goo blog サービス終了のお知らせ 

かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

謎の東京観光・京王路線バス「渋谷~新橋」に乗ってみた

2022-07-31 04:06:46 | * 東京とその周辺の散策
 四谷在住の友人が、「このまえ、四谷から新橋に行くのに不思議なバスに乗った」と言ってきた。
 「最近できた渋谷から新橋に行く路線バスだけど、これがちょっと変わっているの。それに、路線バスなのに1日3便しかないし」と。
 都心の路線バスで1日3便とは少ない。私の田舎の佐賀のバスでさえ、それよりは確実に多い。それに、確かに何か不思議な匂いがする。
 それで、何が不思議なのか試しに乗ってみることにした。

 そのバスとは、昨年(2021年)10月、京王バスが運行開始した、「052系統・渋谷駅~新橋駅」の路線バスである。
 1日3往復のみ。渋谷駅発(10 時20分/13時 10分/17時 10分)、新橋駅発(11 時50分/15時 50分/18時 40分)。運賃、大人210円(現金・ICとも)。

 *渋谷から、新宿、四谷、大手町、銀座を周り新橋へ

 6月1日、渋谷駅13時10分発、新橋駅行の京王バスに乗車。
 これから、謎の路線バスの経路をたどっていくが、興味のある方は東京の地図を見ながら読まれた方がいい。

 ➀・渋谷駅→・代々木公園駅→・参宮橋駅→・西参道
 渋谷駅の発着は2番乗り場で、「渋谷マークシティEAST」の真ん前である。(写真)
 この日、渋谷からバスに乗ったのは、私たち試乗探索隊3人と、早くから来て停車しているバスの写真を撮っていたマニアとおぼしき男性1人、一般サラリーマン風男性1人の5人である。
 「渋谷駅」を出発したバスは、いきなり例のスクランブル交差点を突っ切って進んでいく。
 「神南一丁目」を左折してパルコを左に見ながら公園通りを進み「渋谷区役所」へ。そこを左折して、さらに右折し、NHK放送センターを右に見ながら「放送センター西口」を経て、「代々木公園駅」へ。この間、3組4人が乗車。
 バスは、右に代々木公園を見ながら「参宮橋駅」へ。そこで小田急線を跨いで進み、「西参道」で甲州街道を横切って直進する。
 ここから、渋谷区から新宿区へ入る。

 ②・十二社池の上→・十二社池の下
 バスは、西新宿の高層ビル街に入った。
 まず、最初の停留所の名前は「十二社池の上」で、次が「十二社池の下」。

 *「十二社」が誘う、西新宿の古い地名の記憶
 この名前を見たとき、眠っていた記憶が呼び戻されたような気がした。私が東京に出てきたときの記憶で、もう何十年も埋もれていたものだ。「十二社」と書いて「じゅうにそう」と読む。今は地名から消えている。
 1960年代、私が学生の頃は、新宿の東口は若者の街として賑わっていたが、西口の奥は未開の地だった。
 「十二社」は、名前は聞くが大人の場所だったとの思いだ。
 池がないのに池が付いているのは、かつて池があったのだ。そう、今はまったく姿は変わったが、ここは元花街だったところなのだ。「十二社」と、今もバス停で名前が残っているとは思いもよらなかった。
 バスの通りの右手には巨大な都庁のビルが聳えているが、かつては「淀橋浄水場」が広がっていた。
 当時、その近くの「柏木」(現・西新宿、北新宿)に、同級生が住んでいて、彼のアパートに行ったことがある。当然今のようなビルはなく、平屋や2階建てのアパートが並んでいた。田舎から出てきたばかりの私には、地方にはない大人の臭いのする街だった。
 「この辺りには水商売の女が多いんだよ。歌舞伎町にも近いしね」と、一浪していて少しませた同級生の彼は言った。その彼も、あまり授業には出てこず、歌舞伎町でボーイのバイトをやっていた。
 その頃、田舎出の私には何となく「ボーイ」というアルバイトが格好よく見えた。
 「ボーイ」は、ウェイター、ホールスタッフのことで、現在はほとんど使われていない。フランスの「ギャルソン」も使われなくなっているそうだ。
 早く大人の世界に染まりたかった私は、その冬、新宿でボーイのアルバイトをやったのだった。歌舞伎町にあるヨーロッパの古城のような造りの豪華な喫茶店「王城」の姉妹店で、新宿東口の武蔵野館の近くに開店した喫茶「西武」である。
 当時のその店は、喫茶店なのだがシャンデリアで飾り付けたクラブのような派手な店構えで、きらきら光るガラスのシャンデリアが私には眩しかった。1階がパチンコ店、2、3階が喫茶、4階が同伴喫茶、その上がキャパレー「メトロ」だったと記憶している。
 今も老舗の喫茶店として、地道に残っているのには嬉しいかぎりである。

