ぱたの関心空間

関心空間と徒然なるままに。

そうやって本当の「風評被害」が始まるんじゃないのか?

2011-11-24 15:19:15 | 日記
それを「風評被害」と呼んではいけない。

と、3月以降ずーっと言い続けてきた。

#え、どこでかって? あ、スイマセン。プライベートでです。(わかんねーよ、バカっ)

まったく、
これほどまでに「風評被害」という言葉を安売りした年は無かったのじゃなかろうか?

新聞でもラジオでも一時期連日のように踊る「風評被害」という言葉。

なんだかわけがわからない。

多分に言葉の使われ方が間違ったまま、新聞でもラジオでも当たり前のような顔をして「風評被害」と言われていた。

そうですよね?
ね?ね?ね?

>「風評被害」
>根拠のない噂のために受ける被害。特に、事件や事故が発生した際に、不適切な報道がなされたために、本来は無関係であるはずの人々や団体までもが損害を受けること。
(goo国語辞典よりコピペ)

根拠は。。。。あるでしょ、十分。( 一一)

間違いないのは
「風評被害」と言う時には、実際には「問題視されるような事象は存在しない」
というのが前提となる。

ところが、問題はありまくり。

もちろん、放射性汚染されたものを「必要以上に」危険視したり、実際には汚染されていないものまで拒否したり、偏見の目で見たり、という不合理な事になってしまう事にたいして警鐘を鳴らすというのはあってしかるべき事。
しかし、そこに相応しい言葉は絶対に「風評被害を広めるな」ではないという事。

んと、いろんなところで話も出てるし、冷静に考えりゃわかる事なんだけど、一応確認ね。

放射能に汚染されてしまった農作物、動物、地域があるのは事実。それが前提。
検査結果がNDでも、検出限界以下、という意味であって汚染されて無い、と証明しているわけではない。
#勿論、それでも低い検出限界が示され、その上でNDということであれば少なくとも危険だと思われるレベルでないという事は、社会的に受容されているとは思います。
全ての食材の放射能検査がなされているのであればまだ分かるけど、されていないのは明白。ならば、汚染されている食材が流通している可能性がある、というのはあたりま枝野クラッカー(誤変換が面白いので残しておく)。

ならば、現状で放射能に汚染された可能性のある場所の作物を避ける事も、放射性物質を取り込みやすいと言われる食材を避ける事も、当然であり、それで与える影響は「風評被害」ではなく「原発事故による実害」でしかない。

ですよね?

さて、今月になって
福島のお米から、暫定基準値500ベクレル/㎏を超える、630ベクレル/㎏という値が出てきた。

そのニュースを聞いて、
「うわー、マジか。また、テレビとかマスコミが『風評被害が心配』とかワンサカ言うんやで。だから、風評被害とか言ったらアカンって。実害なんだから」

と思ったが、なんかちょっと今回はしっくりこない。
なんだろう、とモヤモヤしていたのだけれど、そのモヤモヤは
「やっぱり、風評被害は起こるんじゃないか?」
という事のような気がしたのだ。

「風評被害とは違う、って言った舌の根も乾かないうちに風評被害と言っているよ、コイツは!」

いやいや、ちょっと待ってもうちょっと聞いて。

儂は、端っから、検査しているから大丈夫、なんて言葉を信用していなかった。

それは先に行われ、福島県知事が安全宣言を出したお米の放射能測定も勿論だけれど、他の農畜産・水産物についてもだ。
理由は先に書いたように、きちんと全てが調べられているわけではないから。
調査は基本的に抽出検査だし、調査の方法だって不十分、そもそも調査されていない食材だって多い。
汚染されているものが、物流の目をくぐって店頭に並ぶなんてのは十分想定内。まだ乳飲み子がいるウチみたいな家庭にその言葉を信じろなんて言うのは、正気の沙汰じゃぁござんせんよ。

