1930年代末、イタリアのファシズム体制に安穏と追従する男性の悲劇を、華麗でスタイリッシュな映像美で鮮烈に綴った、B・ベルトルッチ監督の絶頂期を飾る傑作の1本。好奇の目にさらされながらも優雅に踊る女同士のダンスシーン、雪の降り積もった森での暗殺シーンなどベルトルッチと名匠ビットリオ・ストラーロのコンビが描く映像美も見どころ。日本では72年に劇場公開されており、ベルトルッチ作品の日本における初劇場公開作となった。
13歳の時、友人にいじめられているところを救ってくれた同性愛者の青年に拳銃を発射して逃げ去るという体験をして以来、罪の意識を抱いて大人に成長したマルチェロ。哲学講師となった彼は、けっして異端者になるまいと決め、祖国のファシズム体制に付き従い、プチブルの娘ジュリアと婚約を交わして平穏に過ごすが、ファシスト党から、かつての恩師でパリに亡命したクアドリ教授ら反ファシスト組織の動きを探るよう命じられ……。(wowow ウェブサイトより:一部書き加え)
<2023年11月12日 劇場鑑賞><午前十時の映画祭>
”名作の誉れ高いと聞いているけれども、実は見てない”の類の映画でした。少し長かったけれど、今回見る機会を得て本当に良かった。ジャン・ルイ・トライティニャンは、後から「男と女」を見たくらいで、若い頃をよく知らなくて、「トリコロール 赤の愛」の方が印象に残っていたりしたのですが、今回”常識”や”一般的”であることに囚われた男をうまく演じていて、哀惜を感じさせました。
物語は上にある通り、少年だった主人公が、同年代の男の子たちにいじめられていて(多分男色を見抜かれていた?)、それを見つけた運転手の男性(憲兵かなにかだったかも)に助けられたまでは良かったけれど、この運転手さんも男色で、そこをわかったうえで助けたらしく、少年はそのまま個別の部屋に引き込まれ犯されそうになりました。咄嗟に近くにあった銃を手に取った少年、運転手さんを撃ってしまいます。当然一目散に逃亡。子供ゆえ、捜査の手も伸びず、大きなトラウマを抱えたまま大人になってしまった少年マルチェロ(ジャン・ルイ・トライティニャン)は、優秀ゆえ、世間から浮かないよう万全を期すようになり、体制になびき、世の中の”多数”に含まれることに必死です。それゆえ、ファシズム政権からも重用され、外目には”成功した人生”を送っています。良家の出の婚約者もいます。でも、必死に取り繕っているけれども、トラウマは大きく、また実は本当は男色であることも公にはしていません。でもそれはそれで、人生をそのように送るはずでした。しかし、大学時代の恩師を監視し、それ以上のことを依頼されるにあたっては、恩師の若き妻が魅力的だったこともあり、多少の迷いも生じます。
物事は予想通りには進みません。しかし”普通”になるため政府に盲従しているマルチェロは、時として冷淡でもあります。そして、戦争が終焉を迎え、ファシストだった彼も問責を受けることなく安泰に過ごしていました。しかし
<ここはネバレ>
久しぶりに友人と街を歩いていたマルチェロは、自分が長年殺したと思い込んでいた「運転手」が生きていて、再び少年を口説いている場面に遭遇してしまうのです。錯乱するマルチェロ。思わず、一緒にいたファシスト時代からの友人と「運転手」の二人を指さし、「こいつらはファシストだ!」と大声を出しまくってしまうのです。逃げる友人と運転手。騒ぐ人々。口説かれていた少年と一緒に座っているマルチェロ。映画はジ・エンドです。
<ネタバレ終わり>
悲しいですね。少年マルチェロは悪くない。彼に手をかけようとした大人が悪いのです。かわいそうに。いっそバレて「君は悪くないんだよ」と言ってもらえた方が楽だったかも。彼は、父親が精神病院に入院しているとか、母親には情婦がいるとか、そういうバックグラウンドがあったから、「自分はおかしいのかも」と思ってしまったのかもしれないです。時代が時代だけに、そこに居場所を見つけてしまった。価値観揺らがないから、ある意味自分を偽りやすいでしょうし。こんなトラウマ、想像できないです。名作と言われるだけのことはあると思いました。
しかし、これは私だけかもしれないけれど、今見ると、ジャン・ルイ・トライティニャンとマルチェロ・マストロヤンニって、雰囲気似てますね。そんなことないか(笑)。いつも帽子をかぶっていたのと、名前がマルチェロだったからかな。マストロヤンニの方が濃いかな。つまらないことをすみません(笑)。