 ③・十二社池の下→・新宿駅西口
 バスは、新宿西口高層ビル群を進む。
 渋谷の「放送センター西口」で乗車したリクルートスーツを着た若い男女の2人が、「十二社池の下」で降りた。NHK関連の人が都庁に行くのだろうかと思った。都庁の人がNHKから戻ってきたという、逆の場合もありうるだろう。あるいは、両方に全く関係ない人だというのもないわけではない。どちらにせよ時間さえ合えば、効率のいい利用法だ。
 バスは西口高層ビル街の「新宿住友ビル」、「新宿センタービル」を過ぎ、東京モード学園のコクーンタワーを横切って、地階の車道を回りながら地上の西口へ。
 小田急百貨店前の「新宿駅西口」に着いた。この辺りは見なれていたのに、駅前の通りに面してバス停があるとは知らなかった。ここで2人下車。
 時刻は13時40分だから、出発からちょうど30分である。
 渋谷駅から新宿駅までの間、停留所は15か所。路線バスとしてはノーマルだ。

 ④・新宿駅西口→・新宿御苑→・四谷一丁目
 「新宿駅西口」からは甲州街道に出て、左折する。
 新宿駅南口前を通って、新宿御苑を右に見ながら、「新宿御苑」を過ぎる。
 新宿御苑を過ぎ去ったら、新宿通りを四ツ谷駅手前の停留所「四谷一丁目」まで一直線である。
 時刻は13時52分。

 ⑤・四谷一丁目→・大手町
 「四谷一丁目」からの進み方、走り方が変わっている。路線バスとは思えないコースを走る。それも、終点の新橋まで、大手町で一度停まるだけである。
 つまり、四谷から大手町までかなりの距離だがノンストップなのである。人家のない山里を走るのではない。う~む、凄い!といえる。

 「四谷一丁目」から新宿通りの四ツ谷駅に架かる四谷見附橋を通り、新宿区から千代田区に入る。
 新宿通りを、麹町、番町を突っ切ると「半蔵門」にぶつかる。
 半蔵門で「内堀通り」を右に南下して日比谷方面に向かうと思ったら、内堀通りを左(北)に進む。左手に英国大使館が、右手は内堀と皇居が広がっている。
 このまま真っすぐ九段方面に行くと思いきや、桜の名所の千鳥ヶ淵の手前になる「千鳥ヶ淵」の交差点信号で、急に皇居側の東の方に、内堀を突っ切るように右折する。
 突き進んだこの道は花木も植えてあり、とてもきれいな通りだ。毎年千鳥ヶ淵で花見をしてきたのに、この道は初めてである。「代官町通り」という。
 通りの右は皇居に隣接している。左に見える、赤煉瓦の旧東京国立近代美術館工芸館を過ぎると、右手に「北詰橋門」。さらにその左先に、国立公文書館、国立近代美術館が並ぶ。その奥は「北の丸公園」である。

 皇居に沿って進んだ道の正面に毎日新聞社が見えると「竹橋」である。
 竹橋で内堀通りを皇居に沿って右に曲がり、大手門方面に南下すると思いきや、今度も意外や反対に北の方に左折した。すぐの共立女子大学が見えたところで右(東)へ曲がる。
 左手に、古い正面建物を復元した広告代理店「博報堂」の神田錦町の旧本館が見える。出版社勤務時代に何度か通ったところで懐かしい。
 「美土代町」の交差点で南へ右折して、そのまま本郷通りの「大手町」へ。バスの停留所は、高層ビルの大手町フィナンシャルシティ「グランキューブ」の1階にある。
 時刻は14時10分。四谷から、ノンストップで皇居半周した形だ。

 ⑥・大手町→・新橋
 大手町のビル街をそのまま日比谷通りを南下すると、右手は皇居の「和田倉門」が、左手に「東京駅」が見られる。
 左手は、皇居に向かって帝国劇場、戦後GHQにより接収された旧第一生命館など、由緒ある建物が並ぶのを見ながら過ぎる。その奥一帯は、日本最上級のビジネス街の「丸の内」だ。
 「日比谷」に出たところの「晴海通り」で左折する。左手の「有楽町」の駅を過ぎると、右手に「数寄屋橋」を見ながら、「銀座」の中心街の中へ突入だ。
 和光、三越、三愛に囲まれた「銀座4丁目」の交差点を、バスは抜ける。銀座の中心をバスで通ったのは初めてだ。
 銀座4丁目の先の「歌舞伎座」のある「三原橋」の交差点で、右折して昭和通りを南下すると、もう終点「新橋駅」だ。
 新橋駅で降りた乗客は、始発の渋谷から乗った4人と、途中数人の乗り降りがあったが、途中から乗った中年の女性1人の計5人であった。
 降りるとき、運転手の人が言った。
 「普段はこの路線バスは、燃料電池バスSORAなんですが、たまたま今日は車両の点検のため普通の車両なんです。こんなこと、滅多にないんですけどね」と、申し訳なげだった。

