嶽本野ばら原作 中島哲也監督 深田恭子 土屋アンナ 篠原涼子 樹木希林 2004年制作
下妻とは、茨城県の下妻市のことである。つくば市の北、関東平野の中央に位置する。この周り一面田圃の農道を、ベビードールのドレスにボンネット、それにフリルの付いたパラソルを持って歩く一人の女の子。このロリータ・ファッションの女の子、深田恭子は、「ロココ時代に生まれたかった」という、下妻に似ても似つかない女の子である。
そこから電車で3時間かけて、聖地である代官山にドレスを買いに行く。この女の子と気が合ったヤンキー、土屋アンナは、この地の小さなヤンキー・グループを仕切っている。まったく性格も好みも違う二人の友情物語である。
嶽本野ばらの原作で、内容は劇画的である。時折、エピソードをアニメで挿入したりしたところが新しい工夫といえようが、これは成功しているとは言えない。しかし、これは深田恭子のための映画であるといっていい。
少しおつむは良くないかもしれないが、それを上回るとぼけた可愛らしさの役どころでは他の追随を許さない深田恭子を見てみようと思った程度だったが、意外と楽しめるコメディー映画になっていた。
やはりフランス人形みたいな深田恭子には、このロリータ・ファッションはよく似合っていて、頭の構造はともかく、この道の王道を歩いているかのような小倉優子も遠く及ばないだろう。
彼女の「人生なんて甘いお菓子と同じ」と、好きなことをやったらいいという奔放な人生観が、田舎の風景とミスマッチしていてこの映画の大きな暗喩にもなっている。
こんな彼女に、この地の人たちは、何も東京まで行かなくても、郊外にある大型スーパー店(イオン)に行けば、何でもあるよと言う。町の人たちの、安いという価値観だけでこの手の大型商店を評価しているのを皮肉っているが、それを否定しているのではない。笑いに昇華し、群れることを否定しているのだ。個性を大切にしないといけない、と言っているのだ。
いや、郊外の幹線道路にある大型スーパー店が創り出す人工的な商店街の典型が、下妻というシチュエーションなのかもしれない。今や全国的に、この手の郊外大型商店が、旧来の駅前の商店街、スーパーを衰退させ、街を形骸化さしている。
そして、郊外には必ずファーストフード、大型パチンコ店がある。それらの足は車である。それ故、電車やバスなどの公共交通は衰退の一途である。地方都市は、都会と違って車が不可欠になっていて、その利便的な車が街を衰退化させているという皮肉な一面が起こっている。
地方に行けば、気がつくはず。地方の街は、急速に変わってきている。郊外、車、大型スーパー店、パチンコ店、ファーストフード、このようなキーワードが、現在の地方都市を表わしていると言える。
この映画から汲み取れるのは、情報や品物は、都市とりわけ東京と地方は時間差がなくなってきているのに、内実はどんどん乖離しているということである。
田園の中のフリフリのファッション、縁側のある畳と障子の家の中のロココ趣味は、地方が都市を追いかけて表面だけを囓り取った結果、歪曲的に成長しているのを表わしているのではなかろうか。
地方の良さを守れといったところで、それは無理である。歴史が、それを証明している。文明とは、あるいは資本の論理とは、津波のようなもので、何もかも飲み込んでいってしまう。津波で荒廃した跡地には、「のようなもの」が新しく建ち並び、似ても似つかないものになるのである。
映画の最後は、ロリータ少女がヤンキーのグループと派手な喧嘩の末、自分の才能を開くために仕事をやろうかという教訓めいた暗示話で終わるのが意外であった。
喧嘩の場所は、牛久の巨大大仏の前である。確か日本一、いや世界一の大仏である。奈良の大仏が手の平にのるほどの巨大大仏が田園の中にある。いつ、誰が建てたのだろう。
地方は、どこへ行こうとしているのだろう。そして、どうなるのだろうと思ってしまった。
下妻とは、茨城県の下妻市のことである。つくば市の北、関東平野の中央に位置する。この周り一面田圃の農道を、ベビードールのドレスにボンネット、それにフリルの付いたパラソルを持って歩く一人の女の子。このロリータ・ファッションの女の子、深田恭子は、「ロココ時代に生まれたかった」という、下妻に似ても似つかない女の子である。
そこから電車で3時間かけて、聖地である代官山にドレスを買いに行く。この女の子と気が合ったヤンキー、土屋アンナは、この地の小さなヤンキー・グループを仕切っている。まったく性格も好みも違う二人の友情物語である。
嶽本野ばらの原作で、内容は劇画的である。時折、エピソードをアニメで挿入したりしたところが新しい工夫といえようが、これは成功しているとは言えない。しかし、これは深田恭子のための映画であるといっていい。
少しおつむは良くないかもしれないが、それを上回るとぼけた可愛らしさの役どころでは他の追随を許さない深田恭子を見てみようと思った程度だったが、意外と楽しめるコメディー映画になっていた。
やはりフランス人形みたいな深田恭子には、このロリータ・ファッションはよく似合っていて、頭の構造はともかく、この道の王道を歩いているかのような小倉優子も遠く及ばないだろう。
彼女の「人生なんて甘いお菓子と同じ」と、好きなことをやったらいいという奔放な人生観が、田舎の風景とミスマッチしていてこの映画の大きな暗喩にもなっている。
こんな彼女に、この地の人たちは、何も東京まで行かなくても、郊外にある大型スーパー店(イオン)に行けば、何でもあるよと言う。町の人たちの、安いという価値観だけでこの手の大型商店を評価しているのを皮肉っているが、それを否定しているのではない。笑いに昇華し、群れることを否定しているのだ。個性を大切にしないといけない、と言っているのだ。
いや、郊外の幹線道路にある大型スーパー店が創り出す人工的な商店街の典型が、下妻というシチュエーションなのかもしれない。今や全国的に、この手の郊外大型商店が、旧来の駅前の商店街、スーパーを衰退させ、街を形骸化さしている。
そして、郊外には必ずファーストフード、大型パチンコ店がある。それらの足は車である。それ故、電車やバスなどの公共交通は衰退の一途である。地方都市は、都会と違って車が不可欠になっていて、その利便的な車が街を衰退化させているという皮肉な一面が起こっている。
地方に行けば、気がつくはず。地方の街は、急速に変わってきている。郊外、車、大型スーパー店、パチンコ店、ファーストフード、このようなキーワードが、現在の地方都市を表わしていると言える。
この映画から汲み取れるのは、情報や品物は、都市とりわけ東京と地方は時間差がなくなってきているのに、内実はどんどん乖離しているということである。
田園の中のフリフリのファッション、縁側のある畳と障子の家の中のロココ趣味は、地方が都市を追いかけて表面だけを囓り取った結果、歪曲的に成長しているのを表わしているのではなかろうか。
地方の良さを守れといったところで、それは無理である。歴史が、それを証明している。文明とは、あるいは資本の論理とは、津波のようなもので、何もかも飲み込んでいってしまう。津波で荒廃した跡地には、「のようなもの」が新しく建ち並び、似ても似つかないものになるのである。
映画の最後は、ロリータ少女がヤンキーのグループと派手な喧嘩の末、自分の才能を開くために仕事をやろうかという教訓めいた暗示話で終わるのが意外であった。
喧嘩の場所は、牛久の巨大大仏の前である。確か日本一、いや世界一の大仏である。奈良の大仏が手の平にのるほどの巨大大仏が田園の中にある。いつ、誰が建てたのだろう。
地方は、どこへ行こうとしているのだろう。そして、どうなるのだろうと思ってしまった。
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