が、しかしだ。

震災からすでに半年以上が経過し、測定機器を備えるところも増え、儂ら消費者にも知識が付いてきた。そして、流通業界も安全を売るために全量調査や、暫定基準値よりも厳しい独自基準をもうけるようなお店も出てきた。
つまり、徐々に信用できそうな条件が整いはじめているし、何よりも実際に放射能検査されて汚染されてないよ、と言えるレベルの食物はあるわけだし(その検査結果にまで疑いを持とうとは思いません)。実際にそんなふうに汚染をまぬがれている作物だってたーんとあるのだ。

身も蓋もない事を言ってしまえば、汚染されたのは決して東北と関東の作物だけではない。日本中の(ひいては世界中の)食べ物が既に多少なりとも汚染された現代に住むという諦めを持つのならば、ならばその中で極力汚染されてないと信用できるものを選択して食べるのが儂ら現代人に課せられことなんじゃないだろうか。

そして、その信用は供給する側の放射能調査の信頼性にかかっているのだ。

「安全ですよ」「汚染されていませんよ」、言葉だけでは信用に足らなかった状況が少しずつ改善され、多少なりとも信用してもよさそうな状況が醸成されつつあったと感じていたのだが、その信用が崩れたのだ。

いや、そこまで考えている人はどれだけいるのか?
フツーにテレビだけを観ている、といったような人たちには

 福島の米の調査をした > 県知事が安全宣言を出した > なのに630ベクレル/㎏が出た

という流れだけで十分なんじゃぁなかろか。

はい。
オオカミ少年の話をしているのです。

「狼が来たぞ!」 >「マジか!」 >「うっそぴょーん」 >「もう次は信じない。。。」
「安全ですよー」 >「良かった~」 >「ゴメンゴメンやっぱ汚染されてたわ」 >「もう次は信じない。。。」

3月11日以降、東京電力と政府のやっていた事も同じだ。

本当の事を隠し、後から後から
「建屋しか爆発してません」>「実は爆発してました」
「放射能漏れてません」>「実は漏れてました」
「メルトダウンしてません」>「メルトスルーまでいっていました」
「安全です」>「実は汚染されてました」

そんでもって

「身体に影響を与えるレベルではありません」>「実は影響、びんびんにありました!」

って言うんだぜ。
いやいや、もう芸が無いねー ( 一一)

信用できるか、あほ!

そう。
もう信用できないという状況が完全に出来上がってしまった。

極端に言いますよ。

おそらく責任逃れのためにそしてお金のために、為政者や東電をはじめとした当事者が、中途半端で無責任な対応や発言に終始したが為に。。。

 もう、どんなに間違いない情報が伝えられようが、信用されない。

 疑いが先行し、政府が言えば言うほど信じられない。

 そうして、本当の風評被害が始まるんじゃないだろうか。

 当然、全て、中途半端で無責任な政治家と電力会社と、そしてなによりマスコミの責任である。



六ケ所村ラプソディー@同志社大学

2011-11-20 15:39:09 | 映画感想
初!同志社大学今出川キャンパス!

学生会館(?)の方は大学時代に何度か入った事があったけど、烏丸通り挟んで東側はお初です。
関係ないですが、同じ東側にある「パパジョンズ」さんのチーズケーキには何度もお世話になっています。
も一つ、関係ないですが、相国寺法堂の蟠龍図が好きです
#本当に関係ないです。すいません。

さて、

行ってきたのは経済学部和田喜彦ゼミ主催によるシンポジウム『原発事故はひとごとちゃうねん!~関西に潜む危険~』という企画。

知ったのが直前だったのでだいぶ躊躇したけれど、鎌仲ひとみ監督の作品、まだ観ていないのは「六ケ所村ラプソディー」だけだったので、えいやっ、と行ってきた。

映画の上映と小若順一さんという方の講演の二本立てでした。


まず映画。

青森下北半島の付け根にある六ケ所村。
原燃のプルトニウム再処理工場があるこの村と近隣で、核施設に反対する人たち、働く人、受け入れる人を取材したドキュメンタリー「六ケ所村ラプソディー」。3.11で起きてしまった東京電力の原発事故以降、一気に有名人になってしまった、東京大学の斑目春樹教授と京都大学の小出裕章助教が揃って出ているのが興味深い。
ただし、鎌仲監督のスタンスでもあるけれど、基本的には反対する立場の人に依拠しています。