 「渋谷駅」から「新宿駅」までは普通の路線バス。「四ツ谷」から皇居を迂回し「大手町」までノンストップ、「大手町」から銀座を周って「新橋駅」までノンストップ、である。
 不思議といえる路線バスだ。
 何のため、誰が利用するのか?もう、「はとバス」より格安の観光バスといっていい。
 時刻は14時30分。渋谷駅から新橋駅まで全長17.8km、所要時間1時間20分のバス遊覧旅であった。

 *実は、復路の「新橋駅→渋谷駅」によって、皇居一周の循環バスだった

 復路の、新橋駅~渋谷駅間も路線バスとして通っている。
 これが、往路の渋谷駅~新橋駅とは、進むコースが全く違うのだ。
 「新橋駅」から、次はいきなり「四ツ谷一丁目」である。「大手町」には寄らない、というより、大手町とは違った反対の方向へ行くのだ。
 復路の「新橋駅」を出たバスが、往路に従って大手町方面に戻るとなれば、どこかでUターンしなければならない。
 しかし、復路の渋谷駅行のバスは、往路の進行方向のまま南下し、右(西)へ曲がり「環二通り」を「虎ノ門」方面へ進む。地下に潜る、いわゆる俗称「マッカーサー道路」を通り、「外堀通り」に合流して「赤坂見附」へ出る。
 「赤坂見附」からは、右手の外濠「弁慶堀」の向こうは「紀尾井町」で、左手の「赤坂迎賓館」を過ぎたら、もう目の前は「四ツ谷駅」である。
 四ツ谷駅から新宿通りに入れば、すぐに「四ツ谷一丁目」の停留所である。出発の新橋駅から、ここまでノンストップという意外さ。
 「四ツ谷一丁目」からは、「新宿駅西口」、「渋谷駅」へと、ほゞ往路と同じ逆コースで進む。
 新橋駅から澁谷駅の間、14.2km、所要時間1時間10分の旅。

 地図を照らしあわせたらお分かりであろう。
 この路線は、渋谷から新宿という東京の繁華街の双璧をくぐり抜けた後、四谷から江戸城の外濠と内壕をなぞりながら、ビジネス街と洒落た銀座を睥睨しながら、ぐるりと皇居を右(時計回り)に、周回するのである。
 まさに、「東京観光循環路線バス」といえよう。

 *新橋の「旧新橋停車場駅舎」から、奥銀座へ

 実は新橋から渋谷の往路は、私は残念なことに、その日乗っていない。
 その日は、バスで停留所「新橋駅」を出たあと、新橋駅近くにある鉄道発祥の地に建った「旧新橋停車場駅舎」を見て、銀座のビルの路地中にある「豊岩稲荷神社」と「三原小路」を散策し、東銀座の奥の「新富町」に出てフレンチを食べて帰ったのだった。
 だから往路の記事は、京王バスの路線案内図と、何度か新橋駅から四谷一丁目間を乗った四谷在住の友人による情報によった。
 今度は、渋谷駅~新橋駅~渋谷駅の、東京循環を遂行するつもりである。
 そのときは、燃料電池バスSORAに乗ろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本発祥の地を求めて、横浜④ 「新聞」および「鉄道」の事始め

2022-07-24 03:42:44 | * 東京とその周辺の散策
 横浜の日本発祥の地、碑を求めて、山下公園から日本大通りをへて馬車道へ。
 そして、JR桜木町駅方面に向かった。
 神奈川県歯科医師会のある神奈川県歯科保健総合センターの前に記念碑が並んでいる。
 ⑩「我国西洋歯科医学発祥の地」(横浜市中区住吉町)
 幕末に来日した米国人ウィリアム・クラーク・イーストレイクが、2度目の来日の1865(慶応元)年に歯科診療所(場所不明)を開設。3度目に来日したときの1881(明治14)年に、横浜の外国人居留地に歯科診療所を開設した。そのゆかりの地に、1985(昭和60)年、神奈川県歯科医師会により記念碑が建てられた。
 ということで、碑は元々は旧外国人居留地(横浜市中区山下町160)にあったのだが、その後現在地に移転された。
 「西洋歯科医学勉学の地」なる碑が、同じ地に並んである。

 *文明開化は、瓦版から新聞へ

 みなとみらい線、馬車道駅近くの横浜市新市庁舎の敷地内に、四角い石碑が構えている。
 ⑪「日刊新聞発祥の地」(横浜市中区本町6)
 石碑には「横浜毎日新聞」創刊号の紙面写真が銅板として埋め込まれている。ここは、もともと日刊新聞発祥とされる横浜毎日新聞があったところ。
 日本には江戸時代に、木版あるいは粘土板を用いて刷った「瓦版」という現代でいうとところの新聞があった。そして、開港後の江戸末期には新聞が発行された。
 日本語による日刊新聞の最初が,1870(明治3)年に発刊された「横浜毎日新聞」である。これは紙の両面に鉛の活字を使って活版印刷したものであった。
 その後、1872(明治5)年には「東京日日新聞」、「郵便報知新聞」などが創刊された。
 「横浜毎日新聞」は、 1879(明治12)年に東京に移り「東京横浜毎日新聞」となり, さらに「毎日新聞」「東京毎日新聞」と紙名を変え、1941(昭和16)年に「帝都日日新聞」に吸収合併され消滅した。
 現存する日刊紙で最も古い新聞は、「東京日日新聞」をルーツとする「毎日新聞」である。

