ぱたの関心空間

関心空間と徒然なるままに。

靖国YASUKUNI@京都シネマ

2008-07-12 09:33:38 | 映画感想
もうね、 あほちゃう? って感じです。

#旬が過ぎてるからって好き勝手言うヤツ

この映画に対して賛成だとか反対だとかいう議論の話。

いろんな意見がでるのは当たり前の事だけど、それはホントにこの映画を見てこの映画を評して言っているのかちょっと疑わしく感じます。

というのもこの映画、監督自身が靖国(若しくは日本)に対してどう考えているのか、というのがはっきりとは読み取れない。
え、、、あ? うーん、まぁ、儂の映画を読み解く力が弱いから? んとー、そう言われてしまうとミもフタも無いんですけどね。。。

ドキュメンタリーっつーのは、題材の選び方やカットの仕方によって、いくらでも製作者の主張が入っているのが当たり前だから、なんらかの主義主張が入っているに決まっている。そもそも、何か映画をとろうと考えた時点で伝えたいメッセージがあるわけだから、客観的なドキュメンタリーなんて有りえないわけで(っていうのは一応常識って事でOK?)、その映画を見て 「この映画は偏っているからイカン!」みたいな事を言うってーのがどだいナンセンスなわけですよ。

ところがどっこい、この「靖国」
儂にはその監督の意見がむしろ読み取れなかったのです。
これはかなりオドロキですよ。
フツー、ドキュメンタリーっつーのは上記のように、なんか主張するものでしょ?

映画を見終わって、
ほんで、どっちやねーん?!みたいな苛立ちは感じるけどそれは、結局題材だけ渡されて
「ほうら、靖国の周囲で起こっているのはこんな事やねんで~。ほんでさ、アンタはどう思うん?」
って自分が問いかけられてしまっている事についての焦りなのかなと思うわけですよ。
つまり、この問題について自分で考えなくちゃいけなくなる、っていう構図になっているわけです。

もちっと簡単に言うと、
映画の中では意見を言ってくれていないわけです。
だいたいの人は、映画の中になんらかの意見があるのを期待して見に来るのであって、その意見を読み取って「うん、なるほどなるほど」と納得して(若しくは憤って)映画館を後にする。
ところが、この映画は意見を言わない。
意見を得る事が出来なかった観客は、欲求不満になるから、その穴を埋めるべく自分で考えるしかない。

と。

もうちょっと言おうかな。

だから、映画を見てこの映画を「反日だ!」とか、「軍国主義的だ!」とか言うのは、実は映画を評しているのではなく、映画に触発されて自分の意見を表明しているに過ぎないのではないのか? と感じるのです。

カメラは靖国神社に参拝にくる人々、政治家、アメリカ人、抗議の人などを淡々と映します。
例えば、映画の宣伝でも良く使われてた画像の参拝の様子。
靖国に対して批判的に見る人はこのシーンを、「なんだこの時代錯誤な軍服姿で威風堂々と参拝する姿なんか映して!この映画は戦争を美化しているのか!?」と思うかもしれない、逆に靖国参拝を指示する人も「特別な日の特別な形の参拝をこんな風にピックアップしたら、みんな変に思うじゃないか!この映画は日本人を偏見で見ているのか!?」ともなりかねない。
アメリカの実業家が靖国にやってきて、アメリカ国旗を掲げながら靖国支持を訴える。「ほうら見ろ、アメリカ人にだってわかるんだ、おかしな事じゃないだろ?」って思う人もいれば、そのアメリカ人に食って掛かる人を見て「ほうら見ろ、偏狭な国粋主義がこんなところにも表れているじゃないか」って思う人もいる。

その人の主義主張によって、映画の一つ一つのシーンはどうとでも解釈されてしまう。っていうか、見事にそれを許す映画でした。

とにかく、ここまで主張の感じられない映画というのも珍しいと思うのです。

それでもこの映画に監督の主張を見出すとしたなら、反戦ということかもしれないなぁ。
最後の戦時中のフィルムや写真。靖国についての賛否とは違うこの数分を入れるその意図はそこにあるような気がします。

