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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

日本発祥の地を求めて、横浜⑤ 坂東橋から山手公園

2023-04-18 03:48:52 | * 東京とその周辺の散策
 横浜には、日本発祥とする地やそれを残した記念碑が多い。
 2022(令和4)年春、山下公園から日本大通り、馬車道、桜木町と周って、横浜に残る日本発祥の地を散策した。
 それは、「日本発祥の地を求めて、横浜」の①~④に連載した。
 ・日本発祥の地を求めて、横浜➀「山下公園から日本大通りへ」(2022-05-28)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/cbbad74131a40782120cf42a1f57bc98
 ・日本発祥の地を求めて、横浜②「馬車道に残る近代日本の足跡」
 ・日本発祥の地を求めて、横浜③「「並木」の道に…」
 ・日本発祥の地を求めて、横浜④「「新聞」および「鉄道」の事始め」

 2022(令和4)年の年末、横浜中心地においてまだ周りきっていなかった、日本発祥の地を求めて、主に山手公園、元町公園、港の見える丘公園方面を歩いた。

 *「坂東橋」から中村川に沿って歩き、「山手公園」へ

 12月27日午後、JR新横浜駅より市営地下鉄ブルーラインで「伊勢佐木長者町」の次駅「坂東橋」下車。
 湘南の士の作成による案内図に基づき「坂東橋」13時30分スタート。
 なぜ坂東橋から出発したかというと、そこからほど近くの浦舟町にある横浜市立大学附属市民総合医療センター(市大センター病院)に記念碑があるからである。

 ⑮「シモンズ博士記念碑」(南区浦舟町、市大センター病院内)
 デュアン・B・シモンズは、幕末に来日したわが国近代医学の先達の一人。アメリカ・オランダ改革派教会が日本に派遣した宣教師兼医師として訪日。その後、宣教師を辞し医師として横浜で開業した。
 記念碑は、市大センター病院の1階を真っ直ぐ進んだ、弁当を売っているコーナーの右手にある。御影石仕様の立派な碑である。

 ここからは少し歩くことになるが、「山手公園」へ向かう。
 市大センター病院の横を流れる中村川に沿って高架の高速道路下の通りを、東の「石川町」の方に向かって進む。
 ほどなく三吉橋のところで、左手に「三吉演芸場」の看板が見える。こういるところに演芸場があるとは知らなかった。昭和の初めからある老舗の大衆演芸場のようだ。そこから奥に昔ながらの商店街が見える。「横浜橋通商店街」に通じる入口のようである。
 中村川に沿ってゆっくり通りを進むと、右手の中村町には「〇〇荘」といった昭和の面影を残すアパートが残っていて、ふと懐かしい風景が現れる。
 「車橋」の交差点を右(東南)に曲がって、横浜駅根岸道路を進む。
 しばらく進むと、紅いアーチの陸橋が見える。何の変哲もない普通の道路に架かっている橋なのに、普通ではない風景にしている美しい鉄橋である。その「打越橋」を越えて、山元町で左手にむかうと山手町である。
 JRの線路を上から陸橋で横切るとすぐに本牧通りを跨ぐ陸橋となる。そこの道は愛らしい「桜道」という名前の通りだが、桜の並木道といった風景ではない。
 そこを過ぎると左手のこんもりとした土手に、何やら碑が建ててある。

 *山手公園→妙香寺→ビヤザケ通り

 ⑯「近代下水道記念碑」(山手町・山手公園)
 碑には、上記のように書かれてある。横浜では、明治10年代から、外国人居留地のこの付近から下水管が整備され始めた。横浜市の下水管の総延長が1万㎞に達した事を記念して建てられた記念碑とある。
 この記念碑のある土手は、もう「山手公園」内のようだ。

 ⑰「日本初の洋式公園」(山手公園)
 公園の通りを歩いていると「日本初の洋式公園」の碑がある。(写真)
 山手公園は、1870(明治3)年に、横浜居留外国人によって造られた。
 公園建設のきっかけは、1862(文久2)年に発生した生麦事件である。薩摩藩の行列に出くわしたイギリス人が殺傷された事件で、これを機にイギリス・アメリカ・フランスの3か国が幕府に安全な公園の設置を要求して造られたものである。であるから、当時は外国人専用であった。
 ちなみに、神戸の東遊園地を日本最初の洋式公園とする説もある。

 ⑱「日本庭球発祥の地」(山手公園)
 この外国人専用の山手公園に、1878(明治11)年 に近くの居留地に住む婦人たちがテニスクラブを結成し、テニスコートを作った。
 この地は日本のテニス発祥の地とされている。
 すぐのところにテニスコートがあり、「横浜山手・テニス発祥記念館」もある。

 山手公園の南側のすぐ隣に日蓮宗「妙香寺」がある。この寺の境内にも碑があるのだ。
 ⑲「日本吹奏楽発祥の地」(妙香寺)
 碑文には、「明治2年(1869年)10月、薩摩藩の青年藩士 30余名が当妙香寺に合宿し、 英国陸軍第10連隊第1大隊所属軍楽隊の指導者、ジョン・ウイリアム・フェントン(John William Fenton)から吹奏楽を学んだ。これが日本人による 吹奏楽団創立の序であり、吹奏楽活動の緒となった」とある。
 そして、妙香寺にはもう一つ碑がある。

