島で、土に触れながら頑張る農家の人たちのことは正直気になるところではあるけれど、文字通りソーラーパネルのある上を見ながら、地に足をつけて希望を語る農家の「原発を止めるためにやってるのだ」という言葉で目の前が開けるような気がしたのですよ。儂は。


オッペンハイマー @ イオンシネマ高の原

2024-05-04 01:36:45 | 映画感想
あぁ、儂、オッペンハイマーの事なんてこれっぽっちも知らなかった。

なんか、いつもおんなじような事を言ってる。でもホンマになんも知らん、圧倒的に無知なんだなぁと毎度毎度思い知らされるのだ。
なんとも情けなくはなるけれど、無知である事に気づかせてもらえてありがたいとも思う。

さて、
「原爆の父」
である。
じゃぁ、母は誰?とか、バカな事は言わないでおこう(と正月に誓った気がする。。。気のせいかもしれない:-p)。

原爆の是非の議論は、まぁ日本でしても意味がないかな(アメリカの皆さんがされている事には意味があるし、日本人だってその点について無関心でいるべきではないと思うけどね)。
この映画もまた、そもそも主人公は原子爆弾ではなくその開発を主導したオッペンハイマーなのだから、(映画で描かれている)彼の話をする事にしよう。



主人公だから好意的にあつかっているのかとは思うけれど、科学者としての立場や開発後の核兵器をめぐる態度や水爆についての意見なんかについてみれば、原爆なんか作りやがってコノヤロー!とは言えなくなってしまう。

あ、っていうか、この映画は単純にオッペンハイマー個人の偉人伝映画、というよりもオッペンハイマー事件(っていうのかな?)を主軸にマンハッタン計画に関わった彼の半生を辿るみたいな感じになっていて、政治的な映画として観てもいいくらいだと思うのですな。うん。

で話を戻すと、
それ故に軍人との関係とか、共産党がどうとか、科学者たちをたばねてマンハッタン計画を進める手腕とか、原爆ができてしまえばあとは軍や国のコントロールになる(意見を聞き入れてもらえない)虚しさとか、そういうのが描かれるわけだ。

彼をマンハッタン計画に駆り立てた(軍に協力し原爆開発を進めた)ものが何なのかは結局儂にはわからないけれど、それが例えば科学者としての純粋な探究心だったにしても国への忠信だったにしても理解できないわけではない。

製作者の意図としてはどうだろう。
原爆投下後の皆の前での挨拶のシーン。これでもかと不自然に背景を揺らし、みんなの顔を歪め、足音のラッシュ、幻覚まで入れる演出。
自分たちの成果が身を結び、歓喜する人々とは対照的にオッペンハイマーの苦悩がそこで前面に出される。
実際にあの時に彼がどんなことを思ったのかはわからないけれど、その後の彼の言動につながるものがそこにあるのだろう。

また、話に現実味を持たせているのは、単に殺人兵器を作り出した事への悔恨の前に、作品(兵器)が完成した途端に、国(軍)に取り上げられてしまう件だと思う。
まぁ、当たり前だよね。兵器なんだから。戦争しているんだから。覇権争いのために必要なものであり、国だって切羽詰まっているのだから。

国家というのは個人の意思や都合に関係なく、本当のその人の気持ちを踏み躙ってまでも都合のいい現実を作り上げて利用する。
原爆を作ったオッペンハイマーは英雄、というストーリーだ。トルーマンが言うように、泣き虫では都合が悪いのだ。
クリントイーストウッドの「父親たちの星条旗」でもそうだった。国に都合よく担ぎ上げられ、個人の正義や想いなど一顧だにされることはない。どんなに功績のある科学者であろうと関係ない。科学者としての矜持などむしろ邪魔なくらいなのだろう。

戦争の最中。
そういえば、日本でだって原爆開発をしようとしていた。
戦争に向かう過程の中でも、学術界は国に翻弄され、純粋な学問は虐げられ、国にとっての利用価値のあるものが優遇されたわけでしょう。

儂らがあらためて考えなくてはいけないのはそこでしょう?
戦後、アカデミズムは戦争への協力を強く反省し、現在があるはずだ。
日本学術会議の任命問題は、政府が任命を拒否する事だってあってもいいんじゃないの?みたいなのほほんとした無知な理解で看過していいような軽い問題ではないのだと思う。
防衛省が、有用な研究開発に資金を出す、というような話もあった。
無関心でほったらかしていいような話ではない。

