かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

楽しくも切ない、君の友だち「横道世之介」

2013-03-14 03:43:30 | 映画:日本映画
 その日の朝方、夢の中に世之介が出てきた。
 井原西鶴の「好色一代男」の世之介ではなく、そう、横道世之介がである。高良健吾の世之介である。
 夢の内容は、場所は野球場だった。その野球場は、外野がどこまでも遠く広がっているのに、内野のダイヤモンドが子どもの頃の原っぱでやった三角ベースボールのように極端に狭く小さいのだ。僕ら(数人いた)は「なんだ、なんだ」と言いながら、その狭い内野を拡げようと、なぜかバケツに水を汲んできて水をグランドに流しているという、夢らしく辻褄の合わないものだった。
 夢の中で、世之助は首を大きく振りながら、「うん、うん」と頷いていた。
 
 僕は、その日、映画「横道世之介」を観に行こうと思っていた。夜、布団に入ったまま「横道世之介」の本を読みながら、途中で眠ったのだった。
 まだ映画を観ていないのに、夢の中のその男が世之介だと知っていたのは、テレビで流れる「横道世之介」の映画宣伝を見ていたのと、数日前に観た映画「南極料理人」(監督:沖田修一)で、高良健吾が出ていて、この男が世之介を演じるのかと思って観ていたから、世之介イコール高良健吾と知っていたのである。
 それに、野球場が出てきたのは、最近WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の試合に熱中していたからかもしれない。
 世之介とWBC、よくできた夢とはいえ、われながら単純な潜在脳思考だ。

 去年のことだが、「横道世之介」が映画化されるという情報記事で、監督が沖田修一とあったのを見て、映画「悪人」(監督:李相日)では脚本に参加しているので、原作者の吉田修一が監督をやるのだと思った。というのは、吉田修一が実名では照れくさいので、一字変えた名前にしたに違いないと勝手に思ったのだ。れっきとした監督の沖田修一に失礼な思いをしてしまった。
 それにしても、原作、吉田修一、監督、沖田修一とは、よくできている。
 映画で、世之介が祥子に初めて会ったとき、「横道世之介」と名を名乗ると、祥子は「素敵なお名前、韻を踏んでらっしゃるのね」と爆笑する。原作者と監督も、祥子に倣えば韻を踏んでいる。

 映画「横道世之介」を観るにあたり、最初に原作が発売された時は本を手にしながら読まなかったので、急いで文庫本を買って原作を読み始めた。
 映画は、「新宿ピカデリー」に観に行った。新宿で映画を観るのは久しぶりだ。
 原作はまだ読み終わっていなかったので、新宿に向かう京王線の中で、最後の数十ページを読んだ。

 新宿駅東口を降りて、「ルミネ」の入っている駅ビルはかつて「マイシティ」と言っていたなあと思って歩いた。駅から伊勢丹方面に向かう途中、さっき読み終えた世之介のことで頭がいっぱいになったまま、新宿ピカデリーを探した。新宿ピカデリーは、新宿松竹会館のときと違ってまったくあか抜けていて、近くにあるテアトル新宿と間違えてしまった。
 1階の入り口からエスカレーターで3階の受付ロビーに行くと、待合所があり、何人もの男女が椅子に座って飲み物を飲んだりしていて、人がいっぱいだ。チケット売り場と、ドリンク・フード売り場がカウンター式に並んでいて、上映会場入口が別にある。何だか空港ロビーのようだ。
 10スクリーンもあるシネコンで、11階で観ることになった。

