前から書きたいと思っていたが、哲学用語というのは何とかならないものか?
たとえばカントにtranszendental Apperzeptionという用語があるが、これは超越論的統覚と訳す。
しかし普通の人がこの言葉を見て何が意味されているかすぐわかるわけがない。
端的にいえば、考えるわたしが意味されているのだが、理解せよというほうがおかしい。
カントにはEinbildungskraftという言葉もある。英語でいうimaginationだが、慣例的に構想力と訳す。
想像力ではカントがこの言葉に含めた意味はくみつくせないのだ。
ニーチェのWille zur Machtは、力への意志と訳す。
昔は権力への意志と訳され、今でもそう使う人がいるが、ニーチェは社会的なことを主張しているわけではない。
ハイデガーに至ってはWas ist das,die Philosophie?という。
哲学、それは何か?とでも訳すほかないがこれではハイデガーの意味はとれない。
ハイデガーはわざとこう記して、発音のアクセントがistにかかるようにした、つまりはSein,存在を強調したとみることができる。
しかし日本語ではそんなことは伝わらない。
結局何言ってるか不明な訳になる。
こうして哲学は日常生活とどんどん遊離していくのだ。
たとえばカントにtranszendental Apperzeptionという用語があるが、これは超越論的統覚と訳す。
しかし普通の人がこの言葉を見て何が意味されているかすぐわかるわけがない。
端的にいえば、考えるわたしが意味されているのだが、理解せよというほうがおかしい。
カントにはEinbildungskraftという言葉もある。英語でいうimaginationだが、慣例的に構想力と訳す。
想像力ではカントがこの言葉に含めた意味はくみつくせないのだ。
ニーチェのWille zur Machtは、力への意志と訳す。
昔は権力への意志と訳され、今でもそう使う人がいるが、ニーチェは社会的なことを主張しているわけではない。
ハイデガーに至ってはWas ist das,die Philosophie?という。
哲学、それは何か?とでも訳すほかないがこれではハイデガーの意味はとれない。
ハイデガーはわざとこう記して、発音のアクセントがistにかかるようにした、つまりはSein,存在を強調したとみることができる。
しかし日本語ではそんなことは伝わらない。
結局何言ってるか不明な訳になる。
こうして哲学は日常生活とどんどん遊離していくのだ。