
デヴィッド・フランケル監督 メリル・ストリープ アン・ハサウェイ エミリー・ブント スタンリー・トゥッチ エイドリアン・グレニアー 2006年米
自分のなりたい職業に就ける人は僥倖である。すんなり就ける人は、滅多にいないと言っていい。
なりたい職業、仕事に就けなくても、人はそれなりにそれに近い環境を求め、それに近い仕事に就くものだ。そして、いつしかそこから脱却しよう、あるいは階段を上がり、自分のいるべき場所に行き着きたいと思う。
ジャーナリストになりたいと思っているアンディー(アン・ハサウェイ)は、期せずして有名なファッション誌の出版会社に勤めることになる。彼女は、あくまでもジャーナリスト志望だから、ファッション誌に携わったからといって、ファッションが好きなわけでもない。しかし、それはジャーナリストへの第一歩である、と考えている。
仕事は、業界でも顔で発言力のあるカリスマ編集長のアシスタント。
そのカリスマ編集長ミランダ(メリル・ストリープ)は、悪魔のような女性だった。仕事の命令はおろかプライベートの指図も、絶対守らなければいけなく、それが守れなくて辞めたアシスタントは数知れないのだった。
ミランダは、分刻みの生活をしていて、仕事の指示は的確で、1度言ったらそれ以上言わないので、それを聞き逃してはならないのだった。どんな無理難題でも、できないとその瞬間から落第、無能の烙印が押されるのだった。それは、例えコーヒー一杯でも、言われた時間に彼女の前に持っていかないといけないのだった。
ファッション雑誌は、企画、取材、撮影、デザイン・レイアウト、コピー(ネーム)、編集ページ構成、と次々と仕事の流れが押し迫ってくる。雑誌の発売日は決まっていて、締め切りは固定されているので、そうそう仕事は延ばすことはできないのだ。
それでも、編集長が気に入らない取材や撮影をしてきたら、やり直しの命令が下る。30万ドルの経費をかけて、撮り直すこともあった。そのことに何の意味があるかと、問うてはならない世界なのだ。
ファッションとは無縁の野暮な服装をしたアンディーは、我慢と忍耐をしてミランダについていく。華やかな世界の裏では、過酷な競争が渦巻く世界であった。
やがて、彼女の平凡でチープな服装もブランドものに変わり、仕事のスピードにも馴れていく。
そして、ついに、編集者として認められたとも言える、編集長ミランダと一緒にパリ・コレクションの取材に同行することになったのだった。
原作は、ファッション雑誌「ヴォーグ」の編集アシスタントだったローレン・ワイズバーガーの体験をもとにした同名小説である。
*
「サン・ミッシェルの新しいホテルで目を覚ました。外は少し騒がしいが、この喧噪さはこの街の特徴でもある。窓の外を見ると、絹のような細い雨が降っている。
午後は、多くのオートクチュールの店が集まっているフォーブル・サントノーレへ行った。 数々のクチュリエやクチュリエールが生まれ育ったところだ。
出版社に入社したて、私はファッション誌に配属された。春と秋のパリ・コレクションが発表される時期には、今シーズンのサン・ローランはどうの新しいシャネルはこうのと、編集部はいつも大騒ぎだった。その頃、私はフォーブル・サントノーレなどは別の世界のことと思っていた。
オートクチュールの高級店が並ぶフォーブル・サントノーレを歩いたが、やはり私には身近な存在には思えなかった。」
――「かりそめの旅」(岡戸一夫著)第1章「初めての旅、パリ」より
僕もまた、「プラダを着た悪魔」の主人公アンディーと同じく、学校を卒業すると、ファッション誌の編集者として出版社に勤めることになった。
自分のやりたいことはほかにあったが、そんなことを言ういとまはないし、社会に出たばかりの若造にその実力もない。自分のやるべき仕事は別のことだと思いながら、僕はファッション業界の中に身を委ねていた。不満はどこにでもあるものだ。また、それがエネルギーに転化する場合もある。