だから中心には原燃に対して反対運動を続ける人たち。
全体的に静かなトーンでそこで生活する人にカメラを向けている感じ。BGMには津軽三味線。

そびえ立つ長い煙突。
そもそも日本原燃は長い煙突から排出される放射性物質は、空中で拡散するから環境に影響はない、と主張している。
あれれ?どっかで聞いたことあるようなイイワケだなぁ。。。
海中への廃棄についても数キロ沖合に排水口をつくるのだと。環境に影響が心配されないならなぜ近くで排水しない?
もう端っからおかしな主張だらけですね。

だいたいにして、六ケ所の再処理工場では、1日で原発1基の1年分の放射能を出すのだという。

いやいや、ちょっとまてコラ!
単純に計算してフツーの原発を365個作ったのと同じ環境破壊をするって事じゃないッスか!
#他の要素はとりあえず無視して

すでに稼働し、沿岸の放射能汚染が確認されているイギリスの核再処理施設。
六ケ所村は、その二倍の再処理をしようとしているのに問題ないなんて言えるのか?

核施設が六ケ所村のような都会から遠く離れたところに作られるのは、万が一(もないと主張されるがそれでも万が一)漏洩事故が起きた時、被害を最小に出来るとか、テロなどの攻撃の可能性が低いとか理由があるだろうけど、田舎には国民からの関心が向かいにくいから好きに出来る、ってのもあるんだろうな。と、思ってしまう。東北に愛着のある儂の穿った見方かもしれないが悔しい。

「ミツバチの羽音と地球の回転」「祝の島」の上関祝島でもそうだったが、権力と金の力で潰される反対運動、そして引き裂かれる市井の儂ら。
権力と金の前で、なんのバックも持たない個人の弱さ。
けれどもへこたれずに粘り強く生きる地に根を張った人間の粘り強さ。

漁師を辞めたあと、生活のために原発で働く人も、原燃がある事がビジネスチャンスだと言うクリーニング屋さんや建設会社社長も同じ人間なんだよなー、とやるせない気持ちになる。

原子力安全委員会でお馴染みの班目春樹氏、曰く
 「安心なんかできないですよ。」
 「最後は結局金でしょ。」
シレっと言ってのけるのだ。なんだかしらないけどニヤニヤしながら(>_<)
なんだろう、この、人としての感覚からとても遠いところにいるような感覚は?

それに対して京都大学原子炉実験所の小出裕章助教、曰く
「エネルギーを使う事が豊かだという、その考えが間違ってる」
と。

(言ってる科白の内容じゃなくて感覚が)
どこまでいっても噛み合いそうにない、この不思議な議論は、東京電力の事故以降、儂らの前に隠されることなくどばっとぶちまけられる事となった。その異常さに気付く事が出来たのは、不幸な今年の出来事の数少ない功なのかもしれない。

予告編でも使われていた無農薬のコメを作っていた苫米地さんのセリフ
「中立っていうのは賛成と同じなんだよ」
に胸が痛い。

補足しましょう。
「無関心こそが、最大の賛成(推進力)」
であると。

地に足のついた生活。
それは当たり前のことだ。

ぽっと出てきたお国の巨大プロジェクトで、いきなり経済活動が豊かになるなんて、そんな浮足立ったお金で暮すような生活が真っ当だと言えるわけがないんよね。
それに気付くべきは、そんな捻じれた不健全な価値観を押し付けて知らんぷりしている、儂ら都会で生活する連中なわけだけど、そんな風に考えられる人は少ないのかもしれない。

再処理工場が稼働する、という直前、
「汚染されていない、最後の野菜になるかもしれません!」と言いながら売っている姿を見ながら、こんなん絶対におかしい!絶対に間違っているとつぶやく。
いやいや、実際に作っている農家の皆さんの気持ちにくらべたら。。。。

真っ赤に熟れた、おいしそうなトマトを、これまたおいしそうに食べる子どもたち。
儂らはこれから生まれてくる子どもたちに、こんな喜びに満ちた体験をさせてあげる事は出来なくなるのだろうか?