 ⑳「国家君が代発祥の地」(妙香寺)
 明治になり、日本は外交上の必要から国歌を作ることを決める。助言した当時英国歩兵隊の軍楽隊長だったジョン・ウイリアム・フェントンが作曲し、明治政府が歌詞を制定した。歌詞は、薩摩琵琶古曲の「蓬莱山」のなかから「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔の蒸すまで…」が選ばれた。
 1869(明治2)年、「君が代」の誕生である。翌1870(明治3)年、わが国最初の陸軍観兵式に際して明治天皇の前で演奏された。
 しかし、最初のフェルトンの曲は詞にメロディーが合わないとして、10年後に今日のメロディーに変更された。

 妙香寺を出て、ビヤザケ通りを進む。
 通りの名から思いつくように、かつて日本のビールの草分け的企業があったところである。
 ビヤザケ通りに「キリン園公園」という公園に出くわした。普通の子どもが遊ぶ公園だが、ちょっと目を見張るような仰々しい石碑が立っている。

 ㉑「麒麟麦酒開源記念碑」(中区千代崎町、キリン園公園)
 1870(明治3)年、米国人のウィリアム・コープランドにより山手の外国人居留地にビール醸造所「スプリング・バレー・ブルワリー」が設立された。日本で初めてビールの醸造・販売の始まりである。
 麒麟麦酒(キリンビール)は、この流れを汲んでいるのである。

 通りをさらに進んで北方小学校の近くの通りの脇に、策に囲まれた丸い井戸の跡の遺産がある。
 ・「ビール井戸」(北方小学校前)
 井戸跡の横に、説明文があるので以下に記しておく。
 「この地に日本で最初のビール工場が建設されました。いま校庭になっているところには清水のわき出る池があって、キリンビールは1888年からここでつくられていました。
 そのころは横浜市の水道がまだここまで引かれていなかったので、 井戸水を使ってビールがつくられていました。この井戸は1895年から1901年までビールづくりに使われたものです。」

 「ビール井戸」を後にして、次は「元町公園」へ向かうことにした。
 すぐ近い。

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花は盛りに……千鳥ケ淵の桜

2023-03-24 02:12:34 | * 東京とその周辺の散策
 今年2023(令和5)年の東京の桜の開花は3月14日で、例年より9日早い3月22日に満開となった。地球温暖化のせいか、桜の早咲きの傾向が強まっているという。
 桜は一定の期間低温にさらされないと開花しないので、このまま地球温暖化対策をしないでいくと、2100年には4℃気温が上がり、九州では開花しない地域が出てくるという学者もいる。

 花見の季節となれば、靖国神社を出発して皇居お濠沿いの千鳥ケ淵の桜を見て、内堀通りを日比谷まで歩くのが毎年の恒例である。手帳を見ると、去年は3月30日に行っている。
 今年は早い開花ということもあって、天候の様子も見て3月20日に行くことにした。
 千鳥ケ淵の4年ぶりの「さくらまつり」は3月24~4月4日である。それに、この日は日曜日と祝日(春分の日)の谷間の月曜日ということで、濠に花を添えるボートも休止ということで浮かんでいない。
 千鳥ケ淵の通り約700mは、約260本の桜が並木道となっていて、通りに沿った皇居の濠と対岸の皇居の土手に咲く桜とのアンサンブルが絶妙な景色を創り出している。ここの桜は戦後の1955(昭和30)年ごろ、憩いの場所として千鳥ケ淵ボート場が設けられた際、植えられた。であるから、桜はすでに樹齢70年近い老木である。

 この日は天気はよかったが、さすがに少し早かった。
 桜は8分咲きといったところだからか、老木ということもあってか、心なしか例年より華やかさに欠けている気がした。
 いつもは行列を作り人混みのなかを歩くのだが、花見客もさほどではないので、ゆったりと見ることができる。去年までの人混みの隙間から濠に向かって桜を見つめる窮屈な花見を想いおこし、やはり千鳥ケ淵の花見は混雑のなかの方がいいなあという気持ちが湧きあがる。
 人間というものは欲張りで、欲望は複雑だ。
 
 花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは……「徒然草」

 桜に交じって木蓮や椿も咲きほこっている。土手には菜の花も健気に咲いている。
 こういうところに目がいくのも、人が少なく余裕ある花見をしているからだろう。
 土手の足元の草むらには、今まで見なかった雀がチュンチュンと動きまわっている。これも人が多くないおかげなのかもしれない。

 *最後の国立劇場の桜か!

