ぱたの関心空間

関心空間と徒然なるままに。

小さな恋のうた @ T・ジョイ京都

2019-05-31 17:26:32 | 映画感想


モンパチ(MONGOL800)は好きですか?
はい、大好きですよ。

が、この映画にモンパチは出てこない。

ウソです。

メンバーはちょい役で出てくる。

でも、それだけ。

うそです。

タイトルからしてそれなんだから、当然のようにモンパチの曲は演奏される。「小さな恋のうた」「あなたに」「DONʼT WORRY BE HAPPY」「SAYONARADOLL」。ただし演奏するのは小さな恋のうたバンド。(誰?)

そう、演奏するのは一応スカウトも注目するという設定だけれど所詮高校生バンド。儂が馴染んでいるモンパチの演奏と比べれば聴きおとりがしてしまう。
ズバリ、この映画は人気のあるモンパチの曲をモチーフにした安っぽい青春映画です。

嘘です。

いや、始まって30分くらいは正直そう思っていた。
ぶっちゃけ、若手俳優たちの演技は物足りなく演出された高校生っぽい軽いノリのイタイ感じとか、このままのテンションで行くのか?それは辛い、辛すぎる。途中でもったいないけれど出ちゃおうかなー。でも儂一人貸切状態だしなー。ってな逡巡していたところで事故シーン。

ギミックに引っかかって席を立つタイミングを失った儂の前に次に出てきたのは山田杏奈。ギターを弾く制服女子高生フェチの儂(そうなの?!)にはたまらん。そこから釘付けッスよ!(をい)。

とまぁ、個人の好みは置いておいて、映画は途中からシリアスの度合いも深まってくる。一人の死と基地問題、そして恋。

基地問題が十二分に消化されて扱われているとは思わないけれど、それでも正面切って基地があるということとそこでもまた小さな恋が引き裂かれるような現実があるという問題に向き合っているところの生真面目さで、こういうポップな娯楽映画の中で扱うことの難しさの中でちゃんと伝えきれていたように思う。

ど正面切って基地問題のような沖縄の現実を扱えば当然真面目なものにならざるを得ないし到底この尺では収まらない。
でも基地が沖縄にあるという歪みの中ではこの映画で見せたような切ない悲劇も当然起こることだってある。政治的に扱われる問題だろうが、そこにいるのは生身の人間なんだよね。憎むべきはアメリカ人でもないし、デモ隊が悪いわけでもない。娘のしたことを受け入れられない父親の気持ちでさえも責める事は出来ない。
世の中に理不尽は多くあり、受け入れざるを得ないものもあれば必死になって跳ね除けようとするものもある。

もちろん、映画の中で基地の問題は重要であるけれどそれがテーマではないしどちらかというとアクセント的なものでしかない。
映画自体に強い政治的メッセージがあるわけではない。

ジャンル分けするならばやっぱり青春映画だよね。

どうしようもない想いを儂らはまた歌う事で紛らわせたり昇華させたり。
音楽の力の効果は人によるのだろうけれど、儂も好きなモンパチの歌は結構効く人が多いようだ。

いいんだよ。
歌を歌って、気持ちを解放して、踊って泣く。
人間ってそうやって大切な思いを反芻してさ、毎日生きていくんだよね。
(ええ、貸切だったので思いっきり歌わさせていただきましたとも、気持ちええ♪)


ちなみに、このブログを書いている今は6月。
23日は沖縄慰霊の日。

「沖縄 慰霊の日」himeyuri ~ひめゆりの詩~ / MONGOL800


儂らはもっと沖縄を知らないといけない。

みんなの学校 @ 加茂文化センター あじさいホール

2019-05-26 17:23:15 | 映画感想
映画の存在は知っていた。
京都シネマにポスターが貼ってあったのを覚えている。



面白そう、とは思ったのだけれど、結局その時は見に行く事ができなかった。

ほんで、二ヶ月くらい前、NHKの「すっぴん!」に映画の舞台になった大空小学校の初代校長先生、木村泰子さんがゲスト出演。でようやく大空小学校の話を聞く。
パーソナリティの高橋源一郎さんも信じられない、という程で話を聞いている感じだったけれど、正直儂も信じられない気持ちで聞いていた。
果たしてそんな夢のような公立小学校があるのだろうか?と。
だってさ、教職員のブラック企業並の長時間労働が問題になっている昨今、大空小学校は逆に教職員はみんな定時で帰るっていうんだよ!

