昭和時代を語るとき、学生運動を省略することはできません。
しかしこれを、息子たちに説明するのは至難の技です。離合集散する野党を説明するややこしさと同じです。若い頃は注意を払っていませんでしたが、学生運動は政党との結びつきが深く、党の対立と抗争に連動していました。
共産党を別にし、現在も野党は離合集散・消滅を繰り返しています。立憲民主党、国民民主党、日本維新の会、社会民主党、自由党、希望の党、沖縄社会大衆党など、覚えるだけで大変です。まして一般人に馴染みのない学生運動の、対立抗争となれば、一般の人にはどうでも良いことになります。
氏の本に戻る前に学生運動の輪郭だけでもと、調べてみました。
・第二次世界大戦中、完全に解体されていた学生運動は戦後すぐに復活した。
・GHQの指導の下、多くの大学で学内の民主化運動が行われ、昭和23年に「全日本学生自治会総連合(全学連)」が結成された。
・全学連は当初「日本共産党」の影響が強く、その活動方針と軌を一にしていた。
・しかし昭和30年の日本共産党第六回全国協議会で、共産党が現場の運動家を半ば置き去りにする形で「路線変更」を行ったことを契機とし、学生運動から徐々に距離を置くようになった。
・共産党に除名された学生達が中心となった、「新左翼共産主義者同盟(ブント)」が全学連の主導権を握った。
私が大学生だった時、早大紛争がありました。学内で騒いでいたのは、「社青同」、「社学同」、「民青」という組織でした。
調べてみますと、「社青同」は「日本社会主義青年同盟」の略称で、社会党の左派と関係がありました。
「社学同」は「社会主義学生同盟」の略称で、上部団体が共産党の分派です。最後の「民青」ですが、これは「日本民主青年同盟」の略称で共産党の下部組織でした。」
当時でも今でも私には、「社青同」や「社学同」や「民青」が「全学連」の中で、どういう位置づけにあり、どんな関係にあったのか知りません。
「君はなぜ、傍観者のままでいるのか。」
「この腐れ切った社会を見て、怒りを覚えないのか。」
「ノンポリのままで、恥ずかしくないのか。」
クラスの活動家たちに教室で度々追求され、その度に私は逆らいました。
「君たちは、この思想で一生を貫くのか。」
「マルクスの思想は、君の一生を捧げるに値するのか。」
「それだけの価値が有る思想だと、君はどうして言い切れるのか。」
目的のためなら反対者を殺せという憎しみの思想に、私は馴染めませんでした。私が大切にするのは、理論より自分の気持でした。
彼らは感情論と嘲笑しましたが、自分の気持が納得しない理論に、他人を巻き込む彼らの軽率さを嫌悪していました。
左翼活動家の友が言いました。彼は真面目で穏やかだったので親しくしていました。
「一生なんて、僕は考えていない。」
「この社会の、現在の不合理を見て僕は戦う。」
「もしかすると、卒業したらこんなことはやれないのかもしれない。」
「そんなら、自由な学生の間だけでも、自分の信じるもののために僕は戦う。」
私は彼に言いました。
「卒業したら、やめるような活動なら僕はやらない。」
「思想を信じるというのは、それで一生を貫くということだ。」
きちんと反論したのか、しどろもどろの反論だったのか覚えていません。それ以来彼とは一線を引き、距離が離れました。それから以来私は、彼らにノンポリと蔑視されました。
しかし今でも、自分の正しさを疑っていません。
「一つの思想を信じるということは、一生を貫く覚悟があって言えること。」
「学生の間だけというのなら、真剣に見えても無責任な遊びに過ぎない。」
75才になり、自分の一生を貫くべき思想に巡り合いました。思想という言葉で表すものなのか、そこは分かりませんが自分の考えであることは間違いありません。
1. 自分の国を愛すること。 ( 歴史や文化を大切にする )
2. ご先祖を敬うこと。 ( 日本人のご先祖である天皇を敬う )
3. 自然に感謝すること。 ( 八百万の神様を信じる )
4. 人間は自然の一部であること。( 対立はなく、協調と同化がある )
現実を忘れた読書をしているのでなく、現実の上に立ち、昭和の学生運動を語る外川氏の本を読んでいると、息子たちに話せる気がしています。
[ 追 記 ]
一生を貫き、一つの思想のために戦っている面からすると、沖縄で基地反対運動を続けている老人たちに、私は敬意を表すべきかもしれません。
彼らはおそらく私と同年輩の、学生運動家の成れの果てです。
敬意を覚えても軽蔑せずにおれないのは、マルクシズムの誤りと虚構に、いい年になっても気づけない愚かさです。彼らが社会に流す害毒は、敬意を凌駕し息子や孫たちの代まで汚染します。
敬意を感じても、肯定する訳に参りません。