つれづれに眺めていた本『俳句日歴』<一人一句366>(石寒太著・右文書院)の今日(7月30日)のページに、
蝸牛忌や驟雨が浪をわたりくる 中 拓夫
の句が載っていた。
母の忌の翌日は、<蝸牛忌>か、と思いながらこの句を読んだ。
<蝸牛忌>は、<露伴忌>のことである。
幸田露伴が「蝸牛庵」と号したことから、<蝸牛忌>ともいわれるようだ。
上記の句について、石寒太は次のように評している。
<季語は「蝸牛忌」。「驟雨」はにわか雨。はやくもにわか雨がやってきた。それは浪をわたるようにして迫ってくるのである。「蝸牛忌」と、流れるようにやってくる美しい「驟雨」の対照が、じつに美しい。厳とした風格をもった句である。>
句評には理解しがたいところもあるが、私の関心は、この句よりも幸田露伴にあった。今まで、露伴は、私にとっては縁の薄い作家だった。それだけに、なんだか余計気になって、書棚から『幸田露伴集』(現代日本文学大系4・筑摩書房)を取り出してみた。
まずは、年譜を読む。
1867(慶応3)年~1947(昭和22)年の人。
扉の写真を見て、そうだ、この人だったと顔も思い出した。私の祖父がそうであったように、白く伸ばした顎鬚と口髭が、特徴のある風貌を作っている。昭和16年4月の写真というから、露伴74歳。額の皺も深く刻まれ、その顔には風格がある。
(最近の老人には、威厳を伴った味のある顔が少なくなったような気がする。それは、私の個人的な感想だろうか、などと余分なことを考えながら、写真を眺めた。)
年譜に次いで、全集の付録を見た。
幸田文・斉藤茂吉・篠田一士・臼井吉見、4氏の文章が掲載されていて、それらを拾い読みした。
篠田氏の「幸田露伴のために」の書き出しの部分に、
<今年は露伴と漱石の生誕百年にあたるという。つまり、ふたりは同年だったわけである。日頃作家の戸籍にかかわる事柄にさほど関心をもたぬぼくは、これを聞いて、まず驚き、しばらくして、これを訝しんだ。だが、事実は事実である。責はあくまで当方にある。>(注 昭和41年5月の記事)
と記されているのを読み、――線部分に同感の思いだった。
漱石は、今でも身近な作家であり、露伴は遠くに霞んだ作家に思える。
森鴎外は、さらに古く、文久の生まれだが、露伴よりは後の人であるような感じがする。
没年で比較すると、漱石が1916年、鴎外が1922年の順で、露伴は一番遅い1947年である。にもかかわらず、露伴を一番古く感じる……という矛盾は、おそらく作風の問題だろう。
幸田露伴は、作家として名高いだけでなく、
<一代の碩学として知られ、史伝・研究・考証・随筆などの分野に貢献した。特に、『芭蕉七部集評釈』は今日にも残る名著。若き日より俳句をたしなんだ。>
と、『俳句日暦』に記されており、露伴について改めて知ることになった。
俳句も紹介してあった。
しぐるるや家鴨も鴨のつらがまへ
自転車の月なく去って月おぼろ
雪空の羊にひくし出羽の国
春の海龍のおとし子拾ひけり
分かりやすい句だが、上手といえるのかどうか?
幸田露伴から幸田文を、さらに青木玉を思い出した。
むしろ、私が親しんだのは、露伴の次女、幸田文である。『流れる』『台所のおと』『木』などは読んだし、私の蔵書でもある。
青木玉(幸田文の娘)の『小石川の家』も、芸術選奨を受賞したとき読んでいる。
が、三代続いた文筆家の、その大御所に当たる幸田露伴については、読んだうちに入らない。
(青木玉の娘も物書きと聞くが、どんな作品があるのかも知らない。)
幸田露伴の代表作、『五重塔』や『風流仏』などを読むことは、今後もなさそうだ。読みたいと思いながら読めないままの本があまりにもたくさんあるし、寂しいことだが、読書の意欲も次第に衰えてきつつある……。
写真は、先日、散歩の途中、マユミの木の傍に佇み、実の成長ぶりを眺めた折、眼前の葉に止まっていたカタツムリ(蝸牛)である。ちょっとピンボケ。
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