かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

戦後、最も強い男は?「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」

2012-08-06 01:59:07 | 本/小説:日本
 今年(2012年)のロンドン・オリンピックの柔道は、男子はついに全7階級で金メダルがゼロに終わった。女子は、57キロ級の松本薫の1個である。
 このことは、日本の柔道が初めてオリンピックの正式種目となった1964(昭和39)年の東京大会から予測されていたことなのかもしれない。
 当時は、まだ世界各国で柔道があまねく広がっていたわけではないので、この東京オリンピックから行われた、軽・中・重・無差別級の4階級制において、日本のメダル独占はある意味で当然視されていた。
 それまで、本来無差別で闘うべきという柔道(武道)の考えに基づき、国際大会でも無差別級のみで闘われていた。そんななか、1961年の第3回世界柔道選手権大会でオランダのアントン・ヘーシンクが優勝するなど、日本の実力者を打ち負かす男が現れた。
 体重別階級制となった東京オリンピック大会では、最強と思われていた無差別級に出場するヘーシンクに日本人の誰をあてるかが議論された。そして、日本の実力第一人者である神永昭夫が対戦することに決まる。
 このとき、本気とも冗談ともつかず、木村政彦をあてたらどうだろう、という話が出たという。当時、木村は全盛期をとうに過ぎていて47歳。
 この第1回となる柔道のオリンピック大会の無差別級で、日本が負けたことによって、つまり金メダルを逃したことによって、柔道は新しい国際化の1ページを刻むことになる。

 * 

 戦後日本で、一番強かったのは誰か? 戦後、最も人気があったのは誰か?
 強くて人気がある、この二つに該当する人物に、まず力道山の名があがるのは間違いないだろう。昭和30年代、テレビの普及と同時に、プロレスラーの力道山は日本のお茶の間のスーパースターだった。
 この力道山に対峙した男として木村政彦なる男がいたということは、人々の記憶から忘れ去られようとしている。
 木村政彦は、実際は力道山より強かったと言う当時の関係者は多いという。その木村政彦とは、何者なのか? 

 「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」(増田俊也著、新潮社刊)は、木村政彦の一生を追った書である。それにとどまらず、古流柔術から柔道への流れ、そして日本におけるプロレスの誕生にまつわる揺籃期を、数多くの資料や文献を渉猟しつつ解き明かした書である。
 上下2段組み、700ページに及ぶこの本を読むことで、格闘技上の伝説的人物ともいえる、講道館を開いた嘉納治五郎、柔道界の鬼の牛島辰熊、柔道界最強の男と言われた木村政彦、相撲界からプロレスラーとなった国民的スター力道山、空手の大山倍達などの、知られざる実像が浮かびあがってくる。

 木村政彦は柔道家である。戦前に展覧試合をはじめ数々の柔道選手権を制覇し、戦後も「鬼の木村」と言われ、日本一の実力者と誰もが認めていた男である。そして柔道のプロとなるがうまくいかず、アメリカやブラジルに渡り、すでに人気が出ていたプロレスをやることになる。帰国した後、まだプロレスが根付いていない日本でもやり始める。
 そんな時期、人種差別という不満を持って相撲界を飛び出した力道山も、プロレス界に活路を見出そうとしていた。
 ほどなく、柔道から出てきた木村政彦と、相撲から出てきた力道山という2人の怪物が、プロレスという舞台で出会うことになる。

 1954(昭和29)年、あの日本中を沸かせた、シャープ兄弟とのプロレス日米対決という図式のタッグマッチの闘いが行われることになる。
 この試合は東京はじめ全国で14連戦が行われ、これによって日本にプロレスブームに火がつくことになるのだが、日本人は力道山だけが有名だが、実は大半が木村政彦とタッグを組んでいる。あと、一部試合を山口利夫、遠藤幸吉と組んでいた。
 その理由は、そのころ力道山より早くプロレスを始めていた木村政彦と山口利夫、とりわけ木村の人気と実力をこの大興業としては無視できなかったのだ。その当時は、木村政彦の方が力道山より格上だったと記されている。
 当時の日本人はそう思っていなかったが、プロレスはショー・ビジネスである。だとすると、筋書きが決まっている。どちらかが一方的に勝って終わるのでは、盛り上がらないし、試合もすぐ終わったのでは高い入場料を払った客は納得しない。試合としては、シーソーゲームの末に片がつくのが一番面白い。大体が、3本勝負のうち、日本組の2勝1敗か、1勝1敗1分けというシナリオである。
 ということを踏まえて、アメリカでも人気だったシャープ兄弟との試合の興業が力道山側にあったので、どうしてもメインを力道山がとることになり、実力者とはいえ木村は負け役を背負うことになった。
 本書による、そのときの記録を記すと以下になる。
 <14連戦の全成績>
 木村政彦 4勝8敗2分け、力道山 12勝1敗
 <タッグでのシャープ兄弟戦>
 木村政彦 1勝8敗、力道山 12勝1敗
 木村の4勝のうち3勝は日本人(遠藤、清美川、駿河灘)相手で、タッグでのシャープ兄弟戦では、木村の地元熊本戦で1勝させてもらった以外は、全敗である。これでは、木村が力道山の引き立て役になったと言わざるを得ない。

