ぶらぶら人生

心の呟き

今日は「蝸牛忌」

2007-07-30 | 身辺雑記

 つれづれに眺めていた本『俳句日歴』<一人一句366>(石寒太著・右文書院)の今日(7月30日)のページに、

  蝸牛忌や驟雨が浪をわたりくる   中 拓夫

 の句が載っていた。
 母の忌の翌日は、<蝸牛忌>か、と思いながらこの句を読んだ。
 <蝸牛忌>は、<露伴忌>のことである。
 幸田露伴が「蝸牛庵」と号したことから、<蝸牛忌>ともいわれるようだ。

 上記の句について、石寒太は次のように評している。
 <季語は「蝸牛忌」。「驟雨」はにわか雨。はやくもにわか雨がやってきた。それは浪をわたるようにして迫ってくるのである。「蝸牛忌」と、流れるようにやってくる美しい「驟雨」の対照が、じつに美しい。厳とした風格をもった句である。>

 句評には理解しがたいところもあるが、私の関心は、この句よりも幸田露伴にあった。今まで、露伴は、私にとっては縁の薄い作家だった。それだけに、なんだか余計気になって、書棚から『幸田露伴集』(現代日本文学大系4・筑摩書房)を取り出してみた。
 まずは、年譜を読む。
 1867(慶応3)年~1947(昭和22)年の人。
 扉の写真を見て、そうだ、この人だったと顔も思い出した。私の祖父がそうであったように、白く伸ばした顎鬚と口髭が、特徴のある風貌を作っている。昭和16年4月の写真というから、露伴74歳。額の皺も深く刻まれ、その顔には風格がある。
 (最近の老人には、威厳を伴った味のある顔が少なくなったような気がする。それは、私の個人的な感想だろうか、などと余分なことを考えながら、写真を眺めた。)
 
 年譜に次いで、全集の付録を見た。
 幸田文・斉藤茂吉・篠田一士・臼井吉見、4氏の文章が掲載されていて、それらを拾い読みした。
 篠田氏の「幸田露伴のために」の書き出しの部分に、
 <今年は露伴と漱石の生誕百年にあたるという。つまり、ふたりは同年だったわけである。日頃作家の戸籍にかかわる事柄にさほど関心をもたぬぼくは、これを聞いて、まず驚き、しばらくして、これを訝しんだ。だが、事実は事実である。責はあくまで当方にある。>(注 昭和41年5月の記事)
 と記されているのを読み、――線部分に同感の思いだった。
 漱石は、今でも身近な作家であり、露伴は遠くに霞んだ作家に思える。
 森鴎外は、さらに古く、文久の生まれだが、露伴よりは後の人であるような感じがする。
 没年で比較すると、漱石が1916年、鴎外が1922年の順で、露伴は一番遅い1947年である。にもかかわらず、露伴を一番古く感じる……という矛盾は、おそらく作風の問題だろう。
 
 幸田露伴は、作家として名高いだけでなく、
 <一代の碩学として知られ、史伝・研究・考証・随筆などの分野に貢献した。特に、『芭蕉七部集評釈』は今日にも残る名著。若き日より俳句をたしなんだ。>
 と、『俳句日暦』に記されており、露伴について改めて知ることになった。
 俳句も紹介してあった。
  しぐるるや家鴨も鴨のつらがまへ
  自転車の月なく去って月おぼろ
  雪空の羊にひくし出羽の国
  春の海龍のおとし子拾ひけり
 分かりやすい句だが、上手といえるのかどうか?

 幸田露伴から幸田文を、さらに青木玉を思い出した。
 むしろ、私が親しんだのは、露伴の次女、幸田文である。『流れる』『台所のおと』『木』などは読んだし、私の蔵書でもある。
 青木玉(幸田文の娘)の『小石川の家』も、芸術選奨を受賞したとき読んでいる。
 が、三代続いた文筆家の、その大御所に当たる幸田露伴については、読んだうちに入らない。
 (青木玉の娘も物書きと聞くが、どんな作品があるのかも知らない。)

 幸田露伴の代表作、『五重塔』や『風流仏』などを読むことは、今後もなさそうだ。読みたいと思いながら読めないままの本があまりにもたくさんあるし、寂しいことだが、読書の意欲も次第に衰えてきつつある……。


 写真は、先日、散歩の途中、マユミの木の傍に佇み、実の成長ぶりを眺めた折、眼前の葉に止まっていたカタツムリ(蝸牛)である。ちょっとピンボケ。

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7月28日の夜 (遠花火)

