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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

日本発祥の地を求めて、横浜① 山下公園から日本大通りへ

2022-05-28 02:08:13 | * 東京とその周辺の散策
 ことの始まりは、こうだった。
 去年の末、横浜の港を散策した。山下公園から埠頭の赤レンガ倉庫、汽車道、エア・キャビンに乗るなど港の周辺を歩いた。そのことは、当ブログ「ブルーライト・ヨコハマ」①~④に書いた。
 そのとき、みなとみらい線、元町・中華街駅を出発してホテルニューグランドに向かおうとした矢先に、通りの脇に「日本洋裁業発祥記念碑」を見つけた。こんなところに、日本洋裁の発祥の地があったのかと、思いもよらない発見に嬉しくなった。
 横浜には、日本発祥とされるものや出来事が多いようだ。
 それをきっかけに、湘南の士が調べてくれた横浜発祥地の跡地・記念碑を巡り、4月28日に横浜を歩いた。
 記念碑の多くには、それについての解説文が付いている。発祥地の散策に基づく案内とともに、その解説文をもとに概略を記した。

 *「日本洋裁業発祥記念碑」から、「電信創業の地」まで

 13時30分、みなとみらい線「元町・中華街駅」を出発する。
 ➀「日本洋裁業発祥記念碑」(メトロタワー山下町前)
 元町・中華街駅の山下公園寄りの出口を出たら、すぐにある。ビルの前に植えられた木に紛れて婦人の銅像と記念の小塔が立っている。これが日本洋裁業発祥の記念碑である。(写真)
 碑文によると、「1863年 (文久3年) 英国人ミセス・ピアソンが 横浜居留地97番にドレス ・メーカーを開店したのが横浜の洋裁業の始まりである」とある。
 明治の西洋開花ブームになっても、日本では和服の慣習が長く続いた。洋裁業の普及とあいまって、一般大衆に洋服が急速に普及したのは戦後のことである。戦後、ミシンの普及とともに女性のファッションは花開く。

 ここから「ホテルニューグランド」に出る。古い建物が残る横浜だが、このホテルは威厳がある。
 「スパゲッティ・ナポリタンの発祥」とされるホテルで、予約が取れなかったが寄ってみる。やはり1階カフェの前では並んで待っている人がいるので、この日もナポリタンを食するのは諦める。いずれ、一度は食しないといけない。
 ホテルニューグランドを出ると、前はもう「山下公園」である。
 山下公園には、横浜市と姉妹都市であるアメリカ・サンディエゴ市から贈られた「水の守護神像」、北原白秋詩の童謡で有名な「赤い靴はいてた女の子像」、在日インド人協会から寄贈された「インド水塔」など、多くの記念碑や建造物がある。

 ②「西洋理髪発祥の地」(山下公園)
 山下公園のなかに、白い円形の像がある。よく見ると、髪を真ん中から分けた男の頭で、これが「西洋理髪発祥の地」の記念碑である。
 日本の明治政府によって、一般に言われる「断髪令」である「散髪脱刀令」が発せられたのは1871(明治4)年。これによりちょん髷(まげ)からザンギリ頭の西洋開花へ加速度が増すことになる。
 それより先駆けること2年前の1869(明治2)年、横浜にわが国初の「西洋理髪店」が開業した。しかし、この山下公園の地で開業されたということではなく、ここに記念碑が建てられたということである。
 *2022(令和4)年2月21日、「西洋理髪発祥の地」を伝えるモニュメントの除幕式が、横浜市の横浜中華街で行われた。この地で、明治初期に日本人が経営する初めての西洋理髪店が開業したことを記念して、中華街大通りの中ほどに新たに碑が建てられた。

 山下公園を出てすぐのシルクセンターの前に、石碑と柵の奥に女性の裸像がある。
 〇「英一番館跡碑」(山下町)
 幕末、横浜が開港した時に、来日したイギリス人のウイリアム・ケズウィックが居留地一番館で貿易を始めた。当時、そこに建てられた英一番館と呼ばれた建物の碑で、碑には、当時の建物の様子も描かれている。
 明治の中頃、東京・丸の内にできた「三菱一号館」を始めとした赤煉瓦のオフィス街の「一丁倫敦(ロンドン)」は、ここ横浜の英一番館を意識して創られたのかもしれない。

