ネタバレあり
サラエボの紛争に関する映画はいくつか見てきたつもりです。でも、やっぱり映画で見るだけでは「ひとごと」で終わっていたんだなぁ、と今回感じてしまった次第です。
今回の映画は、声高ににボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を非難する場面もなく、だからこういう悲劇が起きた、と前面に押し出したような場面もありません。見る方が注意深く鑑賞し、「そうか、主人公の男性(アマル)は紛争時兵士で、弟を亡くしたんだな」とか、「女性(ルナ)は紛争で両親を亡くしたんだな」とか、そういうことを頭に入れておかないと、あまりに話がさらっと進むので、なにげない男女のすれちがいの話のみが頭に残ってしまいます。
事実、私も(平和な日本に育っているせいか?)、素敵な彼女とちゃんとした仕事を持ちながら、アルコール依存から抜け出せなかった男(彼は断酒のプログラムに参加しても「来ているのは変な奴ばかりだ」と、一回で拒否してしまう。自分は違う、と思っている典型的な男に見える)を「意志の弱い奴。こういう奴に限って口が達者だったりする」と嫌悪感をもって見てしまった。
また、彼はふとした簡単なきっかけで信仰にのめりこんでしまう。まぁ、それでアルコールをやめることができたのだから、よかった一面も確かに、ある。しかし、宗教の恐ろしいところは、他の事と違って、のめりこんでも「それが正義だ」と信じて疑わないところにある、と私は思う。
アルコールやギャンブルなら、本人にもある程度の罪悪感がある。しかし、人生に一度迷った人間がのめりこんだ宗教ほど恐ろしいものはない。なぜなら、絶対的なカリスマ・教えを深く信じ込み(それ自体は問題ないと思うが)、近しい人、たとえば恋人や妻、子供などに価値観を共有するように強要するからである。
その場面が延々と描かれるうちは、ルナが被害者に見えてつらかった。「ルナだって、まだ若いし美人。そのうえいい仕事も持っている。こんな男に絡めとられていないで、さっさと捨てればいいのに」と何度思ったか。
しかし、それだけの話なら、なにもサラエボでなくてもよかったんですね、随分あとでそこに気がつきました。紛争で見なければよかったものや、脳裏にこびりつくような記憶がアマルにはあったかもしれない、だからアルコールもやめれなかったのかもしれないんですね。
今まで共存していた人々が争わなければならない。こんな悲しいことがどうして起きてしまうのでしょう。でも、今でもありますよね。
ルナだって、気丈に働いているけれど、”幼少のころに目の前で両親が殺された”なんて、そんなこと、私には想像もできません。どんなトラウマを負ったかなんて、本人か同じ経験をした人でないとわからないでしょう。
そう思うと、話はそう簡単ではないんだな・・・とアホな私はやっと気付いたわけです。
いよいよ彼との別離を本気で考え始めた矢先に、あれほど恵まれなかった子供を授かっていた、というのはいかにも映画的だけれど、まだ同じ信仰を勧めるアマルに、「あなたが戻って」と希望を残すことばをかけたルナ。これは監督の意向かな。
しかし(私の個人的な意見だけれど)、多分彼は戻らないでしょう。でも、たぶんルナは一人でも子供を産むと思いますね、希望を込めて。甘いかな・・・?
「サラエボの花」と同じ監督なんですね。こちらも好きな作品です。
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