 何をもって発祥とするかは、基準をどこにおくかによって異なってくるし様々である。
 この横浜発祥の地探索の最後に「横浜中華街」に行ったのだが、ここで新聞発祥の関連として、関帝廟の近くにある、もう一つの新聞発祥の地の碑を紹介しておこう。
 ⑫「日本国新聞発祥之地」(横浜市山下町)
 碑文には、「日本における新聞誕生の地」として、「ここ、横浜の元居留地一四一番は、一八六四(元治元)年六月二十八日、ジョセフ彦が、「海外新聞」を発刊した居館の跡である」とある。

 日本の新聞の歴史を調べてみると、日本における近代新聞としては、1861(文久元)年5月に英字新聞「ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー」(長崎)、同年10月に英字新聞「ジャパン・ヘラルド」(横浜)が発行された。
 1862年1月(文久元年12月)には初の日本語の新聞として「官板バタビヤ新聞」が発行される。これはジャワ(現・インドネシア)で発行されていたオランダ語の新聞を、江戸幕府により和訳したものである。
 1864(元治元)年、ジョセフ彦(浜田彦蔵)によって発行された「新聞誌」(翌年「海外新聞」に改名)が、日本初の日本語による民間新聞ということなのだろう。

 *横浜港は、「灯台」発祥の地?

 大岡川の川縁に沿って歩くと、埠頭を臨む北中橋に出る。馬車道駅からも桜木町駅からもすぐのところだ。
 その北仲通北第一公園の一画に、赤レンガが敷かれたエリアがあり、ここにさりげなく碑がおかれている。
 ⑬「灯台発祥の地」(中区北仲通6丁目)
 碑には、「交易船舶の安全のため、西洋諸国から灯台の建設を求められた明治政府は、外国人技師を招聘し、明治2年に灯台事業を担う役所として「燈明台(とうみょうだい)局」を、更に、明治7年には「燈明番(とうみょうばん)」(いわゆる灯台守)の教育及び建設する灯台の試験調整を行うための「洋式試験燈台」を、ここ、横浜元弁天(現在の中区北仲通6丁目)に設置しました。」とある。
 ここからは、みなとみらいのビル群や汽車道が、見上げればロープウェイのエア・キャビンが空を舞っている。

 日本における江戸時代は、海辺とて灯明台や常夜灯の設置のみで航路標識は整備されていなかった。だから、開港後、外国船の往来が頻繁になるにしたがい、遠くまで明かりが届く洋式の灯台が必要であった。
 横浜が開港した幕末・明治期には、この辺りまで海が迫っていたのだろう。外国船の到来とともに、近代的な灯台の設置を求められ、その試験灯台がここに造られたのだ。

 日本最初の洋式灯台は、1869(明治2)年に点灯した三浦半島の「観音埼灯台」(横須賀市)で、着工した1868(明治元)年の11月1日が「灯台記念日」となっている。
 灯台といえば、スペイン北部の北大西洋岸に建つ「ヘラクレスの塔」が頭に浮かぶ。ローマ時代に建てられたといわれているので約1900年前の、石を積み上げて造られた見た目も風格がある建造物だ。今でも現役というので、現存する最古の灯台といえよう。

 *初めて、新橋から横浜へ鉄道(列車)は走った

 JR桜木町駅にやってきた。日本初の鉄道が走った横浜駅のあったところだ。
 ⑭「鉄道創業の地」(JR桜木町駅近く)
 1872(明治5)年10月14日(旧明治5年9月12日)、東京~横浜間29kmの鉄道が正式開業した。
 開業日のお召し列車には、明治天皇以下、鉄道敷設に尽力した伊藤博文、大隈重信や反対派だった西郷隆盛などの政府高官、外国大使、有力者などが乗車し、東京(新橋)駅では盛大な開業式が行われた。
 当時、ここ桜木町が横浜駅とされていた。JR 桜木町駅から関内寄りの少し薄暗い場所に縦長方形の鋼鉄製の碑版が建っている。「鉄道創業の地」の記念碑である。(写真)
 鉄道発祥の地としては、少し意外な印象を受けた。黒く文字が読みにくいので、まるで「2001年宇宙の旅」に登場する、石柱状のモノリスのようだ。
 現在、東京の鉄道発祥の起点駅である新橋駅近くに、「旧新橋停車場」として綺麗な駅舎が復元され、「鉄道歴史展示室」が併設されている。
 これに反し、桜木町の駅や近辺には、鉄道揺籃時の展示がされていて工夫と努力の跡が見てとれるが、「鉄道創業の地」は鉄道関連の施設や建物はなく何とも簡素な感じだ。普通に歩いていると、ただただ通り過ぎるだろう。
 新橋駅前にSL(蒸気機関車)が展示置かれているのに対抗し、鉄道開業当時の復元列車が、あるいは、せめて模型の機関車が展示されていたら、と思った。これからでも遅くはない。
 ちなみに、新橋駅前のC11形蒸気機関車は、新橋駅、あるいは東京駅を通ったことはない列車である。