知ってしまったのに無関心である事はもう罪だ。
だから、多くの人にまず知ってもらいたいよね。


ちょっとの休憩を挟んで、後半は講演。

小若順一さん。

どなた?と思ったら『食べるな、危険!』の著者だった。
食品と暮らしの安全基金(旧称:日本子孫基金)というところの代表さん。
旧称がアヤシイ。。。(^^ゞ

まぁ、お話しされている感じもとてもラフな感じで、見ようによっちゃぁ若干アヤシげではあるのだけど、でもお話自体はかなり興味深いものでした。

決して放射能についての専門家というわけではないので、前半で放射能によって懸念される問題のお話をされてから後半はミネラル分についてのお話へ。
論点がずれるのでは?と思ったけど、「食」の安全と自分たちで意識して防衛するという内容は、同じ地平にある問題意識だ、と思いました。

原子力関係の話では、日本原子力産業会議副会長だった(当然推進派の)故森一久さんが、すでに大型原子炉事故の理論的可能性、と題して国家予算並みの賠償が必要と試算しているのにほとんど触れられていない、

とか。

東電の火力発電のコストが高いのは、天然ガスの調達が国際価格の三倍の値段だから(長期契約で価格交渉せずにそのまま更新してるから)、

とか。

汚染レベルの高い食品は、混ぜることで低くなるので大丈夫という考え方だと、日本人全体の被曝総量は変わらないので、日本人全体でみるという集団遺伝学からすると全然大丈夫じゃない、

とか。

日本でもチェルノブイリ翌年生まれの学年だけは毎年インフルエンザの流行があったり、身体・学力など能力的に差異が認められるという報告がある、

とか。

胎児の時に被曝して起こる「弱有害遺伝子」の問題、

とか。
#孫の世代に障害が発生する、というのの意味がようやくわかりました。<生殖細胞が作られる胎児の時に被曝すると、その胎児の精子や卵子の遺伝子が傷つく為に、その生殖細胞で生まれる(被曝した母親からみると)孫の世代で影響が出るという

莫大な賠償金を今こそ払うべき!円安になって日本経済はむしろ助かる、

とか。
#これは、思わず成程!と思ったが、いや、実際どうよ?

放射性物質は同族ミネラルがきちんと摂取出来ていれば、排出される分が多くなる、

とか。
(この後、ミネラルのお話に流れていく)

震災後いろんな人の話を聞いているけれど、またちょっと違った角度からの話で聞いてよかったなと。
取りあえず、冷凍食品は出来るだけ控えよう。

まだ見ぬ孫たちの為にも。

#でも便利なんだよなー(>_<)<冷凍食品のストック


六ケ所村ラプソディー@同志社大学の画像



「経済」という名の呪縛から、そろそろ解放されてもいいんじゃないかな

2011-11-04 14:44:25 | 日記
「日経MJ」を購読している。

が、

今日(これ書きはじめたのは11月3日)購読を中止することに決定♪

まぁ、別に大袈裟な話じゃないんだけどねぇ。

日経MJ
紙面自体は、キーワードにも書いているように面白いし、テレビを見ない儂としては流行や社会現象の重要な情報源でもあったわけだけど。

直接のきっかけは
11月2日の紙面での連載記事
伊藤元重氏の「ニュースな見方」の見出しに出ていた
「盛り上がるTPP議論」
という表現だ。

記事の内容にひっかかったわけではなく
この表現が引っ掛かったのだ。
#基本的に以前から原発に反対・新自由主義経済クソッタレ・TPP絶対イヤ!の儂とは根本的に相容れないのだけど、それはそれとしていつも記事はフツーに読んでふーん、で終わっているのよ