大阪の?公立小学校で?特別支援学級はないけど支援が必要な子は他の学校より格段に多くて?でも不登校は無くって?担任制を否定して?地域のサポーターがたくさんいて?そんな大変そうやのに?
先生は残業ナシ!?

そんなわけで、劇場での上映を見逃したことを悔やんだこの二ヶ月。
ようやく近くで(と言っても木津川で)自主上映会があると聞きつけ行ってきたわけですよ。



なにかな。
映画の冒頭。
「この街の子供なら誰でも通える」というテロップだけで涙が出そうになる。

あぁ、そうなんだよね。
公立学校というのは、その地域に住んでいる全ての子どもが通って勉強することを保証する存在なのだ。
そんな、そんな当たり前中の当たり前の事が出来ないでいる、この日本という国よ。
映画ノッケから頭をガツンと殴られた感じがした。

ど頭に悲観を突きつけられた儂が、でもそのあと2時間見せられたのは、圧倒的な「希望」。

映画に映し出される子どもたちの生き生きとした姿、笑顔、ケンカ、駄々をこねて床に転がる子、逃亡する子、その子の背中をさする子、若手の先生の苦悩。

そう書くとどこにでもあるような小学校の日常だけど、ちゃうねん。全然ちゃうねん。

何が違うんだろうなー。正直言ってよくわからん。(おいおい)

たぶんねー、
安っぽく簡単に言っちゃうと、先生とか大人の子どもたちを見守る姿勢が違うんだろうな、とは思うのですよ。
ただね、そう簡単に言葉にしてしまえるような、軽いもんじゃないように思うんですよね。なんかもうこう、ずーっと頑なな覚悟のようなものがあっての事かな、木村泰子さんと周りの大人たちの。

でも本当に一番違うと思ったのは、教職員が生き生きとしていること。
カメラが入ってるってのもあるのかもだけど、先生方の表情がね、良いなぁと。

イメージだけど、常に子どもたちの前で、先生という肩書きに縛られて真面目な模範を演じ指導力を発揮することを求められていると自分を律するプレッシャーに苛まれる教師、、、そんな一般的な教師像(ぱたくんの偏見:-p)からかけはなれているのだ、大空の先生は。
映画に出てくる大空小学校の先生たちは間違いもするし、迷いもする、子どもたちと一緒に日々あたふたする人間くさい先生、って感じかな。

確かに、先生が先生という肩書きであるがために前に立ってエラそうにするなんて。冷静に考えたらまぁ、歪んでるわなぁ。
先生だってまごうことなき人間。人間くさい先生という形容自体がもう先生に失礼なのだ、本当は(^^)。

大切なのは「原則」なのだと思う。
大原則としての「全ての子供の学習権を保証する」
唯一のルールとしての「自分がされて嫌なことは人にはしない」
スローガンの「みんなで作るみんなの学校」

ちょっと言葉だけでそれを理解しろ、というのはなかなか難しい。少なくとも儂はちゃんと消化し切れているとはまだ言えない。
それどころか、木村さん自体も校長をしている間は試行錯誤の連続で、学校開校ののっけから、自分が間違えていた、というエピソードが語られるのだ。

でも、言えることはいくつかある。

1つはオトナもちゃんと正直に非を認める、という事だ。
オトナもコドモも関係ない。間違っていたらキチンと認めて謝ってやり直す。

そして、できないことはできない、と正直に言う事だ。責任持てないと正直に認める事だ。無責任?違う。逆にそれを認めないことの方がよっぽど無責任なのだ。
担任だけではできません?だから教職員全体でみましょう。
先生だけではダメ?当たり前じゃん、ここはそもそ子どもたちの学校、ならば子どもたちこそ中心にいなくちゃ。
学校だけでは手が届かない?よし地域の人たちにも積極的に関わってもらいましょう。だってここは地域の学校だもの。
ん?なにか問題でも?

ここまで言えばもう蛇足のような気がするけれど、何よりも子どもたちの声を聞く事だ。
いや、違うな。声を聞いてやる、という言い方がすでにオトナの上から目線なのだ。
子どもたちの言葉を、オトナの勝手な解釈で切り捨てたり切り上げたりしない。んー、なんていうのかな。立場に関係なく同等でいる、っていう感覚なのだと。
もちろん、オトナとコドモは全然立場が違う。当たり前だ。
ボキャブラリーもちがう、言葉も間違う、でもそれは言語表現のスキルの差であって、気持ちであったり考えであったりものを見る視線であったりするものについて上下が生まれるものではないわけで、単に相手が子どもというだけで蔑む大人をなぜ子どもたちが信頼できようか。

つまり、コドモとオトナはまず平等である、という意識なのかな。

木村泰子さんは「学校は安心できる場所」と言う。
安心できるってどういうことだろう?

