ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

私のへ理屈

2016-01-29 16:23:15 | 徒然の記

 昔から、日本人は、喜怒哀楽の情を露わにしない。
大声で泣いたり笑ったり、怒鳴ったり、喜んだり、よほどのことでない限り、そのまま気持ちを外に出さない。

 中学生の時だったか、高校生になっていたのか、我慢したり押し殺したりしないで、日本人は、もっと人間らしく、自分の気持ちに素直になれないのかと、そんな意見を聞いたことがある。

 そう言われて外国映画を見ると、なるほど欧米人は、大きな声で笑ったり泣いたり、身振り手振りまで加え、騒々しく振舞っていた。

 どちらが人間らしいかと、そもそもそんな見方をすることの間違いを、私はこの頃、強く感じるようになった。喜怒哀楽を、暮らしの中でどのように現すかは、その国の歴史や文化の反映だと、理解する方が正しい。

 聖徳太子以来の和の文化では、声を荒げ他人と諍いをする行為は、疎んじられる。厳しく自己を律した、武士道の教えに、気ままな心の表明は馴染まない。あるいはまた、侘び寂びを尊ぶ心からは、むき出しの喜怒哀楽が切り捨てられる。

 だから私たちは、長い歴史の積み重ねの結果として、感情の発露が控えめになっている。西洋を崇拝するというより、欧米かぶれの日本人たちには、それが不自然に見え、偽善にも見えると言うのであろう。

 話が飛躍するが、言論の自由は民主主義国家の存立基盤なので、様々な意見があって良いと私は思う。言論の自由があるかどうかで、国の品格が分かる。反対意見でも言おうものなら、有無を言わさず官憲に引っ立てられ、刑務所へぶち込まれるなどと、こうした理不尽が横行する国は、未開の野蛮国と言って間違いない。

 だから私は、西洋かぶれの日本人の言論にしても、個人としては気に入らないけれど、抹殺してしまえとは考えない。反対意見がなくなればスッキリするが、これこそ不自然な社会というもので、矛盾だらけでも、愛すべき人間の生きる場所でなくなってしまう。

 ああでもない、こうでもないと、何時も反対と賛成が入り乱れ、議論百出するのが、国の姿だと常にそう思っている。

 今日は随分と前置きが長くなったが、これからが本論だ。
私が気に入らない意見を我慢しているのだから、対極にいる人間たちも、私の意見を頭から否定しないでもらいたいと、実はそれが言いたかった。そしてここからが、私のへ理屈の開始だ。

 大阪市が制定した、天下の悪法である「ヘイトスピーチ条例」を、多数決で成立させた元凶は、戦後に流され続けた数々のテレビドラマだと私は言いたい。謙遜して「へ理屈」と言っているのだが、心ある人なら、きっと「正論」と理解してくれるはずだ。何しろ私は、歴史的観点から自分の意見を展開している。

 最近は益々酷くなっているが、NHKの朝の連続ドラマはいうに及ばず、テレビのドラマというドラマが、登場人物に、醜いまでの感情の発露をさせている。親子の争い、兄弟の喧嘩、恋人たちの詰りあい、友人・知人との大喧嘩など、聞くに堪えない罵詈雑言の嵐だ。

 喜んだり笑ったりする時のシーンも、外国人顔負けの過剰演技だ。多くの日本人は、日常生活の中で、あのように大声で喚いたり、泣き叫んだりしない。ドラマの中の話にすぎないと許容してきたが、テレビドラマで見せられた演技が、何時の間にか若い者の間では、「普通のこと」として受け取られるようになっているという、気がしてきた。

 感情のままに怒ったり、攻撃したり、その醜さを何とも感じない日本人が育っているという危険性に、どれだけの人間が気づいているのだろう。ドラマの製作者たちに、その意図はないのだろうが、見ている若者や幼い子供たちは、あからさまな感情の発露を、当然のこととして受け止めるだろう。一歩進んで、「そうすることが正しい」とまで思いこむ。

