映画の存在は知っていた。
京都シネマにポスターが貼ってあったのを覚えている。
面白そう、とは思ったのだけれど、結局その時は見に行く事ができなかった。
ほんで、二ヶ月くらい前、NHKの「すっぴん!」に映画の舞台になった大空小学校の初代校長先生、木村泰子さんがゲスト出演。でようやく大空小学校の話を聞く。
パーソナリティの高橋源一郎さんも信じられない、という程で話を聞いている感じだったけれど、正直儂も信じられない気持ちで聞いていた。
果たしてそんな夢のような公立小学校があるのだろうか?と。
だってさ、教職員のブラック企業並の長時間労働が問題になっている昨今、大空小学校は逆に教職員はみんな定時で帰るっていうんだよ!
大阪の?公立小学校で?特別支援学級はないけど支援が必要な子は他の学校より格段に多くて?でも不登校は無くって?担任制を否定して?地域のサポーターがたくさんいて?そんな大変そうやのに?
先生は残業ナシ!?
そんなわけで、劇場での上映を見逃したことを悔やんだこの二ヶ月。
ようやく近くで(と言っても木津川で)自主上映会があると聞きつけ行ってきたわけですよ。
なにかな。
映画の冒頭。
「この街の子供なら誰でも通える」というテロップだけで涙が出そうになる。
あぁ、そうなんだよね。
公立学校というのは、その地域に住んでいる全ての子どもが通って勉強することを保証する存在なのだ。
そんな、そんな当たり前中の当たり前の事が出来ないでいる、この日本という国よ。
映画ノッケから頭をガツンと殴られた感じがした。
ど頭に悲観を突きつけられた儂が、でもそのあと2時間見せられたのは、圧倒的な「希望」。
映画に映し出される子どもたちの生き生きとした姿、笑顔、ケンカ、駄々をこねて床に転がる子、逃亡する子、その子の背中をさする子、若手の先生の苦悩。
そう書くとどこにでもあるような小学校の日常だけど、ちゃうねん。全然ちゃうねん。
何が違うんだろうなー。正直言ってよくわからん。(おいおい)
たぶんねー、
安っぽく簡単に言っちゃうと、先生とか大人の子どもたちを見守る姿勢が違うんだろうな、とは思うのですよ。
ただね、そう簡単に言葉にしてしまえるような、軽いもんじゃないように思うんですよね。なんかもうこう、ずーっと頑なな覚悟のようなものがあっての事かな、木村泰子さんと周りの大人たちの。
でも本当に一番違うと思ったのは、教職員が生き生きとしていること。
カメラが入ってるってのもあるのかもだけど、先生方の表情がね、良いなぁと。
イメージだけど、常に子どもたちの前で、先生という肩書きに縛られて真面目な模範を演じ指導力を発揮することを求められていると自分を律するプレッシャーに苛まれる教師、、、そんな一般的な教師像(ぱたくんの偏見:-p)からかけはなれているのだ、大空の先生は。
映画に出てくる大空小学校の先生たちは間違いもするし、迷いもする、子どもたちと一緒に日々あたふたする人間くさい先生、って感じかな。
確かに、先生が先生という肩書きであるがために前に立ってエラそうにするなんて。冷静に考えたらまぁ、歪んでるわなぁ。
先生だってまごうことなき人間。人間くさい先生という形容自体がもう先生に失礼なのだ、本当は(^^)。
大切なのは「原則」なのだと思う。
大原則としての「全ての子供の学習権を保証する」
唯一のルールとしての「自分がされて嫌なことは人にはしない」
スローガンの「みんなで作るみんなの学校」
ちょっと言葉だけでそれを理解しろ、というのはなかなか難しい。少なくとも儂はちゃんと消化し切れているとはまだ言えない。
それどころか、木村さん自体も校長をしている間は試行錯誤の連続で、学校開校ののっけから、自分が間違えていた、というエピソードが語られるのだ。
でも、言えることはいくつかある。
1つはオトナもちゃんと正直に非を認める、という事だ。
オトナもコドモも関係ない。間違っていたらキチンと認めて謝ってやり直す。
そして、できないことはできない、と正直に言う事だ。責任持てないと正直に認める事だ。無責任?違う。逆にそれを認めないことの方がよっぽど無責任なのだ。
担任だけではできません?だから教職員全体でみましょう。
先生だけではダメ?当たり前じゃん、ここはそもそ子どもたちの学校、ならば子どもたちこそ中心にいなくちゃ。
学校だけでは手が届かない?よし地域の人たちにも積極的に関わってもらいましょう。だってここは地域の学校だもの。
ん?なにか問題でも?