オッペンハイマーの虚しさをまた繰り返させたいとは思わない。



にしても政治家ってヤツはホンマに。。。

「学校で育むアナキズム」(池田賢一著)

2024-05-04 00:52:11 | 読後感想など
儂はもう、アナキズムという言葉に抵抗なくなっちゃったけれど、多分世間一般的にはちょっとヤバいヤツ、みたいな感じよね、きっと。

でもなんかやっぱり儂の考えていることに馴染む、アナキズム。
やっぱり儂、アナキストで大丈夫(笑)。

確かに、他の人とちょっと違うかもしれない儂の考え方は、側から見たらちょっとヤバいヤツの時もあるかもしれんけど、それは儂がヤバいのではなくて、ヤバいというレッテルを貼ってしまう社会の方がヤバいのだと思うな。

そのヤバいアナキズムで学校教育を考えようというのだからヤバい事この上ない(^○^)。

などと、ちょっとフザケ気味で話しても構わないのだけれど、やっぱりここは真面目に行こうかね。


基本的にアナキズムというのは「無政府主義」というよりは「反権威主義」と言った方がいいと理解している。

どストレートに言うと、公教育でいうところの学校という場所は権威的なものの下に従順な人間になるよう子どもたちを教育する場所であるわけだから(あぁ、もうここで引いちゃう人いるだろうなー(^_^;))、アナキズムというのはその今の教育を真っ向否定するものであると言ってもいい。

著者も言っている
「支配関係を否定する点がアナキズムのポイント」である。学校はそれと正反対で「支配関係の構築に躍起になり、そのためにかなり無理を重ねている」と。
「実は、アナーキーであることによって、子どもも教員も安心して過ごせる学びの環境が作れるのではないか」ということを確認するのが「本書のねらいである」と。
(「はじめに」より)

目から鱗ボロボロ落ちる。
いったい儂の目にはどんだけ鱗あんねん!?

小手先の話ではない。
もう教育の根本理念の話なのだ。

理想的な教育のあり方、のようなものが儂なりにあったりする。
でも一方で、実現させるのは難しいんだろうな、と思ってしまったりもする。
いやさ、実はそこがちゃうねんなー。
今の学校の枠組みの中で考えようとするから難しいと考えてしまうだけの話やねん。
根本的に、その今の学校の有り様そのものが間違っていると。話はそこからなのだ、と。アナキズムを通して考えてみれば、それがとてもよくわかるのだ。

例えば、儂が常々考えている事の一つは、学校の中でどうしたら先生も子どもたちも親も楽になれるのか、という事だったりする。
先生なんか顕著だけれど、過労死ラインを超えて疲弊しているし、子ども達もギスギスした環境に置かれているし、親も視界の効かない学校という現場に対してのフラストレーションを抱えている。
どうしたらいい?と考えた時に仕事量を減らすだの人を増やすだの。儂もPTA役員をやっている時にはPTAとして学校に関わる事でそういった労力やストレスを減らす事に繋げられないか、と考えていた。
でも、それって一方で学校そのものの今の在り方を肯定しているわけで、今の枠内で考えているから、現状で学校が抱えている大変さ(無理している部分)を温存しがちなのだ。つまりそこには限界があるし、根本的な解決にはならない。

大阪の大空小学校の話を初めて聴いた時に一番驚いたのは、先生はみんな定時で帰りますよ、というところだった。
そんなバカな!ただでさえ大変な教育現場。通常の学校よりも多くの困難を抱えた子どもたちがいるという学校なのに、他にも手の掛かりそうな話を色々しているのに、残業しないなんて!
何故?
映画を観て本を読んで、そこにアナキズムという言葉は出てこないけれど、子ども達に任せるという姿勢とかね、教員の側もまた子どもと一緒に間違うしちゃんとその時は謝るしで支配非支配の関係ではないとかね。感じるわけさ、アナキズム的感覚を。
あぁこれは、何故?じゃない。故に、と言うべきであると。

勿論、社会全体に対して問題提起をしようとすれば、お金がないとか、人手が足りないとか、そもそもその理念が理解されにくいとか。
実現の難しさを云々するのはしたい人はすればいい。だけど、それ以前の話として教育の理念についてもっと議論されるべきだと思うね。
社会的にどう実現させるのかは政治家や官僚のお仕事であって、儂等市井が責任持つ必要なんてこれっぽっちもないのだから。