 「私が思うから、そうして、何が悪い。」「私は、自分の気持ちに、正直に生きている。何が悪い。」

 こうして居直り、他人の意見に耳を貸さない人間たちが増えているのは、戦後の社会に垂れ流し続けられた、テレビドラマの過剰言動が一役買っているのではないか。

 昨今、街頭で行われるデモのシュプレヒコールが、醜く汚ならしく、過剰な攻撃に溢れるのも不思議でなくなる。在特会のヘイトスピーチも酷かったが、しばき隊の反撃も、負けず劣らず醜悪だ。戦後生まれの若者たちが、「目には目を」でやり返し、節度を忘れたテレビドラマの影響もあり、彼らの言動は、日を追う毎にエスカレートしている。

 短気で一本気な、どちらかといえば、オポチュニストでもある橋下氏が、「ヘイトスピーチは我慢ならない」と、条例を作りたくなった気持ちも分からぬではない。しかしここは、中国でもなければ、北朝鮮でもない。かつての赤いソ連でもない。

 ヘイトスピーチの定義の難しさと、その運用の困難さに、少しでも思いを致せば、まともな政治家ならこんな条例は作らない。

 面白い人物と眺めてきたが、ここまで来ると、橋下氏を批判せずにおれなくなる。
この法律は、運用する人間次第で、自由な言論の弾圧を可能にする。しかもこの法は、日本人だけを取り締まるもので、韓国・朝鮮人のヘイトスピーチはお咎めなしだ。こんな不公平で不完全な法律が、どうして大阪では議会を通過したのか。

 新聞記事を読む限りでは、自民党が反対しているだけで、維新、共産、民主等々野党の議員は、皆賛成に回ったという。沖縄ばかりが特殊な地域と思っていたら、もう一つ大阪が加わってしまった。

 いったい彼らは、「言論の自由」の大切さをなんと心得ているのだろう。下品で汚らしいからと、人間の言動が法で縛れるというのなら、慰安婦問題や南京事件に関し、反日売国の議員たちが、下品に汚ならしく日本を罵ることも、縛れるという話になる。

 大阪や沖縄の奇怪な出来事を、黙って見過ごしている議員たちに、これを機会に猛省を促したい。そしてここで、私の屁理屈が光る。

 「ヘイトスピーチを憎むのなら、テレビ局が垂れ流す、無数のドラマを攻撃しなさい。」「日本の歴史と文化を無視した言動を、日々流し、日本人の心を破壊している、テレビ局を問題にしなさい。」

 急がば回れと諺にもあるが、ヘイトスピーチを無くす確実な道の一つが、間違いなくここにある。だいたいヘイトスピーチをするデモ行進など、日本の歴史のどこにもない。悪口雑言をプラカードにし、集団で威嚇の行進をすると、こんなものは、左翼共産党が海の向こうから持ち込んだ、唾棄すべき行為だ。

 日本にあったのは、物言わぬ百姓たちが、命をかけて実行した「一揆」だけだ。
悪口雑言やプラカードで、お祭り騒ぎをするのでなく、死罪を覚悟で目的地に向かう行進は、形がデモ行進に似ていても中身が違う。

 一揆もデモも同じだと、そういう意見もあるだろうが、警官に守られ、反対者に邪魔されず、命の危険すらない左翼のデモなど、いったいどこに一揆の切実さがあるのか。外国が攻めてきたら、私が彼らと一杯飲んで語り合いますなどと、こんな痴れ者のやるデモなど、一揆の緊迫感に比べれば提灯に釣鐘だ。

 それでも政府は、こんな愚かしいデモを放任しているが、これこそが「言論の自由」を守る政府であり、民主主義の国家でないか。時にはまどろこしい警官の姿だが、獣のような他国の官憲に比べるとき、彼らの忍耐が輝いて見える。

 こうなると橋下氏は、残念ながら「やはり野におけレンゲ草」で、とても国政を担う政治家とは言えなくなる。

コメント (4)
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