 *中華街のガチ中華へ

 日も暮れたので、桜木町から中華街に向かった。
 先に⑫「日本国新聞発祥之地」で紹介した、関帝廟近くの碑を見たあと、横浜といえば湘南の士といつもいく、馴染みといっていい東北(満州)料理店「東北人家」に行くことにした。
 ここのところ店が繁盛しているのか、2店目となる新館が開いているので、この日はそちらに行ってみた。
 メニューは本館(本店)より東北料理により特化していて、羊料理が多彩だ。だったら、羊、望むところだ。
 頼んだ料理は、羊肉串、羊舌の東北冷菜、羊肉のクミン炒め、羊肉臓と高菜の酸辣煮込み鍋、羊肉焼き餃子、と羊づくしだ。
 それと、濃い味に合う紹興酒。

 *
 この日のあと、テレビで横浜中華街の「ガチ中華」として、この店が紹介された。中国人が通う、日本人に忖度しない本場の味の店を「ガチ中華」と呼んで、人気になっているそうだ。
 最初にこの店に行ったのは7年前の2015年で、その頃は、店に行ったときは、いつも隣のテーブルや周りで食べていた人たちはほとんど中国人だった。近年、日本人の客も見うけられるようになったが、ブームに敏い日本人であるからさらに増えるに違いない。

 この頃、中華大通りの中央に店を構える、横浜中華街の老舗「聘珍樓」(へいちんろう)横浜本店が5月閉店し、6月横浜地裁より破産開始決定を受けた。
 時代の流れとはいえ、豪奢な店構えで横浜中華街のシンボル店のようだった老舗がなくなるのは、中華街の通りの風景として寂しい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

銀座の「並木」

2022-07-04 03:15:50 | * 東京とその周辺の散策
 *銀座の柳

 横浜では馬車道の街路樹が近代日本では初めてとあるが、東京では1874(明7)年、「銀座通り」に、桜(サクラ)と黒松(クロマツ)が植えられたのが最初である。
 しかしうまく育たなかったようで、1880(明治13)年頃、水分が多い埋め立て地にも強い柳(ヤナギ)に植え替えられた。
 歌でも有名な、「銀座の柳」の所以である。

 …昔恋しい銀座の柳……
 「仇(あだ)な年増(としま)を誰が知ろ」と続く。「銀座の柳」といえば、この歌であろう。
 1929(昭和4)年、佐藤千夜子が歌った日活映画「東京行進曲」(監督:溝口健二)の主題歌である。銀座だけの歌ではなく「東京行進曲」(作詞:西條八十、作曲:中山晋平)という東京のマーチなので、2番は、「恋の丸ビル、あの窓あたり…」、3番は、「粋な浅草、忍び逢い…」、と当時の東京の街が並ぶ。
 しかし、一世を風靡したこの歌の出だしの文句によって、銀座といえば柳の木と、全国の人々に深い印象を植えつけ、定着していった。
 ここで面白いのは、4番の歌詞で、「かわる新宿、あの武蔵野の…」であるが、「シネマ見ましょか、お茶のみましょか、いっそ小田急で逃げましょか」とある。
 東京の街は、東から西の方へ発展していき、その頃の新宿はやっと栄えはじめた新興繁華街である。現在も活動している映画館の新宿武蔵野館は1920(大正9)年オープンだから、シネマはこの映画館のことだろう。
 そして、小田原急行鉄道、つまり小田急の小田原線が開通したのが、この歌が発表された2年前の1927(昭和2)年のこと。新しくできた電車に乗って、小田原まで駆け落ちしましょうか、ということか。

 …植えてうれしい 銀座の柳……
 銀座8丁目に、歌碑「銀座柳の碑」があり、歌詞と楽譜が刻まれている。それがこの「植えてうれしい 銀座の柳…」という歌である。
 最初この歌碑を見とき、おやっと腑に落ちない思いがした。当然「昔恋しい銀座の柳…」という歌だと思っていたのだが、知らない歌だったからだ。
 この曲は、1932(昭和7)年発売された「銀座の柳」で、作詞・西條八十、作曲・中山晋平という「東京行進曲」と同じコンビで、歌ったのは四家文子である。
 「東京行進曲」に「昔なつかし…」とあるように、歌が出た当時、イチョウに植え替えられたり関東大震災などにより、銀座には柳はなかった。
 しかし、「東京行進曲」の大ヒットにより銀座に柳を復活させようという機運が高まり、1931(昭和6)年に銀座に柳が再び植えられた。この歌「銀座の柳」は、それを記念して作られたもの。しかし、知名度は「東京行進曲」に遠く及ばない。
 現在建っている歌碑は、1954(昭和29)年、銀座通連合会が建立。