個人差はあれど子どもたちはだいたいが饒舌だ。授業でも低学年の授業ではみんなが積極的に手をあげたり喋ったりする。でも、だんだん喋らなくなる。手を挙げなくなる。
自分の言いたい事を自由に話せるというのはとても気持ちがいい。
ところが、学校ってところでは「学校が決めた正しい答え」を求められる。「学校が決めた正しい答え」以外の事を言えば間違いだと烙印を押されたり、怒られたり、嫌な顔で見られたりする。そのうち子どもたちは先生の顔色を伺い忖度し「学校が決めた正しい答え」を見つけるまではビクビクしながら不用意な発言をしないように押し黙るようになる。そして自分の考えとは違っていても「学校が決めた正しい答え」を発表して良い成績をもらう。自分の気持ちに嘘をついているのに逆に嘘つきとは呼ばれなくなる。
嘘をつくことを求められる学校は、もう安心できる場所とは到底呼べない。

不登校が問題になっている昨今、大空小学校では(少なくとも)映画の時には不登校がないという。
他の学校で不登校だった子も転校してきてからは普通に登校する。開校時に講堂で暴れてその後も逃亡を繰り返し木村さんを悩ませた子もある事をキッカケに落ち着きを取り戻す。大事なのは、問題視されるその子が変わったのではない、というところだよね。変わったのは環境の方。つまり、周りの見方が変わることで、その子にとって学校が安心できる場所に変わった、ということだ。
不登校はいけない、という考え方は支持しないけれど、この大空小学校の木村泰子さんが言う「学校は安心できる場所」でなくてはいけない、という考え方はもっと根源的な事なのだと思う。「全ての子供の学習権を保証する」という理念から派生しているとは思うんだけれど、学校が全ての子どもにとって安心できる場所であってくれるのなら、子どもにとって学校に行かない理由なんてほとんどないんだよ、きっと。

もう一つ気づいた事。
大空小学校がやっている事は、「壁」を取っ払う事なのだと思う。

特別支援学級と普通学級の間の壁。
普通の子と問題児という主観的でしかない線引きの壁。
学級担任という責任の壁。
オトナとコドモの壁。
学校と地域の壁。

考えてみれば儂らはいくつも壁を作り、その枠組みの中での勝手な解釈で物事を理解しようとしている。
つまり、了見が狭くなっているんだな。
壁をとっぱらってみれば、その先にまだ気づかなかった世界が広がってるというのに。

あぁ、なんと勿体ない。気づけ、世のオトナどもよ!

そしてこの映画のタイトルは「みんなの学校」ときた。
もっとも根源的な訴えがここにあるんじゃないのかな。

映画がうったえるのは教育の問題じゃないんだ。実はコミュニティー(みんな)の課題なのだ。

つまり「みんなの学校」は「みんなの映画」でもある。
だから、みんな見るべきだね、絶対に。



(草食系男子木津くんが全然草食系に見えない…)

空母いぶき @ T・ジョイ京都

2019-05-24 17:19:58 | 映画感想
佐藤浩市さんの一件以外の前知識一切なしで来てしまったレイトショー。どうかな?と思ったけれど、これは見た方が良い映画。



最初から最後までキリキリと胃の痛くなるような切迫感。

ざっくり一言で言うのなら、他国の軍隊以上にその神経が擦り切れそうな極限をストイックに求められている自衛隊というリアルを可視化した映画、なんじゃないかな。

かわぐちかいじといえばやはり「沈黙の艦隊」である。
(「である」とか偉そうに言っているとが実は儂、最後まで読み切ってない。儂が読んでるのは国連総会に出席する直前まで。てへぺろ。艦長狙撃されちゃうって噂聞いたけど、ホント?)

沈黙の艦隊の海江田と同様、秋津艦長も涼しげな表情を崩さない。コミックと実写の違いはあるにせよ、海江田の表情には確固とした勝算という余裕があるようで、(勿論ハラハラはするんだけど)安心して読んでいられる。しかし秋津艦長の静かな表情は危うさを孕んでいるように思えるのだ。
勿論、予測可能な(基本的には)攻める側と相手がどう出るかわからない守る側という違いもある。しかも日本の自衛隊には専守防衛という枷がつきまとう。

この映画のような事が明日にでもおこる、とは考えられない。
徒らに中朝韓の脅威を喧伝し、世論を誘導しようという向きもあるが、国際情勢はもっと大局的な情勢の中で動くものであり、そんなまさかを引き起こさない為の外交という絶対的な予防線がその前には存在するからだ。

しかし待て。
外交?
そーいえば「がいこーのアベー」とか吐かしとったな。。。
あっかーん。金ばらまくだけばらまいて、成果の一つも稼げんと信用は失う一方、あんなんが外交か?
日本、予防線ないも同然ですが!?