2007-07-29 | 身辺雑記

 昨夜、浜辺で花火大会のあることを、すっかり忘れていた。
 八時前、たまたまつけたテレビが、野球の広島対巨人戦を放映していた。前夜、完敗した広島が、先取点を挙げている。しかも、投手は古参で左腕の高橋健である。
 広島は、このところずっと成績が悪く、最下位に低迷している。したがって、テレビで観戦することもめったにない。負ける試合は見たくもないというのでは、ファンの資格があるかどうか。
 そのうち、打ち込まれて負けを喫するとしても、暫く見ることにした。高橋の快調な投球を喜んで見ていたら、ドンドンと、花火の打ち上げられる音がした。

 その音で、花火大会のあることを思い出したのだった。
 初めから会場に出かける気はなかったが、昨年同様、花火の夜には戸外に出て、西方の山の端を掠めるように彩る、小さな花火を眺めようとは思っていたのだった。
 案外、人々の花火への関心は薄いのだろうか。私のように、音に誘われて、戸外に出てくる人はなかった。(近所はみな、私同様、高齢者が多い。)
 私ひとり、お月さまと一緒に花火を見た。折から十三夜の月が夜空にあった。

 昨年は、宍道湖の花火を眺めた。(かつてのブログに投稿。)
 そんな華やぎはないが、それでも幾発か、夜空に小さな花が咲いた。海辺との間にはさえぎる小山があって、花火の全景は捉えにくかったが、小規模なりに一瞬の華やぎを心に届けてくれた。花火は見る人に、ものを思わせる夏のお祭りでもある。
 初めて花火らしい花火を見たのは、山口の椹野川河畔だった。遠い昔の思い出である。それから幾たび、花火を見たことか。旅の思い出に重なるものもあり、それらすべて、まるで秘め事のように、ひとりで懐かしむより仕方がない。

 海辺で打ち上げられた遠花火は、耳に届く轟音の割合には貧弱だったが、こぢんまりと夜空を飾った。(写真)
 この夏の思い出として、心に留めておこう。

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7月28日の夜 (月齢13)

2007-07-29 | 身辺雑記

 昨夜、花火の上がる音を聞いて、外に出てみた。待宵草の咲く丘から、十三夜の月を眺めてみようと思っていたのだが、あえかな遠花火を見るために、途中で足を止めてしまった。
 花火は、程よい間をおきながら、打ち上げられる。
 その合間には、お月さまに対峙する。
 東よりの空に、月はあった。(写真)
 少し赤みを帯びた月であった。

 月との対話は、一方通行で淋しいが、今は未来への夢などなく、専ら過去と向き合っての会話となる。
 過去との語らいの豊かなことは、それだけ長い歳月を生きたことの証であろう。と同時に、語るに値する想い出の豊かさは、来し方の幸せを物語るものでもあるように思う。

 月を眺めているうちに、ふと、明日は母の忌日であることも思い出した。お供えを送ってきたのは妹一人だけだが、今日の祥月命日には、兄妹それぞれ亡き母を偲んでいることだろう。母との永訣から十五年が経った。

 今日は参議院議員の選挙日でもあった。
 早いうちに投票を済ませた。
 開票結果が、夢の持てるものでありますように! 

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ホウセンカ (鳳仙花)

2007-07-29 | 散歩道

 散歩の道野辺に、頼りなげに咲く「ホウセンカ(鳳仙花)」が、一本あった。(写真)
 昔からなじみのある夏の花である。

 きっとこれから威勢よく葉を茂らせ、花の数を増やすのだろう、と思いながら、この夏の初対面なので、カメラに収めた。どこにでも咲いていそうで、そうしばしばお目にかかれないのが、花との出会いであることを思いながら。
 特に、「ホウセンカ」は、昔ほど栽培されていないのではなかろうか。

 出会いとは、そもそも実に不確実で、当てにならないもののような気がする。花との出会いに限らず……。したがって、一度の出会いを疎かにしたくない、と思っている。

 実のはじけ飛ぶまでには日数がかかるのかもしれない。尾崎放哉の句に、

   鳳仙花の実をはねさせて見ても淋しい

 という自由律俳句がある。
 この句の心情は理解に難くない。放哉の孤独と同質ではないとしても、人間は皆、多かれ少なかれ根源的な淋しさを胸に秘めて生きているのではあるまいか。それが共感に繋がるのだと思う。

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道野辺のタマスダレ

2007-07-29 | 散歩道

 なんとも清らかな花。「タマスダレ(玉簾)」という和名から想像して、昔から日本に咲き続けてきた花かと思っていた。また野にすがすがしく咲く様は日本的でもあり、多くの日本人の好みに合いそうな気もして……。
 が、全くの思い違いであった。
 南米原産の帰化植物で、有毒植物なのだそうだ。
 <美しきものには毒あり!>ということか?