 …花咲き花散る宵も、銀座の柳の下で……
 銀座に柳が定着した頃の1936(昭和11)年、藤山一郎が歌って大ヒットした「東京ラプソディ」(作詞:門田ゆたか、作曲:古賀政男)である。
 「東京行進曲」を意識したと思われ、マーチ(行進曲)からラプソディー(狂詩曲)へ。メロディーも躍動感にあふれ現代的である。
 この頃の歌には、この歌の翌年同じく藤山一郎が歌う「青い背広で心も軽く、街へあの娘と行こうじゃないか…」(「青い背広で」作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀政男)のように、哀調をおびた歌や軍歌の間に明るいモダンな歌が紛れている。
 時代の流れは、日本の傀儡による満州国が建国され、第2次世界大戦に向かい灰色化していく時代であるのだが、大正ロマンの残照が輝いていた。

 銀座の柳は、第2次世界大戦での東京大空襲、高度成長期の昭和40年代にほとんどなくなり、現在の柳は4代目という。
 ちなみに、「銀座の柳」に関する碑は、ここで取りあげた歌碑「銀座柳の碑」の他に、以下の2か所がある。
 銀座1丁目にある「銀座の柳由来」(銀座通連合会)。
 数寄屋橋公園にある「銀座の象徴 柳並木」(西銀座連合会)。

 *様々な顔を持つ、銀座の並木

 銀座の通りは、おおよそ縦(南北)と横(東西)に格子状に通っており、各々名前がついていて、並木の街路樹も柳だけではない。今は、13種類もの木が植えられている。
 現在の「柳通り」は、銀座1丁目と2丁目の間の横の通りである。銀座通り(中央通り)交点近くに「銀座の柳由来」の碑がある。
 柳通りの1本南の2丁目と3丁目の間の通りが「銀座マロニエ通り」で、パリの街路樹を模してフランス語のマロニエであるセイヨウトチノキが植えてある。
 その名の「並木通り」は、銀座通り(中央通り)に並行した、有楽町駅側の3本先(西)の縦の通りで、植えてある街路樹はシナノキである。
 銀座の通りの代表格の「中央通り」の木は、イチイである。

 銀座の並木の違いを見つけながら通りをぶらぶら歩くのも、一興であろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本発祥の地を求めて、横浜③ 「並木」の道に…

2022-07-01 23:30:00 | * 東京とその周辺の散策
 *街に流れた「並木」の歌

 …並木の路(みち)に雨が降る……
 「並木」と聞けば、何とはなしにこの歌の歌詞が出てくる。
 有名な「並木の雨」(作詞:高橋掬太郎、作曲:池田不二男)の出だしの文句である。
 歌ったのは並木路子、といえばあまりにも出来すぎた話になるだろう。本当はミス・コロムビア(松原操)で、曲は戦前の1934(昭和9)年の発売だが、戦後も多くの歌手がカバーしている。
 戦後の日本の幕開けを告げるかのような「リンゴの唄」を歌ったのが並木路子で、この芸名は「並木の雨」の歌詞の「並木の路に…」から付けたものといわれている。

 …並木の雨のトレモロを……
 「テラスの椅子でききながら…」と続けるのは、三浦洸一が歌う「東京の人」(作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正)である。1956(昭和31)年のヒット曲で、雨の音を音楽用語のトレモロと例える洒落た詩心が印象に残る。
 歌のなかに「銀座娘よ、なに想う」とあるように、東京がまだ本当の憧れの街だった頃の歌。
 この佐伯・吉田の作詞・作曲コンビは、のちに橋幸夫、吉永小百合、三田明などを世に出し、青春歌謡を牽引していく。

 …泣くな妹よ、妹よ泣くな……
 「泣けば幼い二人して、故郷を捨てたかいがない」という、この哀しみをおびた歌詞とメロディーは、古い歌なのに忘れがたい曲である。
 1937(昭和12)年、ディック・ミネが歌った、そのタイトルが「人生の並木道」( 作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀政男)。この歌が心に残るのは、「人生の並木道」というタイトルの持つ魅力にも依っているのかもしれない。
 「人生の並木道」とは、どんな道を想像するだろうか。茨の道だろうか、それとも花咲く道なのか。

 …ネムの並木のこの道は、チャペルに続く白い道……
 私の青春の頃の歌といえば、西郷輝彦の「チャペルに続く白い道」(作詞:水島哲、作曲:北原じゅん)である。橋幸夫・舟木一夫と共に「御三家」と呼ばれた3人のなかで、1964(昭和39)年、最後にデビューした西郷のデビュー曲「君だけを」に続く2曲目の盤。
 桜並木でもイチョウ並木でもなく、ネム(合歓)の並木である。私は、白い雲が浮かぶ青空の下の、細い道の先に建つ白い小さな教会を夢想していた。
 今年(2022年)2月20日、亡くなった西郷輝彦。鐘の鳴るネムの並木の先に、何が待っていたというのだろう。

