もうね、 あほちゃう? って感じです。
#旬が過ぎてるからって好き勝手言うヤツ
この映画に対して賛成だとか反対だとかいう議論の話。
いろんな意見がでるのは当たり前の事だけど、それはホントにこの映画を見てこの映画を評して言っているのかちょっと疑わしく感じます。
というのもこの映画、監督自身が靖国(若しくは日本)に対してどう考えているのか、というのがはっきりとは読み取れない。
え、、、あ? うーん、まぁ、儂の映画を読み解く力が弱いから? んとー、そう言われてしまうとミもフタも無いんですけどね。。。
ドキュメンタリーっつーのは、題材の選び方やカットの仕方によって、いくらでも製作者の主張が入っているのが当たり前だから、なんらかの主義主張が入っているに決まっている。そもそも、何か映画をとろうと考えた時点で伝えたいメッセージがあるわけだから、客観的なドキュメンタリーなんて有りえないわけで(っていうのは一応常識って事でOK?)、その映画を見て 「この映画は偏っているからイカン!」みたいな事を言うってーのがどだいナンセンスなわけですよ。
ところがどっこい、この「靖国」
儂にはその監督の意見がむしろ読み取れなかったのです。
これはかなりオドロキですよ。
フツー、ドキュメンタリーっつーのは上記のように、なんか主張するものでしょ?
映画を見終わって、
ほんで、どっちやねーん?!みたいな苛立ちは感じるけどそれは、結局題材だけ渡されて
「ほうら、靖国の周囲で起こっているのはこんな事やねんで~。ほんでさ、アンタはどう思うん?」
って自分が問いかけられてしまっている事についての焦りなのかなと思うわけですよ。
つまり、この問題について自分で考えなくちゃいけなくなる、っていう構図になっているわけです。
もちっと簡単に言うと、
映画の中では意見を言ってくれていないわけです。
だいたいの人は、映画の中になんらかの意見があるのを期待して見に来るのであって、その意見を読み取って「うん、なるほどなるほど」と納得して(若しくは憤って)映画館を後にする。
ところが、この映画は意見を言わない。
意見を得る事が出来なかった観客は、欲求不満になるから、その穴を埋めるべく自分で考えるしかない。
と。
もうちょっと言おうかな。
だから、映画を見てこの映画を「反日だ!」とか、「軍国主義的だ!」とか言うのは、実は映画を評しているのではなく、映画に触発されて自分の意見を表明しているに過ぎないのではないのか? と感じるのです。
カメラは靖国神社に参拝にくる人々、政治家、アメリカ人、抗議の人などを淡々と映します。
例えば、映画の宣伝でも良く使われてた画像の参拝の様子。
靖国に対して批判的に見る人はこのシーンを、「なんだこの時代錯誤な軍服姿で威風堂々と参拝する姿なんか映して!この映画は戦争を美化しているのか!?」と思うかもしれない、逆に靖国参拝を指示する人も「特別な日の特別な形の参拝をこんな風にピックアップしたら、みんな変に思うじゃないか!この映画は日本人を偏見で見ているのか!?」ともなりかねない。
アメリカの実業家が靖国にやってきて、アメリカ国旗を掲げながら靖国支持を訴える。「ほうら見ろ、アメリカ人にだってわかるんだ、おかしな事じゃないだろ?」って思う人もいれば、そのアメリカ人に食って掛かる人を見て「ほうら見ろ、偏狭な国粋主義がこんなところにも表れているじゃないか」って思う人もいる。
その人の主義主張によって、映画の一つ一つのシーンはどうとでも解釈されてしまう。っていうか、見事にそれを許す映画でした。
とにかく、ここまで主張の感じられない映画というのも珍しいと思うのです。
それでもこの映画に監督の主張を見出すとしたなら、反戦ということかもしれないなぁ。
最後の戦時中のフィルムや写真。靖国についての賛否とは違うこの数分を入れるその意図はそこにあるような気がします。
大多数の、靖国を快く思わない人にも、靖国神社を崇める人達にも、メンツとか政策とか抜きにすれば戦争での悲劇や惨禍を想い、それに反対する気持ちは共通するの事なのでは無いかい?