 *

 1987年春、横道世之介は大学入学のため、長崎から東京へやってくる。
 冒頭、新宿駅東口に出てきた世之介の前に、斎藤由貴のCM看板が目に入ってくる。彼女は、この時代のアイドルだったのだ。最初ちらと見たときまさかアイドルの本人が踊っているとは思わなかった世之介だが、実物の本人が踊っている。この何気ない情景に、世之介は長崎の地方と東京の違いを見る。
 「横道世之介」(原作:吉田修一、監督:沖田修一、出演:高良健吾、吉高由里子、池松壮亮、伊藤歩、阿久津唯、綾野剛)は、地方から上京した大学1年生の1年間の物語である。
 映画は原作に忠実に描かれていると言っていい。
 往々にして、映画より原作の方がイマジネーションがわくので、映画には物足りなさを抱くのが多いのだが、この物語に関しては原作の世之介と映画の世之介(高良健吾)があまりにもマッチしているので全く違和感がない。それどころか、彼以外にこの役に合うのはいないのではないか、吉田修一は高良健吾を頭に描いてこの主人公を描いたのではないかとさえ思うほどである。

 桜の咲く季節、武道館で行われた入学式。原作者である吉田修一の母校である法政大学が世之介が入学した大学だ。
 この入学式から、世之介の大学生活が始まる。会場で、偶然隣に座った倉持一平(池松壮亮)が話しかけてきたことで、最初の友だちになる。
 市ヶ谷のキャンパス。教室で、ガイダンスのとき、横に座った朝倉あき(阿久津唯)、勘違いから友だちになる加藤雄介(綾野剛)と、友好関係は広がる。
 なりゆきで倉持や朝倉と一緒にサンバサークルに入った世之介だが、自動車教習所通いやホテルでのアルバイトと忙しい学生生活を送る。貧乏な学生生活だが、世の中はバブル最盛期だ。
 そんななかで、謎の魅惑的な年上の女性片瀬千春(伊藤歩)に憧れる世之介だが、お嬢さまである与謝野祥子(吉高由里子)と付きあうことになる。

 どこにもないようで、どこにでもあるような学生生活。
 初めて体験する都会の華やかさと、ついこの前まで暮らしていた素朴な田舎とを行き来する、ほのかなバランス。
 確かに、あのように恋は始まったなあと思いだす、学生時代の切なさとあやふやさが織り交ざった恋。
 設計図など全くなかったそれまでの人生に、これから自分はどのような道を進むのかの蕾が生まれた十代の慌ただしく過ぎていく生活が、生きいきと描かれている。
 確かに学生時代は、このように生き生きしていたし、苦しくとも、おそらく楽しかったのだ。

 大学入学から16年後の2003年。
 みんな、30代のいい大人になっているし、各々違った道を歩いている。
 同級生の朝倉あきと「できちゃった婚」をした倉持は、娘の恋愛で悩んでいて、あきは「今日近くに行ったので大学に行ってみたら、大きなビルが建っていた」と驚く。そして、2人で、世之介のいたサンバサークルの清里合宿のことを思い出す。
 友人か恋人かと思える男とワインを飲んでいる同性愛者の加藤は、今日ふと雑踏のなかで世之介のことを思い出したと言って、語りだす。「あいつと知り合っただけで、だいぶ人生得してる気がするよ」と。
 長崎にいる世之助の母から、祥子に手紙が届く。そこには、「与謝野祥子以外、開封厳禁」と書いてある別の包みが同封してあり、開けると数枚の写真が入っていた。

 2003年の祥子は、発展途上国を飛び回ってNPO活動を行っている。
 友だちの娘から、初めて好きになった人は、と訊かれて、「普通。普通すぎて笑っちゃうぐらい」と答える祥子は笑いながら思い出す。そして、その帰り道、祥子は雑草の中で、ぎこちなく慌てふためいている2人の姿を見つけ出す。それは、スキーで骨折して入院していた祥子が退院した日に、松葉杖で世之介と初めてホテルに行く姿だった。
 その姿を見つめる祥子の目には、涙がたまっていた。

 世之介の大学生活に、ときおり現在である16年後の2003年の映像が挿入される。
 原作も映画も、すべて巧みに布石が打ってある。
 全編、楽しいのだが、それは哀しみに集約される。それは、青春とはそういう意味だからだろうか。
 ダルビッシュから筋肉をそぎ落とし、少し小さくしたような感じの高良健吾が、明るく前向きな学生、横道世之介にぴったりとはまっている。
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