 *並木と街路樹

 「並木」を辞書(広辞苑第二版補訂版)でひくと、「➀並び立っている樹木。②街路の両側に一列に植えた樹」とある。
 「街路樹」は、「市街の美観・保険のため道路に沿って植えつらねた樹木。行道樹」とある。
 聞きなれない「行道樹」をひいてみると、「道に沿って植えた樹木。並木」である。

 要するに、通りや道路に並んだ木を「並木」という。「街路樹」は、字から推測できるように街の道に植えられた木である。しかも、並んで植えられた木である。
 しかし、市下とはいえ人家のあまりない田舎の道に並んだ木を街路樹とは言わないような気がする。境界は曖昧だが、街路樹はあくまで街中、市街の並木の木を指すようだ。
 つまり、街路樹は都市部の専有用語だが、並木は都市も田舎も共有だといえる。
 東京の表参道もパリのシャンゼリゼ通りも、並んでいる木は街路樹だが、並木であり並木道である。
 街路樹は普通の並木と違って、何らかの意図でもって並木として植えられたと思う。その意図の主な目的は、街の美観の向上、通りの道を整える、樹影をつくることによる歩行者に対する日差しからの保護などであろう。

 *夢想する世界の並木道

 「日光街道の杉並木」や「パリ・シャンゼリゼ通りのマロニエの並木」など、有名な並木の道は世界中にあるが、私が感動したのはオランダである。
 アムステルダムから列車に乗って南の地方都市に向かって旅していたとき、車窓には若草色の緑の田園が広がっていた。日本の風景のように山があり人家がありというすぐに変貌する風景ではない。ただただ若草色の緑と青の地平線が延びて、広がった田園風景が続いた。
 その緑の田園を切り裂くように真っ直ぐな道が延びていて、時おり車や自転車が走っている。その道の両側には等間隔に木が植えられている。なんの木かは知らないが、どこまでも延びていく並木道。
 オランダはネーデルランドといわれているように、海を干拓として埋め立てた低地の国だ。だから、山や林を見ることはほとんどなく、平らな画用紙のような若草色の土地と、そこに定規で描いたような並木道がどこまでも続いていた。
 並木道とは、作られた道だ。オランダを旅したとき、この国は自分たちで土地を作り、道を作り、木を植えた、非常に勤勉な国民の国だと思った。

 ふと、最も古い並木道はどこであろうかと考えた。
 いつの時代か、どこぞやの道の両側に、並んだ木があっただろう。誰が植えたのかはもう誰も知らないし、自然にそうなったのかもしれない。人は、その道を何らかの思いを抱いて歩いたことだろう。
 それは、想像したとてわからない。
 では、街路樹はといえば、約3千年前に、インダス川の河口辺からインド北部を横断してアフガニスタンに到る「大幹道」(グランド・トランク・ロードGrand Trunk Road)に植えられた樹木といわれている。ガンダーラの道である。
 歴史の古い中国王朝でも、都には街路樹の並木道は作られていた。
 思うに、紀元前からあるローマの「アッピア街道」の松並木も歴史を彷彿させる。今はレスピーギの曲でも聴いて、夢想するしかないけど。

 では、日本の並木は、いつから、どこでできて、作られたのだろう。
 これも、規定するのは無理があろう。
 何をもって並木となすかははっきりしないであろうが、8世紀半ばの奈良平城京に橘(タチバナ)と柳(ヤナギ)の並木が、8世紀後半の京都平安京の時代には柳(ヤナギ)と槐(エンジュ)の並木が植えられたとある。
 8世紀半ば、奈良時代に遣唐使として唐に渡り帰国した奈良・東大寺の普照法師の提示により、太政官符で畿内七道の諸駅路の両辺に果樹となる木の植栽を決めた。これが日本における行政主導の街路樹のはじめの記録のようである

 *近代街路樹の始めは馬車道の並木

 さて、本道の横浜の「日本発祥の地」の散策を続けよう。
 ガス灯発祥の馬車道に続き、「馬車道の並木」を書こうと思っているうちに、こんな長い寄り道になってしまった。「ランダムウォーク」のように。

 ⑨「近代街路樹発祥之地」(馬車道)
 江戸・幕末の開国後には、1867(慶応3)年、横浜の馬車道に柳(ヤナギ)と松(マツ)が植えられた。これを近代の街路樹の始まりといい、馬車道にこのことを記念した石碑「近代街路樹発祥之地」がある。(写真)
 「近代――」とあるのは、おそらく明治以後ということであろうが、馬車道の街路樹植栽がその前年なので、幕末の西洋文明が入った以降という解釈であろう。
 現在の馬車道の木は、秋楡(アキニレ)である。

 東京では、1874(明7)年、「銀座通り」に桜(サクラ)と黒松(クロマツ)が植えられたのが最初である。
 しかし、銀座といえば、柳(ヤナギ)ではなかったのか?