 すぐ近くの横浜開港資料館に隣接して、開港広場公園がある。
 〇「日米和親条約調印の地」(開港広場内)
 開港広場公園に、1854(安政元)年の「日米和親条約」を締結(調印)した記念の碑がある。
よく見ると、記念碑は二つある。見過ごしそうな細い立柱には「日米和親条約締結の地」とあり、目立つ丸い球の碑には「日米和親条約調印の地」と記されている。

 この先の日本大通りに、パンの写真の付いた碑がある。
 ③「近代のパン発祥の地」(日本大通)
 幕末、横浜開港とともに外国との貿易が増大するに伴い、幕府はこの地に日用食品街を設けた。1860(万延元)年、その一角でフランス人にパンの製法を習った内海兵吉がパン屋を始めたのが近代のパンの発祥とされ、パンの元祖「富田屋」として知られた。

 日本大通り交差点近くの、駐車場前の道路に沿って、何気なく建てられたような碑がある。
 ④「消防救急発祥之地」(日本大通)
 この地に、1968(明治初)年から旧外国人居留地の消防隊が置かれていた。この「消防救急発祥之地」の碑の奥には、「旧居留地消防隊地下貯水槽」の遺構が公開されている。そこで、ガラス越しに地下水槽を覗くことができる。
 この碑の前で、6、7人の若者の集団がいた。彼らも何やらリストの用紙を見つめ、写真を撮っている。訊くと、横浜市内の高校生で、やはり横浜発祥地を巡っているとのことだった。
 この日は、周った碑のあちこちで、何度かこのような中学生、高校生の調査グループに出くわした。ゴールデンウイークに向けて、学校で課題としてレポート提出でも課されているのだろうか。でも、誰もが修学旅行のノリだ。
 この碑の近くに、日本新聞博物館が入る「横浜情報文化センター」がある。
 このビルの前に、「新聞少年の像」がある。

 日本大通りに面した、横浜地方検察庁の前に碑がある。
 ⑤「電信創業の地」(日本大通)
 1869(明治2)年に、この場所での横浜電信局と東京電信局間の、初めての電報による通信が始まった。
 東京側にも、同名の碑が東京都中央区明石町に建っている。

 さて次は、日本大通りから馬車道の方に向かってみよう。

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薄紫の藤を見に、足利へ

2022-05-10 00:51:08 | * 東京とその周辺の散策
 薄紫の藤棚の
 下で歌ったアヴェ・マリア……

 1960年代半ば、青春歌謡の全盛期に、舟木一夫に続く青春・学園ソングの歌手があまた登場したなかで、安達明はひときわ清々しかった。デビュー曲の「潮風を待つ少女」に続く、学生服(舟木一夫とは違ったデザインの服)で歌う安達明の「女学生」(作詞:北村 公一、作曲:越部信義)は、当時の若者、学生の胸をキュンとさせた。
 藤と言えば、今でもこの冒頭に挙げた「薄紫の藤棚の…」という「女学生」を口ずさみたくなる。
 「澄んだ瞳が美しく、なぜか心に残ってる」そして、「君はやさしい、君はやさしい女学生」と流れる。
 藤、そして藤棚と言えば、女学生なのである。
 九州の片田舎のわが高校にも、図書館の脇に藤棚があった。あの日、私はその藤棚の陰で、彼女が現れるのを秘かに待っていた。
 おいおい、何を書いているのだ。図書館脇に藤棚はあったか?金木犀はあったけど。この藤棚は幻想かもしれないし、妄想が創りだしたものかもしれない。

 薄紫の藤棚を求めて、5月2日、足利へ向かった。
 小田急線で新宿に行き、そこからJR湘南新宿ラインで久喜へ出て、東武伊勢崎線に乗り換え、「特急りょうもう」で「足利市」駅へ。
 足利市に住む高校時代の同級生の案内で、藤の名所のある足利市を巡った。