 千鳥ヶ淵を過ぎて内堀通りを歩く。
 半蔵門を過ぎると、右手に国立劇場が見え、その建物の前は桜が満開だ。いろいろな種類の桜を植えてあり、ここもちょっとした桜の名所でもあるのだが、劇場建て替えのため今年の10月で閉場するそうで、この桜も今年で終わりとなりそうだ。
 この国立劇場の景色も見納めとなるのか。
 三宅坂を過ぎると、右手に時計塔が見える。
 去年、あの時計塔の正体を突きとめるために、一帯を散策し、尾崎記念館の「三権分立の時計塔」だと知ったのだった。近くには、「日本水準原点」もある。
 ※ブログ→「国会前庭にある、「日本水準原点」とは?」(2022₋11₋26)
 桜田門を過ぎると、もう日比谷である。ちょうど、日も暮れかかった。
 
 有楽領のJR高架線下の居酒屋風のドイツ料理店で、ソーセージ、ジャーマンポテト、チーズ、ムール貝などを肴にドイツ・ビールを。
 花には酒を……
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白梅爛漫の湯島天神

2023-03-06 02:00:01 | * 東京とその周辺の散策
 湯島通れば 想い出す お蔦(つた)主税(ちから)の 心意気
  知るや白梅 玉垣に 残る二人の 影法師

 梅の季節ということで、3月1日のまだ日の明るい夕方、「湯島天神」(東京都文京区湯島・湯島天満宮)にやって来た。
 湯島といえば、冒頭にあげた歌がすぐに思い浮かぶ。「湯島の白梅」(唄:藤原亮子・小畑実、作詞:佐伯孝夫、作曲:清水保雄、1942年)である。
 泉鏡花の小説「婦系図」(1907(明治40)年発表)を原作とし、その後、新派の芝居の代表作となり、映画も数多く作られた、そのテーマ曲である。
 原作も読んでいないし芝居も映画も見ていないが、何となく粗筋を知っているのは、歌とともに物語のなかの、湯島境内の場でのお蔦の台詞も有名だからだろう。
 「切れるの、別れるのってそんなことはね、芸者の時にいうことよ。今の私には、死ねといって下さい」
 尾崎紅葉の「金色夜叉」(1897(明治30)年発表)の、熱海の海岸での寛一の台詞、「来年の今月今夜のこの月を、僕の涙で曇らせてみせる」と双璧の息の長い、語り継がれている台詞だろう。

 *湯島天神の白梅

 湯島天神へは地下鉄「上野御徒町」駅から歩いたが、地下鉄「湯島」駅からはすぐのところにある。
 湯島天神は、”梅まつり”( 2月8日~3月8日)の最中であった。ここへ来たのは何年ぶりであろうか。私にとっては懐かしいところである。
 春日通りから繋がる湯島天神の正面階段(夫婦坂)あたりに着くと、もう梅の花が見える。その階段を登って境内に入った。
 すぐに大きな本殿が見え、あたりに白梅が咲き誇っている。梅はチラホラと花弁が落ちかけている、まさに満開を過ぎなんとしている見頃である。桜のように一気に散らないのが梅のしぶとさである。
 散る前のさかりに見ておこうというのか、ウィークデーだというのに境内は多くの見物客で溢れている。
 本殿の建物の脇には、絵馬が鈴なりにぶら下がっている。湯島天神は、菅原道真を祀っている学問の神様でもあるので、受験のこの時期、合格祈願の絵馬で溢れているのだ。
 (写真)
 人の掛け声と本殿の前に人だかりがしていたので近づいてみると、大道芸の“猿まわし”をやっていた。
 数年前、芝の増上寺でやっていたのを思い出した。あまり見る機会はないが、消えないでほしい芸である。
 境内をひと通り周って梅見を堪能した後、境内から湯島駅方面に下る「男坂」の急な階段を降りて、この界隈を味わうように歩いた。そして、再び湯島天神に向かう、今度は緩やかな「女坂」を登って、境内に戻った。
 女坂の途中に、湯島天神を仰ぎ見ているように建っている、明治の新派の劇に出てくるような古い味のある家は、今も人が住んでいるのだろうか。水谷八重子(良重)か山本富士子のような人が、ひょっこり戸を開けて顔を出したりして。
 再び境内に入り、最初に入ってきた夫婦坂の反対側の鳥居のあるところから湯島天神を出た。

 *湯島から続く、本郷の想い出

 湯島通れば想い出す……
 私がここを懐かしいといったのは、理由がある。
 勤めていた出版社をやめた後、フリーランスになった1996(平成8)~1997(平成9)年頃、本郷5丁目にあった小さな出版社に通っていた時期があった。その会社は、地下鉄本郷三丁目から本郷通りを東大赤門方面に向かった途中のビル中にあった。
 地下鉄丸ノ内線の本郷三丁目からは歩いてすぐなのだが、私は好んで十数分はかかる地下鉄千代田線の湯島駅から本郷に向かう春日通りを歩いて通ったものだった。
 そして、朝会社に行くときに、夜会社から帰るときに、しばしば途中で湯島天神のなかを通って行った。ときに、たまたま出くわした春の梅祭りや秋の菊祭りを1人楽しんだ。また、男坂や女坂を訳もなく歩いた。
 思いがけず住宅雑誌という馴れぬ仕事を任されて、本郷の会社に通っていた最中の、湯島天神は息抜きの回り道だった。
 湯島天神界隈の、少し昔の匂いがする家とビルが交ざりあう街並が心をしずませた。

