
*銀座の柳
横浜では馬車道の街路樹が近代日本では初めてとあるが、東京では1874(明7)年、「銀座通り」に、桜(サクラ)と黒松(クロマツ)が植えられたのが最初である。
しかしうまく育たなかったようで、1880(明治13)年頃、水分が多い埋め立て地にも強い柳(ヤナギ)に植え替えられた。
歌でも有名な、「銀座の柳」の所以である。
…昔恋しい銀座の柳……
「仇(あだ)な年増(としま)を誰が知ろ」と続く。「銀座の柳」といえば、この歌であろう。
1929(昭和4)年、佐藤千夜子が歌った日活映画「東京行進曲」(監督:溝口健二)の主題歌である。銀座だけの歌ではなく「東京行進曲」(作詞:西條八十、作曲:中山晋平)という東京のマーチなので、2番は、「恋の丸ビル、あの窓あたり…」、3番は、「粋な浅草、忍び逢い…」、と当時の東京の街が並ぶ。
しかし、一世を風靡したこの歌の出だしの文句によって、銀座といえば柳の木と、全国の人々に深い印象を植えつけ、定着していった。
ここで面白いのは、4番の歌詞で、「かわる新宿、あの武蔵野の…」であるが、「シネマ見ましょか、お茶のみましょか、いっそ小田急で逃げましょか」とある。
東京の街は、東から西の方へ発展していき、その頃の新宿はやっと栄えはじめた新興繁華街である。現在も活動している映画館の新宿武蔵野館は1920(大正9)年オープンだから、シネマはこの映画館のことだろう。
そして、小田原急行鉄道、つまり小田急の小田原線が開通したのが、この歌が発表された2年前の1927(昭和2)年のこと。新しくできた電車に乗って、小田原まで駆け落ちしましょうか、ということか。
…植えてうれしい 銀座の柳……
銀座8丁目に、歌碑「銀座柳の碑」があり、歌詞と楽譜が刻まれている。それがこの「植えてうれしい 銀座の柳…」という歌である。
最初この歌碑を見とき、おやっと腑に落ちない思いがした。当然「昔恋しい銀座の柳…」という歌だと思っていたのだが、知らない歌だったからだ。
この曲は、1932(昭和7)年発売された「銀座の柳」で、作詞・西條八十、作曲・中山晋平という「東京行進曲」と同じコンビで、歌ったのは四家文子である。
「東京行進曲」に「昔なつかし…」とあるように、歌が出た当時、イチョウに植え替えられたり関東大震災などにより、銀座には柳はなかった。
しかし、「東京行進曲」の大ヒットにより銀座に柳を復活させようという機運が高まり、1931(昭和6)年に銀座に柳が再び植えられた。この歌「銀座の柳」は、それを記念して作られたもの。しかし、知名度は「東京行進曲」に遠く及ばない。
現在建っている歌碑は、1954(昭和29)年、銀座通連合会が建立。
…花咲き花散る宵も、銀座の柳の下で……
銀座に柳が定着した頃の1936(昭和11)年、藤山一郎が歌って大ヒットした「東京ラプソディ」(作詞:門田ゆたか、作曲:古賀政男)である。
「東京行進曲」を意識したと思われ、マーチ(行進曲)からラプソディー(狂詩曲)へ。メロディーも躍動感にあふれ現代的である。
この頃の歌には、この歌の翌年同じく藤山一郎が歌う「青い背広で心も軽く、街へあの娘と行こうじゃないか…」(「青い背広で」作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀政男)のように、哀調をおびた歌や軍歌の間に明るいモダンな歌が紛れている。
時代の流れは、日本の傀儡による満州国が建国され、第2次世界大戦に向かい灰色化していく時代であるのだが、大正ロマンの残照が輝いていた。
銀座の柳は、第2次世界大戦での東京大空襲、高度成長期の昭和40年代にほとんどなくなり、現在の柳は4代目という。
ちなみに、「銀座の柳」に関する碑は、ここで取りあげた歌碑「銀座柳の碑」の他に、以下の2か所がある。
銀座1丁目にある「銀座の柳由来」(銀座通連合会)。
数寄屋橋公園にある「銀座の象徴 柳並木」(西銀座連合会)。
*様々な顔を持つ、銀座の並木
銀座の通りは、おおよそ縦(南北)と横(東西)に格子状に通っており、各々名前がついていて、並木の街路樹も柳だけではない。今は、13種類もの木が植えられている。
現在の「柳通り」は、銀座1丁目と2丁目の間の横の通りである。銀座通り(中央通り)交点近くに「銀座の柳由来」の碑がある。
柳通りの1本南の2丁目と3丁目の間の通りが「銀座マロニエ通り」で、パリの街路樹を模してフランス語のマロニエであるセイヨウトチノキが植えてある。
その名の「並木通り」は、銀座通り(中央通り)に並行した、有楽町駅側の3本先(西)の縦の通りで、植えてある街路樹はシナノキである。
銀座の通りの代表格の「中央通り」の木は、イチイである。
銀座の並木の違いを見つけながら通りをぶらぶら歩くのも、一興であろう。