どう言ったらいいのかな。

なんかね、

シラケた☆

だいたいにして、「盛り上がる」ってなんだ?この表現。

軽っ! TPPの問題って、これからのこの国の行く先を左右する大問題だ。そんな大問題、国を挙げての議論にならなくちゃウソだろ?と思う。それは賛成派も反対派にも共通の認識だと思っていたが違うのか?「いやー、なんか盛り上がってるねー、いいねー」そんな感じか?主体性なしか?

「盛り上がる」ってなんだ?
なんだ、その他人事な表現は?外国の話してんじゃねーんだぞ?
仮にも日本を代表する大学の、しかも院の、さらに教授さん。影響力アリアリのその人が、なんだその他人事ちっくな表現は。

「盛り上がる」ってなんだ?
なんかのパーティかなんかかよ!


TPPの問題が、いろんなところで議論されているのは事実。それをどう表現したところで別に事実が変わるわけではないんだけれども、その表現にいままで引っ掛かっていたものが全部外れてしまった感じ。

引っかかっていたもの。。。
そう別にTPPに限らず、この「経済」というエラそうな立ち位置(主観です)から語る立場の、なんともいえない違和感についてだ。

いや、「パーティかなんかかよ!」とツッコんではみたものの、所詮彼らにとってはパーティなんじゃないのかなという気が薄々していたのだ。

経済は常に動き、社会情勢・国際情勢によって変化し、税制や国の経済施策といった政治的な事象とも密接に絡み、複雑で素人にはわかりにくい面も多々ある。そして、それがこの国の(ひいては世界の)将来さえも左右しかねない大きな要因となっている事はさすがに儂でもわかる。

なのに、経済の評論家っちゅーよーな感じの人(ホントに評論家とは限らないんだけど)が話をするのを聞いていると、何故だか視野が短期的でやたら「今のままじゃダメだ」的な切迫感を煽る感じがしてしょうがなかったの。将来どういう形になるのか、というイメージについて大きくは語ってくれるのだけど、それに繋がる具体的なプランを提示されるのは稀で、でもとにかくこのままでは置いていかれちゃうよ、早く早く、みたいに急きたてられている気がしてしまう。

なんだか、パーティで盛り上げて、その時の雰囲気で丸めこもうとしているみたいなのよ、なんだかさ。

そこには、この国と将来を左右する大事な問題、という意識が感じられないのだ。

いや、「経済」というからいけないのかもしれないな。「経済」という虎の威を借りた、「商売」という狐なのかもしれん。
#「商売」が悪いわけではなくってよ。ここは「経済」とはちょっと違うイメージを持ってくるため便宜的に使っております

わかってる。
わかってますよ。
だって、儂が読んでいるのは 「日経マーケティングジャーナル」 だもの。

分かりやすく言えば、学問的な「経済」という視点から語るのではなく、日常的な「流通・商売・市場」という立場が主導権を握っているわけです。
日々企業活動をしている側からすれば、経済を活発にさせる事によって社会を活気あるものにしていく事が至上命題なわけで(有り体に言えば、消費者の財布のひもが緩むようにあれやこれや宣伝活動してお金ががっぽがっぽ儲かるようにするのが至上命題なわけで)、その為には常に新しい情報を送りこみ、消費者を追いたてる事が必要になるわけだから、当然と言えば当然。祭りだ祭りだワッショッショーイ、ほりゃほりゃ、金使え~!
というのが、わかりやすーい理解のしかたですわな。