 *藤の群がる「あしかがフラワーパーク」

 「あしかがフラワーパーク」は開園25周年とのことだが、その大藤棚とともに夜のライトアップもあって、今や国内有数の藤の名所となっている。
 ゲートから園に入ると、広がる花壇が目に入り、淡い花の香りが鼻に流れる。この「あしかがフラワーパーク」は紫だけでなく白、薄紅、黄色と多様な藤が見られるのが特長だが、藤以外にも様々な花が植えられている。
 赤い椿のようなバラの歩道の先に、まずは「白藤のトンネル」が迎えてくれた。白藤のアーチは80mも続き、上を見ると頭のすぐ近くまで花が垂れ、その花に蜂が舞っている。花に夢中で人を襲う気配はない。丸々太っているのでマルハナバチか。
 園内には、ところどころに池も配置されていて、水に映る花と緑も楽しめる趣向になっている。
 園内を周った最後にとっておきの「大藤」に行きついた。薄紫の藤花が四方に広がっている。何本もの藤で構成されていると思いきや、中央にあるのは1本の幹だけである。当地に移植したものだが樹齢160年という古木で、この大藤が2本並んでいる様は、繊細でありながら雄大な雰囲気を創りだしている。(写真)
 薄紫の藤棚の下に、女学生を探したが……

 *日本最古の学校、足利学校へ

 足利といえば、まずは日本最古の学校といわれている「足利学校」である。
 創建時は定かではないが室町時代中期の上杉憲実の時代には資料として残っていて、1549(天文18)年、宣教師のフランシスコ・ザビエルによって、「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と紹介されている。「坂東」とは関東のことで、利根川や入道雲を「坂東太郎」と言ったりする。
 「あしかがフラワーパーク」から、「足利学校」へ行った。
 足利学校は、広い敷地にいくつかの建物で構成されている。正面から入って見れば、山門(学校門)があり、本堂(大成殿)があり、方丈、庫裏があり、中庭(庭園)があるという、大きな寺のようだ。
 孔子廟があるところを見ると、主に儒教を教えていたのだろう。
 建物はどれもきれいに整備されていて、江戸時代のままのものと平成に入って江戸時代の姿に復元された建物がある。
 このような学校は、のちに藩校、寺小屋として広く発展していったのだろう。

 *城のような寺、鑁阿寺

 足利学校から、近くにある「鑁阿寺」(ばんなじ)へ。
 鑁阿寺は、足利氏二代目の義兼が、1196(建久7)年に邸内に大日如来を祀ったのが始まりといわれていて、その後足利一門の氏寺となった。
 橋を渡った楼門の先に構える本堂は、入母屋造りの大きな屋根瓦を持った威風堂々とした建物だ。中央の唐破風の屋根の突端には鬼瓦がこちらを向いていて、屋根の上の両サイドには鯱が聳えている。
 中央の軒下に吊るされた鰐口とその前に垂れた紅白の布で編まれた綱がなかったら、城屋敷と思うだろう。
 それもそのはずだ。敷地の周りは堀で囲まれているので、寺なのに「日本100名城」に入っているのも頷ける。
 境内に聳える高さ30mはあろうという立派な銀杏(いちょう)は、樹齢推定550年という。佐賀県有田町の泉山弁財天神社境内にある樹齢1000年ともいわれている大銀杏を思い出した。

 それにしても気になるのは、鑁阿寺の「鑁」という字である。
 この字を単独で読める人はほとんどいないだろう。調べても、「ばん」つまり「鑁」だけでは出てこない。「ばんなじ」と引いて「鑁阿寺」と出てくる。
 ちなみに、「鑁」という字であるが、本棚にある「漢和中辞典」(角川書店、昭和59年149版)にも載っていない。
 わが国では、「鑁」という字は、鑁阿寺にのみ使用される字なのである。漢字の本元である中国での使用は知らないけど。

 ※「鑁阿寺の「鑁」には、どんな意味があるのか。」<栃木県立図書館 (2110002)>によると、以下のように記されている。
 『足利の鑁阿寺』(山越忍済/著 足利 鑁阿寺 1970 ※昭和40年5月初版発行)によれば次のように記載されています。
 「鑁阿寺は正式にはvana寺で、バンナ寺でもよく、鑁や阿という漢字の発音を梵語(サンスクリット)に代って当てはめたに過ぎない。したがって鑁や阿に漢字的乃至日本文的意味が含まれているのではない。単なる当て字である。すなわちバンナ寺とは大日如来の寺、大日寺のことである。」