 *文人の街、本郷、真砂町、東大赤門

 湯島天神から春日通りを歩き、地下鉄「本郷三丁目」の本郷通りに出た。
 本郷通りを見やると、すぐに赤い提灯をかざした下町の商店街の入口かと思わせる、派手な「本郷薬師」の門が目に入る。どのような立派な寺があるのかと思って奥に進むと、ぽつんと「本郷薬師堂」があるだけである。
 本郷薬師は江戸時代に「真光寺」の境内に建てられ、その界隈は賑わったそうだが、第2次世界大戦で焼失し本体は世田谷に移転した。現在のこじんまりとした堂は、後に再建されたものである。
 その横の道に入ったところの墓地の縁に、戦争で焼け残ったとされる真光寺の「十一面観世音菩薩像」が置かれている。
 本郷薬師堂の先に、境内に「見送り稲荷」がある「桜木神社」があった。

 この辺りは「真砂町」(まさごちょう)といったとある。
 真砂町といえば、泉鏡花の「婦系図」の「真砂町の先生」である。
 主税は、柳橋の芸者であったお蔦との関係を真砂町の先生に叱られ別れさせられる。
 泉鏡花は尾崎紅葉の門下で書生をしていて、神楽坂の芸者と恋仲になったのを、師の紅葉に叱責され別れさせられたことがある。
 この過去の経験が、「婦系図」の基になったのだろう。
 真砂町、この辺りは文人(作家)が多く住んでいた。菊坂下あたりには樋口一葉の住んだ跡がある。
 この真砂町は、町名はなくなったが坂に名を残している。

 本郷通りをかつて通った出版会社のあったビルを過ぎて、「東大赤門」まで行ってみた。現在、門は閉まっていた。
 今はどうだか知らないが、門のなかの校内には誰でも自由に入れた。この近くの出版社で仕事をしていたとき、校内の安田講堂の地下にある学生食堂で、時々昼食をとっていたのも懐かしい。

 *神楽坂で夕食を

 日も暮れ始めたので、本郷三丁目から地下鉄大江戸線で牛込神楽坂へ行った。
 神楽坂の中華料理店「梅香」(メイシャン)で夕食を。ワインとともに、繊細な辛さが舌に心地よい。
 この日は、思いがけずに”梅尽くし”となった。
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東京駅八重洲……そこは東京駅裏か?

2022-12-14 03:28:56 | * 東京とその周辺の散策
 *あゝ、東京駅!

 どこかに故郷の香りをのせて
 入る列車の懐かしさ

 田舎から東京に就職でやってきた少年の心を歌った、井沢八郎の「あゝ上野駅」(作詞:関口義明、作曲:荒井英一)の歌の冒頭の文句である。
 この歌が流れたのは1964(昭和39)年で、私が九州の田舎から上京した年であった。
 北の東北・北海道から東京にやってくる人にとって終着駅は上野だったが、中国・九州など西の方から上京する人のターミナル(終着)駅は東京駅である。
 東京に住むようになって以来、私は正月や黄金週間など、年に3回ほどは毎年九州の実家に帰るのが常だった。私の旅や移動手段の基本は列車なので、東京に戻ってくるときは東京駅になる。
 佐賀の田舎を午前中に出ても、東京駅に着くのはだいたい午後(夕夜)の6(18)、7(19)時ごろである。
 歌の文句ではないが、着いた東京駅ではどこかに故郷の香りを持ち帰っているか、香りが潜んでいるのだった。
 その要素は、東京に戻るため、田舎の実家を出て駅に向かう私の後ろ姿に向かって、見えなくなるまで手を振っていた母の姿とか、子どものころ遊んだ山を歩きながら途中でもぎって食べたミカンの味だとか、もう廃屋になった幼馴染みの垣根の奥の柿の木だとか、いろいろあった。

 私は今もそうだが、ほぼずっと東京駅から西の方に住んでいたので、着いた東京駅からはまず国鉄(JR)で新宿駅に出ることになる。
 東京駅から15分ぐらい先の新宿駅に降りたったら、あっという間に東京の空気に絡まれているのである。東京駅では温存されていた故郷の香りは、新宿の人混みの中では消えている。あるいは、消されている。
 だから、できるだけ故郷の香りに浸りたいため、東京駅に着いたあと、夕食は駅構内でとるようにしていた。
 東京駅の八重洲と丸の内を繋ぐ地下の中央通路には、今は出店も構内のデザインもすっかり変わったが、いまのようにモダンになる前は、東京の名物や土産物店、食堂が散在してあった。
 東京名物の店にあった、田舎の母に買って帰っていた「花園万頭」の「ぬれ甘なつと」。今は駅構内で売っているかどうか知らない。
 そして、中央通路の中ほどに、和食やラーメンなど、いろんなメニューが並べてある大衆食堂があった。東京駅に着いたあと夕食は、決まってここでした。客は、みんなテーブルの下や脇に大きなカバンを置いているので、盆や正月明けのときは、私と同じく田舎から帰ってきた人たちだなとわかった。
 そう、東京駅内の食堂は、故郷の香りが充満していた。一人黙って食事をしながらも、その空気に浸れるのだった。