「1968年」が学生運動の分岐点として、近年若手を含めた評論家の間で論議が華やかだし、この時代を扱った本が何冊か出版された。閉塞感の漂う時代には、活気溢れた時代の、回顧だけではなくそのエネルギーの根源を知りたいのだ。
当時の学生運動の流れは日本だけでなく世界的潮流であったし、1968年、フランスでは学生を中心とした5月革命が起こっている。
学生運動と同時に、この時代は日本のファッションも大きなうねりのただ中にいた。
当時、日本のファッションの牽引者は、ドレメ・文化の2大洋裁学校の先生たちから独立したデザイナーに移りつつあった。すでに森英恵、芦田淳はトップを走っていたし、三宅一生、コシノ・ジュンコ、やまもと寛斎、高田賢三などが若手として脚光を浴びていた。
日本のファッション産業は、オーダーメイドから既製服に急速に移行する過程にあったし、原宿や青山に新しいファッション・スポットであるブティックが生まれていた。
立木義浩、篠山紀信、沢渡朔などが雑誌の写真を撮り、モデルでは沙羅マリエ、トミー武部、丁秀芬、加藤昌代・直代、山中真弓、小泉一十三などが誌面を飾った。(写真)
編集室は、撮影のための服や小物で埋まっていた。
日本のファッション出版業界も、スケールの違いこそあれ、この映画「プラダを着た悪魔」の世界に近い。
編集長のひと言で、撮影の取り直しが行われたし、ストレスや過労で辞めていった人も多い。鬼の編集長とて、販売部数の動向には気を張り巡らした。
また、春秋年2回のパリ・コレクションは大きな影響力を持っていた。「パリ・コレ」と、編集スタッフは憧憬を滲ませて語った。シャネルもサン・ローランも、別世界のスターだった。
ファッションは、成熟していなかったにせよ、今どきの「カワイイ」と表現されるほど幼稚ではなく、社会の表象現象であったと同時に文化の担い手でもあった。
と言っても、移りゆき、虚しく流されゆくのもファッションの宿命であった。
自分のなりたい職業に就ける人は僥倖である。すんなり就ける人は、滅多にいないと言っていい。
なりたい職業、仕事に就けなくても、人はそれなりにそれに近い環境を求め、それに近い仕事に就くものだ。そして、いつしかそこから脱却しよう、あるいは階段を上がり、自分のいるべき場所に行き着きたいと思う。
ジャーナリストになりたいと思っているアンディー(アン・ハサウェイ)は、期せずして有名なファッション誌の出版会社に勤めることになる。彼女は、あくまでもジャーナリスト志望だから、ファッション誌に携わったからといって、ファッションが好きなわけでもない。しかし、それはジャーナリストへの第一歩である、と考えている。
仕事は、業界でも顔で発言力のあるカリスマ編集長のアシスタント。
そのカリスマ編集長ミランダ(メリル・ストリープ)は、悪魔のような女性だった。仕事の命令はおろかプライベートの指図も、絶対守らなければいけなく、それが守れなくて辞めたアシスタントは数知れないのだった。
ミランダは、分刻みの生活をしていて、仕事の指示は的確で、1度言ったらそれ以上言わないので、それを聞き逃してはならないのだった。どんな無理難題でも、できないとその瞬間から落第、無能の烙印が押されるのだった。それは、例えコーヒー一杯でも、言われた時間に彼女の前に持っていかないといけないのだった。
ファッション雑誌は、企画、取材、撮影、デザイン・レイアウト、コピー(ネーム)、編集ページ構成、と次々と仕事の流れが押し迫ってくる。雑誌の発売日は決まっていて、締め切りは固定されているので、そうそう仕事は延ばすことはできないのだ。
それでも、編集長が気に入らない取材や撮影をしてきたら、やり直しの命令が下る。30万ドルの経費をかけて、撮り直すこともあった。そのことに何の意味があるかと、問うてはならない世界なのだ。
ファッションとは無縁の野暮な服装をしたアンディーは、我慢と忍耐をしてミランダについていく。華やかな世界の裏では、過酷な競争が渦巻く世界であった。
やがて、彼女の平凡でチープな服装もブランドものに変わり、仕事のスピードにも馴れていく。