 それはともかくとして、濃い緑の、ほっそりとした直線的な葉に、白い花がよく調和し、さわやかで美しい。(写真)

 フリー百科事典「ウィキペディア」によれば、ヒガンバナ科、ゼフィランサス属。(「ゼフィランサス」は、あくまで属名であって、植物名ではない、と断り書きがしてあった。)

 家の裏庭にも、いずれ開花するはずと、楽しみにしている。

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露草の咲く野道

2007-07-29 | 散歩道
 道野辺に咲いた露草。(写真)
 鮮やかな青い花が、今朝初めて目に留まった。露草の咲く季節になったのだ。

 <つゆくさ>という名前から、なんとなくはかなげな印象を受けるのだが、案外生命力の旺盛な植物なのかもしれない。刈られても踏まれても、野辺の花として生き続けている。
 露の降りた朝の風情がいい。だから露草というのだろうか?
 歳時記に寄れば、その他の呼称がいろいろある。
 「鴨跖草(おうせきそう)」「月草」「蛍草」「青花」「うつし花」「帽子花」「かまつか」など。
 命名の由来を想像できるものもあるが、はてな?と頭を傾げるたくなる名前もある。
 バラ科の植物に、「カマツカ」というのがある。露草との関連はよく分からない。

  くきくきと折れ曲りけり蛍草     松本たかし  (歳時記より)
  青花摘む朝の光を摘むごとく    大串 章    (同上) 
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いただいた鉢 (五色ドクダミ)

2007-07-28 | 身辺雑記

 草刈後の片づけは、夫婦で作業をしてくださる。崖側の草は伸び放題だし、側溝の掃除も行き届いていない。その余分な作業まで、併せてしてくださるので、私は大助かりである。

 おまけに、花の鉢を三ついただいた。
 その一つが、「五色ドクダミ」。(写真)
 葉色の妙を楽しめと、いただいたのである。

 (あとの二つは、<冬コスモス>と<ベンケイソウ>とのことだったが、ネットで調べてみたところ、前者は該当のものが見つからず、後者は名前こそ見つかったが、植物の種類が異なっていた。
 みな、聞き覚えなので、記憶違いもあるだろう。
 何かの折に正式な名前が分かればいいとしよう。今すぐ、ブログに書く必要もないことだから。
 花の名前は、とにかく覚えにくい。
  過日、「ムラサキゴテン」をいただいたTさんも、花の名前は分からないとのことだったので、後日、お会いしたとき、伝えておいた。
 すると、その数日後の散歩の折に、呼び止められた。
 「あの花、なんていう名前だったかしら? ムラサキの後が出てこないの。宮殿ではなかったし……」
 <御殿>だと教えると、
 「すぐメモしておくね」
 と、帰っていかれた。
 紫御殿と紫宮殿、全く無縁ではない。
 とにかく、老いるとは、かくなることなり!
 書いたメモ用紙さえ、どこにやったか、忘れないとも限らない……。

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刈り残された撫子

2007-07-28 | 身辺雑記
 毎年六月の二十日前後に、家裏の崖の草を刈ってもらうことになっている。ところが、今年は、梅雨の長雨が続き、やっと26日、一か月以上遅れの運びとなった。いつも同級生のHさんが引き受けて刈ってくださるのだ。
 午前中に刈った草を夕方片づけてもらうのが例年の習いだが、今年は時期がずれたために草の量が多く、一日崖で自然乾燥をさせ、翌27日の夕方、片づけてくださった。
 昨夕から、身辺の眺めが少し軽くなった感じだ。あとは庭木の剪定。こちらも、雨で延期になり、今月末か八月初めという予定になっている。

 草刈りが遅れたので、今年は崖のあちこちに撫子の花が咲いた。
 26日の朝、刈り取って捨てられるのはもったいないと思い、崖下の方の花は摘み取って、花瓶に挿した。
 作業後の崖を見ると、高所のあちこちに撫子が刈り残してあった。(写真)
 草刈機での作業なのにと、心遣いが嬉しかった。
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背高く伸びた待宵草

2007-07-28 | 散歩道

 前回のブログ、「暑気中り?」に添付した写真、「エノコログサ」の茂る原は、背の高い「待宵草」の咲く原っぱでもあった。これを「大待宵草」というのかもしれないと思った。理由はただ、背丈が高いというだけだが……。

