かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

坂本龍一、「僕はあと何回、満月を見るのだろう」

2023-05-27 02:28:04 | 歌/音楽
 坂本龍一による「僕はあと何回、満月を見るのだろう」が雑誌「新潮」に連載開始されたのは2022(令和4)年7月号からで、翌2023(令和5)年2月号(1月7日発売)で終わった。(写真「新潮」2022年9月号)
 タイトルに使われた「僕はあと何回、満月を見るのだろう」は、ポール・ボウルズ原作、ベルナルド・ベルトルッチ監督の映画「シェルタリング・スカイ」(1990年)の台詞からとったとある。坂本は「ラストエンペラー」に続き、この映画の音楽も手掛けている。
 この「僕はあと何回、満月を見るのだろう」の連載終了後の間もなく、3月28日に坂本龍一はガン闘病の末亡くなった。この自伝でもある連載文は聞き書き(聞き手・鈴木正文)で、坂本は自分の最後の姿を遺書のつもりで話し、残しかったのだろう。71歳だった。

 私は、坂本龍一のファンでも彼の音楽をよく聴いたものでもない。
 私が彼のことについて知っていることは、以下のような一般的なことだけである。
 坂本龍一は、YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)のグループでテクノポップスをヒットさせたこと。その後、第2次世界大戦下の南方捕虜収容所を舞台にした大島渚監督作品「戦場のメリークリスマス」での捕虜収容所所長役で俳優出演をし、その映画音楽で英国アカデミー賞・作曲賞を得たこと、その後もいくつかの映画音楽を手掛けたこと。
 (蛇足だが付け加えるなら、「戦場のメリークリスマス」の所長役は当初、何人かの候補のなかで沢田研二に白羽の矢が立ったが沢田のスケジュールが合わず結局坂本になった。後に、この映画に出演していた内田裕也は、デヴィッド・ボウイとジュリーのヨーロッパと日本の妖艶なスーパースター共演を実現させたかったと述べていた。その時、坂本は出演に伴い音楽もやらせてくださいと注文を付けて、結果的にその映画音楽で世界的名声も得ることとなった)
 坂本は東京芸大出身ということもあって“教授”と呼ばれ、当然クラシック音楽にも深い知識があり、「スコラ」と題した教育テレビ番組ではバッハからロックまで講義形式の番組をやっていたこと。
 私生活では、同じミュージシャンの矢野顕子と結婚したこと。
 原発や改憲への反対や環境問題など、社会問題へのメッセージの発信や活動をも行っていて、つい死ぬ直前にも神宮外苑地区の再開発に伴う樹木伐採に反対意見の手紙を東京都知事あてに送っていたこと、などである。

 *「僕はあと何回、満月を見るのだろう」

 では、坂本龍一の最後の発信集成ともいえる「僕はあと何回、満月を見るのだろう」を見てみよう。
 ・第1回、「ガンと生きる」
 2014年に中咽頭ガンが発覚してから以降の、ガンの治療、医者との関係などの経過を踏まえ、自身の病気や周りへの意識や考えの移ろいを淡々と語っている。
 コロナ下での入院中のことで、次のようなことを愛おしく述懐している。
 病院の食事がまずいので、特別に毎日のようにパートナーが差し入れをしてくれた。コロナのせいで面会謝絶なので、夕方、病院の道の向かいから、スマホのライトをつけて手を振り合図をし、「ロメオとジュリエットみたいだね」と言い合った。辛いときにこそ愛に救われると思った。
 私は先に書いたように、坂本のプライベートのことに関しては何も知らなかったので、彼が矢野顕子と離婚後パートナーなる女性がいたことに、内心少し驚いた。パートナーなる女性は恋人であるとともに坂本のマネージャー、プロデューサーでもあったようだ。以後も、この連載にパートナーなる女性は何度も出てくる。
 私が知らなかっただけで、彼に離婚後、恋人、同居女性がいたとしても何ら不自然ことではないし、いたほうが自然であろう。ちょっと調べてみると、若い時から彼は恋多き男だったようである。女性好きなことは、彼も自身で語っている。
 このことは坂本を新たに違った側面から見ることができたと感じたし、“教授”呼称もさもありなんと思った。

 ・2回、「母へのレクイエム」
 2009年刊行の坂本龍一の自伝「音楽は自由にする」以降のことについて語っている。
 仕事に関連したことや、個人的な忘れがたいこととして、海外への旅や国内の旅などが語られる。
 大貫妙子さんとのコラボレーション・アルバムをリリースしたことの追記として、20代前半の一時期に彼女と暮らしていたことを告げている。
 私は全く知らなかったが。

 ・3回、「自然には敵わない」
 2011年3月11日、東北・福島を中心にした東日本大震災が起こった。
 坂本龍一は、被災地訪問、演奏による支援や支援募金活動など、様々な支援活動をする。
 「……それでも、応援している気持ちを少しでも音楽を通じて伝えられたらと考え、自分のできる範囲で、様々な取り組みをした2年間でした」と語っている。
 坂本は、反核・反原発活動も行っている。
 イギリス、オックスフォード大学での吉永さゆりさんの核廃絶の朗読会でのピアノ伴奏での共演。ドイツのテクノ・バンド、クラフトワークを呼んでの、「NO NUKES」フェスティバルのこと、などが熱く語られている。
 このころ、頻繁に行われていた首相官邸前での脱原発デモへの参加。彼は、音楽活動だけでなく社会的に発言・活動する人でもあった。