そして、ついに、編集者として認められたとも言える、編集長ミランダと一緒にパリ・コレクションの取材に同行することになったのだった。
原作は、ファッション雑誌「ヴォーグ」の編集アシスタントだったローレン・ワイズバーガーの体験をもとにした同名小説である。
*
「サン・ミッシェルの新しいホテルで目を覚ました。外は少し騒がしいが、この喧噪さはこの街の特徴でもある。窓の外を見ると、絹のような細い雨が降っている。
午後は、多くのオートクチュールの店が集まっているフォーブル・サントノーレへ行った。 数々のクチュリエやクチュリエールが生まれ育ったところだ。
出版社に入社したて、私はファッション誌に配属された。春と秋のパリ・コレクションが発表される時期には、今シーズンのサン・ローランはどうの新しいシャネルはこうのと、編集部はいつも大騒ぎだった。その頃、私はフォーブル・サントノーレなどは別の世界のことと思っていた。
オートクチュールの高級店が並ぶフォーブル・サントノーレを歩いたが、やはり私には身近な存在には思えなかった。」
――「かりそめの旅」(岡戸一夫著)第1章「初めての旅、パリ」より
僕もまた、「プラダを着た悪魔」の主人公アンディーと同じく、学校を卒業すると、ファッション誌の編集者として出版社に勤めることになった。
自分のやりたいことはほかにあったが、そんなことを言ういとまはないし、社会に出たばかりの若造にその実力もない。自分のやるべき仕事は別のことだと思いながら、僕はファッション業界の中に身を委ねていた。不満はどこにでもあるものだ。また、それがエネルギーに転化する場合もある。
「1968年」が学生運動の分岐点として、近年若手を含めた評論家の間で論議が華やかだし、この時代を扱った本が何冊か出版された。閉塞感の漂う時代には、活気溢れた時代の、回顧だけではなくそのエネルギーの根源を知りたいのだ。
当時の学生運動の流れは日本だけでなく世界的潮流であったし、1968年、フランスでは学生を中心とした5月革命が起こっている。
学生運動と同時に、この時代は日本のファッションも大きなうねりのただ中にいた。
当時、日本のファッションの牽引者は、ドレメ・文化の2大洋裁学校の先生たちから独立したデザイナーに移りつつあった。すでに森英恵、芦田淳はトップを走っていたし、三宅一生、コシノ・ジュンコ、やまもと寛斎、高田賢三などが若手として脚光を浴びていた。
日本のファッション産業は、オーダーメイドから既製服に急速に移行する過程にあったし、原宿や青山に新しいファッション・スポットであるブティックが生まれていた。
立木義浩、篠山紀信、沢渡朔などが雑誌の写真を撮り、モデルでは沙羅マリエ、トミー武部、丁秀芬、加藤昌代・直代、山中真弓、小泉一十三などが誌面を飾った。(写真)
編集室は、撮影のための服や小物で埋まっていた。
日本のファッション出版業界も、スケールの違いこそあれ、この映画「プラダを着た悪魔」の世界に近い。
編集長のひと言で、撮影の取り直しが行われたし、ストレスや過労で辞めていった人も多い。鬼の編集長とて、販売部数の動向には気を張り巡らした。
また、春秋年2回のパリ・コレクションは大きな影響力を持っていた。「パリ・コレ」と、編集スタッフは憧憬を滲ませて語った。シャネルもサン・ローランも、別世界のスターだった。
ファッションは、成熟していなかったにせよ、今どきの「カワイイ」と表現されるほど幼稚ではなく、社会の表象現象であったと同時に文化の担い手でもあった。
と言っても、移りゆき、虚しく流されゆくのもファッションの宿命であった。
最近ファッションを楽しめた映画は、Sex and
the City かしら。パリの恋人も素敵ですよね。そういう意味で楽しめる映画って減っているような気がします。
日本のファッションて、どんどんつまらなくなってしまった。なんか昭和のほうがファションという言葉にときめきがあったような気がしませんか?