ジャ・ジャンクーにとって『長江哀歌』(06)以来7年ぶりの長編劇映画となる『罪の手ざわり』は、山西省、重慶、湖北省、広東省で実際に起こった4つの事件に基づき、急激に変貌する中国社会の中でもがき苦しみながらもひたむきに生きる人々をパワフルかつ美しく描いた作品だ。公共の炭鉱を私物化する人々に憤る男。妻と子には「出稼ぎ」だと偽って各地を渡り歩きながら犯罪を繰り返す男。顧客からいわれのない侮辱を受けるサウナの受付係の女。単調な工場労働に飽き、歓楽街に身を投じ同い年のダンサーと恋に落ちる青年。中国が直面する様々な問題を内包した4つの物語は微妙に連携し、時には暴力的な手段に訴えざるをえない中国の庶民の現状を浮き彫りにする。その見事な構成が評価され、カンヌ映画祭脚本賞を受賞した。(東京フィルメックスのウェブより)
なんともやりきれない、シリアスな映画でした。この監督の作品は、注目しながらも、一つ一つが長いこともあり、つい噂を聞くだけで来てしまいました。「長江哀歌」はすぐそこに録画してあるのに・・・。
ということで、初チャレンジです。4つの話が並行して描かれるのですが、起きている場所もず~と移動しているようです(しかし、中国の地理に詳しくない私は、その概念までは理解できませんでした)。監督曰く、「微博(ウェイボー)をはじめとしたウェブメディアが急速に広まり、中国全土で起きた事件を誰もが瞬時に知ることができるようになったことから、”中国での人と人のつながり、社会に対しての向き合い方が変わったと感じた”ことが本作製作のきっかけ」なんだそうです。
だからと言って、「しらゆき姫殺人事件」のように、ライブでツイッターをする人が描かれるわけではありません。人々は相変わらずアナログで人間くさく、起きていることもやっていることも普遍的なことです。
村の共同所有だった炭鉱、その利益はみんなに配分するという約束だったのに、一人の男と村長に独占されてしまい、村人にはな~んの恩恵もないことに怒っている男。主要道路には、乗りもしないのに村長やその実業家の外車が停めっぱなしになっています。他のみんなは簡単に長いものに(いや、金銭的なものにと言うべきか)巻かれてしまい、だれもがへつらっています。その実業家が村に帰ってくるともなると大変です。いやらしいことに、なんとプライベートジェットで乗り付けるのです。そんな必要、ある?そして着飾った音楽隊による歓迎の演奏やダンス。騙されたみんな、それでいいの?でも、現実はやはり権力とお金にはへつらうしかないのです。抗議した主人公の男は、ボコボコにドツかれて終い。どうにもならない現実。そして、ここまで淡々と進んできた映画が、静かに反転。でも、思わず男にエールを送ってしまっている小さい自分がいることにハッとしてしまいます。
冒頭に少し映っていたバイクに乗る男。2話目はこの男が主人公です。田舎の村に妻子を置いたまま、出稼ぎに出ている男。送金はきちんとありますが、どうにも怪しい。妻は「ここでも暮らせるわ」と言いますが、息の詰まるようなこんな田舎では生きてゆけないと思っている男。閉塞感にさいなまれているこの男は、実は銃の発砲音に興奮を覚える人間だったのです。
第3話は、不倫をしている女性が主人公。いつまで待っても煮え切らない男の態度。「奥さんに言ってくれたの?」と問うも「ほのめかした。理解したはずだ」などとわからんことを繰り返すばかり。見ているこちらは腹が立ちます。こんな男のどこがいい。さっさと捨てれば!なんてね。
ところで、この女性は某サウナの受付の仕事をしています。ある日、男の妻(若い男を連れている)に襲われ、ボコボコにされてしまいます。怖いですねぇ、ここまでやるもんですかね。そして、この女性は、オフの時間に洗濯をしていてサウナ客に目をつけられ、マッサージを要求されます。でも、彼女は受付嬢であって、マッサージの手ほどきは受けていません。その旨、いくら説明しても男性客は引き下がりません。要求はどんどんエスカレートし、札束を持って彼女を叩き始め、「金はあるんだ。金はいくらでもあると言ってるだろう。お前ごときの女、言いなりにできないわけはないんだ」と暴言を吐きまくって叩き続けます。下品ですね。何の成金でしょうね。
偶然果物ナイフを持っていた彼女は、とうとう抵抗してしまいます。もちろん、彼女の方が犯罪になってしまいます。でも、これだけ女性が虐げられる社会って、なんなのでしょうね。中国に限らず、どこでも起こり得るだろうと思われるだけに、怖いです。それに、ここのサウナ、性サービスを提供してるのだったら、用心棒くらい置いてないのかしら。現実的には、そんなところ少ないのかな。
そして最後は若い青年の物語。製縫工場で働くも、環境は劣悪。友人を頼って都会に出るも、少しでも賃金のいい方をと選ぶと、華やかなナイトクラブに行き着いてしまう。しかし、どこも現実なんて同じ。下品な金持ちオヤジが威張っているだけ。同じクラブの女性とほのかに恋愛するも、彼女だって性サービスの提供者。そのジレンマに加え、逃げて来た製縫工場からの追っ手、きちんと送金したのに母親からの「無駄遣いしてるんじゃないの」の叱責の電話。なんでこんななんだろう。一人で泣く青年は・・・。
つらいですね、気分が悪くなるほど。特に、最後の若者の章はつらすぎました。それでなくても社会は厳しいのに、母親ってどうしてあんなに責め立てるんでしょう。どこまで行ったら「成功」として、文句を言わなくなるんでしょうね。これは、日本の親でも同じでしょうけど。
これらの生々しい話に、微博(ウェイボー)がどうかかわっているのか、私にはよくわかりませんでしたけど、直接的な暴力、間接的な暴力、言葉の暴力。いろんな暴力を描くことによって、人間の本質的な問題は暴力ではないか、歴史はその繰り返しではないか・・・そんなことを言いたかったのではないか、という気がします。
この監督の作品が、本国中国ではまったく公開されていないと聞くに及んでは(監督は”徐々には変わって来ている”と希望を持って語っていましたが)、人ってどこまでも偽善的なんだなぁ、と思いました。そういう私も、自分を押し殺して社会で生きているわけで(どんなにムッとしていても、すぐに営業スマイルが出る自分が怖かったり・・・)、人のことは言えないわけですが。