かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

大阪を経て九州へ① 大阪・御堂筋を歩く

2023-10-31 23:58:58 | * 九州の祭りを追って
 2023(令和5)年10月17日に東京を発って、ようやく久しぶりに九州・佐賀へ向かった。
 やっと解禁、いや開放された。
 何からかといえば、新型コロナからである。2019年末に発生したとされる新型コロナウィルスにより2020年から2022年にはパンデミック(世界的大流行)に陥れられ、その影響は3年余にも及んだ。
 日本においては2023年5月に2類相当から普通のインフルエンザ並みの5類へと位置づけが変更されるまで、外ではどこにでも不安で不穏な空気が漂っていた。
 その間、日帰りの近いところへの散策であればいいのだが、マスクを付けての旅など気分がのるわけがない。
 ということで長旅は控えていたが、もうマスクを付けなくて旅ができそうだ。とはいえ、今でもマスクを付けている人は減ってはいるが、コロナウィルスは完全になくなったわけではない。

 振り返れば、2019(令和元)年秋、九州へ行って以来の4年ぶりの旅である。
 とりあえずは佐賀の田舎のくんち祭りを見に行くという理由付けをして、10月19日を目途に、いつものなりゆきで出発した。

 *いつか歩いた大阪の街、御堂筋

 10月17日、途中下車で大阪に降りたった。かなりの、久しぶりのことだ。

 あの人もこの人も そぞろ歩く宵の街
 どこへ行く二人づれ 御堂筋は恋の道……
  「大阪ラプソディー」(作詞:山上路夫、作曲:猪俣公章、唄:海原千里・万里、1976年)

 ……映画を見ましょうか それともこのまま 道頓堀まで歩きましょうか……上沼恵美子が、こんなロマンチックな歌をうたっていたときがあった。
 
 若いときは大阪の街をぶらぶらと歩いたものだが、ここのところは通り過ぎるだけで、思いおこせばもう何年も、いや何十年も歩いていない。
 すぐに思い浮かべるのは、ミナミの御堂筋、心斎橋、道頓堀、法善寺である。この一帯は、“そぞろ歩き”という言葉がよく似合う。東京とは違った都会の街で、心が躍る。

 「御堂筋」は歌にもよく唄われているし、大阪で最も人気のある通りといっていい。
 それに、東京駅や日本銀行本店などを設計した辰野金吾による日本銀行大阪支店をはじめ、古いビルディングが今も建っている。
 さらに付け加えれば、1959(昭和34)年、南海ホークスが初めて日本一になったとき、鶴岡一人監督ほか、杉浦忠、野村克也、広瀬叔功などのスター選手を乗せたオープンカーが凱旋パレードを行った通りなのだ。杉浦の4連投で南海が巨人に4連勝し、そのとき御堂筋沿道には20万人の人出が集まったという。
 私は子どものときから、ホークス・ファンだった。

 今まで、きれぎれには道頓堀近辺の御堂筋を歩いたことはあるものの、その通りはどこからどこまでなのか、そしてどんな道筋なのかはよくは知らなかった。
 おもむろに、御堂筋を、そのハシからハシまでを歩いてみようと思いたった。これは、素敵な思いつきだと思った。

 *「北御堂」(西本願寺津村別院)と「南御堂」(東本願寺難波別院)がある通り

 御堂通りでなくて、御堂筋と呼ぶのがいい。
 「御堂筋」は、大阪のキタの玄関口「梅田」とミナミの「難波」を結ぶ、全長約4km、幅約43m(大江橋、淀屋橋は約36m)、全6車線の幹線道路である。
 大阪市は、1919〈大正8〉年、道幅6mの道頓堀の拡張と地下鉄を一体化して進めると発表する。今日の御堂筋の出発点である。
 1933(昭和8)年、梅田-心斎橋間の大阪市営地下鉄1号線が完成する。現在の地下鉄「御堂筋線」である。
 東京では、1927(昭和2)年に東京地下鉄道株式会社(のちの東京メトロ)により上野-浅草間に地下鉄が開業していたが、公営の地下鉄としては大阪市営地下鉄が初めてであった。
 御堂筋の通りは、梅田新道が母体となる淀屋橋交差点以北は、大阪市電敷設の際に拡幅されていたこともあり1927年に完工したが、淀屋橋交差点以南は用地買収などで遅れて1929(昭和4)年に着工。その後、難波まで延びた御堂筋は1937(昭和12)年に完成した。
 御堂筋の地下には、大阪市初の市営地下鉄・御堂筋線が走った。

