ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

年金生活の開始

2012-11-26 16:24:39 | 徒然の記
 仕事を辞めて、26日が過ぎた。

 今度こそ本当に、正真正銘の年金生活者となった。朝に雨戸を開けて陽の光を入れ、夕方には雨戸を入れ、ついでに、暮れ方の庭を眺めしばし時を忘れる。なんという穏やかなひと時。昼間は家内と図書館に行き、スーパーへ買い物に出かけ、洗濯物を干したり、料理の手伝いをしたり、こうして日々はけっこう忙しく過ぎて行く。いわばなんの変哲も無い日常の繰り返しだ。若い頃だったら、この単調さに一日たりと耐えられなかっただろうに、今はこの毎日に喜びを覚える。

 以前にも書いたが、これはまさに「時の魔法」である。人の心が年を経て変わると言う、不思議さ。惜しむらくは、この満足感なり充実感なりがそんなに持続しないと言うところか。人間の性(さが)の悲しさとでも言うべきか、いずれ飽きて退屈してしまうのだと予想がつく。この気まぐれさえ制御できれば、聖人の一人に加われるはずなのに決してそうはならない現実。時の魔法も、そこまでの望みは叶えてくれない。いくら時が経過したって、凡人は凡人なんだと最近は悟れるようになりつつある。

 平凡な日常に安住の時を見いだせるようになっただけでも、大きな収穫でないかと感謝している。さて、誰に向かって感謝をするのかと、考えだすとややこしくなってくる。「時の流れ」に感謝すべしということなのだろうが、「時の流れ」になんて、感謝する対象に出来ない。いくらなんでもそれはおかしい。だから私はこんなとき、天の神様に感謝するのだと考えることにしている。敬虔な気持ちでそう思うのだから、いい加減な人間とは訳が違うと意地を張ることにもしている。他人は私を無神論者というが、とんでもない話だ。特定の神を信じないだけのことで、神らしきものには常に敬意を払っている。島根に行けば出雲大社で、浅草を訪れたら浅草寺で、と言う具合に土地土地の神様にちゃんとお参りをしお賽銭も払っている。・・・・・こんなことを書いていると、まさしく「みみずの戯言」という表題に相応しくなってくる気がする。

 だが実のところ、私がここに書きたかった本音は別にある。「正真正銘の年金生活者」の暮らしは、予想していたより厳しいものがあると言うこと。つまり、月々の小遣いが今月から三分の一なったということ。車のガソリん代込みだから、日本の国家財政みたいな厳さだが、国債発行が出来ない分だけ更にタイトと言えるのではないか。それでこの日々の充実感と、懐の寂しさと、どちらが自分にとって大切なのか、幸せなのか・・・・・・、もっか思案中なのだ。


 結論は、おそらく衆議院の選挙が終わり、新しい総理が決まる頃までかかるような気がする。新しい総理が希望の持てる日本を語ってくれたら、私の心も決まるのでないかと・・・・・、どこまでも他力本願の自分である。何の根拠も関連も無い何時もの独断なので、家内に知れたらまた笑われることだろうと嫌な予感がする。
コメント
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