かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

日本発祥の地を求めて、横浜④ 「新聞」および「鉄道」の事始め

2022-07-24 03:42:44 | * 東京とその周辺の散策
 横浜の日本発祥の地、碑を求めて、山下公園から日本大通りをへて馬車道へ。
 そして、JR桜木町駅方面に向かった。
 神奈川県歯科医師会のある神奈川県歯科保健総合センターの前に記念碑が並んでいる。
 ⑩「我国西洋歯科医学発祥の地」(横浜市中区住吉町)
 幕末に来日した米国人ウィリアム・クラーク・イーストレイクが、2度目の来日の1865(慶応元)年に歯科診療所(場所不明)を開設。3度目に来日したときの1881(明治14)年に、横浜の外国人居留地に歯科診療所を開設した。そのゆかりの地に、1985(昭和60)年、神奈川県歯科医師会により記念碑が建てられた。
 ということで、碑は元々は旧外国人居留地(横浜市中区山下町160)にあったのだが、その後現在地に移転された。
 「西洋歯科医学勉学の地」なる碑が、同じ地に並んである。

 *文明開化は、瓦版から新聞へ

 みなとみらい線、馬車道駅近くの横浜市新市庁舎の敷地内に、四角い石碑が構えている。
 ⑪「日刊新聞発祥の地」(横浜市中区本町6)
 石碑には「横浜毎日新聞」創刊号の紙面写真が銅板として埋め込まれている。ここは、もともと日刊新聞発祥とされる横浜毎日新聞があったところ。
 日本には江戸時代に、木版あるいは粘土板を用いて刷った「瓦版」という現代でいうとところの新聞があった。そして、開港後の江戸末期には新聞が発行された。
 日本語による日刊新聞の最初が,1870(明治3)年に発刊された「横浜毎日新聞」である。これは紙の両面に鉛の活字を使って活版印刷したものであった。
 その後、1872(明治5)年には「東京日日新聞」、「郵便報知新聞」などが創刊された。
 「横浜毎日新聞」は、 1879(明治12)年に東京に移り「東京横浜毎日新聞」となり, さらに「毎日新聞」「東京毎日新聞」と紙名を変え、1941(昭和16)年に「帝都日日新聞」に吸収合併され消滅した。
 現存する日刊紙で最も古い新聞は、「東京日日新聞」をルーツとする「毎日新聞」である。

 何をもって発祥とするかは、基準をどこにおくかによって異なってくるし様々である。
 この横浜発祥の地探索の最後に「横浜中華街」に行ったのだが、ここで新聞発祥の関連として、関帝廟の近くにある、もう一つの新聞発祥の地の碑を紹介しておこう。
 ⑫「日本国新聞発祥之地」(横浜市山下町)
 碑文には、「日本における新聞誕生の地」として、「ここ、横浜の元居留地一四一番は、一八六四(元治元)年六月二十八日、ジョセフ彦が、「海外新聞」を発刊した居館の跡である」とある。

 日本の新聞の歴史を調べてみると、日本における近代新聞としては、1861(文久元)年5月に英字新聞「ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー」(長崎)、同年10月に英字新聞「ジャパン・ヘラルド」(横浜)が発行された。
 1862年1月(文久元年12月)には初の日本語の新聞として「官板バタビヤ新聞」が発行される。これはジャワ(現・インドネシア)で発行されていたオランダ語の新聞を、江戸幕府により和訳したものである。
 1864(元治元)年、ジョセフ彦(浜田彦蔵)によって発行された「新聞誌」(翌年「海外新聞」に改名)が、日本初の日本語による民間新聞ということなのだろう。

 *横浜港は、「灯台」発祥の地?

 大岡川の川縁に沿って歩くと、埠頭を臨む北中橋に出る。馬車道駅からも桜木町駅からもすぐのところだ。
 その北仲通北第一公園の一画に、赤レンガが敷かれたエリアがあり、ここにさりげなく碑がおかれている。
 ⑬「灯台発祥の地」(中区北仲通6丁目)
 碑には、「交易船舶の安全のため、西洋諸国から灯台の建設を求められた明治政府は、外国人技師を招聘し、明治2年に灯台事業を担う役所として「燈明台(とうみょうだい)局」を、更に、明治7年には「燈明番(とうみょうばん)」(いわゆる灯台守)の教育及び建設する灯台の試験調整を行うための「洋式試験燈台」を、ここ、横浜元弁天(現在の中区北仲通6丁目)に設置しました。」とある。
 ここからは、みなとみらいのビル群や汽車道が、見上げればロープウェイのエア・キャビンが空を舞っている。