 *

 夕暮れ時、「足利織姫神社」を横目で見ながら足利公園方面へ。園内にある老舗料亭「蓮岱館」で、ゆっくりと夕食をすまして、再び東武伊勢崎線足利市駅から東京方面へ向かったのだった。
 窓の外はもう暗い。
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ブルーライト・ヨコハマ④ 横浜からヨコハマへ

2022-02-26 03:35:47 | * 東京とその周辺の散策
 街の明かりがとてもきれいねヨコハマ……

 いしだあゆみが歌う「ブルー・ライト・ヨコハマ」(作詞:橋本淳、作曲:筒美京平)は、1968(昭和43)年12月に発売され、翌1969(昭和44)年大ヒットした。
 同じ1968年、「アァ、ハ~ン」とため息が話題となり、「あなた知ってる、港ヨコハマ……」と歌う、青江三奈の「伊勢佐木町ブルース」(作詞:川内康範、作曲:鈴木庸一)による横浜の夜のイメージを一変させる歌となった。
 「いつものように愛の言葉をヨコハマ……」、「横浜」は「ブルー・ライト・ヨコハマ」で 「ヨコハマ」となり、明るく、若い街となった。

 *歌謡曲の黄金期、1968~1969年

 この1968~1969年の時期は、優れたヒット曲を数多く輩出した、歌謡曲の黄金時代だったといえる。
 振りかえればこの時期は、御三家(橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦)のなかで最も遅れてデビューした西郷輝彦が奮闘していたが、青春歌謡が翳りをみせていた。
 一方、新しい息吹を感じさせる歌謡曲が一気に台頭したのを印象づけた時期ともいえた。
 
 1968(昭和43)年のヒット曲を見ると、
 前年の秋に発売されこの年脚光を浴びた、中村晃子の「虹色の湖」(作詞:横井弘、作曲:小川寛興)。
 伊東ゆかりの「小指の想い出」(作詞:有馬三恵子、作曲:鈴木淳)に続く、「恋のしずく」(作詞:安井かずみ、作曲:平尾昌晃)。
 小川知子は「ゆうべの秘密」(作詞:タマイチコ、作曲:中洲朗)に続き、翌年「初恋の人」(作詞:有馬三恵子、作曲:鈴木淳)もヒット。
 黛ジュンの「恋のハレルヤ」(作詞:なかにし礼、作曲:鈴木邦彦)に続く、「天使の誘惑」(作詞:なかにし礼、作曲:鈴木邦彦)。
 ピンキーとキラーズの「恋の季節」(作詞:岩谷時子、作曲:いずみたく)。
 この他、あげれば枚挙にいとまがないほど、綺羅星のごとく名曲が流れ出て、翌1969(昭和44)年へ続いた。

 加えて特筆すべきは、ジャッキー吉川とブルーコメッツやザ・タイガース、ザ・テンプターズなどの人気グループを生んだ新しい歌の波、GS(グループ・サウンズ)のブームもこの時期であったことだ。

 *時代を歌う「1969」

 「ブルー・ライト・ヨコハマ」から40年以上たった2011(平成23)年、由紀さおりとアメリカのピンク・マルティーニとにより、この時期の日本の歌謡曲を主にしたアルバム「1969」が制作・発売された。このアルバムは世界的なヒットとなり、この時期の日本の歌謡曲が時代と日本を超えた音楽だったことを再認識させたのだった。
 そのアルバムの一番手に歌われたのが「ブルー・ライト・ヨコハマ」である。
 そのほかのこのアルバムの主な曲をあげると、
 佐良直美が歌い、同年の第11回日本レコード大賞を受賞した、「いいじゃないの幸せならば」(作詞:岩谷時子、作曲:いずみたく)。
 1967年から「恋のハレルヤ」「天使の誘惑」などのヒット曲を連発していた黛ジュンの、「夕月」(作詞:なかにし礼、作曲:三木たかし)。
 由紀さおりの再デビュー曲で大ヒットとなった、「夜明けのスキャット」(作詞:山上路夫、作曲:いずみたく)。
 そして、あまり知られていない曲だが、当時ラジオ番組「走れ!歌謡曲」のパーソナリティだった鎌田みえ子が歌った「私もあなたと泣いていい?」(作詞・作曲:三沢郷)は、閉塞感の漂う今の時代に合った曲といえる。