 *東京循環バスで東京駅八重洲へ

 その東京駅の八重洲地下街に、バスのターミナルができたと、四谷住人の知人が教えてくれた。
 そのバスターミナル東京八重洲に、前に書いた例の京王路線バスの東京循環遊覧バスも終着駅を新橋から変更したとのことであった。
 つまり、<渋谷~新宿~四谷一丁目~大手町~東京八重洲(ターミナル)~新橋~四谷一丁目~新宿~澁谷>という循環になったのだ。
 ※「謎の東京観光・京王路線バス「渋谷~新橋」に乗ってみた」ブログ2022-07-31、参照。
 それで、八重洲地下街のバスターミナルおよび、変わりゆく東京駅八重洲方面を見ておこうと思いたった。
 それには、まだ歩いていない路順で行こうと、内堀通りから千鳥ヶ淵で急に皇居方面に走った京王東京循環バスのコースである「代官町通り」を歩いて、東京駅八重洲に出向くことにした。

 *靖国神社→九段坂公園→内堀通り→代官町通り→内堀通り→大手町→東京八重洲

 スタートは、九段坂下の「靖国神社」からにした。
 11月22日昼過ぎ、靖国神社「大村益二郎」銅像先の大鳥居の前の、靖国通りである「九段坂」を出発。
 その通りの「田安門」信号地に、皇居・武道館方面に渡る歩道橋がかかっている。この陸橋の上から武道館方面を見渡すと、すぐ前に銅像が目につく。
 銅像がある敷地は「九段坂公園」といい、常燈明台があり、その先の通りからすぐ目に入る銅像は「品川弥二郎像」。前から目にはしていたが、改めてじっくり見ると立派な像である。
 長州藩の出身で、明治期に内務大臣などを務めた政治家とある。
 しかし、皇居の入口とおぼしき目立つ所に建つ像としては、一般的知名度に乏しい。
 さらにその先の木陰に、軍服姿で馬に跨った像がある。この像も立派である。こちらは、横に「元帥陸軍大将大山巌公」と表示板がある。
 大山巌は薩摩藩出身で、日清戦争では陸軍大将として第2軍司令官、日露戦争では陸軍司令官を務めるなど、主に陸軍の軍人政治家として活動した人物である。
 皇居前に、長州と薩摩が並び立っているというわけか。

 「九段坂公園」から「千鳥ヶ淵縁道」の入口を過ぎ、「九段坂上」から南へ左折、「内堀通り」を歩く。
 二松学舎大学を過ぎ、英国大使館の手前の「千鳥ヶ淵」の交差点で左折する。
 内堀を跨いで、皇居の北側を突っ切って東へ延びる、その通りが「代官町通り」である。皇居内だけにきれいに整った道で、道の両サイドに桜の木が行儀よく並んでいる。今まで桜の季節に千鳥ヶ淵には来ているのに、この通りを見逃していたことを、何としたことかと思った。
 歩いていくと、左手の北の丸公園側に、クラシックなレンガ造りの建物「東京国立近代美術館工芸館」が目に入る。
 その先に、皇居「乾門」が、さらに「北詰橋門」がある。ここからは江戸城天守閣跡がある「皇居東御苑」に入れるのだが、この日は入園時間が過ぎていて門は閉まっていた。
 ここからまっすぐに延びた「紀伊国坂」の突き当りにパレスサイドビルが目に入る。ここが「竹橋」で、ここからは「内堀通り」を皇居に沿って丸く周り南へ歩く。

 皇居「平川門」を過ぎると、左手に気象庁の建物があり、「大手町」のビル街と続く。
 すぐにそのビル街の通りを東京駅方面に入ると、大きなビルに囲われるように「将門塚」がある。平将門の首を祀る塚で、祟りがあるというので何度かのビル建築・再開発でも、この地にきちんと祀ってある。この塚は人気なようで、この日もスーツを着たサラリーマンやOLとおぼしき人が絶えることなく参拝にやって来た。
 大手町のビル街を通り、高架のJR路線下を抜けて「外堀通り」に出たら、それを右折、南に行くとすぐ「東京駅の八重洲口」である。

 *八重洲口は、東京駅裏か?