 ・4回、「旅とクリエーション」
 まず北の島国、アイスランドに行った時の印象を思い出深く語っている。確かに、あまり行く機会のない国であろう。
 能楽の仕事を通じて知り合った小鼓方の大倉源次郎さんに誘われて、奈良県の段山神社まで「翁」の上演を見に行く。そのとき、能楽の歴史的完成経路を夢想したりするのだった。

 ・5回、「初めての挫折」
 老眼を感じたが、40代の後半になって、ことさら老いを感じたわけではないとしつつ、ふとしたことによる大貫妙子さんの勧めで整体を始める。
 その後、闘病中も、食養、鍼灸、漢方、整体は、「全身状態」の維持や向上のため、病院でのガン治療と並行して続けている。
 2015年には養生も兼ねて行ったハワイが気に入り、別荘を買う。しかし、翌年には売ってしまうことに。
 そして、メキシコ人の映画監督イニャリトゥの「レヴェナント」、山田洋二監督の「母と暮せば」の映画音楽を作る。

 ・6回、「さらなる大きな山へ」
 初めての韓国映画「天命の城」の映画音楽、坂本自身の記録映画「CODA」の撮影経過を語る。
 そして、NHK「ファミリーヒストリー」放送に基づいて、彼のルーツが語られる。父方が福岡、母方が長崎という、両親とも九州がルーツであった。彼の父は東京へ出て、河出書房の編集者となった。

 ・7回、「新たな才能との出会い」
 憧れの台湾の李孝賢監督と、初めて会い食事を共にすることができたと嬉しく語っている。私も大好きな映画監督である。
 そして、人生を決定づけた恩人を二人あげるとすると、大島渚とベルナルド・ベルトルッチになると思う、と次のように語る。
 役者として「戦場のメリークリスマス」(1983)へ出演を依頼してくれた大島監督に対し、若い頃の僕は生意気にも「音楽をやらせてくれるなら出ます」と言い放った。今でこそ、数多くの映画音楽を任されていますが、その第一歩が「戦メリ」でした。
 さらに、この作品がカンヌに出品されることになり、映画祭のパーティ会場で大島さんにベルトリッチに引き合わせてもらった。数年後に、そのパーティ会場でも熱く構想を語っていた「ラストエンペラー」(1987年)の音楽を、ベルトリッチ監督はオファーしてくれた。
 ジャズシンガーの山下洋輔さんとの思い出を語る。彼には、同じように音楽大学でクラシックを学んだという根底にある共有感があったようだ。
 沖縄の辺野古の新基地反対のための吉永小百合さんの詩の朗読会では、ピアノ伴奏の共演をしたことを、吉永さんへの思いを込めて語っている。
 2020年、新型インフルエンザ、コロナが世界中に蔓延する。
 ニューヨークに活動拠点を移していた坂本だが、日本に帰っていたその年の4月、再びニューヨークに戻る。出国の成田も到着のJFK空港もがらんとしていたと述懐する。
 外出を控えながらも、ニューヨークのスタジオで音楽作りの生活をする。
 新型インフルエンザ、コロナに関しては、以下のように語っている。
 「3.11のときもそうでしたが、世の中が急激に変化するのは非常にショッキングなことです。しかし一方でぼくには、このショックを忘れてしまいたくはない、という強い思いがありました。こうした100年に一度のパンデミックは、我々のほとんどにとって、きっと人生で最初で最後の経験でしょうし、そうであってほしい。さらに言うと、コロナのグローバルな規模での感染爆発は、人間たちが過度な経済活動を推し進め、自然環境を破壊してまで地球全体を都市化してしまったことが遠因とて考えられる。その反省を未来に生かすためにも、自然からのSOSで経済活動に急ブレーキがかけられたこの光景を、しっかり記憶しておかなくてはいけないと思うのです」
 そして、2020年6月に受けた検査で直腸ガンが発覚し、再び闘病生活を余儀なくされる。

 ・8回(最終)、「未来に遺すもの」
 2021年、コロナ下のなかで、東京での手術後の闘病生活が始まる。
 治療に関しては、彼の幅広い友好関係をもあってセカンド・オピニオンを含め、最強のサポート体制でもって西洋医療と代替医療の両輪で続けられたことが窺われる。
 闘病生活の中で、同時に仕事もやっていく。衰えない制作意欲である。
 2022年2月、ロシアによるウクライナ侵攻が始まる。
 そんな中で、彼はウクライナのヴァイオリニスト、イリア・ボンダレンコのために、曲を書く。
 そして、東日本大震災後の活動が発展して生まれた「D2021」にも参加する。
 2023年1月、71歳の誕生日にアルバムをリリース。闘病生活のなかで、徒然(つれづれ)に録り溜めした音源を12曲ピックアップしたもので、これが最後のアルバム「12」となった。

 *

 坂本龍一が好きであった言葉、
 Ars longa, vita brevis. 「芸術は永く、人生は短い」

 やりたいことをやっていく。
 好きなことをして生き抜いていったのは、素晴らしいことだ。

 私たちは、あと何回、満月を見ることだろう!

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