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本発祥の地を求めて、横浜② 馬車道に残る近代日本の足跡

2022-06-23 02:36:58 | * 東京とその周辺の散策
 *すべては「関内」から始まった

 江戸末期、幕府はアメリカに、それまでの下田・箱館に加え、「神奈川」他の開港を迫られる。幕府は東海道の宿場町「神奈川」に外国人を入れたくなかったので、隣の小さな漁村の「横浜」を神奈川の一部だといって開港する。
 この日米修好通商条約によって、1859(安政6)年に開港された横浜に外国人居留地が設置された。その区域は掘割で仕切られ、入口の橋に関門(関所)が設けられた。このことから関門の内側である区域は関内居留地とも呼ばれ、その通称が今も残る「関内」である。

 そのとき、神奈川宿から横浜村へ道が作られ(横浜道)、大岡川の分流「派大岡川」(現在は消滅している)に架けられた「吉田橋」に関門が置かれた。吉田橋から旧居留地に至る道が「馬車道」である。
 江戸末期の開港当時は、日本人の乗り物は駕籠(かご)であって、外国人が乗る馬車は珍しかった。1969(明治2)年には、吉田橋から横浜-東京間の日本初の乗合馬車の営業が始まった。
 明治に入り近代化が進むにつれ存在意義がなくなった関門は、1871(明治4)年に廃止された。
 しかし、関内という呼称は駅名をはじめ建物などに残り続ける。馬車道の東側の、現在の中華街も県庁のある日本大通りも関内である。
 近代横浜は、ここから始まった。
 この当時、外国の玄関口でもあった「馬車道」には、いくつかの近代化日本の発祥の記念碑を見つけることができる。

 *ガス灯がともる「馬車道」

 横浜事始めの散策は、日本大通りから、本町通りに繋がる「馬車道」にやって来た。
 モダンな街並についた古風な通りの名の両サイドには、街路樹とともにガス灯が連なっている。モダンとレトロが混在している通りである。
 通りを歩いていて、まず目に入ったのは、大砲の弾の先に四角いボックスを置いたような碑。
 ⑥「日本写真の開祖 写真師・下岡蓮杖 顕彰碑」(馬車道)
 下田に生まれた下岡蓮杖は、1862(文久2)年に野毛で開業した横浜初の日本人写真家。のちに馬車道に写真館を開いた。
 馬車道から東京に向けての乗合馬車の事業を始めた人でもある。

 馬車道の通りを歩いていると、裸の女性が子どもを抱いて座っているブロンズ像に出くわす。日本アイスクリーム協会がアイスクリーム発祥記念として、寄贈した「太陽の母子像」である。
 ⑦「アイスクリーム発祥の地」(馬車道)
 幕末の1860(万延元)年)、咸臨丸による遣米使節がアメリカに派遣された。その使節団が訪問先のアメリカで口にしたのが、日本最初のアイスクリームと言われている。
 その時随行した町田房蔵は、その後再度渡米し、1869(明治2)年に横浜の馬車道通りに「氷水屋」を開いた。そのとき販売した「あいすくりん」が日本アイスクリームの事始めとなった。

 ⑧「日本で最初のガス灯」(馬車道)
 馬車道を歩いた車道側に並んだガス灯とは別に、建物側に特別に建てられたガス灯と碑がある。(写真)
 1872(明治5)年、 高島易断で知られる高島嘉右衛門によって設立された「日本ガス社中」により、 馬車道・本町通り等にガス灯が十数基設置された。これが日本での街灯として最初のガス灯である。
 当時、柱部は英国グラスゴー市から輸入し、灯具は日本人職人により製造された。それを復元したガス灯と記念の碑である。

 これより以前に、幕末に薩摩藩で、その後1871(明治4)年に大阪造幣局の周りでガス灯が灯されているが、街灯として利用されたのは横浜の馬車道が最初であった。
 東京では2年後の1874(明治7)年に、芝金杉橋から京橋までの銀座通りに85基のガス灯が灯った。これが、東京での初めてのガス灯である。

 JR桜木町駅近くにある横浜市立本町小学校の正門前に、さりげなくガス灯と碑が建っている。
 ⑨「日本ガス事業発祥の地」(横浜市中区花咲町)
 1872(明治5)年に馬車道に最初のガス灯が灯るが、それに伴い、伊勢山下石炭蔵跡(現・横浜市中区花咲町、本町小学校)に「日本ガス社中」(横浜瓦斯会社)が造られた。ここで、横浜のガス灯は造られた。
 横浜瓦斯会社はのちに、横浜瓦斯局、横浜市瓦斯局となり、さらにその後、東京ガス株式会社となる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする