*肥前・杵島の「くんち」祭り
あられふる 杵島が岳を峻(さか)しみと
草とりかねて 妹(いも)が手をとる
杵島山は奈良時代の「肥前国風土記」に記されていて、上に記した歌は「万葉集」に出てくる、杵島の山での「歌垣」の歌である。
古代わが国に、歌垣という若い男女が歌を詠み交わす文化・風習があった。
この歌垣の地が、佐賀県大町から南に六角川を渡った白石平野が広がる杵島の山のふもとにあった。
10月19日は、佐賀県白石町の稲佐神社、妻山神社で“くんち”の祭りがある。今回の九州への旅において(空き家となっていた佐賀県大町町の実家を処分したので、帰省ではなくあえて旅と言ったのだが)、とりあえずつけた今回の旅の目的が、この稲佐・妻山神社の「くんち」を見ようというのであった。
くんちの祭りは各地で何度も見ているが、これから何度見られるかわからない。もしかしたら、今年が最後ということだってありうることだ。
だから、行こうと思ったときに行かなければならない、と思った。
北九州の秋の祭りを「くんち」と呼ぶ神社が多い。有名なところでは「長崎くんち」と「唐津くんち」であるが、北九州地方の様々な神社でくんちの祭りは行われている。
「くんち」の呼び名の由縁は諸説あるが、旧暦の9月9日、重陽の節句に行われる祭りである。神社によって行われる日にちにばらつきがあるが、「九日(くんち)」であるから、新暦になったとはいえ9日、19日、29日に行われるのが正当だと思っている。
稲佐神社、妻山神社のくんちは、10月19日である。
私がこの神社のくんちが好きなのは、両神社とも流鏑馬が行われるからである。母の実家が白石町なので、この2つの神社は子どものころから馴染み深いのだ。それに、くんちは何度見ても、何度体験しても、その地域の風土や文化的特徴が滲み出ていて味わい深い。
稲佐神社、妻山神社とも、万葉集にも詠われた「杵島山」の文化圏である。
それで、10月19日の午後から、大町町に住んでいる中学時代の友人を誘って、稲佐神社、妻山神社のくんち見に行くことにした。
大町町から六角川の大町橋を渡って南の白石町に向かうと、前方に杵島の連山が見える。白石町に入り田んぼのなかをまっすぐ進むと、通りの右手に石の鳥居が現れたところが「妻山神社」である。
神社の鳥居の周りに祭り用の出店が2店ほど出ていて、子どもたちがたむろしている。鳥居の先の階段を上って、流鏑馬が行われるまっすぐ伸びた参道に出てもまだ関係者も観客もいない。
まだ流鏑馬には早いようなので、もう一つの目的地の稲佐神社に向かうことにした。流鏑馬が行われる時間帯が、両神社は重なるようである。
妻山神社を道なりに南に進んでいくと、右手に見える小高い森の丘が「水堂さん」(水堂安福寺)である。昔から「みっどうさん」と呼んで親しんでいたところだ。
その先に、犬山岳に連なる「歌垣公園」がある。
さらに進んだ先に「稲佐神社」がある。
*稲佐神社のくんち
「稲佐神社」は佐賀県の神社では最も好きな、とても趣のある神社ある。
かつては白石町のすぐ隣の有明町辺田が地名であったが、今は町村合併で白石町となっている。
稲佐神社の石造りの肥前鳥居から続く参道は、自然石を詰めた石畳のなだらかな坂道で、石を踏みながら歩く足の裏に歴史を感じさせる。長い石の階段を登りきったあたりに石の鳥居があり、そこで水平に土の長い馬道が横切る。
その先に仁王門、拝殿・神殿が待ち受けている。境内には、樹齢600年という楠の巨木が2本聳えている。
稲佐神社の創建は古く、当神社の御由緒略記(社伝)によると、飛鳥時代の推古天皇の推古時代に、百済より阿佐王子が来朝し、この地に居を定め、稲佐大神とともに両親を合祀した。阿佐王子が亡くなった後、王子も合祀された。
また、聖徳太子により稲佐大明神の尊号を受け、平安時代に入り、空海により稲佐泰平寺が開かれ、真言寺十六坊が建立し一大霊所となった(十六坊のうち現存するのは座主坊・観音院・玉泉坊の三坊である)。
