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哲学の欺瞞

2017-01-30 23:09:00 | 日記
どうも、哲学なんかやってると、常識を忘れてしまう。
まず、ソクラテス=プラトンが、「哲学とは死への練習である」と言った。
肉体を持って、この世に産まれてきたことこそ不幸だから、さっさと死んだ方がいいとのたもうた。
デカルトはデカルトで、考える私、以外のものは、「悪しき霊」が創り出したものかもしれないなどと考えた。
しかし、デカルトは、日常生活において、悪しき霊に騙されていると考えて暮らしていた訳がなく、生活は普通に買い物をして、美味しいもの食べて、他人と暮らしていた訳で、生活と哲学が乖離している。
カントの出発点は、因果律が支配するこの世に自由はあるか、神はいるか。ということだったが、ニ世界説を採った為、自由と神は、叡智界において、存在するものとされた。
すると、自由は、叡智的なものだから、善をなす自由はあるが、悪をなす自由は無いというおかしな事になった。
実践理性批判で、説かれる「自由」とは、あくまで、道徳法則に従う限りでの自由だ。
かくて、どんどん現実から哲学は離れる。
ちょうど、僕らが、大学に入ったのが、ドゥルーズやデリダが流行っていた頃だが、哲学の専門家が、ドゥルーズなんて分からない。とおっしゃっていたように、フランスのポスト構造主義なんて、言葉の遊戯だった。
哲学科の大学院入試は難しかったが、ある年、こんな問いが出た。
「科学技術時代における哲学の意義を述べよ」
なんだ、簡単だ。なんて思わないでほしい。
まず、科学技術時代とあるが、科学と技術は本来別物。
それがなぜか、結びつく。結びつくと簡単に軍事だとか、国家の策略に結びつく。
要は、ウランの発見が、なぜ、広島の滅亡に繋がったのか、そして、日本のカトリックの神父は、神様が、悪いことをされるはずがないから、原爆も「神の摂理」と考えていたと言う。
おそらく、ここいらへんまで踏み込まないと合格点は与えられない問いなのだ。
現実から遊離した哲学、現実から遊離した科学技術。
今年のセンター試験の現代文問題を読みつつ、考える。