かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

□ ダウンタウンに時は流れて

2010-10-03 16:26:24 | 本/小説:日本
 多田富雄著 集英社刊

 人はいつしか自分の人生を振りかえるときが来る。
 振り返り、そこに甦るものは、返らない自分の人生の一こまである。確かにあったものだけど、今はどこにもないもの。もう、記憶の中でしか見いだせないものである。しかも、自分の中にしかないものである。

 「私はこの『ダウンタウンに時は流れて』という自伝的エッセイ集のなかで、私の「青春の黄金の時」を思い出した。それも、涙でキーボードが何度も見えなくなるまで、切実に思い出した。すると、回想の魔術が、あのダウンタウンを目前に現出させたのである。
 ぼろ車で、毎日通った夕暮れの町。得体の知れない幻を追いかけてうろつきまわった、あの情熱は一体何だったのであろうか。しかし今になってそれが、若さ故に奇跡的に現出した「私の黄金の時」であったことに改めて気づくのである。」

 「回想の中で、町はきらびやかな光をまとっていた」と、著者は書いている。
 著者の多田富雄は、1934年生まれの免疫学者で東大名誉教授。現在脳梗塞を煩い、半身不随の身でベッドにいる。
 もう二度とアメリカはおろか、近くにもさまよい歩くことができなくなった老学者が、若き日に過ごした町を鮮やかに甦らせた。
 「ダウンタウンに時は流れて」の中で描かれている話は、著者が1964年、医学部大学院を卒業したあと、アメリカのコロラド州のデンバーに留学したときの、見知らぬ町での瑞々しい生活の記憶だ。ここで甦らせた40数年前の記憶は、まるで昨日の出来事のようだ。そのとき彼は30歳であるが、それは青春のただ中であった。
 1964年といえば、日本では開催間際の東京オリンピックに湧いていたときである。その一方で、アメリカの西部の都会では、そんなお祭り騒ぎはどこ吹く風と、静かな夏が過ぎようとしていた、と著者は述懐する。

 ロマンチックな「春楡の木陰で」というタイトルの章では、彼のデンバーでの間借りした家の老夫婦との生活、一人で夜の町中に出かけていき、いつしか常連客になったカントリー音楽を奏でているバーの生態などが、活きいきと描かれている。
 それは、実際起こった思い出というより、小説の中の物語のようだ。

 「折しも流行っていた「ダウンタウン」という歌のリフレインを、今宵ばかりの殷賑(いんしん)を誇るナイトクラブの楽団がけだるく繰り返す声が、妙に懐かしげに町に響いた。それを思うと、私の胸は今でも張り裂けんばかりに、その音を慕うのだ。」

 誰でも、その時代が甦る歌というものがあるものだ。それも、青春の面影をもたらしてくれる歌が。
 彼がしげく通ったデンバーの町を追いかけるように、リフレインされる当時流行ったペトゥラ・クラークの「ダウンタウン」という歌声。日本でも、「恋のダウンタウン」というタイトルで流行した。
 本のページの間から、町が浮かび、歌声が聞こえてきそうだ。
 著者の浮き浮きとした遅れてきた青春が、まるで自分のことのように想像を膨らませる。この学者に、こんなアメリカ生活があったのかと、驚きと新鮮な感慨に打たれる。
 僕はデンバーには行ったことがないけど、その町が、そしてそこに住まう人々が、懐かしい風景のように思い浮かびさせるのは、著者が奇跡のように青春を甦らせたからだろう。

 当然のことだが、誰にでも青春はある。そして、それはどのような日々であれ、活きいきとした回想の文を読むのは、著者と一緒に過去を旅しているようで胸が熱くなる。
 金子光晴の「どくろ杯」3部作の時もそうだった。壇一雄の「火宅の人」も、多くが自伝に基づいているから、本の間から息づかいが聞こえてくるのだろう。
 作家が晩年を自覚した時、自分を振り返って書いた自伝的小説は、自分をさらけ出して清々しさを与えることが多い。最近、団鬼六、勝目梓等、異色の分野から純文学風の自伝的小説が目につく。

 誰にでも青春がある。
 その時代が、とてもいとおしくなるときが来る。
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