大多数の、靖国を快く思わない人にも、靖国神社を崇める人達にも、メンツとか政策とか抜きにすれば戦争での悲劇や惨禍を想い、それに反対する気持ちは共通するの事なのでは無いかい?
#楽天家のバカがココにいますよー。

見方を変えてみればだ。
検閲とか上映中止の問題が出たことで話題になり、それで見てくれる人が増えた、と考えれば、一概に論争も悪いことばかりじゃないよね。
まぁ、みんなが一連の騒動で問題になった事の問題性をきちんと認識することと、映画を見てきちんと自分の意見を持てるという2つのことがキチンと出来ることが理想やな。

靖国YASUKUNI@京都シネマの画像



西の魔女が死んだ@京都シネマ

2008-07-06 15:32:50 | 映画感想
なかなかにストレートな物言いのタイトル。
でもセンスがあるとはとうてい思えないのだけど。 どうなの?
と、チラシを見たときは思った。

魔女とはイギリス生まれのおばぁちゃんの事。
そのおばぁちゃんとすごした数日間を描くお話。

都会に住むイマドキの女の子が、イマドキありがちな東京コーヒー......じゃなくて登校拒否になったののをキッカケに、田舎に住んでいるちょっとセンスのいい祖母と暮らすことになる。そんな田舎生活の中で、都会では気づけない、若しくは忘れてしまったものに気づき学んでいく、みたいなね。チラシを読んで簡単にイメージできる。
「魔女」とは、単におばぁちゃんのニックネームみたいなものか?どうやらファンタジーやSFではないらしい。
ありふれたテーマ。ありふれた設定。

それでも、見に行こうかと思ったのは、映画館に置いてあったポスターに貼られたアンケートをみたからでしょうか。
感動を綴るその一枚一枚は、別にフツーの「感動した」ってな感想ばかりなんだけど、見てみてもいいかな、と。何故か思ってしまったわけです。
魔がさした?魔女だけに?
(座布団ぜんぶ取っちゃえ!)


でね。

映画を見ているあいだはさしてたいした映画だとは思わなかった。ホントに。

「魔女が倒れた。もうだめみたい。」
というモノローグで始まる。
あとはもうひたすら回想シーン。

淡々としたオハナシ。

緑の美しさや、おばぁちゃの家とその生活のおしゃれさとかは特筆できるけど、それだけかな。。。。と。

映画の終盤に、やはり感情はこみ上げてくるけど、さして特別な映画だとは思わなかった。

でも映画館を出て、もう一度ポスターのほかの人の感想を読んで見た。
ダメですねー、涙があふれて、こんな後からじわじわ来るなんて。ちょっとずるい。

思い返す、セツナさといとおしさ、人と付き合う大切さとか。

回想シーンで構成される本編は、最後に再び冒頭(雨の中、倒れたおばぁちゃんに会いに行く車中)にもどる
「魔女が倒れた。もうだめみたい。」
というモノローグを受けとめるかのように
「そうよ、おばぁちゃはホンモノの魔女よ。」
という唐突な母親のセリフ。

勿論、そのセリフまでにいろいろな会話があって、そういうセリフに繋がったと想像する事も出来るけれど、このセリフに見ている人はドキドキさせられる。
そしておばぁちゃんの魂は脱出に成功するのだ。

おばぁちゃんは魔女なんかじゃない、と思いつつも、いや、でもホントはやっぱり魔女なのかも、とギリギリの線で見ている人に思わせる、心憎い演出が、シリアスなヒューマンドラマをファンタジーにしてしまっています。

父親と母親の位置づけが微妙(ベクトルが主人公である娘の方向を向いていないと言うか、、、母親に至っては娘を傷つける発言もさせられているし。存在感が薄いのは、おばぁちゃんを際立たせるために必要だとしてもなぁ)という点はちょっと気になったのですけど、どうなのでしょう。

諸手をあげて賞賛されるようなスバラシイ映画、というわけではないけど良質な佳作だと思います。

幸せになるのは実はとても簡単な事。でもその簡単な事は案外難しい。

魔女の修行のように。

見てよかった、と思える映画でした。

西の魔女が死んだ@京都シネマの画像



JUNO@京都シネマ

2008-07-05 23:28:09 | 映画感想
前の日記をアップした直後、確認しようと思って関空のトップから日記に入ってみたら儂の日記が無い!
ありゃぁ、アップしそこなったかぁ、と思ってマイページから入ったらアップ出来てるし????