 *キタの「梅田」からミナミの「難波」まで、「御堂筋」を歩く

 まず、JR「大阪」駅、地下鉄・御堂筋線「梅田」駅の南側の交差点の陸橋前に出た。周りは、高層ビルが聳える。煩雑な大阪のイメージはない。東京でいえば、丸の内の感じである。

 ・「梅田」
 JR「大阪」駅南の梅田の一帯は、駅が複雑だ。先にあげた地下鉄・御堂筋線「梅田」駅の他に、阪急「大阪梅田」、阪神「大阪梅田」の私鉄の始発駅がある。それに、地下鉄「東梅田」(谷町線)、「西梅田」(四つ橋線)駅があり、そこにJR東西線「北新地」駅が絡む。
 左手に阪急、右手に阪神のビルを見ながら、南(ミナミ)に向かって御堂筋を出発した。
 御堂筋は6車線という大きな道幅の通りだが、初めて知ったのだが車はキタからミナミへの一方通行である。
 歩き始めるとすぐ左手に、入る通りに「お初天神通り」の文字が見える。

 ・曽根崎「お初天神」(露天神社)
 近松門左衛門作の人形浄瑠璃「曽根崎心中」の舞台となった「お初天神」の参道である。「曽根崎お初天神通り」の商店街があり、奥には「露天神社」(つゆのてんじんしゃ)がある。この名が、お初天神の正式名であった。
 お初天神を過ぎて南に進むと「大江橋」に行き着く。橋を過ぎ「中之島」に入ると、御堂筋を挟んで右手にクラシックなビル、左手にモダンなビルが目につく。

 ・「日本銀行大阪支店」
 ・「大阪市役所」
 「大江橋」と中之島の先にある「淀屋橋」の間にある、右手の古典的なビルは辰野金吾設計の「日本銀行大阪支店」である。屋根に丸い擬宝珠のような帽子(塔)があるのは、辰野が気にいっていたのか東京駅・丸の内駅舎を想起させる。
 旧館は1903(明治36)年建造であるが、40年前に外壁を残して建て替えられた。
 左手にあるモダンなビルは「大阪市役所」で、現在の庁舎は1986(昭和61)年に完成したものである。

 ・「船場」
 淀屋橋から「本町駅」、さらに「心斎橋」駅に進む間に、昔からの問屋や老舗が残る「船場」がある。江戸時代、“天下の台所”として栄えた大坂の中心街で、駅名はないがこの一帯を「船場」と呼ぶ。
 船場で思いおこすのは、ここで古い暖簾を誇る廃れゆく旧家の4姉妹を描いた谷崎潤一郎の「細雪」である。
 何度か映画やドラマ化されたが、私が見たのは1983年に公開された市川崑監督の作品で、4姉妹のキャストが目を見張る。花のような岸惠子、佐久間良子、吉永小百合、古手川祐子という姉妹女優陣に石坂浩二、伊丹十三という男優が絶妙に渋く絡んでいた。
 通りを歩いていると、いわくありげな「久太郎町」という町名も見える。

 ・「心斎橋」
 本町駅を過ぎると、ほどなく高級ブランド店が並ぶ「心斎橋」である。御堂筋に並行して、アーケードの心斎橋筋商店街がある。

 ・「道頓堀」
 心斎橋を過ぎると橋に出る。下に流れる川(堀)が道頓堀川で、橋は「道頓堀橋」である。
 堀の先の向こう(東)に架かる橋が「戎橋」で、その間の堀に、両手を挙げたランナーで有名な“グリコの看板”が見える。
 道頓堀を過ぎるとすぐ左手に、クラシックな建物が目につく。

