永井路子著 文藝春秋
「うたかた」を漢字で書けば、「泡沫」となる。つまり、あわである。
「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて」(方丈記)のように、はかないものとして言い表わされてきた。
「あわ」と言えば味も素っ気もないが、「うたかた」と言えば、そこも物語が滲んでいるようにすら思える。
「うたかたの恋」といえば、何度か映画にもなった、19世紀末、ハプスブルグ家オーストリア皇太子と男爵令嬢との悲恋物語である。
森鴎外の「うたかたの記」も、「舞姫」に共通する儚さがテーマである。
ある日、文庫本、永井路子著「うたかたの」が目についた。懐かしい感じがしたので、手に取った。単行本は1993年に発行されていて、そのとき読んでいて、この小説の最後に、ちらと主人公が漏らしたひと言がずっと残っていた。
それは、「人の世は、死ぬまでの暇つぶし」という言葉である。
気になったとはいえ、当時、それがどのような意味を持っているかの実感はなかったと言える。
本書「うたかたの」は、6編かの短編によってなっている。つまり連作なのだが、読んでいても初めはそうとは気がつかない。主人公の名前は違うし、各々別個に独立している物語なのだ。最後まで連作とは気がつかないかもしれないし、作者はそれはそれでいいと、あとがきで書いている。
江戸後期、儒学を学ぶ下級武士が主人公である。
儒学を勉強する、ある地方の利発な若者には相思の女性がいる。しかし男は、このままこの地方で埋もれるわけにはいかないという夢と野心を胸に、周囲を無視して江戸へ発ってしまう。
この男はどうなるのだろう、そして女はどうするのだろうと、疑問を持たせたまま初編の「寒椿」は終わる。
いつの時代でも男は、夢を持っているものだ。そして、都会を舞台に活動したいと思う。自分に自信があればなおさらだ。
しかし、小説の次の編では、名前も違う主人公で少し年齢を重ねている。共通するのは儒学を学ぶ武士である。
いつの時代でも、自分の思うように、ことは進まない。田舎の秀才が都会で通用しない例は、いくらでもある。
この主人公も、その夢とも野心ともつかない志は、いつの間にか躓くのだった。そして、追われる身となる。
小説は、主人公を少しずつ年をとらせている。そして、その男の近くには、彼に関係、あるいは関心を持つ女が登場する。ゆきずりの恋、あるいはうたかたの恋心が漂う。
各編によって、女は年齢も立場もまちまちだが、男と女の微妙な関係が、余韻を持って描かれている。
物語の主人公は、野望を持った血気盛んな青年から、年をとるにしたがって、次第に素性は謎めいているが、達観した男になっていく。
舞台は江戸であったり、地方であったりと変わる。そして、男にとってその場は仮の宿のごとく、いつの間にかそこからいなくなってしまう。まるで、うたかたのように、である。
教養と矜持が香りたっている男だが、うたかたのような、はかない根無し草ではぐれ雲なのだ。いや、いつしかそうなったのだ。
そして、男は呟くのだ。
「人の世は、死ぬまでの暇つぶし」と。
作者は、「暇つぶしなら、退屈しのぎでしょう」と、物語の中で質問させる。
「いや、違う。退屈しのぎは一時のことだ。たまたま暇ができたのを埋め合わせするだけにすぎぬ。俺がいうのは、生まれてから死ぬまでのことだ。長いぞ、これは。覚悟を据えて暇つぶしせねばならん。退屈をもてあましてなどはおられんのよ」
そして、男は言葉を続けるのである。
「俺もな、若いうちはそれには思い及ばなかった。俺にもできることがある、いや俺にしかできぬことがある、と意気込みもした。どうしてもやりとげるぞ、とむきになったこともある。が、いろいろのことがあって、ようやくむきになることの愚かさに気づいたのさ。
めざすものはこれだ、とその成否だけで計ってはいかんのよ。そういうことから心をほどくんだな。すると、なにかが見えてくる。むきになったあの頃を徒労とは思わぬが、ゆきずりの人とも触れあいも、俺にとっては、同じほどに心にしみることだった、とわかったのさ。それからさ、死ぬまでの命を見極め、ゆっくり暇つぶしをする、と肚(はら)を決めたのは」
死ぬまでの暇つぶしは難しい。
僕も馬齢を重ねただけで、少し分かったようで、まだ分からない。
ゆきずりの人との触れあいは、心にしみることではあったが。
「うたかた」を漢字で書けば、「泡沫」となる。つまり、あわである。