 「東京駅」の出口は、西の皇居側の「丸の内」と反対側の東の「八重洲」に大きく分かれている。そして、東京駅の表玄関は丸の内口といわれ、あのレンガ造りの立派な駅舎は丸の内側にある。
 そうなのだ。東京駅といえば、丸の内口を思い浮かべる人が大半だろう。

 1914(大正3)年、東京駅は開業した。この時、駅舎は西(皇居)側にのみ置かれ、東(日本橋)側には車両基地が設けられた。その際、東側の外濠川に架かっていた八重洲橋が撤去された。
 1923(大正12)年に起こった関東大震災による復興再開発事業として、八重洲橋が再架橋され、東京駅の車両基地の上を跨ぐ跨線橋が作られる。こうして、丸の内側と八重洲側が迂回せずして直線的に行けるようになった。
 1929(昭和4)年、東京駅東側に乗車券売場の改札口が設けられた。
 当初、東京駅の改札口は、西(皇居)側を「八重洲町口」、東(日本橋)側を「八重洲橋口」と呼ばれた。
 同年、東京駅周辺の町名が再編成され、東京駅西側の麹町区「八重洲町」が「丸ノ内二丁目」となった。これを受け、東京駅の改札も西側の「八重洲町口」を「丸ノ内口」に、東側の「八重洲橋口」を「八重洲口」と改称した。
 なお、麴町区から千代田区になったのは戦後(第2次世界大戦後)である。

 戦前、松本竣介の八重洲橋を描いた「橋(東京駅裏)」という絵がある。この絵の副題にあるように、やはりかつて八重洲口側は「東京駅裏」と呼ばれていたようだ。洒落た繁華街、日本橋・京橋に通じる側であったのにかかわらず。
 戦後、外濠川の埋め立て工事に伴い、1948(昭和23)年に八重洲橋は撤去された。

 *変わる駅裏、東京八重洲

 丸の内方面は、日本を代表するビジネス街としてビルが聳え、街並もきれいに再開発に基づき整理されている。どこもくだけた感じはなく、通りを歩いていても何となく背筋が伸びる。
 八重洲方面は、丸の内に比べビジネスビル一辺倒ではなく、通りには様々な商店も散在し、再開発も遅れていた。別の見方でいえば、昭和の街並が残っていた。
 東京駅を挟んで、丸の内側から歩いて八重洲口側にやってくると、街並がはっきり違うのがわかる。
 違いはあれど整然としたビルの並びから、駅を超すと、計画は度外視したであろうビルおよび建物の並びとなる。高さや大きさだけではなく、街の色彩もまったく違うのだ。
 丸の内のビルは、会社名やビル名はビル全体から突出しないように溶け込んでいるし、そのようにデザインされている。いわゆる目立つ看板やネオンがほとんどないのに比し、八重洲は会社や店の看板、ネオンの色とりどりが目につく。
 つまり、東京駅を挟んで、ビジネス街対商店街なのである。
 とはいえ、整理されたきれいな街が(個人的には)良いとばかりは一概には言えない。
 八重洲には丸の内のツンとすましたところがない、親しみやすさがある。丸の内をぶらりと散歩しようと思わないが、八重洲側は日本橋から銀座、さらにその周辺の街の散歩、散策には飽きない空間が広がる。

 東京駅近辺に精通している四谷住人が、さらに最近の景色の変貌を説明してくれる。
 東京駅前の外濠通りの外側は今、再開発が続いているとのことである。八重洲中央口から延びる八重洲通りの北側の一角は、ビルが撤去され更地になっているのが見える。とはいえ、いまだポツンポツンと営業しているビルが残っている。バブル期の都内では、よく見かけた光景だ。
 一方南側は、いつの間にか超高層ビルが聳えている。
 六本木、日比谷に次ぎ3つ目のミッドタウン、高さ240m、地上45階建ての「ミッドタウン八重洲」である。
 驚いたことに、この高層ビルの中に小学校が入っているという。学校の入口に行ってみると、さすがに校門はないが、ビルの柱に「中央区立城東小学校」の校名がしっかり嵌め込まれてあり、校章も飾ってあった。
 地上4階を使用し、運動場もプールもあるという。もともとこの地に学校があったので、このビルに入ることになったのである。これからの都心の学校の宿命なのかもしれない。
 有楽町駅近くの銀座5丁目にある歴史ある「泰明小学校」も、この運命にならないといいけど。

 東京駅八重洲口には、バスターミナルがいくつもあるが、さらにこの「ミッドタウン八重洲」の地下に、新しく「バスターミナル東京八重洲」ができたという。

 このように、東京八重洲は変わりつつある。
 もう東京駅裏と言わせない、というかのように。
 それで、何気なく素通りしていた八重洲口側の東京駅をまじまじと見てみた。もともと丸の内の東京駅舎に比べるべくもないが、こんなに素っ気なかったのかと思った。
 かつて私のなかにあった東京駅八重洲口とは違う。
 そういえば、八重洲口の中央に立ちはだかるように構えていた大丸デパートが入っていた駅ビル「鉄道会館」がないのだ。そのかわりに左右に高層ビルのツインタワーが聳えている。(写真)
 やはり、年の移り過ぎとともに、街の風景は変わるのが常だ。

 京王路線バスの東京循環観光バスの発着場も、ミッドタウン八重洲の地下になったというこら行ってみた。東京駅の地下街と繋がっているのだが、初心者にはわかりづらい。
 バスターミナルはきれいに区画整理されている。すでに多くの中長距離バスが運行していて、まだ拡大化の途中で、東京でも最大級のバスターミナルになるそうだ、
 そのなかで、16番線乗り場から、東京八重洲発で新橋~四谷一丁目~新宿~渋谷行きの050系統京王路線バスに乗った。私が勝手にいうところの、東京循環遊覧バスである。
 1日3往復の、最終18時30分発。今回は、念願の水素バスであった。

 この日は、解禁されたボージョレ・ヌーヴォーを飲むことに…。

 
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国会前庭にある、「日本水準原点」とは?

