ぱたの関心空間

関心空間と徒然なるままに。

抱く{HUG} @ 京都シネマ

2016-03-31 10:51:50 | 映画感想
抱く{HUG}観た。

福島第一原発と海南友子さんと儂は同い年だと知る。
監督本人のドキュメンタリー。前半は外部から来たドキュメンタリー作家として原発被災地を取材する姿。
が、原発に4キロの高線量地域を取材したその時、すでに懐妊していた事を知ると、一転彼女は当事者となる。

見るべき視点は大きく2つ。
一つは原発問題であり、一つは母としての葛藤。

単に原発の問題を取り上げる映画だと考えてももちろん構わない。実際に彼女はそういうドキュメントを撮ろうと被災地に入り被災者や無人の街を撮影して回っていたのだから。
ただ、違うのは、高放射能汚染地帯を取材した直後に判明した妊娠という事実が、取材対象を彼女自身に変えたところである。
彼女の立場が観察者から当事者にスイッチした。そこが大事なんだ。

取材者はどこまでいっても取材者だ。
それは悪い事ではなく当たり前なのだけれど、他所(安全な場所)から来て、被災者を取材の対象として切り取っていく。そこにはどうしても壁ができる、取材される側のみならず、取材する側にもそれはあるのだろう。実際、酷いのになると上から目線と批判されるようなケースもある。
勿論、心ある取材者はできるだけその壁を低くしようと努めているのだけれど、彼女はそれを一瞬で消してしまった。。。どころかその壁の内側の人間になってしまったのだ。

わかりやすく言えば立場が変われば視点が変わる。そうするとメッセージ性も全く別のものとなる。
当事者性などクソクラエだと(最近は)思うけれど、なかなかその意見は受け入れてもらえないようなのでちょっと引っ込めるとして(<引っ込めてない)、でも立場が変わらないと見えてこない事というのはやっぱりあるわけで、でもそういう事実はなかなか理解されにくいし、その変わらないと見えない事を理解する事はそれ以上に難しい。

被災者の気持ちに寄り添う、だとか被災者の身になれ、と言ったりするのが偽善だと思うのは、それが被災者の心情をきちんと理解できる筈だというのが前提になっているように感じるときだ。
「筈」と思い込む生真面目さは「きちんと理解でき」なかったと感じてしまう正直さを排除してしまいかねない。

誤解して欲しくないんだけど、被災者の話を聞いたり考えたりする事が無駄な事だとか、これっぽっちも理解できないとか言っているわけではなく、100%理解できないといけないかのように考えている生真面目な人が多くいるように感じられて、そんな風にストイックでなくてもいいのに、と思うだけの事。

被災者といえども、いろんな立場の人が居て、様々に異なる経験をして、考え方も皆違うなら、原発事故からの避難者だからと言って皆同じ、なわけはないなんて当たり前すぎるほど当たり前なんであって、その人たちを個人のちっちゃい物差しで全部理解できるなど、まぁ思い上がり以外のナニモノでもないわけです。

うむ、だいぶ回りくどくなったな。ごめんなさい。

簡単に言えば、人は多様でその多様を認める事が大事だってだけの話なんですが。。。

でも、まぁ映画は観る人によっては批判的に受け止める人も少なく無いかもしれない。
というのは、前半は広く原発問題を取り上げる内容なのに、後半は一気に海南監督の個人的な問題が中心になるからだ。
たとえば、問題を観る視野が狭くなった、とか。プライベートな問題で一般性がない、とか。福島の被災者が置かれた状況に比べたら全然問題ない、とか。行く必要もないのにわざわざ行って被曝して自己責任、とか。
書いているだけで嫌になるのでこれ以上書かないけれど、そういう批判自体がもう儂らの視野の狭さと、立場が違うと見えないという残念な壁を顕現させている事に他ならない。

儂らには「立場が違うのだから『わからない』、を前提にしなくては『わからない』」と考えなくては前に進めない事があるのだと認めなくてはいけないのだと思う。

でも、もう一つ。
この映画を是非見て欲しいと思うのはやっぱり後半なのだ。

(さぁ、ここから世のオトコどもを全面的にくさしますよ:-P)

世の中のバカなオトコどもには残念ながらおなかにいる子を思う母の気持ちなどわかりはしない。
当たり前だ。男はお腹にこどもを宿す事ができないのだから。
儂もそのバカなオトコなわけだけれど、そこは仕方がない。どうしようもない事実だから。仕方がないから開き直ってしまおう。

でもさ、だからと言って、母親たちの気持ちをバカなオトコどもの価値観で解釈していいって事にはならないのだよ。

一つの命をお腹に持つという事の責任の大きさは、オトコにとって想像を絶する事なのだと思う。何より、放射能の影響については儂ら人類はまだ何もわかっちゃいないんだ。
(いや、正確に言えば影響がある事はわかっているが、それがどの程度のものかはきちんとわかっちゃいないんだ、って事だな)
その「わからない」っていう事の恐怖。つまり「わからない」影響が自分の行動によってどうお腹のこどもにもたらせるのかがわからないという恐怖と責任の呵責。
いくら「貴女の責任じゃない」となぐさめてみたところでおなかのこどもに全面的に責任を持たざるを得ないのが女性なのだ。何かあったら、と考える彼女たちにとってなんの慰めにもなりゃしない。この辛さが、儂らオトコにわかるのか?

多分、「わからない」って事に我慢が出来ない(でわかったようなつもりで考えないと我慢がならない)オトコどもにはなかなか理解出来ないところなのじゃないのだろうか。

ドキュメンタリー映画監督の彼女自身が、当事者となるこの映画は、その立場の変化によって乗り越えにくい壁を乗り越えるという経験を追体験できる映画だと考えるなら、他の作品とはちょっと違った気持ちで見てもらう事が出来ると思う。

なにより感じて欲しいのは、やっぱり「命」です。

映画を観おわったらサプライズ。監督が挨拶に来ていた。
失礼を承知でちょこっとお話と、写真撮らせていただきました。
次回作に繋がりそうな取材も今されているご様子。期待したいと思います。



抱く{HUG} @ 京都シネマの画像

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