って、いつのまにか日記の表示はアップした順ではなくて日付順に表示されるようになっていたのですねぇ。
って事は、当日に書く事がほとんどない儂の日記がトップに表示される事はほぼありえへんっちゅー事やな。
うふふ、人知れず日記やん。
#でも、なるべく早く書こうと思ってしまった儂がいる。

さて、Juno(ジュノ)である。

わずかに数館の上映から、全米2位(興行成績?)にまでなったという前評判。

ストーリー的には何のひねりも無いけれど、キャラクターの個性が際立つ映画でした。

十代の妊娠というシリアスなテーマが、でもキャラクターの設定により軽いコメディータッチで綴られる。
軽いなりゆきでのセックスでの妊娠、
そこには当然、葛藤や苦しみがあるものの、主人公ジュノの割り切り、決断の早さは小気味がいいのです。その表現の仕方(子供を搾り出す、とか配達するとか)や突飛な行動は、常識的な世間様から見れば眉をひそめるようなものなのだけど、彼女に加担する観客の視線からはそんなやんちゃな感じがキュートにも見えてしまう。そして、彼女を取り巻く環境も基本的には同じ目線だから柔らかい。親友のリアも父親も継母も、育ての親になる予定の二人も。そして恋人?、いや、赤ちゃんの父親にあたるポーリーも。
彼らがジュノの事を「ちょっと変わった女の子」としては扱っていない(心の中では思っていても)ところが、この物語をシリアスなものにはしないでいてくれているのだなぁと感じます。

勿論、十代の妊娠にはそれだけで済まないいろんな問題があるわけで、それを物語の中ではスルーしている感はあるのだけど、そんな説教くさい話は面白くないからね。キチンと家庭で性教育していただきましょう>世のお子様をお持ちの親御さん方。

ただ、本当は赤ちゃんの親になる予定の完璧な(筈だった)カップルが抱えていた問題は、結果としてスルーする事は出来ず、現実を突きつけるわけです、オトナは現実を直視しなさいと、ジュノとは違い、いかんともし難い大人の事情、というか我侭。。。そのお陰もあって(と、言ってもいいのか)全体のテイストがご都合主義のハッピーエンドではなく、ビタースウィートくらいに収まって好感が上がっているのんちやうかな。赤ちゃんを貰い受けるヴァネッサの最後の笑顔にも救われるなぁ。

また、この夫婦の演技はわかりやすく、そこには「完璧な夫婦」の胡散臭さは無いです。まぁ、ストーリーを知らずに、この夫婦がジュノの赤ちゃんの親になってくれるという期待をもってみていた儂はその微妙さにどぎまぎするわけですが。。。

んで、何よりもステキなのはジュノの両親。
「ちょっと変わった」ジュノの親だけあって、彼女に対しての理解があるところがスバラシイわけで、なかなかこんなに理解のある親なんてそうそういないですよ!
特に継母がステキ。継母という設定だから、微妙な関係を想像させるし、ジュノに対して憎まれ口は叩くけれど、行動の一つ一つ、反応の一つ一つがジュノに見方である事を印象付ける。エコー技士はちょっとかわいそうだけれど。
父親は一見無愛想だけど、育ての親(になる予定)の夫婦の元を訪れる時はとてもしっかりした階級の違いを感じさせない応対をするダンディなパパだし。
完璧な(いや、完璧に近い、くらいにしておくか。。。)夫婦は実はここにいるのではないかい?>ジュノ

あとは音楽と主人公や彼氏の部屋のポップな装飾とかこれは70年テイスト?ちょっと安心しますね、こういうどこかで知っているセンスは。

音楽ネタとか映画ネタとか、かなりマニアックな会話がなされている感じがするのだけれど、洋ものへの造詣のない儂にはなんとなくしかわからないところが残念。

終わってみれば安心してみられる映画という結果。
んふ。 そんな評価は期待されていないのかしらん?