2022-11-26 01:27:09 | * 東京とその周辺の散策
 桜の季節には、皇居堀の千鳥ヶ淵から内堀通りを日比谷方面に向かって歩くのが恒例である。
 すると、三宅坂を過ぎたあたりで、堀の反対側である国会側の少し高台になったところに、ひょろひょろと伸びた時計塔が見える。そうこう歩いていると、桜田門である。
 その辺りを通るたびに、国会議事堂の近くなのだが何の時計塔だろうと思っていた。
 調べてみると、「三権分立の時計塔」であった。つまり、立法、行政、司法を表す三権にまつわる塔なのである。国会議事堂の前庭に建てられているのに相応しいネーミングであるが、何か気になる。
 この時計塔が建つ国会前庭一帯は、明治以前は彦根藩井伊家の上屋敷があったところである。そこに、この三権分立の時計塔のほか、「日本水準原点」があるという。
 日本水準原点とは、標高〇mという高さを表す日本での基準地点ということである。これまた、気になる。
 これは、見ておこうと思いたった。

 *四谷→上智大→紀尾井町→清水谷公園→赤坂見附

 11月2日の昼下がり、新宿駅西口から、例の東京循環観光バスといえる東京駅八重洲行き(渋谷発、当初は新橋行き)の京王路線バスに乗り、四谷一丁で下車。
 ※「謎の東京観光・京王路線バス「渋谷~新橋」に乗ってみた」ブログ2022-07-31、参照。
 四ツ谷駅近くの四谷一丁目より、新宿通りの四谷見附橋、四ツ谷駅を過ぎると、右手に「上智大学」がある。
 立て看板があり人で賑わっているのを見ると、学園祭をやっているようなので、ちょっと入ってみた。上智大は通りに面しているので前はよく通るのだが、校内に入るのは初めてである。
 出店も出ていて、若い高校生とも思える派手目のギャルが多く目につく。もともと上智は女子が多いので、祭りとはいえおとなしい女子大の雰囲気である。

 上智大を出て新宿通りを進み麹町4丁目を右折すると、出版社の「文藝春秋」に出る。芥川賞や直木賞を手掛ける菊池寛がつくった老舗の出版社である。
 文藝春秋の手前の「清水谷坂」通りを四谷方面に戻ると、新宿通りから南に延びた通りと交差する。清水谷坂の通りの交差点の先は「紀尾井坂」と言い、新宿通りから延びた通りは「紀尾井町通り」という。
 紀尾井町とは、つまり紀州徳川家中屋敷と尾張徳川家中屋敷と彦根井伊家中屋敷があった一帯だ。
 この紀尾井町通りを赤坂方面の南に進むと、右手にホテルニューオオタニが、左手にこんもりとした木々が見える。清水谷公園である。
 「清水谷公園」は、1960年代学生運動が活発な季節、デモ隊が集まる集会場所だった。ここに東京の各大学や組織のデモ隊が集まり、数多くの旗が翻るなかシュプレヒコールをあげ、ここからデモ隊群は国会あたりを周って、最後は夕暮れのなかの日比谷公園へ集結していたと思う、
 「清水谷公園」とは懐かしい名前と場所なので公園内を歩いて見て回ったが、すっかり景色は変わったので、青春の面影を見いだすこともできなかった。
 ここ紀尾井町清水谷は、1978(明治11)年、大久保利通が暗殺された「紀尾井坂の変」の場所である。

 清水谷公園を過ぎたところに、料亭「福田屋」があった。ミシュランの星が付いている、北大路魯山人に縁のある高級料亭である。
 私などが行くところではないが、実は一度行ったことがある。
 出版社勤務の男性月刊誌編集者時代の1976(昭和51)年のことである。なかなか執筆依頼をOKしてくれない当時人気絶頂の作家の五木寛之さんを、何とか雑誌に登場させられないかと考えていた。
 そのとき、「限りなき透明に近いブルー」で芥川賞をとったばかりの大学生作家の村上龍を思いついた。
 それで、五木さんに「先生、村上龍という才能ある面白い作家がデビューしました。雑誌で対談しませんか」と持ちかけたところ、即承諾を得た。
 そして、対談場所に五木さんが指定したのが紀尾井町福田屋だった。私はそのとき、福田屋へは行ったことも聞いたこともなかったが、あとで高級料亭と知ったのだった。
 福田屋も懐かしいところだが、場所は当時のところから移転しているかもしれない。