横浜では馬車道の街路樹が近代日本では初めてとあるが、東京では1874(明7)年、「銀座通り」に、桜(サクラ)と黒松(クロマツ)が植えられたのが最初である。
しかしうまく育たなかったようで、1880(明治13)年頃、水分が多い埋め立て地にも強い柳(ヤナギ)に植え替えられた。
歌でも有名な、「銀座の柳」の所以である。
…昔恋しい銀座の柳……
「仇(あだ)な年増(としま)を誰が知ろ」と続く。「銀座の柳」といえば、この歌であろう。
1929(昭和4)年、佐藤千夜子が歌った日活映画「東京行進曲」(監督:溝口健二)の主題歌である。銀座だけの歌ではなく「東京行進曲」(作詞:西條八十、作曲:中山晋平)という東京のマーチなので、2番は、「恋の丸ビル、あの窓あたり…」、3番は、「粋な浅草、忍び逢い…」、と当時の東京の街が並ぶ。
しかし、一世を風靡したこの歌の出だしの文句によって、銀座といえば柳の木と、全国の人々に深い印象を植えつけ、定着していった。
ここで面白いのは、4番の歌詞で、「かわる新宿、あの武蔵野の…」であるが、「シネマ見ましょか、お茶のみましょか、いっそ小田急で逃げましょか」とある。
東京の街は、東から西の方へ発展していき、その頃の新宿はやっと栄えはじめた新興繁華街である。現在も活動している映画館の新宿武蔵野館は1920(大正9)年オープンだから、シネマはこの映画館のことだろう。
そして、小田原急行鉄道、つまり小田急の小田原線が開通したのが、この歌が発表された2年前の1927(昭和2)年のこと。新しくできた電車に乗って、小田原まで駆け落ちしましょうか、ということか。
…植えてうれしい 銀座の柳……
銀座8丁目に、歌碑「銀座柳の碑」があり、歌詞と楽譜が刻まれている。それがこの「植えてうれしい 銀座の柳…」という歌である。
最初この歌碑を見とき、おやっと腑に落ちない思いがした。当然「昔恋しい銀座の柳…」という歌だと思っていたのだが、知らない歌だったからだ。
この曲は、1932(昭和7)年発売された「銀座の柳」で、作詞・西條八十、作曲・中山晋平という「東京行進曲」と同じコンビで、歌ったのは四家文子である。
「東京行進曲」に「昔なつかし…」とあるように、歌が出た当時、イチョウに植え替えられたり関東大震災などにより、銀座には柳はなかった。
しかし、「東京行進曲」の大ヒットにより銀座に柳を復活させようという機運が高まり、1931(昭和6)年に銀座に柳が再び植えられた。この歌「銀座の柳」は、それを記念して作られたもの。しかし、知名度は「東京行進曲」に遠く及ばない。
現在建っている歌碑は、1954(昭和29)年、銀座通連合会が建立。
…花咲き花散る宵も、銀座の柳の下で……
銀座に柳が定着した頃の1936(昭和11)年、藤山一郎が歌って大ヒットした「東京ラプソディ」(作詞:門田ゆたか、作曲:古賀政男)である。
「東京行進曲」を意識したと思われ、マーチ(行進曲)からラプソディー(狂詩曲)へ。メロディーも躍動感にあふれ現代的である。
この頃の歌には、この歌の翌年同じく藤山一郎が歌う「青い背広で心も軽く、街へあの娘と行こうじゃないか…」(「青い背広で」作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀政男)のように、哀調をおびた歌や軍歌の間に明るいモダンな歌が紛れている。
時代の流れは、日本の傀儡による満州国が建国され、第2次世界大戦に向かい灰色化していく時代であるのだが、大正ロマンの残照が輝いていた。
銀座の柳は、第2次世界大戦での東京大空襲、高度成長期の昭和40年代にほとんどなくなり、現在の柳は4代目という。
ちなみに、「銀座の柳」に関する碑は、ここで取りあげた歌碑「銀座柳の碑」の他に、以下の2か所がある。
銀座1丁目にある「銀座の柳由来」(銀座通連合会)。
数寄屋橋公園にある「銀座の象徴 柳並木」(西銀座連合会)。
*様々な顔を持つ、銀座の並木
銀座の通りは、おおよそ縦(南北)と横(東西)に格子状に通っており、各々名前がついていて、並木の街路樹も柳だけではない。今は、13種類もの木が植えられている。
現在の「柳通り」は、銀座1丁目と2丁目の間の横の通りである。銀座通り(中央通り)交点近くに「銀座の柳由来」の碑がある。
柳通りの1本南の2丁目と3丁目の間の通りが「銀座マロニエ通り」で、パリの街路樹を模してフランス語のマロニエであるセイヨウトチノキが植えてある。
その名の「並木通り」は、銀座通り(中央通り)に並行した、有楽町駅側の3本先(西)の縦の通りで、植えてある街路樹はシナノキである。
銀座の通りの代表格の「中央通り」の木は、イチイである。
銀座の並木の違いを見つけながら通りをぶらぶら歩くのも、一興であろう。
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