「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて」(方丈記)のように、はかないものとして言い表わされてきた。
「あわ」と言えば味も素っ気もないが、「うたかた」と言えば、そこも物語が滲んでいるようにすら思える。
「うたかたの恋」といえば、何度か映画にもなった、19世紀末、ハプスブルグ家オーストリア皇太子と男爵令嬢との悲恋物語である。
森鴎外の「うたかたの記」も、「舞姫」に共通する儚さがテーマである。
ある日、文庫本、永井路子著「うたかたの」が目についた。懐かしい感じがしたので、手に取った。単行本は1993年に発行されていて、そのとき読んでいて、この小説の最後に、ちらと主人公が漏らしたひと言がずっと残っていた。
それは、「人の世は、死ぬまでの暇つぶし」という言葉である。
気になったとはいえ、当時、それがどのような意味を持っているかの実感はなかったと言える。
本書「うたかたの」は、6編かの短編によってなっている。つまり連作なのだが、読んでいても初めはそうとは気がつかない。主人公の名前は違うし、各々別個に独立している物語なのだ。最後まで連作とは気がつかないかもしれないし、作者はそれはそれでいいと、あとがきで書いている。
江戸後期、儒学を学ぶ下級武士が主人公である。
儒学を勉強する、ある地方の利発な若者には相思の女性がいる。しかし男は、このままこの地方で埋もれるわけにはいかないという夢と野心を胸に、周囲を無視して江戸へ発ってしまう。
この男はどうなるのだろう、そして女はどうするのだろうと、疑問を持たせたまま初編の「寒椿」は終わる。
いつの時代でも男は、夢を持っているものだ。そして、都会を舞台に活動したいと思う。自分に自信があればなおさらだ。
しかし、小説の次の編では、名前も違う主人公で少し年齢を重ねている。共通するのは儒学を学ぶ武士である。
いつの時代でも、自分の思うように、ことは進まない。田舎の秀才が都会で通用しない例は、いくらでもある。
この主人公も、その夢とも野心ともつかない志は、いつの間にか躓くのだった。そして、追われる身となる。
小説は、主人公を少しずつ年をとらせている。そして、その男の近くには、彼に関係、あるいは関心を持つ女が登場する。ゆきずりの恋、あるいはうたかたの恋心が漂う。
各編によって、女は年齢も立場もまちまちだが、男と女の微妙な関係が、余韻を持って描かれている。
物語の主人公は、野望を持った血気盛んな青年から、年をとるにしたがって、次第に素性は謎めいているが、達観した男になっていく。
舞台は江戸であったり、地方であったりと変わる。そして、男にとってその場は仮の宿のごとく、いつの間にかそこからいなくなってしまう。まるで、うたかたのように、である。
教養と矜持が香りたっている男だが、うたかたのような、はかない根無し草ではぐれ雲なのだ。いや、いつしかそうなったのだ。
そして、男は呟くのだ。
「人の世は、死ぬまでの暇つぶし」と。
作者は、「暇つぶしなら、退屈しのぎでしょう」と、物語の中で質問させる。
「いや、違う。退屈しのぎは一時のことだ。たまたま暇ができたのを埋め合わせするだけにすぎぬ。俺がいうのは、生まれてから死ぬまでのことだ。長いぞ、これは。覚悟を据えて暇つぶしせねばならん。退屈をもてあましてなどはおられんのよ」
そして、男は言葉を続けるのである。
「俺もな、若いうちはそれには思い及ばなかった。俺にもできることがある、いや俺にしかできぬことがある、と意気込みもした。どうしてもやりとげるぞ、とむきになったこともある。が、いろいろのことがあって、ようやくむきになることの愚かさに気づいたのさ。
めざすものはこれだ、とその成否だけで計ってはいかんのよ。そういうことから心をほどくんだな。すると、なにかが見えてくる。むきになったあの頃を徒労とは思わぬが、ゆきずりの人とも触れあいも、俺にとっては、同じほどに心にしみることだった、とわかったのさ。それからさ、死ぬまでの命を見極め、ゆっくり暇つぶしをする、と肚(はら)を決めたのは」
死ぬまでの暇つぶしは難しい。
僕も馬齢を重ねただけで、少し分かったようで、まだ分からない。
ゆきずりの人との触れあいは、心にしみることではあったが。
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