しかし、しかしだ。

結局、それが資本主義のどうしようもない方向性だとするならば、それがもう行き詰っている事についてはどう考えたらいいのか、という事なのだ。

単純に言えば、資本主義経済は成長し続ける事を前提としている(少なくとも多くの人はその前提の資本主義経済を信じている)。しかし、成長に限界があるであろう事は誰にだって容易に想像がつく。TPPだって、(穿って見れば)結局は自国では経済成長が見込めないから他から搾取しやすいようにしようやと言っているに過ぎない。反対派にとっては主語がアメリカで搾取される方が日本、賛成派は主語が日本で搾取される国にアジアを想定しているという違いですよねぇ?(違?)
結局残されたパイの取り合いをしているだけだ。
そこに「義」は全く感じられない。感じられるのは「偽」だけだ。

何が言いたいかというと、
この経済の成長というのを前提にして話をする人の言葉というのは、もうそれだけで全然信じる気になれない、というこの状況なのです。

社会が今のこの資本主義経済のままずーっと行くであろうというような思い込みは幻想でしかないのだけど、どうもその幻想に(多分多くの人は気付きながらも気付いてないふりをして)惑わされている人が多いように感じるのは、こういった、なんだか信じられないような言説が、どうやら多くの人に説得力を持ってしまっているという状況からして、あながち気のせいじゃないんじゃねーべか、と思うわけです。

そうだそうだ、
同じような状況がもう一個あった。

原発への賛否の議論をしていると、同じように経済を持ちだして来て原発を擁護する人がいるのも同じ感じがするのだ。
原発に反対する方は、「一番大事なのは生命を守る事でしょ!」と主張したりするんだけど(まぁ、これも言葉が足りないところはあるのだけど、一言でインパクトのある言い方をしようとするとこういう表現になりがちではある)、それに対して「何言ってるんだ、経済だって大事でしょうが、経済成り立たなかったら生活できないよ」なーんて反論してくる。

冷静に考えたらわかるんだけど、根本的に話がかみ合ってないからね。「命が大事」という人の「大事」の意味合いと「経済が大事」の「大事」の意味合いは全く違うんだから。同じ「長さ」を競い合ってるのに、片方は物の長さを誇って、片方は時間の長さを主張してるようなそんな感じだ(例えが悪いですか?)

今生きている儂らだけではなく、受け継がれさらに子どもたちに受け継いでいかなくちゃならない未来を含めた命の重さと、今という短い時間軸の貨幣経済の大事さと。比べるなんてナンセンスよナンセンス。おほほほほ。

しかし、なんだろう?
「経済」という錦の御旗を立てられるととたんに委縮してしまうようなこの空気は。異常に感じるのは儂だけか?

そもそも社会は変化し続ける。
変化しないでいられる社会よりも変化し続ける社会の方がフツーである事は、歴史を見ればわかる事でしょうが。

フランシスフクヤマの「歴史の終わり」とか読んだ時は「そうなんかなー」とかも思ったけれども、それでも現在のように行き詰るのであれば、それこそ歴史で習うようなドラスティックなものでなかったとしても社会の形が変わるのは必然だろう。今のまま経済成長が続くという幻想を信じている人は流石に少数派になったのだろうけど、今のままの経済システムがこの先も(破綻せずに)続くという幻想を信じている人はまだまだ多いのではないでしょうか?

社会の変化を恐れる人が多いのは分かる。
今までの常識や培ってきたものがご破算になる可能性だってあるのだから、それはコワイ事だ。
でも、変化せざるを得ない状況にもうなっているのに、古いパラダイムに固執して、自分の首を絞める事なんかないのにね。

「経済が大事」と声高な威しが聞こえると、「そうか、まだ今の経済システムが続くんだな」と安心し、その脅し文句に依存してしまう状況、そんな風に見えるのだけど違うかな。

もういい加減目を覚ました方がいいと思うで。
「経済」なんかと人としての「尊厳」を比べるなんてナンセンスや。

とりあえず、「経済」を声高に掲げてなんかかっちょいい事を言っている人がいたら、ペテン師かも、とあたしゃ疑ってかかる事にしますよん。