 日本における江戸時代は、海辺とて灯明台や常夜灯の設置のみで航路標識は整備されていなかった。だから、開港後、外国船の往来が頻繁になるにしたがい、遠くまで明かりが届く洋式の灯台が必要であった。
 横浜が開港した幕末・明治期には、この辺りまで海が迫っていたのだろう。外国船の到来とともに、近代的な灯台の設置を求められ、その試験灯台がここに造られたのだ。

 日本最初の洋式灯台は、1869(明治2)年に点灯した三浦半島の「観音埼灯台」(横須賀市)で、着工した1868(明治元)年の11月1日が「灯台記念日」となっている。
 灯台といえば、スペイン北部の北大西洋岸に建つ「ヘラクレスの塔」が頭に浮かぶ。ローマ時代に建てられたといわれているので約1900年前の、石を積み上げて造られた見た目も風格がある建造物だ。今でも現役というので、現存する最古の灯台といえよう。

 *初めて、新橋から横浜へ鉄道(列車)は走った

 JR桜木町駅にやってきた。日本初の鉄道が走った横浜駅のあったところだ。
 ⑭「鉄道創業の地」(JR桜木町駅近く)
 1872(明治5)年10月14日(旧明治5年9月12日)、東京~横浜間29kmの鉄道が正式開業した。
 開業日のお召し列車には、明治天皇以下、鉄道敷設に尽力した伊藤博文、大隈重信や反対派だった西郷隆盛などの政府高官、外国大使、有力者などが乗車し、東京(新橋)駅では盛大な開業式が行われた。
 当時、ここ桜木町が横浜駅とされていた。JR 桜木町駅から関内寄りの少し薄暗い場所に縦長方形の鋼鉄製の碑版が建っている。「鉄道創業の地」の記念碑である。(写真)
 鉄道発祥の地としては、少し意外な印象を受けた。黒く文字が読みにくいので、まるで「2001年宇宙の旅」に登場する、石柱状のモノリスのようだ。
 現在、東京の鉄道発祥の起点駅である新橋駅近くに、「旧新橋停車場」として綺麗な駅舎が復元され、「鉄道歴史展示室」が併設されている。
 これに反し、桜木町の駅や近辺には、鉄道揺籃時の展示がされていて工夫と努力の跡が見てとれるが、「鉄道創業の地」は鉄道関連の施設や建物はなく何とも簡素な感じだ。普通に歩いていると、ただただ通り過ぎるだろう。
 新橋駅前にSL(蒸気機関車)が展示置かれているのに対抗し、鉄道開業当時の復元列車が、あるいは、せめて模型の機関車が展示されていたら、と思った。これからでも遅くはない。
 ちなみに、新橋駅前のC11形蒸気機関車は、新橋駅、あるいは東京駅を通ったことはない列車である。

 *中華街のガチ中華へ

 日も暮れたので、桜木町から中華街に向かった。
 先に⑫「日本国新聞発祥之地」で紹介した、関帝廟近くの碑を見たあと、横浜といえば湘南の士といつもいく、馴染みといっていい東北(満州)料理店「東北人家」に行くことにした。
 ここのところ店が繁盛しているのか、2店目となる新館が開いているので、この日はそちらに行ってみた。
 メニューは本館(本店)より東北料理により特化していて、羊料理が多彩だ。だったら、羊、望むところだ。
 頼んだ料理は、羊肉串、羊舌の東北冷菜、羊肉のクミン炒め、羊肉臓と高菜の酸辣煮込み鍋、羊肉焼き餃子、と羊づくしだ。
 それと、濃い味に合う紹興酒。

 *
 この日のあと、テレビで横浜中華街の「ガチ中華」として、この店が紹介された。中国人が通う、日本人に忖度しない本場の味の店を「ガチ中華」と呼んで、人気になっているそうだ。
 最初にこの店に行ったのは7年前の2015年で、その頃は、店に行ったときは、いつも隣のテーブルや周りで食べていた人たちはほとんど中国人だった。近年、日本人の客も見うけられるようになったが、ブームに敏い日本人であるからさらに増えるに違いない。

 この頃、中華大通りの中央に店を構える、横浜中華街の老舗「聘珍樓」(へいちんろう)横浜本店が5月閉店し、6月横浜地裁より破産開始決定を受けた。
 時代の流れとはいえ、豪奢な店構えで横浜中華街のシンボル店のようだった老舗がなくなるのは、中華街の通りの風景として寂しい。

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