〈 池田勇人氏の略歴 〉
・大正13 ( 1924 ) 年3月、京都帝国大学法学部卒業
・大正14 ( 1925 ) 年大蔵省へ入省、銀行局配属
・入省同期は、山際正道、植木庚子郎、田村敏郎など
大蔵省の中枢は当時からすでに東大出身者で固められていて、京大卒の池田は出世コースから外れた傍流だったそうです。本来なら地方の出先機関の局長か、税官長止まりというキャリアだったとのことで、入省後は相場通りに地方を廻ったと言われています。
東大法学部卒を当然の資格とし、それ以外の人間を軽視した宮沢氏の判断基準は特に氏が偏見の持ち主だったというのでなく、当時の大蔵省が徹底した学閥主義だったからに過ぎません。
省内の学閥主義を暗黙事項として胸に納めていればよかったのに、構わず口にしたところが氏の特徴で、人に嫌われる原因となっています。それでも氏が順調に昇進した陰には、池田氏の庇護があったからだと言われています。
縁を作ったのが氏の父、宮沢裕 ( ゆたか ) 氏でした。東大法学部を卒業していた氏は、逓信大臣秘書・内務大臣秘書などを歴任していました。同じ広島出身ということで池田氏と親交を持ち、婚姻の仲立ちをしています。
池田氏の経歴には、次のように書かれています。
・昭和2 ( 1927 ) 年、池田は函館税務署長に任命される直前に、宮沢裕に勧められ維新の元勲広沢真臣の孫・直子と結婚。媒酌は時の大蔵大臣・井上準之助
その後政界入りした池田氏は、吉田首相の右腕として頭角を顕し、吉田内閣の外交・安全保障・経済政策に深く関与します。佐藤栄作氏と並ぶ、「吉田学校」の筆頭格として世に知られています。
・昭和30 ( 1955 ) 年、自由党と日本民主党が合同し自由民主党が結成
・保守合同後、池田は自民党の宏池会の領袖として一派をなした。
・昭和35 ( 1960 ) 年、首相に就任
・所得倍増計画を打ち出し、戦後日本の高度成長の進展に最も大きな役割を果たした。
池田氏と宮沢氏は、単に同郷の政治家同士という以上の関係にありました。もともと宮沢氏は外務省か内務省を志望していましたが、池田氏の強い勧めで大蔵省に入省したと言われています。
これが20余年に及ぶ池田氏との縁の始まりで、戦後池田氏の秘書官となった以後はその死まで常に側近として仕えたとのことです。
氏は官僚だった占領時代に、通訳や渉外担当としてGHQなど米国各機関との折衝に関わり、基地提供を提案したことで知られる池田蔵相の昭和25年の訪米や、翌年のサンフランシスコ講和会議にも随行しています。
昭和27 ( 1952 ) 年に池田通産大臣が、いわゆる「中小企業発言」で不信任されたのに殉じるように、氏が大蔵省を退官したのはこういう事情があったと言われています。
当時の氏を、ウィキペディアが次のように説明しています。
・宮沢は参議院議員となった後も、再軍備問題を巡る池田・ロバートソン会談(1953年)や、池田の総理大臣就任後の池田・ケネディー会談(1961年)など、戦後日本の針路を決定づける重要な局面にいずれも池田側近として立ち会ったため、「戦後政治の生き字引」などといわれる。
・ 昭和37 ( 1962 ) 年の第二次池田内閣では、経済企画庁長官で初入閣、池田首相のブレーンの一人として所得倍増政策の一翼を担う。
・テレビの政治討論会などに積極的に出演し、自民党のニュー・ライト( 新保守 )を代表する若手政治家として注目される。
・昭和42 ( 1967 ) 年衆議院に鞍替え出馬し、第31回衆議院議員選挙に当選。以後通産相、外相、総務会長などの要職を歴任していった。
こうして官僚から政治家へと自己実現して行った氏が、どこから「日本人・ジャパンハンドラー」になったのか、積み上げてきた検討作業の結果として次のように推測しました。
・「日本航空墜落事故」を契機に、アメリカがGHQ時代以来2度目の「日本弱体化計画」に踏み切った時ではないか。
GHQ時代の「日本弱体化計画」を「アメリカによる関与の第一段階」と表現すれば、日航機墜落事故以後の「日本弱体化計画」は「アメリカによる関与の第二段階」と言えるのではないでしょうか。
過去記事でも取り上げていますが、今回は宮沢氏がどのように関係しているのかという。新たな視点で検討しています。
興味のある方だけ、次回へ足をお運びください。