島田洋七原作 倉内均監督 吉行和子 工藤夕貴 浅田美代子 山本太郎 三宅祐司 2006年作品
第1次漫才ブームは何年前だったのだろうか。当時のお笑いのスケールや熱気やタレントの才能などは、今のお笑いブームの比ではない。そのとき、人気を2分していたのがビートたけしのツービートと島田洋七のB&Bであった。島田神助などは、この島田洋七に憧れてお笑い界に入ったと後述している。
その島田洋七の少年時代の回顧作が『佐賀のがばいばあちゃん』である。一昨年だったか、文庫(徳間文庫)が出たときに、読んだらあまりの面白さに、感嘆したものだった。その後、佐賀の本屋で、洋七が映画化を熱望していて、自分で監督にも熱意を持っているというビラがあった。
そして、ようやく映画が完成し、公開となった。監督は洋七ではないが、奔放な洋七ではないことは、それはそれでよかったのだろう。しかし、たけしに対抗して洋七の監督作品というのも見てみたいという気持ちも残った。おそらく、大成功か大失敗かのどちらかのような気がする。
まずは『佐賀のがばいばあちゃん』は、佐賀をはじめとした九州公開の後、6月から東京などで全国公開する予定だという。
佐賀滞在の日が少なくなったので、東京での公開を待たずに、佐賀市の松原神社近くの映画館に観にいった。佐賀で映画を観るのは、本当に久しぶりだ。おそらく学生時代以来だ。
物語の内容は、広島で母子家庭であった小学生の洋七が、佐賀のおばあちゃんの家で育てられることになる。その彼の小学校から中学を卒業するまでの、佐賀でのおばあちゃんとの生活や学校でのエピソードの数々の話である。
成人した洋七(映画では三宅祐司)が、列車での母親との別れで泣いている少年に、かつての自分を見る。
映像では、丹念に昭和30年代の生活の断片が映し出される。かまどでの炊飯、鉄屑拾い、蒸気機関車、そしてその頃の遊びの花形であった草野球。グローブが買えない草野球は哀しくも楽しい。
突然始まった洋七少年の佐賀での生活は、広島でも貧しかったけど、ここはもっと貧しいと言わせるものだった。しかし、それを救い支えていたのは、がばいばあちゃんであった。
「がばい」とは、とてもとか大変とかの意味の副詞であると同時に、すごいといった形容詞にも使う佐賀の方言である。
そのがばいばあちゃんを、吉行和子が熱演している。ばあちゃんが漏らす台詞が、素朴だが輝いていて、陰湿な内容になるところを逆に笑いにしている。
ばあちゃんの家は、爪に火を灯すような生活をしている。「ケチはいかん、ばってん節約は天才ばい」
洋七少年は訊く、どうしてうちは貧乏なの?「貧乏には2種類ある。明るい貧乏と、暗い貧乏。うちは明るい貧乏たい。しかも、代々貧乏の伝統ある貧乏ばい」
洋七少年が自転車にぶつかり目を傷め、病院に行き治療する。そのときお金を持たなかったので、病院の先生は治療代は要らない、今日はバスで帰りなさいとバス賃まで洋七に渡す。「それはもらうわけにはいかん。今すぐ、治療代とバス賃を返しに行こう。うちは、人の助けを借りんで、ちゃんと生きてるばい」
ばあちゃんは貧乏でも、使うときは使うのである。洋七少年が、中学のとき野球部のキャプテンになった。そのことを伝えに来た担当教師からキャプテンとは主将であり、つまり大将のようなものですと言われ、大喜びしたばあちゃんは、大切にしまっていたなけなしの1万円札を箪笥の中から引き出す。そして、夜中であるのにかまわず洋七を連れて、運動具店に行き、店主(島田神助)を起こして、洋七が欲しがっていたスパイクを今すぐ売ってくれと頼む。
ばあちゃんは、「一番高いスパイクを出してくれ」と、1万円札を差し出す。運道具屋は、何でこんな時間にと、眠そうな顔をこすりながらも、奥からスパイクを取り出し、「これが一番高いので、2千250円」と答える。ばあちゃんは、「そこを何とか、1万円で」とお願いする。運道具屋は、「そう言われても、2千250円が一番高いので」と言うのに、ばあちゃんは「そこを何とか1万円で」と頼むのであった。
映画の中では、緒形拳の豆腐売り、島田神助の運道具屋、山本太郎の教師など、脇役がいい味を出している。
佐賀のがばいばあちゃんは、普遍的な懐かしい祖母や母の姿である。
映画が終わり、がばいばあちゃんも歩いたであろう黄昏時の佐賀市の街を歩いた。かつて賑やかであった市の中心街の唐人町、白山通り辺りは人通りも少なく寂しさを漂わせていた。