 以前のブログにも書いた、太宰治の
 <富士には、月見草がよく似合う。>
 (御坂峠にある碑文は、原文どおり、<似合ふ>と、歴史的仮名遣いらしい。)
 の、句を思い出し、小説を読み返す必要があるな、と思った。
 前回のブログでは、花色は何色だったのか、多分、白い花ではなくて、黄色だったのでは、と書いた。
 (つい最近、知ったばかりの知識だが、「月見草」は、もともと白い花なのだそうだ。)
 
 早速、『富岳百景』を読み直した。
 幾度も読んだはずなのに、細部はきれいに忘れていた。太宰治の富士山に対する愛憎の表現が実に面白い。読書の醍醐味をしばし楽しんだ。単なる身辺雑記ではなく、小品の中に、私の好きな作家、太宰治の様々な面が顔を覗かせ、読みつつ微苦笑を禁じえなかった。

 <(バスで峠の茶屋に引き返す途中、乗り合わせた六十歳くらいの、私の母とよく似た老婆が、)

 「おや、月見草。」
 そう言って、細い指でもって、路傍の一箇所をゆびさした。さっと、バスは過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残った。
 三七七八米の富士の山と、立派に対峙し、みじんもゆるがず、なんと言うのか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすっくと立っていた月見草は、よかった。富士には、月見草がよく似合う。


 となっていて、はっきりと<黄金色の月見草>と、太宰治自身が書いているのであった。<富士に……>の一句が、一人歩きして有名になってしまっているが、文中においては、一描写に過ぎない。
 それにしても、<六十歳くらいの、…老婆>とは、ちょっと失礼な、と思ったが、六十歳は、確かに老婆であり、老爺といわれても仕方ないのかも知れない。当人が勝手に、若いと思っているだけともいえる。

 今晩は十三夜のはずである。月見草(待宵草)の原っぱからは、真正面にお月さまが眺められるはず。今晩は、ちょっと散歩に出かけてみよう。 

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暑気中り ?

2007-07-28 | 散歩道
 昨日はまいってしまった。暑さのために。
 暑さはすべての人に公平なはずなのに、私ひとりが傷めつけられているような気がした。
 病院で、健康診断を済ませたあと、M駅前で食事した。それまではよかったのだが、そのあと、買い物のために街を歩いたとき、アスファルトの反射光を浴びながら、<ああ、これがまさに、真夏の炎暑だ!>と思った。
 わずかな間に、身体の芯にまで暑さが通り、全身焼かれたような気がした。
 熱中症というのが、どんな症状か知らないが、帰途のバスに乗ったあたりから、変調が現れた。生欠伸の連発である。私は、日ごろ欠伸の少ない方である。ところが、湧き出るような欠伸を抑えようがないのだった。
 帰宅後、すぐ横になった。
 が、休む暇なく、前日、刈り取った草の片づけに、同級生の夫妻が来てくださった。仕方なく起き上がった。作業のあと三人で話しながらコーヒーを飲み、暫くは気分が紛れていたが、そのあと、今度はお腹の調子がおかしくなった。朝食抜きの空腹なところへ、お昼に食べたものが負担となったのだろうか。
 これでは、夜の集金常会に行けそうにない、お隣へ依頼しようと電話をしたら、常会は29日とのこと。私の勘違いだった。9と7を読み違えたらしい。老人にありがちな間抜けた話だ。
 安心して、とにかく横になることにした。
 しかし、深夜まで、身体の芯に入り込んだ暑熱が抜けず、息苦しくて眠れない。苦手な冷房を入れてみる。と、身体の表面の熱はどんどん奪われるのだが、芯の熱は依然として抜けない。
 眠れないので、深夜、誘眠剤のお世話になった。

 今朝、目覚めたのは、四時であった。
 気分はよさそうであった。
 新聞を取りに玄関に下りたついでに、外に出てみた。
 フクロウの、野太い声を久しぶりに聞いた。
 <ノリツケ ホーセ  ノリツケ ホーセ>
 と、鳴いて、今日の晴れを予報していた。

 新聞を読んだあと、六時から散歩に出た。
 が、朝食後は体をいたわりながら、昼過ぎまで休養。
 ひたすら怠惰を友にして。
 
 写真は、散歩途中の荒地にそよいでいたエノコログサ(ネコジャラシ)。
 私は、雑草たちの鄙びた風情にも心を惹かれる。
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