 この時期、一方、アメリカでのベトナム反戦運動の広まりやフランス五月革命に象徴されるように、日本の大学は政治の季節であった。
 この日本の経済成長と政治の季節の熱い最中、「ブルー・ライト・ヨコハマ」は、日本中にさわやかに流れた。

 *あなたの好きなタバコの香りヨコハマ……

 長崎と同様に横浜を舞台にした歌は多いが、「ブルー・ライト・ヨコハマ」は、数ある「横浜市のご当地ソング」のなかで断トツ1位の人気の曲である。
 歌詞の1節に、この項目にあげた〝タバコ"が登場する。
 「タバコの香りヨコハマ……」
 そして、横浜を舞台にしたもう一つの代表的な歌謡曲に、五木ひろしが歌う「よこはまたそがれ」(作詞:山口洋子、作曲:平尾昌晃)をあげることができる。
 この歌は、「よこはま たそがれ ホテルの小部屋」と言葉が並び、さらに「くちづけ 残り香 煙草のけむり」と言葉の連想が続く。ここでもタバコが出てくる。

 タバコと横浜は似合っているのだろうか。
 いや、1960年代、1970年代は、今日ほど健康志向が強くなかったのでタバコに対する抵抗感、悪印象はなかった。男にとっては、時としては格好よいアクセサリーでもあった。タバコを吸う男は、多少粋がっていたのである。
 女性もタバコに対する嫌悪感は、今ほどはなかった。
 かつてタバコは多少の哀愁を加味させる要素として、粋な意味あいで歌に登場することが多かった。つまり、横浜=港町=粋=タバコ、というイメージが漂う。
 先にあげた「1969」に収められている、佐良直美の「いいじゃないの幸せならば」でもタバコは登場し、「あの朝あなたはタバコをくわえ…」と歌われている。
 シンガーソングライターである小坂恭子は「想い出まくら」(作詞、作曲:小坂恭子、1975年)で、「こんな日はあの人の真似をして、けむたそうな顔をしてタバコを吸うの…」と、切ない恋心をタバコに託してみせる。
 「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」をヒットさせたダウンタウン・ブギウギ・バンドにいたっては、「スモーキン・ブギ」(作詞:新井武士、作曲:宇崎竜童、1974年)で、「初めて試したタバコがショート・ピース…」と、冒頭から全編タバコのストーリーである。

 私も(時代の流れといおうか)とおにタバコはやめてしまったが、何のためらいもなく吸っていた時代が懐かしい。
 「一日に二本だけ、煙草を吸わせて、珈琲の昼下がり……」「東京物語」(唄:森進一、作詞:阿久悠、作曲:川口真、1977年)

 *

 横浜の港は、確かに黄昏とともにブルーに染まっていった。
 ブルーライト・ヨコハマ…
 歩いても歩いても、小舟のように……

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ブルーライト・ヨコハマ③ 汽車道から空の道へ

2022-02-23 05:05:39 | * 東京とその周辺の散策
 いつものように愛の言葉をヨコハマ…

 港の横浜は、きらきらと輝いている。
 埠頭にある「汽車道」は、朽ち果てた枕木の代わりにきれいに並べた木板のルーバー仕様に装い整えられ、廃線という元の姿を想像することが困難なほどアップデートされている。
 その汽車道の上空を、いつしか箱のような「エア・キャビン」が流れていく。あれはロープウェイ…ここではないどこかで見た景色だ。

 *帆船・日本丸から、港に流れるロープウェイ

 埠頭から汽車道を歩いて、着いた先の方に大きな帆船が目につく。
 航海練習船である「日本丸」である。日本丸は、現在は現役を引退して2世にその役目を譲り、ここ「日本丸メモリアルパーク」に停泊して展示されているのだ。その美しい姿に誘われて行ってみたが、その日は中には入れなかった。全長97mというからかなり大きく、今は国の重要文化財に指定されている。

 帆船日本丸を後にJR桜木町の駅の方に歩いていくと、空を流れていた箱(ゴンドラ)の駅に着く。
 この日の目的の一つでもある、横浜の空を飛ぶ「ヨコハマ・エア・キャビン」である。
 「ヨコハマ・エア・キャビン」とは、空中に渡したロープに吊り下げた搬器(ゴンドラ)により運送される「索道」、いわゆるロープウェイ、ゴンドラリフトである。
 通常ロープウェイは、主にスキー場や山間部、山岳地にあるが、このような都会の真ん中にあるのは珍しい。それも急勾配の坂道を登るというのではなく、平坦なところだ。海を渡る、高所と高所を結ぶというのでもない。
 距離も、楽に歩ける距離である。

 *通天閣にロープウェイが走っていた

 ロープを繋いで搬送するロープウェイは古くから造られてはいたが、日本での現代的な鋼製のロープウェイは、1890(明治23)年の足尾銅山での採用が初めてとされている。足尾では「鉄索」と呼ばれていて、鉱石や資材を運んだ貨物輸送用であった。
 旅客用としての日本で最初のロープウェイは、1912(明治45)年に開設された大阪市の新世界の初代通天閣と隣接していた遊園地ルナパークのホワイトタワー(白塔)とを繋いだものとされる。
 今の2代目の通天閣しか知らない私たちにとっては、通天閣からケーブルカーが飛んでいたとは驚きだ。ルナパークは1923(大正12)年に閉園しているので、1910年代にはケーブルカーは走り舞っていたのだろう

 振りかえってケーブルカーに乗った記憶をたどってみると、そう多くはない。
 北海道の「大雪山層雲峡・黒岳ロープウェイ」は黒岳の5合目まで行くことができ、そこからリフトに乗り換えると7合目まで行くことができる。秋だったので、周りの紅葉が美しかった。
 「立山黒部アルペンルート」は様々な乗り物を乗り継ぎながら、富山から長野を結ぶ人気のコースだが、途中、ケーブルカーとロープウェイが組み込まれている。
 印象に残っているのはその前日に乗った、宇奈月温泉から黒部川に沿って走る「黒部峡谷鉄道トロッコ電車」である。行ったのは10月末だったが、突然の吹雪に見まわれた。吹き抜けのトロッコ電車なので、直接風と粉雪に曝されて凍えてしまった。素晴らしい景色が続くなかの、楽しいのか辛いのか複雑な思いが絡み合った行程だった。
 近くでは、箱根の大涌谷にはロープウェイが飛んでいるし、八王子市にある高尾山にはケーブルカーとリフトがある。

 実は富士山より高いところまで行ったことがある。
 私は登山が趣味ではないので、高い山に登ったのではない。フランスのアルプスの麓の町シャモニに行ったときのこと。そこから、モンブラン(4,810m)に並ぶ山「エギーユ・デュ・ミディ」( Aiguille du Midi、「正午の時計の針」という意味) の頂上の展望台まで、何とケーブルカーに乗って、途中1か所乗り継いで一気に登ることができるのだ。
 頂上の展望台まで3,777mという高さであるから、富士山より約1m高い。

 *佐賀の炭鉱町にあったケーブルカー

 ここで思い出すのは、「ブルーライト・ヨコハマ」②で書いた、「電車道」のあった佐賀県の炭鉱町のことである。
 電車道のあった「杵島炭鉱」のあった大町町の隣町の北方町(現・武雄市北方町)には「西杵炭鉱」があり、石炭を運ぶケーブルカーが空を流れていた。
 高圧線に似たケーブルを支える高い支柱が何本も連なり、大きなバケツのような箱がケーブルに吊られてコロコロと音をたてながら走っていた。それは、国道や走っている汽車の窓からも見えた。炭鉱が閉山になったのが1972(昭和47)年であるから、1960年代まではケーブルカーは走っていたのだろう。
 思うに、佐賀県唯一のケーブルカーであったはずだ。多分、今後も。