さて、
冗談にならない冗談はさておき(をい)、

全く同じようなことが起こるとは考えられないけれど、ぶっちゃけ今の米国にこびへつらいアベちゃん外交の状況下ではいつ何時想定外の状況で自衛隊が戦闘に巻き込まれるとも限らない。っつーか、すでにそんな事例はあるんじゃないの?武力衝突と言い換えられちゃったけれどスーダンのあれはどうだったのだろう。
あれを武力衝突と言い換えてしまったことは、儂らが自衛隊が置かれている現実から目を背け続けることを許してしまっているのじゃないかとも思う。
「空母いぶき」を観なければこの重大さに気づかなかった。

大事なのは日本の特殊性だと思う。
日本の自衛隊が置かれている現実が他国の軍隊と違うのは自衛隊は軍隊ではない、即ち専守防衛の為の組織だ、ということだ。

いろいろ問題は多岐にわたるので、ツッコミは極力遠慮願いたいのだけれど(←弱気〜)、前提として先に手を出すことはできないということ。明らかな攻撃があってからでないと手が出せない、つまり最初からこちらの被害は覚悟の上で臨まなくてはならないという現実。被害とはつまり犠牲を覚悟するということ。犠牲とはつまりまずやられる(戦死者が出ることもある)ことを覚悟する、ということ。

厳しい。非常に厳しい。

加えて、儂らの国の悪いところなのだけれど、おそらく軍隊でないからという建前でいろんな事が想定できないでいるということ。映画では政府の混迷が描かれているが、現場からの報告におろおろする姿は儂らの国の政治家を思い浮かべた時にとてつもないリアリティがあって辛かった。
結局、この事件は大きな犠牲をうむまえになんとか収束することができるのだが、我が国の政府が強い外交力を発揮したようには見えない。もちろん何もしてないわけではないけれど、手探り状態でなんとか乗り切れました、的な感じは311の政府対応を見るようだ。
原発事故は起き得ない、から事故が起きてしまった時の対応が想定されておらず、後手に回る。
自衛隊は軍隊ではない、から戦闘が起きた時の対応に想定が追いつかず、即座の対応ができない。

平和ボケなんて言葉があるが、ある意味その一つだろう。

つまり、今現在のところ自衛隊をめぐって過酷な戦闘状態に遭遇したり戦死者が出たりしたことはない(隠されているだけかもしれないけれど。ええええっ!?)。

だから、儂らは自衛隊の置かれた危うい厳しさに気づくことなく、過重な精神的負担を押し付けている責任について考えることもない。
軍隊であれば本来考えられるであろう色々なガバナンスがない事のヤバさについて考えることもない。

ここでも儂らはやっぱり知らんぷりの無責任でいられたのだ。

9条を守れとか、いや9条を書き換えろとか。自衛隊は違憲だ、いや自衛隊を憲法に書き込めとか。色々議論するのは構わない。
構わないけれど、現実に自衛隊がどんな状況に置かれているのか果たして儂らはわかった上で議論できているのだろうか?机上の空論では済まされない。だって、自衛隊員だって国民であって、家族もいて、大切な命なのだ。それを考慮しないことは兵士の命は消耗品と言われていたようなかつての日本帝国陸海軍のような思考につながりはしないのか?

自衛隊を今のままにするにしても軍隊にするにしても、平和ボケの儂らは現実を見る勇気を持たなくてはいけない。
いっそ自衛隊をなくしてしまう、という選択肢なら楽なのだが、当然代わりに外交力を強固にする必要はあるし、確固とした理念を持って国民を説得する胆力が政治に求められることになるのであって、それこそ一番覚悟の要るしんどい選択肢なのだと思う。
(そして、儂はそのしんどい選択肢を支持する者でもある:-p)

たかがドラマでは済まない、ほったらかしにできない現実をきちんと見せてくれていると思う。

最後にエラそうに言わせて貰えば、
みんな観ろ、ほんで自分で考えろ、ってことかな。

(あと緊張感が続く映画の中で山内圭哉さんのキャラは癒しなんだけど、でも本気になると変わるキャラって、どうなの?あまりよろしくないんじゃないの?と冷静に思ってしまう儂でした)