っつーか、実践だってできるところでは実践すれば良い。
実際にやっている現場はいくつもあるんだし、法律的、制度的には実現可能なのだから。
1番のネックは。。。思い込みかな。

競争的価値観に儂らは囚われていて、それをほとんどの人は疑いはしない。
けどもう、ちょっと考えれば気付くはずだ。
一部の勝者しか獲得を許されない栄光を求める競争的価値観というパラダイムに従い続ける以上、多くの敗者に安息はないし、勝者でさえ追い落とされる不安から逃れることはできない。そんな余裕のない社会が寛容になれる筈もない。
受験という手段を目的にしてしまった日本の学校社会は、成績表だの評価だの競争的価値観で埋め尽くされているわけで、そこから突き崩さなければ意味がない。

極論を言ってしまえば成績などつけるな、という事になる。

いや、でも待て、それは本当に極論なのか?
成績を上げる事など本来は教育の目的でもなんでもない。
学力をつけることは手段ではあっても、それで日常的に評価される事など手段でもなければ必要でもない。
実際に通知表をなくした学校だってある。

でも儂らの多くは現状の支配的価値観から降りる事はできない。
できないと(これもまた)思い込んでいる。

曰く、
「学歴社会なのだから仕方がない」
だと?
だから、それがおかしいのだ。
いい学歴を持たなければ将来の生活保障が得られない?
ほう?日本国憲法の生存権は何処に行った?
エラそうに言うけど、儂は大学院卒だけど今の仕事はパートの主夫だ。

学歴を否定するわけではないしパート仕事を卑下しているわけでもない。
言いたいのは学歴は将来いい生活をする為のパスポートではないし、どんな境遇であろうと生活する事についてこの国は不安があってはいけない、と憲法が宣言しているという事だ。

そもそも学歴のための勉強だと?
想像するだけでクソつまらんそんなものを学びだと呼ぶこと自体違和感しかない。
「個別最適化」の話(個別化することで逆に画一的になるというパラドックス!)でも思ったけれど、そもそも勉強(というか学習というか)の定義からして狭い定義の中に押し込められたパッケージから抜け出せないでいるのだ。
あぁ、くだらんくだらん。

支配的な思考から自由にならない理由の合理性は思い込みに支えられている。

そして、ひょっとすると最大の思い込みは
「学校は社会に出るための訓練をする場所」
ということかもしれない。

子どもたちは皆学校に行くことになっている。いや、正確に言えば、親には子どもたちに教育を受けさせる義務があるから、当然のように子どもたちは学校に行かなくちゃいけないと思っている、ということだ。
だから、子どもたちにとっての日中の居場所は学校しかない、と思われている、というのが正しい言い方だろう。

でも、著者は看破する
「学校は、むしろ一般社会から隔絶された時空間である」
と。

こうも言う
「教員の『社会に出てから困るぞ』という決まり文句」で教員自体が「学校は『社会』ではないと認めている」
と。
確かに(笑)。

子どもたちは学校に行く以前に家族という社会、場合によっては地域という社会や、塾やクラブチーム、趣味サークルのような社会とも繋がっていたりする。もちろん、個人差があることについてこの社会はめくじらを立てるのだろうけれど、その規範が問題であることは本書全体で書かれているとおり。
学校以前にすでに社会的に生きている子どもたちを社会から隔絶して、社会はこうだと社会とは違うルールを教え込む場所学校(苦笑)。
そんな学校からはみ出てしまった子は学校に行かない代わりにまた別の社会と繋がるチャンスがあるわけだから、逆に社会を学ぶ機会を増やす事になってしまうという逆説(冷笑)。
もう学校いらないよね(爆笑)。

子どもたちが「安定」している方がいい、などともいう。
荒れる学校、的な物言いの対局として言われる言い方と了解されていると思うのだけれど、はたしてどうか?
「波風を立ててくれるな」というメッセージは儂がPTA役員をやっている時に校長教頭から受け取った強いメッセージでもある。高校の時に授業中の態度を咎められて反論した時の教師のとにかくそれをするな、という理屈に合わない物言いへの不信感は、この「安定」を求める学校の態度と思えば合点がいく。子どもというのはそもそもはみ出す存在であり、また学ぶとか考えるという動きは動的なものだ。「波風を立てる」は確かに問題を起こすというニュアンスがあるので適当ではないかもしれないけれど、それぞれの子が自分で学ぶ考えるという時に想定を外れた動きが出るのは当然であり、それはむしろ「安定」からは程遠いことだろう。