第1次漫才ブームは何年前だったのだろうか。当時のお笑いのスケールや熱気やタレントの才能などは、今のお笑いブームの比ではない。そのとき、人気を2分していたのがビートたけしのツービートと島田洋七のB&Bであった。島田神助などは、この島田洋七に憧れてお笑い界に入ったと後述している。
その島田洋七の少年時代の回顧作が『佐賀のがばいばあちゃん』である。一昨年だったか、文庫(徳間文庫)が出たときに、読んだらあまりの面白さに、感嘆したものだった。その後、佐賀の本屋で、洋七が映画化を熱望していて、自分で監督にも熱意を持っているというビラがあった。
そして、ようやく映画が完成し、公開となった。監督は洋七ではないが、奔放な洋七ではないことは、それはそれでよかったのだろう。しかし、たけしに対抗して洋七の監督作品というのも見てみたいという気持ちも残った。おそらく、大成功か大失敗かのどちらかのような気がする。
まずは『佐賀のがばいばあちゃん』は、佐賀をはじめとした九州公開の後、6月から東京などで全国公開する予定だという。
佐賀滞在の日が少なくなったので、東京での公開を待たずに、佐賀市の松原神社近くの映画館に観にいった。佐賀で映画を観るのは、本当に久しぶりだ。おそらく学生時代以来だ。
物語の内容は、広島で母子家庭であった小学生の洋七が、佐賀のおばあちゃんの家で育てられることになる。その彼の小学校から中学を卒業するまでの、佐賀でのおばあちゃんとの生活や学校でのエピソードの数々の話である。
成人した洋七(映画では三宅祐司)が、列車での母親との別れで泣いている少年に、かつての自分を見る。
映像では、丹念に昭和30年代の生活の断片が映し出される。かまどでの炊飯、鉄屑拾い、蒸気機関車、そしてその頃の遊びの花形であった草野球。グローブが買えない草野球は哀しくも楽しい。
突然始まった洋七少年の佐賀での生活は、広島でも貧しかったけど、ここはもっと貧しいと言わせるものだった。しかし、それを救い支えていたのは、がばいばあちゃんであった。
「がばい」とは、とてもとか大変とかの意味の副詞であると同時に、すごいといった形容詞にも使う佐賀の方言である。
そのがばいばあちゃんを、吉行和子が熱演している。ばあちゃんが漏らす台詞が、素朴だが輝いていて、陰湿な内容になるところを逆に笑いにしている。
ばあちゃんの家は、爪に火を灯すような生活をしている。「ケチはいかん、ばってん節約は天才ばい」
洋七少年は訊く、どうしてうちは貧乏なの?「貧乏には2種類ある。明るい貧乏と、暗い貧乏。うちは明るい貧乏たい。しかも、代々貧乏の伝統ある貧乏ばい」
洋七少年が自転車にぶつかり目を傷め、病院に行き治療する。そのときお金を持たなかったので、病院の先生は治療代は要らない、今日はバスで帰りなさいとバス賃まで洋七に渡す。「それはもらうわけにはいかん。今すぐ、治療代とバス賃を返しに行こう。うちは、人の助けを借りんで、ちゃんと生きてるばい」
ばあちゃんは貧乏でも、使うときは使うのである。洋七少年が、中学のとき野球部のキャプテンになった。そのことを伝えに来た担当教師からキャプテンとは主将であり、つまり大将のようなものですと言われ、大喜びしたばあちゃんは、大切にしまっていたなけなしの1万円札を箪笥の中から引き出す。そして、夜中であるのにかまわず洋七を連れて、運動具店に行き、店主(島田神助)を起こして、洋七が欲しがっていたスパイクを今すぐ売ってくれと頼む。
ばあちゃんは、「一番高いスパイクを出してくれ」と、1万円札を差し出す。運道具屋は、何でこんな時間にと、眠そうな顔をこすりながらも、奥からスパイクを取り出し、「これが一番高いので、2千250円」と答える。ばあちゃんは、「そこを何とか、1万円で」とお願いする。運道具屋は、「そう言われても、2千250円が一番高いので」と言うのに、ばあちゃんは「そこを何とか1万円で」と頼むのであった。
映画の中では、緒形拳の豆腐売り、島田神助の運道具屋、山本太郎の教師など、脇役がいい味を出している。
佐賀のがばいばあちゃんは、普遍的な懐かしい祖母や母の姿である。
映画が終わり、がばいばあちゃんも歩いたであろう黄昏時の佐賀市の街を歩いた。かつて賑やかであった市の中心街の唐人町、白山通り辺りは人通りも少なく寂しさを漂わせていた。
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