 このシャープ兄弟戦以後、世間における2人の人気と格は明らかに逆転する。
 このイベントを期に、力道山は一気に金と名声を得て、国民的スターに駆け上がる。
 その後、木村政彦は地元熊本でプロレスの団体を起こすがうまくは行かない。シャープ兄弟戦以後、評価を落とした木村は、歯がゆい鬱積した思いをつのらせる。
 こうした鬱憤の中で、「真剣勝負だったら力道山には負けない」という木村の思いと発言で、2人は勝負をすることになる。事前に試合に対する取り決めが行われ、2人だけの念書もあったとされる。
 そして、ついに昭和の巌流島と称される1954(昭和29)年12月22日、力道山対木村政彦の試合が行われる。61分、3本勝負。
 木村にとって人生を決した試合は、木村の思いとは全く違った形で、一方的に15分49秒で終わる。木村の無残な完敗。そのとき、木村は37歳、力道山は30歳。
 その試合後から、力道山に負けた男というレッテルを貼られた木村の恩讐に似た苦悩の人生が始まる。再戦か、それがかなえなければ刺し殺してやる、とまで木村は思い詰める。

 その後、絶頂にあった力道山は1963(昭和38)年、永田町のナイトクラブ「ニュー・ラテンクォーター」で、愚連隊風の男に腹部を刺されたのが原因で、39歳であっけなく死亡する。
 木村政彦は、力道山に対する復讐を果たせないまま生き続け、1993(平成5)年、75歳で癌で逝く。

 「木村政彦は、本当に負けたのか?」
 この真相を追って、著者の増田俊也は膨大な資料から、長い紐を辛抱強く手繰っていく。
 この本には、なるだけ客観性を持たせようと燃える炎を抑えようとする筆者の心が見えるが、木村政彦に対する愛が溢れている。そして、柔道に対する愛に満ちている。
 日本の柔道、プロレスを知る力作である。

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6 コメント

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Unknown (パンサーマスク)
2012-08-08 16:41:03
Why?
怨み重なる対象であった力道山が突発的とはいえ死んでしまったからではないでしょうか?強者であり勇者であるはずの男が、ある種嘲笑を伴う実にヘンテコリンな死に方をした。
然るに、木村は溜飲を下げ75歳の長寿を全うしたのかもしれませんね。
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Unknown (仮面ライター)
2012-08-08 17:32:29
味方(日本タッグ)がボコボコにやられているところへ、正義の味方ヒーロー登場!悪人どもを懲らしめて形勢逆転の勝利へ。こうして大衆のカタルシスの消化へと繋がる筋書き。これ水戸黄門や日活アクション映画、特撮ヒーロー戦隊などとそっくりですね。映画やドラマの世界では斬られ役悪役の役回りが存在するのは常識。
そもそもプロレスがお芝居であることを理解できないのはTVの前の子供か、それ並みの知性の大人であろう。別の視点からすれば、木村政彦は大人気ないとも言える。
もっとも最近では八百長相撲が話題になりましたが、こちらは大人の事情で談合というか裏金が動いていたのだけれども…。
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木村の無念 (おきゃどー)
2012-08-09 01:04:50
>パンサーマスク様

力道山が急死したことで、木村政彦は溜飲を下げたのではないようです。
この本によれば、木村は、力道山を刺して自分は割腹自殺する気持ちで、しばらくは短刀を持ち歩いていたとあります。
復讐する機会を永遠に失った、つまり自分の名誉を回復する機会を失った、という空白感を抱いたまま、木村は生き続けたようです。
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力道山対木村政彦の試合は? (おきゃどー)
2012-08-09 01:09:23
>仮面ライター様

プロレスがショーであることは、木村も当事者ですからわかっていました。
しかし、プロレス誕生の当時は、見る側、つまり国民の大半(大人も含めて)が、それがショーか真剣勝負か半信半疑の気持ちで、理解していなかったのです。
テレビでプロレスを見ていた老人が倒れて、話題(問題)になったこともありました。

木村が大人げないと言えばそうですが、そのことが力道山との対決試合になり、木村の結果的な敗北につながるのですが…。
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Unknown (萌えよ!ドラゴン)
2012-08-09 03:02:47
昔、会社の同僚で、学生時代に少林寺拳法やっていて有段者だった者がいました。
私、彼に訊ねました “喧嘩の場では少林寺が最強かな?それとも琉球空手?”と。彼曰く“鉄砲持ってる奴が一番強いよ。譬え相手が武道ド素人のお兄ちゃんでも、金属バットや工事現場の鉄パイプ振り回されたら、少林寺では勝てないよ。”と。たたみ込んで私は訊きました “だってジャッキーチェンやブルースリーは、武器携えた暴漢の攻撃を俊敏にかわしてやっつけちゃうじゃん。”と。“だ・か・ら…、それがカンフー映画なの…。俺がそんな場に巻き込まれたら、即逃げて交番に駆け込むよ。”と彼は言うのです。
TV映画スポーツ界で馴染みの勇者って現実にはそれほど強者ではないらしいです。やはり道具なる利器を使用する人間が最強ということみたいですね。
本ブログを拝見、力道山の死についてふと思いを馳せました。当時、私は中学生でした。
このブログに投稿する人、ペンネームはオヤジギャグ的駄洒落が多いですね。慣例みたいなので、では私も。
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力道山と木村政彦 (戦後史の激動)
2012-08-28 12:16:06
「力道山と木村政彦」で私もブログに書きました。今後ともよろしくお願いします。
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