例えば、インクルーシブなんて言うけれど、本当のインクルーシブ教育を実現したいのならアナキズム的思考は必然だと思う。いや、控え目に言ったとしてもアナキズム的に考える事は少なくとも実現への近道である、とは言えるんじゃないだろうか。
障害を持っているなど多様な子どもたちを単に同じ教室に入れればそれがインクルーシブ教育になるなどと呑気に思っている人は流石にもういないとは思うけれど、ならば、何が必要か?
制度やら設備やらハード面についてはみんなよく考えるのだろうけれど、実は必要なのは人々の中にある「無意識の良心」というべきか。少なくとも上から権威的に押し付けられる通達や方針などでない事は確かだろう。儂ら一人一人のアナキズム的な相互扶助や寛容が教育現場にもたらされたときに実現されるものなのではないだろうか。

ぶっちゃけ、儂は焦っている。
何故なら、今子どもたちが学校に殺されているからだ。
わざとラジカルな物言いをしているけれど、決して大袈裟な話ではない。
著者も最後の最後にこう書く。
「(学校で構築される権力)関係の中で子どもたちが『死んでいる』」「体罰によって、あるいは指導と称して、これまでいったい何人の子どもたちが死に追い込まれてきたのか」
他にもイジメを苦に、学校からはみ出してしまった果てに自死した子もいる。学校内での性被害など悍ましすぎて正視に堪えない。

学校は子どもにとって他のどんな場所よりも安心安全な場所であって欲しい、というのが儂の1番の願いだ。そう、家庭よりも安心安全な場所でなくてはならないと思っている。なのにその場所が子どもを殺している、など到底許せないのだ。

著者は上記の記述がある最後のチャプターに「アナキズムの魅力」という優しい見出しをつけている。魅力。。。うん、かなり強力に魅力的だ。

でも、儂はこう言いたい気分なのだ。
「子どもたちの命を守るために、今すぐにでも学校にアナキズムを」
と。

あらためて言うと、
アナキズムは決してアブナイ思想なんかではない。
むしろ、人間の気持ちに根差した相互扶助に信頼する優しい社会の思想だ。

儂は修羅の価値観より温かい規範の世の中で生きていきたいのだ。


決断 運命を変えた3•11母子避難 @ UPLINK京都

2024-04-28 19:36:27 | 映画感想
おお初めて来たぜアップリンク京都!



っつーか新しくなってからの新風館に来たのが初めてだぜ!
って、いつから行ってないんだ!?<三条烏丸

昔の面影。。。ん?

違うがな。
別に新風館が目的ちゃうで。
えーがえーが♪

東日本大震災で、放射能汚染への懸念から全国に避難した人たちを追ったドキュメンタリーです。

東日本大震災に伴う東京電力の原発事故から13年。。。

そう、「◯◯から何年」って言っちゃうこのフリの言葉がさ、そもそもいけないのだよ。
でも、語りの入り口には便利なんでついつい使っちゃうんだよねぇ。

かと言って時間の流れは無視できないのも事実。
そこから話を初めてしまうことをお許しいただきたい。

例えば、時間が経つことで落ち着くこともある。
逆に、時間が経つことで厳しくなることもある。
更に、時間が経つことで忘れ去られることもある。

並べておいてこんなこと言うのは酷いのだけれど、それぞれは全部主体も違ってくるし、別の次元で語られる話でもあり、それでいて作用し合う関係でもあり。一つの見方だけで語ることはとても傲慢なことなのだろうと思う。

中でも一番危惧してしまうのは三つ目だ。

儂ら人間はとにかく忘れっぽい生き物なのだ。
常にそれを意識して、忘れないように忘れないようにした方がいい。
あくまで、基本的に、ということだけれど。

忘れる、ということについては自ずから忘れていく、ということの他に、忘れさせよう、忘れろという圧力もある。

山形に避難した人が浴びせられた「もう○年経つのだから自立したら」という言葉とかね。
誰も彼も自立しないでいようと思っているわけじゃないだろう?自立できないようにさせたのは誰だ?自立しにくいように住居の権利を奪ったのは誰だ?って話だ。

根本的におかしいだろう?
なぜ、避難者が、被害を受けた者が、理不尽に奪われた者が責められなくてはいけないのか?
責められるべきは東電であり、国ではないか。
想定外などという言い訳で(それ自体は別に言ったって良いけれど)逃れられるとまだ強弁するのか?
その言い訳が通じる部分と破壊した庶民の生活を守る責任とはまた別の話ではないか?