そして、861(定観3)年は従五位下、885(仁和元)年に従五位上に叙せられたことが「三代実録」(注:平安時代に編纂された歴史書)に見られる、とある。
長く続く馬道に行き着くと、馬道の端で馬と馬を扱う人が待機している。
町内を廻った祭りの装束を着た人(氏子)による神輿が稲佐神社に戻ってきた。奥の神殿に行き、再びこの馬道に戻り、本殿へと行く手順だ。その後、流鏑馬が行われる。
その前に、馬道の本殿前で獅子舞が行われた。赤と緑の2頭の獅子が舞う。
そのあとに馬道に神輿の列が現れ、参道から本殿に行かれた後、待望の流鏑馬が行われた。華麗な衣装を着た武将を乗せた馬が、220mの馬道を走り抜ける。(写真)
ここ稲佐神社は、流鏑馬の起源とされる馬が走り抜けるだけの「馬駆け」である。走った後に、止まった状態で的を射るという最後の形式は行われるのだが、やはり物足りなさは残る。
妻山神社では、走りながら的を射る正統な流鏑馬が行われ迫力があるが、それはそれで各神社の慣わしだから甘受するよりほかない。
稲佐神社のくんちが終わったあと、妻山神社の前を通ったが、やはり流鏑馬は終わっていた。
この両神社のくんち祭りは、以前のブログに記している。
昔と考えていることは大して変わっていない、と感じる。
「稲佐神社のくんち②」(2006-10-22)
https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/6cc84ed33ac172a230ca9bb4168b2f4d
「妻山神社のくんち」(2006-10-23)
https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/a823c06e84562f6fbb7b6075fa564e58
あられふる 杵島が岳を峻(さか)しみと
草とりかねて 妹(いも)が手をとる
杵島山は奈良時代の「肥前国風土記」に記されていて、上に記した歌は「万葉集」に出てくる、杵島の山での「歌垣」の歌である。
古代わが国に、歌垣という若い男女が歌を詠み交わす文化・風習があった。
この歌垣の地が、佐賀県大町から南に六角川を渡った白石平野が広がる杵島の山のふもとにあった。
10月19日は、佐賀県白石町の稲佐神社、妻山神社で“くんち”の祭りがある。今回の九州への旅において(空き家となっていた佐賀県大町町の実家を処分したので、帰省ではなくあえて旅と言ったのだが)、とりあえずつけた今回の旅の目的が、この稲佐・妻山神社の「くんち」を見ようというのであった。
くんちの祭りは各地で何度も見ているが、これから何度見られるかわからない。もしかしたら、今年が最後ということだってありうることだ。
だから、行こうと思ったときに行かなければならない、と思った。
北九州の秋の祭りを「くんち」と呼ぶ神社が多い。有名なところでは「長崎くんち」と「唐津くんち」であるが、北九州地方の様々な神社でくんちの祭りは行われている。
「くんち」の呼び名の由縁は諸説あるが、旧暦の9月9日、重陽の節句に行われる祭りである。神社によって行われる日にちにばらつきがあるが、「九日(くんち)」であるから、新暦になったとはいえ9日、19日、29日に行われるのが正当だと思っている。
稲佐神社、妻山神社のくんちは、10月19日である。
私がこの神社のくんちが好きなのは、両神社とも流鏑馬が行われるからである。母の実家が白石町なので、この2つの神社は子どものころから馴染み深いのだ。それに、くんちは何度見ても、何度体験しても、その地域の風土や文化的特徴が滲み出ていて味わい深い。
稲佐神社、妻山神社とも、万葉集にも詠われた「杵島山」の文化圏である。
それで、10月19日の午後から、大町町に住んでいる中学時代の友人を誘って、稲佐神社、妻山神社のくんち見に行くことにした。
