goo blog サービス終了のお知らせ 

かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

10. 南仏プロヴァンス、ラコスト

2005-09-16 23:02:52 | * フランス、イタリアへの旅
<2001年10月7日>ラコスト
 計画のない旅がいいのは言うまでもない。その日の夜に、翌日の行き先と列車を決める。そんな気ままな旅をしているものが、はずせない時間を決めて計画に従おうとしたときに限って、思わぬことが起こるものだ。
 昨晩カルカッソンヌから、プロヴァンスのラコストに住んでいる彫刻家の永井氏に電話をして会うことになった。
 永井氏は、鎌倉書房のパリ駐在員であった奥さんの佐久間さんと長い間パリに住んでいた。そして、20年ほど前に、プロヴァンスにアトリエと居を移した。私は佐久間さんを仕事を通して知っていて、永井氏は佐久間さんを通して知ったわけだ。私が1974年初めてパリへ旅したとき、一度パリのアパルトマンに伺ったことがある。
 ポールもパリを離れて彫刻家と田舎に移り住んだ。しかも、地域は違えども同じ地名のLacoste(ラコスト)だ。

 朝ホテルを出て、カルカッソンヌの駅に7時50分に着いた。8時05分発のナルボンヌ行きの列車に乗る予定である。ナルボンヌは地中海に面した街で、スペインのバルセロナ方面から南仏プロヴァンス、コート・ダジュール方面を結ぶ列車との接続駅である。ナルボンヌでアヴィニョン行きに乗り換えて、永井氏と約束しているアヴィニョンの駅に10時40分に着く予定だ。
 駅の構内の表示板を見ると、私の乗る列車のところに「Retard 30m.」と記されている。私は嫌な予感がした。30分遅れである。ナルボンヌ駅での接続時間は20分である。これでは約束の時間に間に合わない。まだ永井氏は家を出ていないと思い、永井氏宅に電話し、電車が遅れている旨を告げ、時刻表を見てアヴィニョン13時51分着にと変更した。これだったら余裕がある。
 トゥールーズ、パリ方面からの列車は軒並み遅れているようだ。何か事故があったに違いない。トゥールーズでは、私がフランスに入国する直前の9月21日に化学工場が爆発するという大惨事が起こっている。テロではという疑惑が起こっていた。しかし、こちらの駅員は列車の遅れに対して、何の説明もしない。
 30分待ってもまだ列車は来る気配はなく、表示は50分遅れになった。そして、あっという間に表示は1時間30分遅れと変わった。ナルボンヌ行きの次の列車のパリ発ディジョン行きのTGVも50分遅れである。私の乗る予定のナルボンヌ行きの表示が2時間遅れと変わるや、私は冷や汗が出た。これでは、遅らした時刻にも間に合わない。
 私は、50分遅れでホームに滑り込んできたディジョン行きのTGVに飛び乗った。TGVはアヴィニョン駅には停まらないが、途中のニームには停まる。私は、とりあえずニームまで行った。ここまでくれば、もうアヴィニョンはすぐだ。

 ニームの駅で降りた。次のアヴィニョンに行く列車まではあと1時間ある。
ニームは古い街である。フランス最古のローマ都市で、ローマ帝国の遺跡がいくつも残っている。駅を出ると静かなプラタナスの並木道が続き、突き当りがシャルル・ド・ゴール広場だ。
 日差しの強さが、ここが南仏であることを教えてくれた。公園の中心に、ギリシャ彫刻のような人と獅子の口から水が噴射しているプラディエの泉がある。私は公園の隅にあるベンチに腰を下ろして、さっき買ったパンをかじった。隣のベンチには、何もするあてもないといった風情の中年の男が身動きもせず黙ったまま座っていた。私たちの座っているベンチの奥には、乗り手のいないメリーゴーランドがあり、その先にはローマのコロッセオとも見まがう古代闘技場が見えた。
 隣の男もメリーゴーランドも、途方に暮れているように見えた。何かから置き去りにされて、すでに半ば諦めているようにも、かつてあったかもしれない栄光を恨んでいるようにも思えた。

 私は、メリーゴーランドに出合うと、吸い寄せられるようにそこへ行ってしまう。そして、パブロフの犬のように、いつも子供の頃を思い出す。
 子供の頃、長い休みのたびに祖父母のいる福岡県の大牟田市に行った。私が住んでいた佐賀の田舎町から大牟田の祖父母の家へ行くには、最寄りの駅から国鉄(JR)で佐賀駅まで行って、佐賀からバスで柳川まで行き、そこから西鉄電車で大牟田の倉永まで行き、そこから15分ほど歩いて祖父の家に着くという道のりだ。
 いや、私の子供の頃は、佐賀駅から今では廃線になった佐賀線で瀬高(福岡県)まで行き、そこで鹿児島本線に乗り換え大牟田の倉永に行った記憶がある。佐賀線とは、佐賀・福岡両県を分ける筑後川に架かる、日本で初の昇降鉄橋があるので知る人ぞ知る線だ。
 小学校低学年までは父や母に連れられて、それ以後は一人であるいは弟と一緒に、汽車とバスと電車を乗り継いで行った。初めて一人で行ったときには、ちょっぴり大人になったような誇りと同じぐらいの緊張感があった。
 大牟田の中心街にある松屋デパートの屋上には、回転木馬のメリーゴーランドがあった。それに乗るのとお子様ランチを食べるのが楽しみだった。それは、子供の私たちにとって、最高の贅沢であり喜びだった。
 今、メリーゴーランドは寂しい。人がそれに歓喜する時代は短く、すぐに忘れられてしまう。いや、メリーゴーランド自体が公園から消え去ろうとしている。少なくとも、日本では絶滅種族のように滅多に目に入らなくなった。だから、ヨーロッパで、特にフランスで生き残っているのを見つけると、私はにじり寄ってしまう。昨日行ったカルカッソンヌの城壁の中にも、メリーゴーランドはあった。

 アヴィニョンの駅で永井氏と無事会うことができた。永井氏の車で、ラコストの家へ向かった。田園や林が一面に広がっている。かつて、ピーター・メイルの『南仏プロヴァンスの12か月』という本が日本でも話題になったが、まさにその舞台がこの一帯なのだ。恵まれた気候と肥沃な大地。それに、ワインも採れる。ここでは都会の雑踏とは無縁ののどかな時間が流れている。
 ラコストは白い石が採掘されるというから、彫刻家の氏にとっては格好の場であろう。石切り場の横には、氏の作品である壮大な石の彫刻が鎮座していた。村をあげての開陳の日には、ピエール・カルダンもやって来たという。
 ラコストは、18世紀にはあのサド侯爵が領主を務めていたという。近くにサド侯爵が住んでいた城があるというので見にいった。城は、手入れされることなく荒廃していた。しかし、かろうじて昔日の栄華を想起させる崩れ落ちた石垣は、風に吹かれて時の流れをあざ笑っているかのようであった。
 
 その日、奥さんの佐久間さんの息子夫妻が日本から来たところだった。日本から持ってきたという新聞を見せてもらい、12日ぶりの日本の情報を知る。
 その年大リーグ・デビューしたイチローは、変わらず3割5分台で打率首位を走っていた。
 こんな小さな村にもホテルがあった。ホテル、キャフェ・ド・フランスは、親父さんが一人でやっている鄙びた旅籠だ。今夜の客は私一人のようだ。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 9. 城の街、カルカッソンヌ | トップ | 11. マルセイユの夢 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。

* フランス、イタリアへの旅」カテゴリの最新記事