 ・「大阪松竹座」
 1923(大正12)年に建てられた関西初の洋式劇場である。正面は洒落た半円形のアーチとなっている。

 ・「法善寺」
 大阪松竹座の先の派手な赤いタコと龍の看板を左に入っていくと、「法善寺横丁」にぶつかる。狭い路地といった感じで、昔ながらの商店街、繁華街といった風情が漂っている。
 そのなかに、千日寺と呼ばれる「法善寺」がある。小さな寺の境内には、全身が苔むした「水掛不動」の像がいわくありげな顔をして立っている。
 この一帯は、大阪の繁華街の真ん中にありながら、田舎の繁華街にある神社にさ迷いこんだように感じる。この雰囲気が私は好きで、大阪のミナミに来たら、必ずここを訪れる。
 ここを知ったのは、藤島桓夫が歌った「月の法善寺横町」(作詞:十二村哲、作曲:飯田景応、1960年)の歌からである。
  庖丁一本 さらしに巻いて
  旅へ出るのも 板場の修業
  待ってて、こいさん……
 そして、一番の歌のあとに台詞が入る。
 「こいさんが、わてを初めて法善寺へつれて来てくれはったのは、「藤よ志」に奉公に上った晩やった。はよう立派なお板場はんになりいやゆうて、長いこと水掛不動さんにお願いしてくれはりましたなあ」
 「こいさん」とは、愛する女性に対する言葉だと思っていた。本当は大阪・船場言葉で、末娘のことだと知ったのはずっと後のことだ。「愛しい人」を表した「いとさん」は、主に長女に使い、「こいとさん」が縮まって「こいさん」になったようだ。

 法善寺を出て御堂筋に戻り、まっすぐ南へ進むと、御堂筋を受けとめるようにカーブを描いたクラシックなビルが横に伸びているのが見える。
 御堂筋の終わりはここですよと、高々に謳っているようである。

 ・難波駅、「南海ビルディング」
 「難波」の中心で、高島屋が入っていて、そして南海電鉄の始発駅「難波駅」がある南海ビルディングである。(写真)
 南海ビルディングは、1932(昭和7)年に建てられた170mもの壁を持つ7階建てのビルで、壁面を支えるのは16本のギリシャ・コリント式の柱である。
 先にも書いたように、私は南海ホークスのファンだったので、こうやって南海ビルディングを正面からきちんと見て、中に入ったのは初めてだったので感慨深い。格調ある南海ビルディングは、今はなき南海ホークスを偲ばせても、哀愁をも払拭させる厳かさを感じさせる。

 *南海ホークスがいた「大阪球場」
 
 南海電鉄・難波駅のすぐ南に大阪球場はあった。
 なぜ父親がこの帽子を選んだか知らないが、子どものとき初めて買ってもらった野球帽子には鳩と見紛う鷹のマークがあり、それが南海ホークスのマークだった。
 そのとき以来ホークス・ファンを自任してきたが、一度もホーム・スタジアムである「大阪球場」(大阪スタヂアム)に行っていないのを後ろめたく思っていた。いつかは大阪球場に行かねばと思っているうちに、なんと思わぬことに南海ホークスはダイエーに身売りすることになってしまった。
 南海としての最後の公式戦は、1988(昭和63)年10月15日、同じ大阪の球団である近鉄バファローズ戦と決まった。南海の監督は、あの4連勝で御堂筋パレードの立役者、杉浦忠。相手近鉄の監督は仰木彬だった。
 私は当時仕事先の広告代理店の人に頼んでチケットを入手し、その日、東京から新幹線で大阪へ行き、最初で最後となる大阪球場に入った。
 球場にいる人たちは、みんな涙をこらえて、なるだけ笑顔で普通に応援しようとしていた。試合では、佐賀県出身の岸川勝也のホームランもあり南海が勝利した。試合が終わった後も、球場の外では去りがたい人たちが物憂げにうろうろと歩いていた。私もその一人だった。
 大阪球場は、現在、複合商業施設「なんばパークス」に変わっている。
 近鉄バファローズは、現在オリックス・バファローズに変わってしまった。

 *大阪の盛り場ブルース

  ……すがるこいさん涙に濡れて
  帰るあてなく ミナミ、曽根崎、北新地……

 東京の銀座、赤坂、六本木……をはじめとする全国の有名盛り場を歌った、森進一の「盛り場ブルース」(作詞:藤三郎/村上千秋、作曲:城美好)の大阪編は、すべて御堂筋がらみである。

 ……七色のネオンさえ 甘い夢を唄ってる
 宵闇の大阪は 二人づれ恋の街
   ――「大阪ラプソディー」
 
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