ここまで言えばもう蛇足のような気がするけれど、何よりも子どもたちの声を聞く事だ。
いや、違うな。声を聞いてやる、という言い方がすでにオトナの上から目線なのだ。
子どもたちの言葉を、オトナの勝手な解釈で切り捨てたり切り上げたりしない。んー、なんていうのかな。立場に関係なく同等でいる、っていう感覚なのだと。
もちろん、オトナとコドモは全然立場が違う。当たり前だ。
ボキャブラリーもちがう、言葉も間違う、でもそれは言語表現のスキルの差であって、気持ちであったり考えであったりものを見る視線であったりするものについて上下が生まれるものではないわけで、単に相手が子どもというだけで蔑む大人をなぜ子どもたちが信頼できようか。
つまり、コドモとオトナはまず平等である、という意識なのかな。
木村泰子さんは「学校は安心できる場所」と言う。
安心できるってどういうことだろう?
個人差はあれど子どもたちはだいたいが饒舌だ。授業でも低学年の授業ではみんなが積極的に手をあげたり喋ったりする。でも、だんだん喋らなくなる。手を挙げなくなる。
自分の言いたい事を自由に話せるというのはとても気持ちがいい。
ところが、学校ってところでは「学校が決めた正しい答え」を求められる。「学校が決めた正しい答え」以外の事を言えば間違いだと烙印を押されたり、怒られたり、嫌な顔で見られたりする。そのうち子どもたちは先生の顔色を伺い忖度し「学校が決めた正しい答え」を見つけるまではビクビクしながら不用意な発言をしないように押し黙るようになる。そして自分の考えとは違っていても「学校が決めた正しい答え」を発表して良い成績をもらう。自分の気持ちに嘘をついているのに逆に嘘つきとは呼ばれなくなる。
嘘をつくことを求められる学校は、もう安心できる場所とは到底呼べない。
不登校が問題になっている昨今、大空小学校では(少なくとも)映画の時には不登校がないという。
他の学校で不登校だった子も転校してきてからは普通に登校する。開校時に講堂で暴れてその後も逃亡を繰り返し木村さんを悩ませた子もある事をキッカケに落ち着きを取り戻す。大事なのは、問題視されるその子が変わったのではない、というところだよね。変わったのは環境の方。つまり、周りの見方が変わることで、その子にとって学校が安心できる場所に変わった、ということだ。
不登校はいけない、という考え方は支持しないけれど、この大空小学校の木村泰子さんが言う「学校は安心できる場所」でなくてはいけない、という考え方はもっと根源的な事なのだと思う。「全ての子供の学習権を保証する」という理念から派生しているとは思うんだけれど、学校が全ての子どもにとって安心できる場所であってくれるのなら、子どもにとって学校に行かない理由なんてほとんどないんだよ、きっと。
もう一つ気づいた事。
大空小学校がやっている事は、「壁」を取っ払う事なのだと思う。
特別支援学級と普通学級の間の壁。
普通の子と問題児という主観的でしかない線引きの壁。
学級担任という責任の壁。
オトナとコドモの壁。
学校と地域の壁。
考えてみれば儂らはいくつも壁を作り、その枠組みの中での勝手な解釈で物事を理解しようとしている。
つまり、了見が狭くなっているんだな。
壁をとっぱらってみれば、その先にまだ気づかなかった世界が広がってるというのに。
あぁ、なんと勿体ない。気づけ、世のオトナどもよ!
そしてこの映画のタイトルは「みんなの学校」ときた。
もっとも根源的な訴えがここにあるんじゃないのかな。
映画がうったえるのは教育の問題じゃないんだ。実はコミュニティー(みんな)の課題なのだ。
つまり「みんなの学校」は「みんなの映画」でもある。
だから、みんな見るべきだね、絶対に。
(草食系男子木津くんが全然草食系に見えない…)