大町町から六角川の大町橋を渡って南の白石町に向かうと、前方に杵島の連山が見える。白石町に入り田んぼのなかをまっすぐ進むと、通りの右手に石の鳥居が現れたところが「妻山神社」である。
神社の鳥居の周りに祭り用の出店が2店ほど出ていて、子どもたちがたむろしている。鳥居の先の階段を上って、流鏑馬が行われるまっすぐ伸びた参道に出てもまだ関係者も観客もいない。
まだ流鏑馬には早いようなので、もう一つの目的地の稲佐神社に向かうことにした。流鏑馬が行われる時間帯が、両神社は重なるようである。
妻山神社を道なりに南に進んでいくと、右手に見える小高い森の丘が「水堂さん」(水堂安福寺)である。昔から「みっどうさん」と呼んで親しんでいたところだ。
その先に、犬山岳に連なる「歌垣公園」がある。
さらに進んだ先に「稲佐神社」がある。
*稲佐神社のくんち
「稲佐神社」は佐賀県の神社では最も好きな、とても趣のある神社ある。
かつては白石町のすぐ隣の有明町辺田が地名であったが、今は町村合併で白石町となっている。
稲佐神社の石造りの肥前鳥居から続く参道は、自然石を詰めた石畳のなだらかな坂道で、石を踏みながら歩く足の裏に歴史を感じさせる。長い石の階段を登りきったあたりに石の鳥居があり、そこで水平に土の長い馬道が横切る。
その先に仁王門、拝殿・神殿が待ち受けている。境内には、樹齢600年という楠の巨木が2本聳えている。
稲佐神社の創建は古く、当神社の御由緒略記(社伝)によると、飛鳥時代の推古天皇の推古時代に、百済より阿佐王子が来朝し、この地に居を定め、稲佐大神とともに両親を合祀した。阿佐王子が亡くなった後、王子も合祀された。
また、聖徳太子により稲佐大明神の尊号を受け、平安時代に入り、空海により稲佐泰平寺が開かれ、真言寺十六坊が建立し一大霊所となった(十六坊のうち現存するのは座主坊・観音院・玉泉坊の三坊である)。
そして、861(定観3)年は従五位下、885(仁和元)年に従五位上に叙せられたことが「三代実録」(注:平安時代に編纂された歴史書)に見られる、とある。
長く続く馬道に行き着くと、馬道の端で馬と馬を扱う人が待機している。
町内を廻った祭りの装束を着た人(氏子)による神輿が稲佐神社に戻ってきた。奥の神殿に行き、再びこの馬道に戻り、本殿へと行く手順だ。その後、流鏑馬が行われる。
その前に、馬道の本殿前で獅子舞が行われた。赤と緑の2頭の獅子が舞う。
そのあとに馬道に神輿の列が現れ、参道から本殿に行かれた後、待望の流鏑馬が行われた。華麗な衣装を着た武将を乗せた馬が、220mの馬道を走り抜ける。(写真)
ここ稲佐神社は、流鏑馬の起源とされる馬が走り抜けるだけの「馬駆け」である。走った後に、止まった状態で的を射るという最後の形式は行われるのだが、やはり物足りなさは残る。
妻山神社では、走りながら的を射る正統な流鏑馬が行われ迫力があるが、それはそれで各神社の慣わしだから甘受するよりほかない。
稲佐神社のくんちが終わったあと、妻山神社の前を通ったが、やはり流鏑馬は終わっていた。
この両神社のくんち祭りは、以前のブログに記している。
昔と考えていることは大して変わっていない、と感じる。
「稲佐神社のくんち②」(2006-10-22)
https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/6cc84ed33ac172a230ca9bb4168b2f4d
「妻山神社のくんち」(2006-10-23)
https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/a823c06e84562f6fbb7b6075fa564e58
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