そして、儂らのように当事者ではない(、と思いがちな距離のある)人間は忘れてしまいたがっている、とも言えるのではないかとこれまた思うわけだ。災害や事件が起これば、報道やSNSの情報を見て当然のように胸を痛める。でも長時間気に止み続けることはまたしんどいことでもある(個人差があります)。テレビや新聞がいつまでもその事を報じることは気にし続けろと押し付けてくることでもある(言い方は悪いけれど、それはマスコミにとって必要な使命でもあると思うよ、儂は)。それをきらうことが絶対にいけないことか?と問われると答えに窮するけれど、その忘れようとする空気の変化という圧力に争うことは社会にとって必要なことだとも思うのだ。

特に、そうやって社会が忘れていくことに反して当事者たちのシンドさは増していく事もまた必然なのだ、ということも映画の中で描かれる。
北海道に避難した方が言っていたように、まずは加齢がある。子どもがいれば成長に伴い、経済的精神的負担が増えたりもする。病魔に侵されるということもある。関心の低下とともに運動の風通しも悪くなったりする。社会の風当たりである。
いくつもの裁判が起こされているけれど、10年とかかかる裁判を戦い続けるのがどれだけ困難なことか。
そういったことが当事者に全て降りかかってくる。
そういうしんどさを包摂できるほど儂等の社会が成熟していないことはみんな知っているじゃろ?
それだって根本的におかしいんですよ。
本当はそれだって社会のコストとして儂ら社会全体が受け入れるべきではないのか。
未熟な儂らはまだそれにさえ気づけていないのだ

そして、しんどいけれどもみんな前を向いて生きているの。
やっぱり泣いちゃうところなんだけど、なんでみんなそんなふうにさ、虐げられているのに頑張るんだろうね。
もちろん自分のため、というのはないとは言えないと思うんだけどそれだけじゃないんだよね。

曰く
子どもたちにツケを回したくない、子どもたちを守りたい、ベビーカーを押している母親たちに代わって前に出ている、と。
ひっくるめてかっこよく言っちゃうと、みんな未来を守ろうとしているのだ。
避難先で議員になる人なんて典型なんじゃないの?
議員になる、という人の最も純粋な気持ちはみんなのため、でしょう?
ウクライナの支援に目が向くのだって、なんら不思議なことではないでしょう?

儂だってそうだ。
原発なんていう負の遺産を子どもたちに押し付けるなんて、到底我慢がならない。

もちろん、ギスギスした社会ではある。
でも、人を想う気持ちがある社会には希望がある。
その希望を国が潰してどうする?

極限に追い詰められた被災者が、それでも弁当を譲り合ったりできるうちは。

忘れるな。
この国は災害大国。
明日には儂もあなたも決断を迫られるのかもしれない。


「日本が滅びる前に-明石モデルがひらく国家の未来」(泉房穂著)

2024-04-24 15:31:05 | 読後感想など
言わずと知れた(?)元明石市長、泉房穂さんの著書。

あぁ、なんてわかりやすいんでしょう。
そして、なんでこのわかりやすい事が国レベルでできないのでしょう?
さらに、全国に広がりつつあるとは言いながら、我が市ではそれに程遠い市政が罷り通っっているのはなぜなのでしょう?

耳触りのいいスローガンは、本質を見えにくくしがちだけれど、泉さんの言う
「冷たい社会をやさしい社会に変えたい」
という言葉は、おそろしく素直に儂の中に入ってくるのだ。