 紀尾井町通りをさらに進むと、江戸城外濠である弁慶堀に架かる「弁慶橋」へ出る。
 弁慶橋を渡ると青山通りの「赤坂見附」である。

 *赤坂見附→国会議事堂→三権分立の時計塔→日本水準原点→日比谷

 「赤坂見附」から青山通りを皇居方面に進み、すぐの信号「平河町」で進行方向右斜めに進むと、左手に「国会図書館」、右手が「参議院」である。
 さらに進むと突き当りが「憲政記念館」であるが、その前に右手にある「国会議事堂」の正面に出て、議事堂を改めて見ることにする。
 国会周辺では、日の丸と並んだ赤・黄・黒の三色旗が目についた。この日、ドイツの大統領が来日していたらしいのだが、たいして話題になっていない。

 国会議事堂の前には、「国会前庭洋式庭園」がある。ここら一帯は、江戸時代は彦根藩井伊家上屋敷があったところだ。ちなみに、紀尾井町にあったのは中屋敷である。当時、主要大名はいくつも屋敷を構えていた。
 国会前庭に入ると、その脇にある「憲政記念館」の横に、内堀通りから見える「三権分立の時計塔」建っている。
 この憲政記念館は、憲政の神様と称された尾崎行雄に因んだもので、その前は「尾崎記念会館」と名付けられていた。
 内堀通りから見る時計塔は気になるデザインと高さだなと感じたが、近くで見ると意外とシンプルで高さもそう高くは感じない。
 時計塔は1960(昭和35)年建てられ、時計は3面の塔で構成されていて、塔の高さは、中国の仏教書「景徳傳燈録」にある「百尺竿頭一歩を進む」から、百尺(30.3m)を少し超えた31.5mとある。
 当時、建築における「百尺規制」と呼ばれていた31mの高さ制限の微妙に超える高さである。この高さ制限は、1963(昭和38)年、建築基準法改正により変更されるのだが。
 そして、この時計塔からは10時、13時、17時、22時(現在、最終時は中止)にチャイムが鳴らされているそうだが、今まで聴いたことはない。どんな音なのか?

 この三権分立の時計塔の脇の国会前庭園を歩いていると、ポツンと周りの風景と異彩を放つ建造物が佇んでいるのが目についた。これが、1891(明治24)年に建てられた「日本水準原点」の建物である。
 古代ローマの神殿をイメージしたという石造りの壁には、「水準原点」および、菊の紋に「大日本帝国」の厳めしい文字も見える。(写真)
 日本の土地の高さである標高は、東京湾の平均海面を標高0mの基準として、国土地理院によって測地されている。その東京湾の平均海面を地上に固定するために造られたのが「日本水準原点」である。
 この建物の中に、その水準点が設置されていて、当初の明治24年の標高24.50mとしていたが、その後の地盤変化による調査改定により、現在の標高は24.39mとなっている。
 国土地理院による「水準点」は、全国の主な国道、地方道などに沿っておよそ2km毎に設置されていて、全国に1万7千か所ほどある。その基準となっているのがここ「日本水準原点」なのである。

 では、なぜここが水準点になったのかということだ。
 まず「日本水準原点」を設置すると決めた明治期、首都東京の中心地である皇居(江戸城)、および国会議事堂に近いことがあげられよう。「日本水準原点」が建てられた前年の1890(明治23)年、この地の近くの東京市麹町区内幸町2丁目(現・東京都千代田区霞ヶ関1丁目、経済産業省)に、現在の議事堂の前身である木造洋風2階建ての仮議事堂が竣工している。
 そして、この紀伊藩上屋敷跡に、陸軍省の建物が、さらには国土地理院の前身となる陸軍参謀本部測量局の庁舎があったことだ。

 この前庭から皇居の方を見渡すと、すぐ近くに桜田門が見える。井伊直弼はここから江戸城に向かった先の桜田門にて、水戸および薩摩藩士によって殺害された。
 この辺りは、土地の歴史が埋まっているなあと思う。

 *国会前庭→日比谷公園→松本楼→新橋

 国会前庭の高台から内堀通りに出た。
 内堀通りの桜田門を過ぎて、さらに日比谷方面に進む。すると、日比谷公園に出くわすはずだ。右手に公園を意識すると、すぐに門が目につく。いかにも歴史を感じさせる古い門柱である。
 「日比谷公園」は1902(明治35)年に開園した、公会堂や野外音楽堂がある由緒ある洋式公園である。
 日比谷公園にはいくつかの門があり、これらの門柱は江戸城の外濠に建てられていたものという説もある。
 日も暮れかかり、腹も減ってきたので、公園の中ほどにある松本楼へ。
 「松本楼」は、日比谷公園の開園時にオープンした洋風レストランである。ここでビールを一杯と食事で腹ごしらえをする。
 ここから歩いて、急いで新橋へ向かった。
 来るとき、往きの新宿から乗った東京循環観光の京王路線バスが、復路として新橋から四谷一丁目、新宿、渋谷方面行きとして運航している。その最終が、東京八重洲発(当初は新橋始発)、新橋18時40分発で、それに跳び乗った。
 この日は、往(行)きと復(帰)りを東京循環の京王路線バスに乗ったことになる。
 陽もすっかり暮れている。夜は長い……
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