JUNO@京都シネマの画像



SOIL&"PIMP" SESSIONS@磔磔

2008-07-03 15:19:27 | ライブレポ
新しいアルバムが出てのツアー@京都磔磔編。

こちらはタブゾンビ様御使用の酸素ボンベ ---->

さて、
行くたびに少しずつ変化を見せるソイル。
しかし、今回のソイルはなんやったんやろ。
多分にソイルらしからぬ、、、、いやこれこそがソイルらしいと言うべきか。。。

ソイルは“Death JAZZ”を標榜しているわけで、この言葉のイメージに一番近いといえば近かったのだろう。(リアルに2回くらい倒れている女の子とかいましたから。。。)

ソイルのライブにももう何度か行っているわけだけど、こんなに厳しいソイルは初めて。(激しいと言うよりは厳しいっツー感じなのだ)
問題なのは激しさの内容である。

分かりやすい所を言うと客のテンション。
これほど最初から攻める姿勢の客の勢いは今までになかったんちやうかな。
こう書くと悪く無いような気がするけど、このノリはいわゆる「暴れたいだけ」という(往々にして最近のポップなパンク<語義的に矛盾>のオーディエンスにありがちな)感じに近いのだ。
いやー、人気出たね。と、言って喜んでもいいんだろうけど、そんなもんじゃねぇだろ?ソイルは。と思わずにはいられない。

バンドもまるで、暴れたいを煽っているようにも感じられる。

ん~、でも実は分かっていたかも知れへん。
今回発売されたアルバム「PLANET PIMP」。実は先週購入して、あまり聞き込めていないのだけど、そういう予感はあった気がするのだな。楽曲的に。

そして、演奏。
社長が繰り返し言うように、オーディエンスも演奏の一部だ。観客とバンド、お互いが呼応するかのように激しくなってしまったライブ、と評してもいいのかな。

初めてですよ、タブゾンビと元晴さんの音がかすれるなんて。
今まで何度かライブ行ってソイル聴いているけど、ライブの最初からあんだけ吹いている管2人、アンコールの最後のハイトーンで音が出ていないってのはあったけど、本編中に音が出ないと言う事態には初めて遭遇。
良かった、二人とも人間だったのね。。。(ソイルは全員化け物説が実しやかに語られています)

「今回、このツアーの中で一番辛い状況を迎えています。。。」
息を切らして社長、元さんは目をむいて真顔だし、タブさんはしっきりなしに酸素吸っているし、かなりリアルです。

楽曲のせいもあるけど、ペットとサックスのユニゾンがずれる。激しさゆえか。
でもなんだかんだいってバックのゆるぎなさ。ステキです。

やっぱりあらためて丈青。
金管吹きの儂はどうしても管の音を聴きがちだけど、今回のアルバムとライブでのキーボードの活躍っぷりといったら!
狂ったような鍵盤も、リズムを刻みつける旋律も、跳ねまくる右手をよそに恐ろしいくらいにキープする拍感も、どれをとっても凄いのにクールなの。えぇ、まぁ若干病弱には見えますが。。。。(違う、そういう事いってるんちゃう!)

中間でJAM(バックの3人)によるセッション。
そういう曲なのかもしれないけれど、ベースもドラムも、まるでキーボードのリズムを頼りにするかのような(普通逆でしょ!?)演奏。それだけに自由度が高く楽しい。
もちろん、みどりんもゴールドマンもめちゃめちゃなテクニックの持ち主なのに。
あらためて底力を実感。

しかし、彼らの演奏をしっかりと聴くという感じのライブで無かった事だけは事実。
今回はセットリストを決めていないと言う。つまり、その会場毎に曲をかえてくるという事だ。
どうやら磔磔は本気で“Death JAZZ”を目指していたらしい。
まぁ、それならそれで良しとしよう。

ちなみに最後に客席に投げ込まれたタブさんの酸素ボンベ。
当然の事ながら、残量は0でした。

SOIL&"PIMP" SESSIONS@磔磔の画像