 *浜の港のケーブルカー「ヨコハマ・エア・キャビン」

 さて、「ヨコハマ・エア・キャビン」であるが、「桜木町」から埠頭の「運河パーク」まで、汽車道と並行しての飛行距離は片道630mというから、簡単に歩く距離である。高さはというと、最高で約40m。
 何はともあれ、知らないものは見てみよう、体験・経験してみようという性向だから、片道を乗ってみる。料金は、片道(大人千円、子ども500円)、往復(大人1,800円、子ども900円)。
 ゆっくりとゴンドラが港の空に走り出す。先ほど歩いた汽車道が下に、みなとみらいの横浜を代表するビル群が横に見える。空を舞うロープウェイは、ビルの連なりがまるで山と渓谷とに錯覚させる。
 あっという間の、5分ほどで運河パークに着いてしまう。乗ったのが夕方5時だったのでまだ日は暮れていなかった。着いた運河パークからゆっくりとみなとみらいのビルの景色を見ながら万国橋の方へ歩いた。
 さっき乗ったロープウェイのゴンドラが連なるように舞っている。日は急速に沈み、空はブルーに染まっていった。すると、空を舞うゴンドラが色を付けた。
 このロープウェイのゴンドラは、夜には色とりどりにライトアップされるのだ。いつしか赤や青や緑の明かりが空を舞っていく風景となった。(写真)
 ロマンチックな風景は、いつものように愛の言葉が似合うヨコハマ……

 *最後は中華街の満州料理を

 すっかり日が暮れた。
 馬車道駅から元町中華街に出て、横浜中華街に入った。
 意外や恒例行きつけの「東北人家」は混んでいて、少し待つほどだった。人気が出てきたのはいいことだ。
 東北・満州料理となると、どうしても羊の肉を食べたくなる。注文したのは以下の通り。
菜の花の満州炒め、羊の串焼き、羊(ラム)とネギの炒め、豚耳とネギの冷菜、太刀魚と豚スペアリブの醤油炒め。そして、初登場の中国東北B級グルメと謳った、焼き冷麺。
 それに、ビールを1杯飲んで、あとは紹興酒で満足となる。
 満州料理は濃い味で、たまに食べるのがいいのである。思い出すと、食べたくなる。

 *<A past news>
 去る2月1日、当ブログ「ブルーライト・ヨコハマ②」―馬車道から汽車道へ―が、
「Yahoo」の、検索欄(最初の「すべて」の欄)に登場しました。

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ブルーライト・ヨコハマ② 馬車道から汽車道へ

2022-01-31 23:57:27 | * 東京とその周辺の散策
 足音だけがついてくるのよヨコハマ……

 横浜に馬車道があるのは有名だが、汽車道があるのはうかつにも最近知った。
 「馬車道」は文字通り馬車が通った道で、江戸幕末に日米修好通商条約により開港させられ外国人居留地であった関内から港に到る道である。現在、JRの桜木町駅と関内駅の北側に、その名のみなとみらい線馬車道駅がある。
 馬車道は、最初の関門である吉田橋から北へ進み、地下に潜っている馬車道駅がある本町通りに到る。まっすぐ本町通りを超えると万国橋に出て、その先は新港埠頭である。

 では、汽車が通った廃線跡の「汽車道」とはどこか?
 馬車道駅のある本町通りから続くみなとみらい大通りのすぐのところから、入江を縦断するように新港埠頭に細く延びた道が汽車道である。
 地図を見ると、馬車道も汽車道も新港埠頭、つまり港に向かって延びている。
 港の埠頭には、かつて貨物運送が主だった鉄道が通っていたのだ。しかも、ごく最近まで山下公園の脇を鉄道が走っていたのだ。