んー、多少クサい言い方を許して貰えば、泉さんに本気を感じるからなのじゃないかな。
国政で見られる多くの政治家には感じられないものを泉さんには感じている。

で、その信用が何よりもちゃんと結果を出しているところに裏打ちされているわけさ。
人口増と税収増。そして、住民の満足度。

泉さんのやった政策はいくつもあるわけだけど、とりわけわかりやすく言うと子どもたち、子育ての政策を重点化したことと言っていいのだと思う。

儂がいつでも嫌気が差すのはゼロサムで話をすることだ。
子供のためにお金を使うのなら、老人福祉は削るのだろう?とか経済政策はおざなりになるのだろう?とか。
違う。
もうそんな批判、ほんまにいらん。後ろ向きにならざるを得ない、そんな楔を打ち込むことに一生懸命になることにどれだけ意味があるのか?
政策は短期的な効果で見るものではない。

経済政策の話をするときに、よく経済効果とか波及効果とかいうじゃない?
実際にそういうものはあるのだろうし、それは経済(お金)の話だからお金をかけることによってさらに経済効果が高まるという話で理解されやすいのかもしれない。
けれども、それはさ、経済だけに通用する理屈ではないわけさ。
子育て政策にだってその話は通用する。というか、それ以上に波及効果は大きいんじゃないかな、と思うわけだ。

多分、それがなかなか受け入れられにくいのは効果が出るまでのタイムスパンが長い、と思われていることもあると思う。
いくら子どもたちにお金をかければ大人になった時にベネフィットがあると言ったところで、何年後の話やねーんとなる。それよりも、企業誘致した方が早いんじゃね?みたいな。

でも、実際には明石市は子育てを重点化することで、その効果を数年で出している。
まぁ、社会増が多いというわけだけど、それだって子育て支援策に惹かれて転入してくる人たちの存在があるわけだから無視できないわけで。

そして何より大事なのはおそらく市民の納得感なのだと思う。
つまり、子育て政策を重点化するというのは、決して他をおざなりにすることではない。長いスパンで見た時にこの社会全体にとって最も恩恵をもたらす可能性の高い政策が子育て支援なのだ、という説得ができるかどうか。
そういえば、子育て支援政策で有名な岡山の奈義町なんかでも、最初にしたのは町民に向けてのそういった説得だった、みたいな話を聞いたことがある。奈義町の場合は過疎という切実な問題も大きかっただろうから単純に並べられないのかもしれないけれど、でもそれって住民に近いところにある地方自治の基本の部分なんじゃないのかな。
いや、国レベルだってそうか。政治の説明責任と国民の納得、まぁそれが今の日本の政治にできているとは思えないけれど。

本当は難しいことはいらんねん。
泉さんに倣おう。曰く
「1、すべての子どもたちを、
 2、まちのみんなで、
 3、本気で応援すれば、
 4、まちのみんなが幸せになる」
って。

あーもう超絶わかりやすいやないか!
もうこれ読むだけで涙が出てくる。
声に出して読みたい日本語や。齋藤孝さんに推薦するわ。
そんなんでほんまにみんなが幸せになるんか?
いや、なるよ、なるってば、なるやろ?
儂、おかしいか?(笑)

泉さんは繰り返し言う。
子ども政策の実現に増税は必要ない、と。
予算の適正化をすれば十分財源の捻出はできる、と。
全くもって同感だ。
この国の金の使い方はどう考えたっておかしい。
同様に、地方の金の使い方も然り。
もっとも地方の金の使い方には、地方交付税とか国庫支出金とかあったりとかの難しさもあるってのはわかる。
わかるよー、市役所の人たちが市民の方じゃなくて府とか国の方向いて仕事してるの、めっちゃわかるもの。
そういう財政の適正性とか言い出したら話が終わらないのでやめておくけれどさ
(っつーか、ややこしすぎて儂には追いつけん)

でも、これだけは言っておきたいな。
防衛費の増額はいらん、その分全部子育てや教育に回せ!ほんまに。

いや、もう一つ言うとさ、当然単に金をかければいい、って話でもないのだよ。
岸田さんが言い出した異次元の子育て支援。そしてその後に政府が打ち出す、異次元の的外れな政策の数々。
これから結婚しよう、子どもを作って豊かな将来を築いていこうと思えるようなメッセージなどほとんどない。
うちら、子育て世代が安心して子育てを続けられると思う社会を実現するために必要な施策などほとんどない。
そう。大事なのはわしらのモチベーションを上げる政策なのだ。金の多寡の問題じゃねーよ。
泉さんにできて、国にできないわけがない。
為政者が本当にこの国の将来のことを考えているのならね。

もちろん、お金はもっとかけるべきですよ。子は宝、国の宝に金かけるのは当然やんか。
せやろがい!