「東アジア文化都市2017京都」というイベントのプレイベント。
「東アジア文化都市」というイベントは、「東アジア域内の相互理解・連帯感の形成を促進するとともに、東アジアの多様な文化の国際発信力の強化を図ることを目指し(HP)」ているらしいんだけれど、そんな崇高な理念とは関係なしにただ単に面白そうだから参加する儂。
オーケストラ KYOTO!は所謂管弦楽団としてのオーケストラのイメージとはだいぶ違っている。幾つかの簡単な指揮のルールだけが決まっていて、それに合わせて思い思いの音を出して音楽の世界作っちゃうこころみ、とでも言ったら良いのかな。小学生からお年嵩まで、鍋・お玉からギターやトランペットまで、音楽に縁のない素人からプロのバイオリンまで。楽譜もなければプログラムもない行き当たりばったりのアドリブ(というか、思い思い)の連続。
まず、何よりも楽しかった!
いや、まぁ楽しかったんだけれど。
何が楽しいんだろうね。(おいおい)
なんの面白味もない言い方をしちゃえば、ちょっとのルールがあるだけのことで自由に音が出せるのに、なんかすごいものを演奏しているという一体感得られる恍惚。そして、それに参加するのに自分の楽器のスキルやセンスをちっとも気にする必要がないという自由さなんだと思う。
まぁ、そんな事は元々のオーケストラ FUKUSHIMA!で分かっていることなんだけど。
ただ、今回のオーケストラ KYOTO!では、2012年参加したフェスティバルFUKUSHIMA!の時とちょっと違う雰囲気を感じたのだ。なんというかあの場の空気のとてつもない温かさのようなもの。
後から考えてみれば、多分、参加者みんなが、その場の全てを注意深く見守って受け入れて一体になろうとしているような、そんな参加者の温かさだったんじゃないのかな。
もうちょっと具体的に言うと、あの場に参加していた自由奔放な子どもたちと音遊びの会の人たちの存在があったと思う。「マジメなオーケストラ」的なセンスから見ればはみ出してしまうような彼らの音や存在をあたり前のものとしてゆったりと、でも集中して受けとめようとしている空気感の心地よさと言えばいいのか。
いやいや、もっと簡単に言っちまおう。
あの場を支配していたのは「いいじゃんいいじゃん!コレもいいじゃん。OK、OK!ありだよあり」という寛容の雰囲気で纏まれる楽しさだったんじゃないのかな。
たくさんの人が集まれば、いろんな人がいるのは当たり前でその当たり前があるから楽しいのだと。
考えてみれば、これ世の中、社会全般と一緒だよね。
多様である事を認めて許容するから、世の中ってのは楽しいものでしょう?いろいろあって、それぞれに違う価値がある事を感じられるからこそ、自分自身も自信を持って自由に振る舞える事ができるんだ。
一方で異質なものをどんどん排除する世の中なんて、ギスギスして窮屈なもんさね。同じものだけしかないなんて、こんなにつまらない事はないさ。
演奏が終わって空を見上げれば虹。
儂ら人間が、どんなに頑張っていろんなものを作り上げたところで、自然の演出にはかなわないけれどね。