 *電車道のこと

 私が育った九州・佐賀の炭鉱町(杵島炭鉱)の大町には「電車道」があった。鉄道は電車でなく汽車(蒸気機関車)が通っていた時代である。
 電車道とは、炭鉱夫の移動(通勤)にも使われていた石炭を運ぶトロッコ電車の線路道で、大町町から隣の江北町まで繋がっていた。佐賀県で電車が走っているのは、ここ大町だけだと自慢げに話す人もいたが、東京などの都会で走っている電車を雑誌などで見ていた私は、そのあまり評価されない自慢を含んだ話に、これも電車と言うのかなあと疑心を抱いていた。
 子どもの頃は、好奇心いっぱいだ。私たちは、学校帰りに友だちと連れ立って、遠回りだというのに訳もなく電車道を歩いたのだった。
 ときに悪ガキたちは、走ってきた電車の最後部にカエルのように跳び付いて、しばらくぶら下がった状態で乗っていて、得意げに跳び下りたりした。だから、教師はしばしば朝礼などで、電車に跳び乗りしないようにという忠告を発しなければならなかった。冒険に危険はつきものだ。
 炭鉱が閉山になり、電車も通らなくなりレールもなくなった後も、その道は電車道と呼ばれている。

 *汽車が運んだ日本の成長の道

 日本最初の鉄道は、1872(明治5)年開業の、新橋駅(後の汐留貨物駅、現廃止)~横浜駅(現・桜木町駅)間である。つまり、横浜は鉄道発祥の地ともいえる。
 その後、鉄道は京阪神の方へ路線を延ばし続け、1889(明治22)年に新橋駅~神戸駅間の全線が開業して現在の東海道線の元ができた。
 同じ年の1889(明治22)年に、甲武鉄道により新宿~立川-八王子間が開業した。その後1895(明治28)年、新宿~牛込-飯田町(現・飯田橋)が開通し、1904(明治37)年に御茶ノ水まで延長、後のJR中央線の元となった。
 鉄道は日本の産業の発展とともに、動脈から毛細血管が広がるように全国に延びていく。

 *汽車道を歩く

 横浜の港である埠頭に鉄道が敷かれたのはいつであろう。
 「日本鉄道旅行地図帳」を見ると、1911(明治44)年に横浜鉄道により貨物線の東神奈川~海神奈川(神奈川沖)間が開通している。これが、横浜港における最初の貨物線である。
 同年、横浜(現・桜木町)から横浜埠頭の横浜港荷扱所間が開通している。この臨港線は通称税関線と呼ばれていた。この路線の跡が現在の汽車道となるのだが、なぜかこの路線は「日本鉄道旅行地図帳」には記載されていない。
 このあと、1917(大正6)年に鶴見~高島間、そして東神奈川~東高島(最初は高島)間が開通し、臨海への貨物線の拠点となった高島駅から次々と支線が敷かれ、1965(昭和40)年には山下埠頭まで延びた。
 しかし、一方で戦後は、次第に陸上輸送がトラックへの移転や横浜線の貨物輸送の減少などに伴い、臨海の駅の統合や支線の廃止が相次いだ。
 山下ふ頭まで延びた路線も、1986(昭和61)年に廃止となった。その路線は、今は赤レンガ倉庫の南あたりから象の鼻パークを経て山下公園入口まで「山下臨海プロムナード」という遊歩道になっている。

 上に記した新港埠頭に残った廃線跡を、1997(平成9)年に整備したのが「汽車道」である。
 新港埠頭にある「海上保安資料館」を出たあと、汽車道を歩いた。道には、2本のレールが綺麗に並んでいる。過疎化した地方で残る、ひなびた廃線跡には決して見えない。都会の、観光地の真ん中の廃線跡が、横浜の汽車道だ。
 汽車道は、入江に3つの橋梁で繋いだ2つの人工島によって新港埠頭地区まで繋げた細長い道である。かつてのレールがそのまま埋まっているが、ウッドデッキを設えてあるので歩くのは心地いい。

 その横浜の歴史の足跡を歩くと、(少し無理がある表現だが)足音だけがついてくる。
 見上げると、空にはボックスが流れるように飛んでいる。いつの間に、横浜はこんな風景になったのだろう。
 ともあれ、空の道に行ってみよう。
 (写真は汽車道の上を飛ぶエア・キャビン)

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 2月1日、このブログ「ブルーライト・ヨコハマ②」が、「 Yahoo 」 に登場した。
 Yahooに取り上げられたのは初めてのことである。




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