「俺」って何者だろう。
「俺」は、「自分」に置き換えてもいい。
「自分」とは何者だろう。今、ここで、こうしているのは、どうしてだろう。
今、仕事はうまくいっていない訳ではないが、よいというのでもない。それなりにやっているつもりだ。しかし、この仕事は本当にやりたかった仕事ではない。本当にやりたかった仕事はあったのだが叶わなかった。いろいろ事情があったのだ。
しかし、こうしているこの現状は、自分の実力以外ないのであるから仕方がない。
多くの人が、こういう思いで生きているのだろう。
いつか、もっと本来の自分を取り戻そうという密かな思いと、それでもそんな日は来ないかもしれないという思いをしのぎ合いしながら、日々の日常を送っているのだろう。
*
「俺俺」 星野智幸著 新潮社
あるとき、俺は、ことのはずみで他人の携帯電話を盗んでしまう。携帯の履歴から、携帯の持ち主の母に、ふと電話してみる。その母親は、電話した自分をすっかり息子と思いこんでいるようだ。彼はいたずら心で、オレオレ詐欺のようにその母親に金をせびり、振り込ませる。
ある日、仕事からアパートに帰ってみると、知らないおばさんがいた。
俺は驚くが、そのおばさんは携帯の持ち主の母親で、俺のことを息子と信じて疑わなかった。俺は、そのおばさんの前ではその息子となり、違った名前となった。それならそれでいいやと、そう振る舞った。
俺は、違った俺になった。
違った名前で、違った実家があり、違った親がいた。それでも、俺は俺だった。
本来の自分を確かめようと、もう滅多に帰っていない自分の実家に寄ってみた。
家から出てきた母親は、俺の顔を見ても息子とは思わず、息子だと言う俺を他人の嫌がらせと思い、追い払ったのだった。家の中からその家の息子なるもの、つまり俺のはずの男が出てきた。その男は、顔は俺とは微妙に違うのだが、確かに自分、つまり「俺」だった。
向こうの男も、俺を「俺」と気がついたようだった。
こうして、俺は別の「俺」と、人知れず仲よくなり、会うようになった。
俺は、仕事でも上司とうまく行かなくなり、不安定な立場で生きている。どうしてこうなったのだろうと、もがいてみる。
鏡の顔を見て、おまえは誰だと叫んでみる。
そうすると、おまえこそ誰だという返事が戻ってくる。
俺は、自分がどこにいるのか惑っている感覚から抜けきれないまま、仕事を続ける。
そのうち、もう1人違った学生の「俺」が出現する。俺は3人になる。
俺は、「俺ら」で会っているときに、安堵を覚える。何しろ3人とも環境は違い、違う悩みを抱えているのだが、違うとはいえ3人とも「俺」だから、何となく分かりあえるのだ。
しかし、その関係も長く続かない。俺たちは、互いに非難しあうようになったのだ。どれも「俺」なのにだ。
「俺ら」は、少し距離をおくようになったが、あるとき憎んでいた上司が「俺」と気がついた。それどころか、そのうち蔑んでいたやつも「俺」だった。何ということだ。
こうして、「俺」が、あらゆるところで増えていった。
愛らしい俺、憎たらしい俺、意気地のない俺、どれも「俺」だった。
小説「俺俺」は、社会の中でもがく俺は何なのだと問いかける。
社会の中で、いつしか孤立しながら生きていく俺は、俺と同じ「俺」を求めて、俺と違った憎らしい「俺」に会い、落ちこぼれている「俺」に同情し、お互い傷つけあって、蠢く「俺」の中に埋没して生きているのが、現代の「俺」たちだろうか。
*
「自分」って何だろう。
身近にいる他人が、それも嫌いである他人が、蔑んでいる他人が、自分であったとしたら、こういう思索で自分を捉えてみると、違った世界が現れてくる。
様々な自分がいるのに、うんざりする。
他人の生きざまを見ながら、自分とは何者か?と、
人は、鏡に映った自分に、こう問いながら生きていく。