#楽天家のバカがココにいますよー。
見方を変えてみればだ。
検閲とか上映中止の問題が出たことで話題になり、それで見てくれる人が増えた、と考えれば、一概に論争も悪いことばかりじゃないよね。
まぁ、みんなが一連の騒動で問題になった事の問題性をきちんと認識することと、映画を見てきちんと自分の意見を持てるという2つのことがキチンと出来ることが理想やな。
#旬が過ぎてるからって好き勝手言うヤツ
この映画に対して賛成だとか反対だとかいう議論の話。
いろんな意見がでるのは当たり前の事だけど、それはホントにこの映画を見てこの映画を評して言っているのかちょっと疑わしく感じます。
というのもこの映画、監督自身が靖国(若しくは日本)に対してどう考えているのか、というのがはっきりとは読み取れない。
え、、、あ? うーん、まぁ、儂の映画を読み解く力が弱いから? んとー、そう言われてしまうとミもフタも無いんですけどね。。。
ドキュメンタリーっつーのは、題材の選び方やカットの仕方によって、いくらでも製作者の主張が入っているのが当たり前だから、なんらかの主義主張が入っているに決まっている。そもそも、何か映画をとろうと考えた時点で伝えたいメッセージがあるわけだから、客観的なドキュメンタリーなんて有りえないわけで(っていうのは一応常識って事でOK?)、その映画を見て 「この映画は偏っているからイカン!」みたいな事を言うってーのがどだいナンセンスなわけですよ。
ところがどっこい、この「靖国」
儂にはその監督の意見がむしろ読み取れなかったのです。
これはかなりオドロキですよ。
フツー、ドキュメンタリーっつーのは上記のように、なんか主張するものでしょ?
映画を見終わって、
ほんで、どっちやねーん?!みたいな苛立ちは感じるけどそれは、結局題材だけ渡されて
「ほうら、靖国の周囲で起こっているのはこんな事やねんで~。ほんでさ、アンタはどう思うん?」
って自分が問いかけられてしまっている事についての焦りなのかなと思うわけですよ。
つまり、この問題について自分で考えなくちゃいけなくなる、っていう構図になっているわけです。
もちっと簡単に言うと、
映画の中では意見を言ってくれていないわけです。
だいたいの人は、映画の中になんらかの意見があるのを期待して見に来るのであって、その意見を読み取って「うん、なるほどなるほど」と納得して(若しくは憤って)映画館を後にする。
ところが、この映画は意見を言わない。
意見を得る事が出来なかった観客は、欲求不満になるから、その穴を埋めるべく自分で考えるしかない。
と。
もうちょっと言おうかな。
だから、映画を見てこの映画を「反日だ!」とか、「軍国主義的だ!」とか言うのは、実は映画を評しているのではなく、映画に触発されて自分の意見を表明しているに過ぎないのではないのか? と感じるのです。
カメラは靖国神社に参拝にくる人々、政治家、アメリカ人、抗議の人などを淡々と映します。
例えば、映画の宣伝でも良く使われてた画像の参拝の様子。
靖国に対して批判的に見る人はこのシーンを、「なんだこの時代錯誤な軍服姿で威風堂々と参拝する姿なんか映して!この映画は戦争を美化しているのか!?」と思うかもしれない、逆に靖国参拝を指示する人も「特別な日の特別な形の参拝をこんな風にピックアップしたら、みんな変に思うじゃないか!この映画は日本人を偏見で見ているのか!?」ともなりかねない。
アメリカの実業家が靖国にやってきて、アメリカ国旗を掲げながら靖国支持を訴える。「ほうら見ろ、アメリカ人にだってわかるんだ、おかしな事じゃないだろ?」って思う人もいれば、そのアメリカ人に食って掛かる人を見て「ほうら見ろ、偏狭な国粋主義がこんなところにも表れているじゃないか」って思う人もいる。
その人の主義主張によって、映画の一つ一つのシーンはどうとでも解釈されてしまう。っていうか、見事にそれを許す映画でした。
とにかく、ここまで主張の感じられない映画というのも珍しいと思うのです。
それでもこの映画に監督の主張を見出すとしたなら、反戦ということかもしれないなぁ。
最後の戦時中のフィルムや写真。靖国についての賛否とは違うこの数分を入れるその意図はそこにあるような気がします。
大多数の、靖国を快く思わない人にも、靖国神社を崇める人達にも、メンツとか政策とか抜きにすれば戦争での悲劇や惨禍を想い、それに反対する気持ちは共通するの事なのでは無いかい?
#楽天家のバカがココにいますよー。
見方を変えてみればだ。
検閲とか上映中止の問題が出たことで話題になり、それで見てくれる人が増えた、と考えれば、一概に論争も悪いことばかりじゃないよね。
まぁ、みんなが一連の騒動で問題になった事の問題性をきちんと認識することと、映画を見てきちんと自分の意見を持てるという2つのことがキチンと出来ることが理想やな。